ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

愛の随想録(4)「価値の再発見」

2007-04-07 | 愛の随想録
◆4月号◆愛の随想録(4)「価値の再発見」

奇抜な実験
 洋の東西を問わず、価値あるものが見過ごしにされているということはよくある。時流に乗った「にせもの」がもてはやされ、価値あるものが忘れ去られているというのが、現代の際立った特徴の一つなのかもしれない。

 これに関して、先日興味深い実話を読んだ。チャック・ロスという米国人のフリーのライターのことである。彼は、「小説を出版するのは実に困難なことである。無名作家の場合は、なおさらそうである」という命題を検証するために、奇抜な実験を試みた(一九七四年)。彼が実験材料として取り上げたのは、ジャージ・コジンスキー(一九三三〜九一)の小説である。

 コジンスキーは、アメリカに亡命したユダヤ人で、その作品のほとんどが三十ヶ国語以上に翻訳されているという著名な作家である。コジンスキーの代表作には、『異端の鳥』(一九六五年)、『異境』(一九六八年)、『庭師ただそこにいるだけの人』(一九七一年)などがある。

 チャック・ロスは、全米図書賞を受賞したコジンスキーの『異境』という小説を取り上げ、最初の二十一ページをタイプして、それをエリック・デモスというペンネームで四つの出版社に送った。間もなく返事があったが、すべて「不採用」の回答であった。

 それから二年後、チャック・ロスは再度実験を行なった。今度は、その小説全部をタイプして、やはりエリック・デモスという名で数社に送った。その中には、『異境』の出版元であるランダム・ハウス社も含まれていた。やがて返事があったが、今度もすべて「不採用」であった。しかも、届いたのは事前に印刷された標準レターで、そこには役に立ちそうもない助言が記載されていた。この実験によってチャック・ロスは、十四の出版社と十三の著作権代理業者すべてが、すでに有名な賞を受賞している小説の価値を見抜くことができなかったという事実を証明してみせたのである。

 ものの価値を見分けるのは、なんと難しいことであろうか。

日常生活における価値の再発見

 日常生活においても、似たようなことが言えるのではないか。価値あるものがすぐそばにあっても、それを見過ごしにしていることがよくある。それゆえ、日頃から感性を磨く努力をし、時に応じて自省する習慣を身に付けることが重要である。ちょっとした気づきで、人生の味わいが大きく変わるものである。

 『日本人に贈る聖書ものがたり』の執筆中、私の書斎はかなり荒れていた。いつか整理をしなければと思いつつ、(時間的余裕ではなく)精神的余裕がなかったため、机の上には本や資料が乱雑に置かれたままになっていた。特に憂うつだったのは、大型のスチール机の存在である。三十年ほど前に買ったもので、ある時期までは毎日のようにお世話になっていたが、パソコンで仕事をするようになってからはそこに鎮座しているだけの代物になった。書斎に入るたびに、その机が威圧感をもって迫ってきた。

 ある日、急に思い立って机の周りの整理を始めた。やってみると、意外と楽しい。いつの間にか、ミニ大掃除になっていた。古机の周りがこれほど整頓されたのは、ほぼ四年ぶりのことである。環境がよくなると、心も軽くなる。私は、しばらくは古机と付き合うことにして、机の上に敷くマットを、カタログを見て注文することにした。それも、よくある緑色のものではなく、不織布製のベージュ色のものである。届いたマットを古机の上に敷いてみると、なんとその机が青年のような姿に変身した。そうなると、その机にもっと優しくしてやりたいという思いになるものである。そこで、花屋でしゃれた小さな陶器製の容器に入ったプラントを二つ買い求め、机の上に置いた。その瞬間から、古机の周りは安らぎのある空間に変身した。

 今では、夕食後、その机の前に座って読書するのが楽しみとなった。小さな体験であるが、これによって私は、「価値と感謝の再発見」ということを学んだ。いつも自分のそばにあるものについて、価値を見いだし、感謝の思いを持つことは容易なことではない。感謝するどころか、飽き飽きして捨てたくなることもあるだろう。しかし、視点を変え、行動パターンを変えるだけで、当然のことが当然でなくなり、感謝の泉が沸きあがるようになる。恐らく私は、生涯、感謝しながらあの古机と付き合うことになると思う。


聖書の価値の再発見

 聖書も、価値の再発見が必要な書物なのかもしれない。

 世の中には、「すでに知っている」とか、「もう卒業した」とかいったコメントとともに、聖書を脇に追いやっている人が意外に多くいる。もし「魂の渇き」を覚えている人がいるとしたら、周りに霊的食物がないからではなく、その人が聖書から「命の食物と水」を取り出す方法を知らないからではないだろうか。

 聖書は、世界の始まりと終わりについて教えてくれる。聖書は、絶対的な善悪の基準について教えてくれる。聖書は、罪の赦しがあることを教えてくれる。聖書は、死後の希望があることを教えてくれる。そして聖書は、私たちが愛されている存在であることを教えてくれる。こんな書物が他にあるだろうか。日本では、聖書は手を伸ばせばすぐに届くところにある。その「日常性」が、かえって聖書の価値の再発見を妨げているとしたら、不幸なことである。

 さらに、聖書を熱心に読みながら、その本質を発見できていない人も多くいる。イエス時代のユダヤ人の中にもそういう人たちがいた。イエスは同時代のユダヤ人たちに向かって、こう語っておられる。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5・39)

 聖書はイエス・キリストについて証言している書である。それが分かった時、私たちは聖書の本質を捉えたことになる。

 今こそ、価値の再発見のために黙想し、自省すべき時ではないか。それを実行するなら、私たちの心は驚きと感謝に満ち溢れるはずである。