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萩の堀内地区、旧周布家長屋門・旧繁沢家長屋門・北の総門

2016-07-15 19:04:21 | 山口
2016年7月10日、萩の外廻りを観光しいよいよ萩城下町周辺です。まずは菊ケ浜海水浴場の無料駐車場に自動車を止めます。日曜日ということで、地元の家族連れが止めていますので満車状態です。
案内図

萩市堀内地区の重要伝統的建造物群保存地区の看板

「堀内地区は慶長13年に毛利輝元が指月山に築城した萩城三の丸にあたるほぼ全域で、藩の諸役所と毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいます。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏蜜柑とともに歴史的風致を形成しています。」
旧周布家長屋門(萩市指定有形文化財)
「周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。藩政時代は大組士の筆頭として1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物である。中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造である。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。」



















旧繁沢家長屋門(伝統的建造物)
「繁沢家は阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組(1,094石余)に属し、給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。建物は桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門を開けている。同家藩政初期の当主繁沢就充は藩要職として活躍していた。」







旧益田家物見矢倉(伝統的建造物)
「益田家は、阿武郡須佐(現在の萩市須佐)に領地を持っていた萩藩の永代家老である。幕末の当主親施は、13代藩主毛利敬親を助け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられた。高い石積の上につくられた矢倉(武器などをいれた倉)は長さ11m、奥行約5mの平屋建てで、この矢倉の前面に広がっていた馬場の見張りに使われていたと言われている。」









北の総門(複元)
『北の総門は、三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持った者しか通れませんでした。元文年間(1739-40)の絵図によると、北・中の総門の前に、新たに枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は食い違いになっています。この時期に北・中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。』



















外堀から城下町に進みます。
田中義一銅像





通りです。













駐車場にもどります。

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