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田舎はよろし

本当に田舎暮らしが良い。お日様に合わせ、日がな一日中暮らす。気ままなものだ、

弁天さんに魅せられて<8>

2007-11-03 21:44:03 | 歴史
弁天浜にたどり着いた弥生時代の稲作民族は、稲作の適地を求めて瀬戸川の河口を遡って行く。

 清水遺跡を開墾し、さらに遡って薮田遺跡まで達し、次第に勢力を拡張していった。

 やっぱり、最初は縄文人ともめたんだろうなあ、きっと。

 わざわざ山から降りて来て、海辺に祀っていた縄文人の聖地に、海から弥生人が乗り入れて来たのだから。

 焼津の海辺あたりで、ひと悶着あったかもしれない。

 稲作の民=集団で高度な技術を持っている
 縄文人=素朴な採取民族

 と言う分類は、自明のことかな。
 文明度の高い弥生人のほうが、縄文人に対し、圧倒的に優勢だったに違いない。

 アメリカ西部劇における、白人対インディアン

 と言う図式をみれば、先住民族に対し、後からやってきた白人たちは文明度という点から見れば、圧倒的に優位であったに違いない。

 やがてインディアンを征服してゆく。

 誇り高いインディアンは、征服されるのを潔しとせず、徹底抗戦を試みる。
 凄惨な戦いが始まる。でも、ついに征服され、滅びてしまう。
 
 ひるがえって、我が志太平野においても、記紀に記載された日本武尊の東征物語の最初の地である焼津における「まつろわぬ人々」の征服物語が、遠い何百年も昔の記憶を元に、8世紀に筆記されたものだとすれば、それは詳細な事実関係が伝えられようはずもない。7百年も8百年も、文字資料がなく、人間の記憶だけで正確な事実関係が伝承されるとはとても思えない。いつの間にか詳細な事実関係は剥ぎ取られて、エキスだけが辛うじて物語として、言い伝えられ続けたということではないのか。

 自分のうちの先祖と言ったって、顔も見たことがなければ、全く想像しようもない。我が家だって4代前(約100年前)の先祖なんて、位牌や戸籍簿がなければ調べようがない。ましてや、文字などない大昔では、辛うじて有力部族のミエハル家系だけが、おらが家の先祖を偉く言い伝え続けるくらいが関の山だろう。一般では、絶対にあり得ないことだ。

 正確性など期待すべくもない。と思う。

 弥生人の新しい風は、縄文人の仲にどのように浸透して行ったのだろうか。うまく融和したのだろうか。それとも縄文人を駆逐して絶えさせてしまったのだろうか。

 確かなことは良く分からないが、考古の資料をいろいろ見ていくと、どうも縄文人と弥生人は、征服者と被征服者と言う関係はあるにせよ、どうもお互いに融和的に溶け込んでいったと見るほうが、よいような感じがする。

 そこらはもっと勉強しないと良く分からない。残念ながら。 

弁天さんに魅せられて<7>

2007-11-02 21:07:04 | 歴史
一文字で表現する自然物は意外と少ない。

 むしろ二文字のほうが普通である。

 やま、かわ、いし、いわ、みち、くさ、はな、みず、うみ、ぬま、いけ、とり、くま、かみ、くも、はら、うえ、した、みぎ、はだ、あし、ゆび、きた、かぜ、にし、ほし、つき、ゆき、あめ……

 多分、そうした大和言葉は、大昔からこのかた、そんなに変わってはいないんだろうな、と思う。

 言葉の中には、おそらく、縄文人やもっとそれ以前からの人々のDNAというか、自然感覚がそのまま残って来ているんだろうな、と思う。

 3万とも言われる日本人の苗字は、その多くがこうした自然由来の言葉で出来ている。

 そうした先祖伝来の苗字に対して、今更新たな苗字を作る、と言う発想すらない。全ての日本人が、これまでの苗字を素直に受け継いで、納得している!?、というのは、考えてみれば、なかなか荘厳な、不思議な気がすることだ。

