ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

復活信仰だけで

2004-04-18 | 番組ゲストのお話
◆4月号◆横浜カルバリーチャペル 牧師 武井 博 氏(3月2週放映)

【略歴】
1936年生。1964年から5年間にわたって放送された人形劇『ひょっこりひょうたん島』の元担当ディレクター。56歳でNHKを退職するまで、20冊もの絵本の出版、幼児教育に携わるなど充実した日々を過ごすが、いつも「虚しさ」を感じてきた。
愛する娘がカルト宗教に入信したことがきっかけで、初めて教会へ行き福音を聞く。退職後、神学校に進み、現在は横浜カルバリーチャペル牧師。



 「おじいさんが洗礼を受けるって、言ってる!」青森県八戸市の祖父の家に遊びに行っていた私の娘からの興奮した電話の声が響きました。私たち夫婦は耳を疑いました。里に帰った時、確かに家内は95歳の父に、1、2回イエス様の話をしたそうです。でも、まさか洗礼を受ける、と言い出すとは! 私たちは「聖霊様のお働きだ!」と叫びました。父は95歳の現役弁護士。ぼけてなどいません。
 ところがほどなく、長男である家内の弟から電話が来て、「何とか、母も一緒に洗礼を受けたいと言い出すまで待てないか、父を説得してもらいたい」と。私はすぐに八戸市に飛びました。最初に会ったのは父。開口一番、「復活はあるんですか?」との質問。「あるんです」と言って、私は聖書のヨハネ福音書21章やコリント第一の手紙15章などを開き、「復活」が歴史的な事実であったことを話しました。じっと聞いていた父は、「私は洗礼を受けたいんです」ときっぱりと言いました。
 今度は長男(こちらも弁護士)への説得です。私は言いました。「お父さんが95歳まで生かされてきたというのは、それだけで奇跡。あとで、あの時本人の希望を聞いておいてあげればよかった、と思うようなことがないように、本人の希望を聞いてあげたら?」この言葉に、長男も素直に納得。受洗の時は、家族全員わざわざ青森から神奈川まで出て来て、大和キリスト教会の大川従道牧師からバプテスマを授けていただきました。父は99歳9ヶ月で召天しましたが、お陰で、極めて平安、堂々の凱旋でした。母は、父の召天後に洗礼を受け、今は90歳で喜んで近所の教会に通っています。あの時、もし母の受洗を待つことにしていたら、二人とも救いにあずかることはなかったでしょう。ハレルヤ!

* * *

 私の養父の救いはまたドラマチックでした。復活のイエス様に、直接お出会いしたのですから! ーー私は末っ子で、24歳離れていた姉夫婦に子どもがなかったものですから、私が高校に入った15歳の時、姉夫婦の家に養子にいきました。その最初の晩に、養父から衝撃の一言。「米糠二合あったら、養子になどならないもんだ」。姉夫婦の所だからと気軽に行っただけに、私の心は凍りました。この時受けた私の心の傷は後々までも残りました。

 それから40年、父母を神奈川県の私たちの家の近くに、埼玉県から引き取りました。そこで12年目、父が82歳の時、肺ガンで近くの病院に入院しました。その日の夜中に、父はイエス様の幻を見て、ベッドを降り床にひざまずいて、「私は決してあなたに逆らいません」と誓ったのです。私は信じられませんでした。「おじいさん、それは、おじいさんの神様ではなかったの?」と聞きますと、「残念ながら、お前たちの神様だった」と言いました。「怖くはなかった?」と聞きますと、全然怖くはなかったと言います。つまり、イエス様の威厳にうたれて、ベッドから降り床にひれ伏したのです。父は、若い時から、コチコチの偶像礼拝者でした。もちろんクリスチャンになる気持ちなど、これっぽっちも持っていないどころか、反感を持っていました。

 父が幻を見た翌々日、病床で大川先生から洗礼を授けていただきました。それからは、あのかたくなな人物が別人のように変えられて、私たちには謝罪をするし、「感謝だ、感謝だ」と言うようになり、明るい人になりました。
 家に帰りたいと言うので、家に帰してもらいました。2週間ほどした時、父は、ふとんから腕を出して、天を仰ぎながら、大声で祈りました。
 「イエス様、ありがとうございます。あなたの御恩は一生忘れません。アーメン!」

 父が声を出して祈ったのは、これが最初で最後でした。その晩、再入院。翌日、私は病院に見舞いました。父は、大分弱っていました。私は、父の額に私の額を当てて、長い間祈りました。その時、私は、父と私の間にイエス様がお立ちくださって、あの「心の傷」を消してくださっているのを実感しました。私は、「真の和解ができた」と思いました。得も言われない「平安」が与えられました。

 次の日の朝早く、父は召されていきました。今思えば、イエス様が最後の最後に父をクリスチャンとしてくださり、同じ神様のもとで、父と私に「和解」を与えてくださったのだと感謝しております。イエス様は、この私と父との「和解」のためにも、「十字架」におかかりくださったのです。ハレルヤ!