

清水遺跡を開墾し、さらに遡って薮田遺跡まで達し、次第に勢力を拡張していった。
やっぱり、最初は縄文人ともめた

わざわざ山から降りて来て、海辺に祀っていた縄文人の聖地に、海から弥生人が乗り入れて来たのだから。
焼津の海辺あたりで、ひと悶着あったかもしれない。
稲作の民=集団で高度な技術を持っている
縄文人=素朴な採取民族
と言う分類は、自明のことかな。
文明度の高い弥生人のほうが、縄文人に対し、圧倒的に優勢だったに違いない。
アメリカ西部劇における、白人対インディアン
と言う図式をみれば、先住民族に対し、後からやってきた白人たちは文明度という点から見れば、圧倒的に優位であったに違いない。
やがてインディアンを征服してゆく。
誇り高いインディアンは、征服されるのを潔しとせず、徹底抗戦を試みる。
凄惨な戦いが始まる。でも、ついに征服され、滅びてしまう。
ひるがえって、我が志太平野においても、記紀に記載された日本武尊の東征物語の最初の地である焼津における「まつろわぬ人々」の征服物語が、遠い何百年も昔の記憶を元に、8世紀に筆記されたものだとすれば、それは詳細な事実関係が伝えられようはずもない。7百年も8百年も、文字資料がなく、人間の記憶だけで正確な事実関係が伝承されるとはとても思えない。いつの間にか詳細な事実関係は剥ぎ取られて、エキスだけが辛うじて物語として、言い伝えられ続けたということではないのか。
自分のうちの先祖と言ったって、顔も見たことがなければ、全く想像しようもない。我が家だって4代前(約100年前)の先祖なんて、位牌や戸籍簿がなければ調べようがない。ましてや、文字などない大昔では、辛うじて有力部族のミエハル家系だけが、おらが家の先祖を偉く言い伝え続けるくらいが関の山だろう。一般では、絶対にあり得ないことだ。
正確性など期待すべくもない。と思う。
弥生人の新しい風は、縄文人の仲にどのように浸透して行ったのだろうか。うまく融和したのだろうか。それとも縄文人を駆逐して絶えさせてしまったのだろうか。
確かなことは良く分からないが、考古の資料をいろいろ見ていくと、どうも縄文人と弥生人は、征服者と被征服者と言う関係はあるにせよ、どうもお互いに融和的に溶け込んでいったと見るほうが、よいような感じがする。
そこらはもっと勉強しないと良く分からない。残念ながら。