 縄文時代というのは、1万年も続いたようであるから、弥生時代以降、現代までのわずか2千年間に比べて、5倍もの長い間、縄文人は自然と親しんできたわけであるから、<もっともそれ以前の石器時代は数万年から数十万年という、もっと気が遠くなるような長さの年月が経っているわけであるが>、その間に自然と向き合った人間のDNAは、自然をしっかりと織り込んで、我々のDNAに引き継がれているに違いない。

 焼津港の、今はなき、弁天さんのあったあたりで、大昔に縄文人が石棒を立てて、海を眺めていた、などという想像が、なんとなくいとおしく思えるのも、やっぱり私の体の中にそうしたDNAが脈打っているからなのか。

 ともあれ、そうした縄文人の長い長い自然との付き合いを、稲作の技術を携えた人々が入り込んできて、あっという間に変えていった。(本当はあっという間ではなくて、結構長い時が経っているのだと思うけれど、それまでの人類の長い生きてきた時間に比べると、あっという間になってしまう)

 稲作を営む人々は、まず住むところから全く違っていた。彼らは、それまでの縄文人が全く住んでいなかった低湿地に住んだ。

 それが、志太平野でいうと、清水遺跡であり、薮田遺跡だ。

 そうした人々は、やっぱり陸山から来たというよりも、海から来たに違いない、ように思える。

  

弁天さんに魅せられて<6>

2007-11-01 21:26:10 | 歴史
もとより、志太平野には全く縄文人の住んだ形跡がないわけではない。

大井川、あるいは瀬戸川の山間部の山裾や台地上には、縄文時代を通じて、どこかに人々が生活していた形跡が発見されている。

 <そうしたデータは、藤枝市郷土博物館や島田市博物館が発行、あるいは、まとめている資料に掲載されている。

 残念ながら、それらは、三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡みたいにドカーンと派手に一大ブームを巻き起こすようなものではない。なかなか地味な存在である。

 <<そもそも学校教育が日本の歴史をおろそかにしていることが、大きな問題であると思うのだが、それはまた別の機会に譲る。>>

 結局それらは、川筋で山付きという共通的な特徴を持っているようである。
 関東系や中部山岳系、東海系と、いろいろな方面との関連性も指摘される。

 このあたりの縄文人は、平野は苦手だったようだ。
 平野と言うよりも、湿地、あるいは沼沢地というべきか。

 水もなければ困るが、住まうには適度な乾燥も欲したろう。それには少しの平ら地のあるなだらかな斜面が良い。

 志太地区の縄文時代の遺跡は、そうしたところに立地しているように見える。
 争いなどがあまり想定されない、素朴な住居立地のあり方だ。

 電気もガスも水道もなく、自然のままに、山の幸や川の幸を採取し、(多少は栽培もしたのかもしれないが…)素朴な小屋がけや岩下などで雨露をしのぎ…、煮炊きもしたのかもしれない。
 二本の足で、野山を経巡り、獲物を追い、出会った人々と物々交換で交流し、自然を畏敬し、崇め祀り…

 どのような言葉をしゃべったのだろうか。
 “やま(山)”や“かわ(川)”や“はら(原)”や“の(野)”などは縄文人も使っていたのだろうか。

 目の前にある風景や物は、最初はやっぱり形で覚えるんだろうね。
 象形文字。

 そうしてみると、中国人てやっぱりすごいね。
 全てのことを漢字にして表現しちゃったんだから。

 今の絵文字も、とてもその構成力・表現力にはかなわない。
 見て分かる。そこが、なんといっても漢字のすごいところだと思う。
 
 <閑話休題>

 いずれにしても、志太平野に足を踏み入れた縄文人は、志太平野を横断し、弁天浜に行き着いた。

 そこで、何に神聖さを見出したのか、石棒を納めてその聖地を崇めた…

 瀬戸川が海に流れ込む地点に感動したのか、海の向こうに伊豆半島を見つけて感動したのか、陸に打ちあがってくるカツオやマグロに感動したのか、噴出す天然ガスが燃えていることに感動したのか、白砂青松の砂浜に、這い上がってくる亀に感動したのか(それは浦島太郎物語ではないか)

 

弁天さんに魅せられて<5>

2007-10-31 21:05:51 | 歴史
 <上 古代の志太地域の推定図 藤枝市の資料から借用し、加筆>

志太平野にカエルが入ってきたのは、イヤッ=モトイ!!=志太平野に、(カエルの生息環境として好適な)稲作が伝わったのは、全国的に見ても、遅い時期にあたる。

 全国的な視点でみると、稲作が伝わったのは志太平野よりも、むしろ日本海方面から青森方面や、信州から関東方面へ伝わった時期のほうが、早かったようだ。

 縄文時代の人々も、志太平野では生活がしにくかったように =一時的に滞在したような形跡はあるものの、縄文時代に志太平野で本格的に生活したような形跡がほとんど見つかっていない=、稲作も西からすんなりと志太平野に伝わってきたわけではないようだ。

 稲作に伴う土器などは、志太平野を迂回するように、川根の奥の方から先に静岡県東部や伊豆方面に伝来していっているようである。

 とにかく、そういう状況の中で、遅ればせながらようやく志太平野に稲作が入ってくるわけであるが、その志太平野で、一番初めに稲作が行われたのが、焼津と岡部の境あたり、朝比奈川と葉梨川の合流点辺りであった。ということである。

 それが“清水遺跡”といわれているところである。

下に清水遺跡付近の俯瞰写真を示す。



 志太平野に稲作が入ってきた時期は、紀元0年頃、今から約2000年前くらいのことらしい。

 どっちから入ってきたかというと、やっぱり焼津の弁天さんの方から、川を遡って入ってきたのではないか、という気がする。



上の写真は、瀬戸川が駿河湾に注ぐ焼津港近く、瀬戸川と朝比奈川合流点付近の写真である。

 ここから瀬戸川はぐっと高度を上げてゆく。かなりの急流となってゆく。それに比べて朝比奈川のほうは、殆ど高度を上げない。非常に緩やかな流れである。藤枝市の市街地に入るとその標高差は歴然としてくる。鬼岩寺山を挟んで東側の葉梨川の流れる谷筋と、西側の瀬戸川が流れる谷筋では、標高差が20m~30mくらい生じている。瀬戸川筋のほうがよほど高くなっている。

 結局稲作を伝えた初期の人々も、そのことを当然感じたからこそ、流れがきつくない朝比奈川筋~葉梨川筋に入って行ったに違いない。

 清水遺跡のあたりは、そういった意味で、初期稲作の民人には一番適地と見えたに違いない。

 そしてさらに遡って行き、薮田に行き着いた。<続く>

弁天さんに魅せられて<4>

2007-10-30 22:16:09 | 歴史
 弁天さんは瀬戸川河口にある。一方、お高嶺(たかね)さんは、藤枝市の最高峰で、藤枝市の一番奥にある。位置から言うと、上の図のような関係になる。

 瀬戸川は、そのお高嶺さんの源流部から発生し、志太平野を流れ下って
駿河湾に至る。
写真で見ると下のような風景になる。



距離にすればせいぜい20kmもあるだろうか。

お高嶺さんは高くて平べったくて、目立つ山だから、太古の人々の絶好の目印の山となったに違いない。

 志太平野に入ってきて、最初に稲作を始めた人々は上の図の清水遺跡と言うところに住み着いた。瀬戸川筋ではなく、支流筋にあたる朝比奈川と葉梨川の合流点付近である。

 それから前後して、次に人々が稲作を始めたのはやはり瀬戸川筋ではなく、葉梨川の上流部にあたる薮田遺跡付近だった。

 これは何を意味しているのだろうか。
 (次回へ続く)

弁天さんに魅せられて<3>

2007-10-26 22:12:27 | 歴史
  <上の写真は焼津の弁天さん(宗像神社)だよ>
 私の住む藤枝市や隣の焼津市のあるところは、通称志太地域といわれるところである。
 万葉集などで、「志太浦」と言われる地名がでてくるように、もともと沼沢地が多かったようだ。

 ただ、どうした訳か、この志太地域には、他所の地域に比べると、縄文時代の痕跡が非常に少ない。住んでいた形跡となると、皆無に近いようだ。

 よほど住みにくいところだったのか。
 沼沢地が多く、また海に出れば魚湧く駿河湾があったにもかかわらず、である。

 そんな縄文人であるが、弁天さんの浜辺までやって来て、石棒(昨日既述)を立てて祈りを捧げたりしたのは、どういう理由であるか。

 この浜に、彼らを招きよせるどういう力があったんだろうか。
 
 彼らは、この地にやって来て、カツオを捕って食糧にするような技術を持っていたんだろうか。
 また、舟を作って大海原に漕ぎ出すような技量を備えていたんだろうか。

 伊豆半島の縄文人は、舟で伊豆の島々と行き来をしていたことは、黒曜石の流れから明らかだが、焼津の縄文人は残念ながらそのあたりのことは不明と言うほかはないようだ。

 逆に、ヤイヅが「ヤ」+「イズ」であれば、伊豆半島の住人のほうが焼津や志太の縄文人より優越性が高い。

 いずれにしても、焼津と伊豆半島は、駿河湾を直で40km、天気さえ良ければ伊豆の山々は良く望める。

 虚空蔵さんという特徴ある山は、海上からは当て山として良い目標になっただろう。またその後ろには、高草山と言う高い山がそびえている。

 太平洋を流れる黒潮の流れからすれば、駿河湾内の焼津などは、本流から外れた訪れにくい傍流の1っ箇所にしか過ぎず、丸木舟ひとつで大海原を行き来する海洋民族からすれば、偶然でもなければ訪れることのない地域だったのかもしれない。

 縄文人も住みにくく、そうかといって海洋民族もなかなか訪れにくい、どちらかというと忘れられた地域であったのが、この志太という地域だったのかもしれない。

 そういう中で、焼津の弁天浜に、縄文の痕跡が残っていたということは、やはり
ただ単に偶然ではなくて、それなりの人を惹きつける力があったんだと言うふうに考えたい。 
 

弁天さんに魅せられて<2>

2007-10-25 20:44:50 | 歴史
上の絵図は昭和15年の焼津弁天浜付近の拡大絵図である。今ではこの景色は跡形もなくなって、全て焼津漁港の水面と岸壁と関連街区になっている。
 下に現在の写真を再掲する。



昔の風景は

 (弁天浜)
こんな風景だったり、


 (弁天公園付近)
こんな風景だったり、


(これは上の絵図中、松月とある茶屋)
こんな風景だったりする。

<写真はいずれも『懐かしの焼津』から借用>

 全くの良き浜だった。


 この浜は、太古の昔から人々を集めていたようである。

①最初の痕跡は縄文晩期(2千数百年前くらいか)の石棒の時代

 この頃は焼津の浜は、噴出す天然ガスによって燃えていたんだろうなあ。
 前に、焼津では今でも天然ガスを採掘していると書いたが、その後いろいろ調べたら、なんと、元々の弁天神社のすぐ近くで、昭和の時代に、漁港となってしまうまで、天然ガスを採掘していたことが判明した。上の図に記載のとおり。
 
 これは、やっぱり焼津の地名起源に迫る事実だと思っているがいかがなものだろうか。

②次は、おそらく弥生中期、稲作技術を伴って、人々がやって来たに違いない。その人々は、焼津からさらに、稲作適地である焼津岡部の境界付近、さらに遡って藤枝市の薮田付近に住み着いた。

③さらに時代ははっきりしないが、カツオのナブラを求めて、海洋・漁労の民もやってきたに違いない。

 私が尊敬する静大の某名誉教授は、ヤイヅは「ヤ」+「イヅ」だと非公式ながら見解を持っていた。
 「ヤ」はほめ言葉の「弥栄」の「ヤ」、冠頭詞の「ヤ」。「イヅ」は文字通り伊豆半島の伊豆で、伊豆から海洋の民がやってきて、この地に着けた名前が「ヤイヅ」だと…

④それから浜当目に居ついたと思われる物部(もののべ)の一族

⑤やがて、そうした人々を征服しにやってきたのが大和朝廷から派遣された日本武尊…

⑥そうした征服の民が築いたのが焼津神社である。

⑦時代は下り、中世になる。建武の乱の頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王・興良親王の御船が着したのがこの弁天浜付近だという。

  ………

なかなか弁天浜は面白い。

弁天さんに魅せられて<1>

2007-10-24 22:04:48 | 歴史
焼津の弁天さん(今の宗像神社)は、歴史的に非常に興味があるところだ。

なんといっても焼津の海からの入り口と、瀬戸川の河口の接点にあったというのが、興味深い。
 今では上の写真で見るように、元々弁天さんのあったところは焼津漁港の港の中になってしまっている。
 その現在の景色を下の写真に示す。




しかし、これは戦後の急速な焼津漁港の発展の中で、この景色のようになったもので、終戦直後の漁港が出来るまではまるで違う景色だった。
それを次に示す。



この写真を見れば一目瞭然のように、昭和21年の段階では、焼津漁港はまだ影も形もなかった。その代わり、のどかな松林の中に弁天さんがあって、その隣には前にも書いた「松月」という茶屋があって、白砂青松のなかなか風光明媚な地であった。
 たとえばそれは次のような写真であった。




ちょうど時代劇に出てくるような、のどかな風景の時代だった。向こうに見えるのは、浜当目の北側の山筋だ。
弁天さんはもともとはこんな風景の一角にあったんだ。

瀬戸川と海との接点。そこに弁天さんは祀られていた。
そこが大事なところだ。(続く)

亀城のこと(弁天さんの6)

2007-10-13 21:22:33 | 歴史
前回海亀についてだったから、ついでに亀城のことをひとつ。
亀城とは、上の絵で見るごとく、亀の形をしたお城のことを言う。

昔、昔、中世の頃ですね。今から5百年も前、世の中は今に比べ、はるかに人間同士の肉弾戦が戦の勝敗を決めていた時代です。
電気も電話も自動車もない時代。お城の作りも、人間や騎馬兵の防御に良いように、土を盛って、丸く丸く、死角がないように作ることによって、敵の攻撃を防御できるような時代です。当時としては、信玄公の発案で、たぶん抜群の効果を発揮したのだろう。

下の写真は、昭和20年頃の亀城=即ち田中城が写った写真である。
田中城は真ん中下方に見える。平野にある堂々とした立派な城である。

志太平野の真ん中にある城で、もともと今川勢力下の城であった。
信玄は今川氏を追放し、駿河を手に入れると、家臣に城を修築させ、田中城と称した。これが亀城である。

亀城には最初、信玄の配下の依田信蕃が入った。依田信蕃、は地元では決して評判は悪くない。今でも葉梨の灌渓寺に、お墓がある。

ややあって、この城に豊臣秀吉の家臣、中村一氏がやって来た。一氏は田中城内にあった大井神社の御神木の大楠を切り倒し、大船を建造したそうだ。けれどその船は建造後、船出してすぐに沈没してしまったという。

時代は移り、大御所時代になると、家康は鷹狩りにちょくちょくこの田中城を訪れたという。

ついこの間までは、そうした亀城の痕跡が色濃く残っていたが、そうした牧歌的な昔風の景色も時代の流れの中で、宅地造成や道路改良で、瞬く間に変わってしまった。今では三日月掘りなど、わずかな痕跡が残るのみである。
失われた景色を惜しいなあと思うのは、私が年を取ったからだろうか。

海亀の墓(弁天さんの5)

2007-10-12 19:54:21 | 歴史

今回は海亀のお話だ。上の写真は浜当目にある海亀のお墓である。
建立は昭和28年、建立者はことしろ丸とある。

昭和28年といえば、戦後、焼津の漁業が天を衝く勢いで伸びている頃だ。カツオ船をどんどん作り、沖へ遠くへと漁業が発展していった。

海亀は航海安全の神様であり、カツオ漁で遠洋へ出かけていく航海の無事を祈って、ことしろ丸が建立したものだ。

この頃はまだこの小さな浜当目の浜にも海亀が産卵に来ていた。
自然な砂浜だった。

でも、今では下の写真のようにコンクリートの護岸やらテトラポットやらでガチガチに固められて、とても海亀どころではない。

護岸工事やテトラポット、あるいは道路の建設などで、人間と海の距離が遠くなってしまっているように、海亀と自然の砂浜の距離も、限りなく遠くなってしまっているようだ。

浜当目の海岸の向こうに虚空蔵山が、昔と変わらない姿でそびえているが、この山の樹林相だって、前は松がたくさん生えていて、海岸の美しい松と雑木のスカイラインを形成していた。

こんなに人工的でガチガチの風景よりも、もう少し自然な風景を欲するのは、ないものねだりをする、現実を見ない、たわけ者の言か。

もう少し自然に優しいやりようは、ないものなのだろうか。

ざくざくと、魚が湧く海だった(弁天さんの4)

2007-10-11 21:15:24 | 歴史
むかし むかし、と言っても明治の頃だからそんなに遠くない昔のことだ。焼津の海、というよりも駿河湾には、今では信じられないくらいに魚が豊富にいたという。

たとえば、次のように。

「ある夏、八雲・乙吉とともに岸辺で泳いでいると、四囲にシラスが溢れ、これを追ってイワシ・アジの群れが、そしてこれを追ってサバ・カツオが、そしてさらにこれを追ってマグロの群れが岸に向かい突進して来て、浜で人とマグロの格闘が展開された結果、5尺(152cm)から7尺(212cm)の大マグロが3百匹あまりも捕れた。」(小泉八雲の子供だった一雄氏の『父「八雲」を想う』より)

これは明治30年頃の話だ。

明治になって以降、急速な近代化の中で漁業がどんどん発達し、また江戸時代には人々を縛っていた各種の法度・規制が解き放たれて、争うように魚を取り出す中で、湧くようにいた魚が、長い歴史からすれば瞬く間に捕り尽くされ、どんどん沖へ沖へと、また遠洋へ、南洋へと伸びて行き、そしてとうとう地球中で魚争奪戦が始まって、今では世界中で、マグロをはじめ、魚資源の枯渇が本気で心配されている。
困ったことだ。

今でも天然ガスを採掘(弁天さんその3)

2007-10-10 20:54:30 | 歴史
焼津では、駅前に足湯があり、黒潮温泉が出ていることは良く知られているが、なんと、天然ガスも出てるんですね。上の写真のとおり、某ガス会社が採取してる。
 昔はもっと漁港に近いところで採取をしていた写真が残っている。

 何故そんなことを言うかというと、「焼津」という名前の由来について、『記紀』では、日本武尊の東征伝承の中で、賊に火をつけられて焼き殺されそうになったが、逆に迎え火をつけて賊を討伐したので「焼津」と名づけた、と書かれているが、いやいやそうではないんだよ、もともと「焼津の浜が燃えていたから、焼津と言う」という説があるからだ。

 大昔、焼津の浜では天然ガスが燃えていて、それを見た昔の人々が「焼ける津」というふうに認識していたんだよ、だからもともと「焼津」という場所だったんだよ、と言うほうが、なんだか自然なような気がする。

 インドネシアにもそういう天然ガスが燃えている場所があって、聖なる場所として信仰の対象となっているということを調べた人がいて、焼津もそういうことでもともと「焼津」と認識されていた、という説を言う学者さんがいる。

 南洋の海洋民族が、海流に乗っかってはるばる日本列島にやってくるくらいのことは当然あっただろう。
 そうした人々が焼津の地にやってきたかどうかは分からないが、大地から燃え上がる火を見れば、やっぱり同じように神聖な気持ちになっただろう。

 縄文晩期の人々がこの地に石棒を立てて、なにやらおまじないをしたように、ここの浜は「焼ける浜」として信仰の対象だったのかもしれない。

 日本武尊だって、本当はそこを目当てに上陸をしたのかもしれない。
 日本武尊を祭る焼津神社も、もともとは今のように内陸にあったのではなくて、もっと浜にあったと言う話もある。

 焼津の浜にやってきた(かもしれない)海洋民族と縄文人。人々が集まる場所として、何らかの力を秘めていた場所であることは間違いない。
(もう少し続く) 

焼津の浜茶屋(弁天さんその2)

2007-10-09 21:16:08 | 歴史

 この写真は、昭和11年ごろの焼津の浜にあったお茶屋さんである。前回取り上げた、元の弁天さんの場所(現在は海の中)付近にあった。松林に囲まれて、いかにも風情ありげである。

 
 看板には“松月”という店名の他に、“御料理”、“旅館”、“汐風呂”と書かれている。
 “待合”といえば粋であるが、“連れ込み”といってしまうと味も素っ気もないか。今で言う“ラブホ”のような、もう少し違うのかな?(私もこの手の施設は利用経験がないので、良く分からない)

 昔なら、芸妓(?あるいは彼女か)と二人、松林を抜けてくる汐風に吹かれながら、差しつ差されつ、夜を明かす…なんてね。

 または、芸者を上げて、ドンチャカ、チトシャン派手に振舞うか

 エアコンやテレビなんてもちろんなく、車やその他もろもろの電化製品など、現代では当たり前のものが、一切ない世界。家の作りや置物だって、自然素材で出来ていて、自然にやさしい世界。ほとんどのものが生の人間の息遣いと、筋肉の動きのみで構成されている世界。

 そういう世界に私は戻りたい。

 <愛馬ロシナンテにまたがっているドンキホーテみたいだなあ。>

焼津の弁天さん

2007-10-08 21:37:57 | 歴史
焼津漁港の北のはずれ、瀬戸川の防波堤沿いに、弁天さん(宗像神社=上の写真)はある。

 ※<場所は右図参照⇒>拡大地図を表示焼津の弁天さん

 元々は、地図中のほぼ中央、中港の文字が書いてあるあたりに弁天浜はあった。
それが焼津漁港を浚渫して作るために現在地に移転した。

 その際、弁天浜からは下の写真のような石棒が出土している。縄文時代晩期のものだということである。

 同じようなものが大井川の上流、川根本町の千頭からも出土している。

 ところで、考古学の関係者は、これは石棒または石剣と言っているが、私にはどう見ても男の象徴に見えるが!?どうだろう 

 縄文人は、これを大地に突き立てて、子孫の繁栄、つまり豊漁や豊猟を祈ったんではなかろうか、と思うのであるが、どんなもんでしょう。 

日本武尊は海からやって来た

2007-10-07 20:16:58 | 歴史
上の写真は焼津神社の古い参道である。
  古事記、日本書紀の東征物語の中で、日本武尊(ヤマトタケル)は最初に焼津に現れる。
 賊にだまされ、野の枯れ草に火をつけられて、焼き殺されそうになる。だまされたと気付いた日本武尊は、草薙の剣で枯れ草を切り払い、迎え火をつけて難を逃れ、賊を退治する。
 故にその地を名づけて「焼津」という、と記紀に出てくる。

 その日本武尊を祭っているのが、「焼津神社」である。由緒正しい日本の延喜式内社である。

 だから、焼津と日本武尊は切っても切れない縁がある。日本武尊に従えて、東征を助けたのが物部氏をはじめとする海を支配する一族であった、という。

 東征を成功させた一族は、焼津に拠点を構えて繁栄したに違いない。

 いずれにしても、焼津人の末裔には、最初から瑞穂の国の稲作民族の末裔とは、いささか趣を異にする、荒海を乗り越えて航海する海人の血が流れているようだ。

 焼津と藤枝の合併が失敗したのも、所詮海人衆と瑞穂の国の末裔衆の、陸の衆と海の衆の体に流れる血の違いが原因だったんだろうな、という思いがしている。

 焼津も藤枝も、共に志太平野にあり、志太郡を構成する主要な都市である。
 どちらの市の市長も「志太はひとつ」と言いながら、結局合併に失敗した。

 由緒ある歴史の成り立ちは、両市長の思惑を越えて、一筋縄ではいかない重みを持っている。

 そうした大きな流れが、志太平野の風土を形作ってきたものとして、一番底にあるように思える。

 藤枝と焼津、志太の風土と風景を、気分の赴くままに、随時切り取って眺めていきたい。