旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

淡路サービスエリア

2016-10-22 23:29:20 | 淡路
2016年10月18日、四国2泊3日の帰路、神戸淡路鳴門自動車道の淡路サービスエリアに寄りました。こちらで夕食をしました。
ここのサービスエリアは駐車スペースが非常にたくさんあります。天気のいい日は夜景が素敵ですね。明石海峡大橋のライトアップも楽しめ、対岸の舞子、須磨、神戸、大阪そして関西国際空港あたりまで見えます。写真では暗くて判りにくいかも…。

























若いカップル達が写真を撮っていました。少し年配の私たちもはしゃぎながらパチリ。
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松山市内散策、愛媛県庁・萬翠荘・大街道

2016-10-22 23:16:50 | 愛媛
2016年10月18日、道後温泉に宿泊し市内の寺院などを観光し、神戸に帰る前に萬翠荘と大街道をぶらつきました。
愛媛県庁
「1929年に本館が完成。1980年に別館が完成。そして、1982年に県議会議事堂が完成し、現在にいたる。」







伊予鉄道





萬翠荘(旧久松家別邸)管理人舎(重要文化財)
愛媛県庁の東側にあります。「大正11年(1922)建築、木造、建築面積43.91㎡、寄棟造、スレート葺。」

庭園

案内図

















萬翠荘(重要文化財)
「大正11年(1922)建築、鉄筋コンクリート造、建築面積397.76㎡、2階建、地下1階、寄棟造、東南隅尖塔・西北隅附属屋付、南面車寄附属、スレート葺及び銅板葺。萬翠荘は、旧松山藩主の久松家が大正11年に建設したもので、松山城山の南麓に所在し、中腹に本館、平地に面した敷地南面に管理人舎を正門に隣接して建てる。萬翠荘の設計は、建築家の木子七郎が行い、木彫家の相原雲楽や洋画家の八木彩霞、装飾硝子作家の木内真太郎など、当時各分野で活躍していた芸術家の参加を得て建設された。本館は、マンサード屋根や連続アーチのバルコニーを持つ外観から、内部の装飾まで、フランス・ルネサンス様式を基調とした意匠が用いられ、各部屋の使用方法も含めて一貫した西洋式で計画されたことで、高い統一性をもつ意匠に結実している。萬翠荘は、本格的なフランス・ルネサンス様式の意匠をもつ様式建築であり、日本人建築家の素養を示す優れた意匠の建築作品の一つとして、高い価値が認められる。」

















































大街道に進みます。





大街道



















ここで昼食



2階にある「目利きの銀次」24時間営業の店舗です。





まぐろとたたき丼、赤出汁付きを食べました。



食事も済ませたので、神戸に帰ります。2泊3日の旅、楽しく観光しました。
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石手寺(松山市)

2016-10-22 22:29:41 | 愛媛
2016年10月18日お参りしました。前回に道後に来た時に時間がなかったので、今回は来ました。石手寺の無料駐車場に車を止めました。
愛媛県松山市石手2丁目9番21号
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石手寺由来
パンフレットより「法隆寺文様の瓦が出土し法隆寺系統の荘園に立脚して670年頃に最初の堂宇が建立された。寺伝には聖武天皇の神亀5年に伊予の大守越智玉純が悪夢を蒙り天人、25菩薩が来臨せらるるのを見てこの地を浄域として12社権現を祀り勅願所と定めたとある。以来1200有余年その状を古式により毎年再現して「お練り供養」として諸仏菩薩を供養している。式典に使用する古面、装束のうち菩薩、天人、獅子等は平安、奈良、鎌倉の諸代にわたる傑作で寺宝として宝物館に安置せらる。本尊は薬師如来で天平元年行基菩薩の開眼による。平安朝より室町期に至る間が最も隆盛期で寺域東西数十丁七堂伽藍66坊を有したが、永禄9年長曽我部氏の兵火のため十ニ間四面重層の金堂は焼失した。現在、「鎌倉の昔を今に寺の鐘」と詠まれるように鎌倉から室町初期の国宝重要文化財7件他多数の文化財を擁し、地方には稀有の古刹である。また「伊予の秋石手の寺の香盤に海の色して立つ煙かな」(与謝野晶子)と詠まれ四国大師信仰の中心である。」





































地蔵院





境内図

仁王門(国宝)
「鎌倉後期の文保2年(1318)建立、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。蛙股は運慶の作と云われその繊巧秀美なることは当代の傑作といい、また左右の仁王像(愛媛県指定文化財)は湛慶の作といわれています。」















鐘楼堂
「仕合わせの鐘で、奪い合いでなく与え合う仕合わせの鐘である。」







阿弥陀堂





三重塔(重要文化財)
「高さ24.1m、全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色を伝える建物である。なぜか一階部分のみ白壁塗りがある。境内の中心に位置し、五つの仏から成る曼荼羅世界を構成する。」























本堂(重要文化財)
「国宝の仁王門とほぼ同じ時期の建築とされているが、嘉永6年(1853)の同寺を描いた古絵図には阿弥陀堂の呼び名が書き入れられ、現在の阿弥陀堂を本堂としている。各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴を残している。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。」

元気再生石と罪障消滅・再生くぐり輪



曼荼羅

マントラ洞窟入口

















奥の院

永代供養塔







奥の院しょうじょう寺五百羅漢













愛媛県ビルマ戦没者慰霊塔



































鐘楼(重要文化財)
「元弘3年に建てられたもので四方に腰袴がついており全国でも珍しいものです。」

本殿

























弥勒堂

護摩堂(重要文化財)
「天竺と和様折衷の建造物の多い中でこの堂宇のみが純粋な和様建築である点が特色であり他の建造物と異なっている点はたるきがなく舟ひじきどめとなっていることです。」

一切経堂

大師堂

訶梨帝母天堂(重要文化財)
「このお堂は訶梨帝母天(鬼子母神)をお祀りしており子宝に恵まれない方々のお詣りがあとをたちません。この堂宇中央蛙股は非常に繊細な作りで美しくこの様に小さな建造物に拘わらずひじきのところや釘かくしなど特徴あるものとなっています。」



子宝石と智恵誕生くぐり輪













再生成就大師
「日中友好戦争反省平和を祈念し中国のデザインで建立・日本最大の弘法大師像」





住職曰く
「毎年ビルマ難民の紫園に行き、つくづく思う。ビルマは軍事政権になって沢山の人を殺した。軍隊が強くなると必ず戦争で多くの人々を殺して、不戦の誓いを立て憲法に記した。今、集団的自衛権、有志連合国への参加、武器輸出、軍学共同、ODAの軍事融通など、経済発展のために平和の誓いを次々と破っていく。また多くの子どもたちが親を失う。カレンの子どもたちのように。大戦の教訓は、決して殺さないことである。不殺生と不偸盗・ぶつかり合わず奪い合わない。戦後記念、東南アジア貧困解消と友好平和活動を。」
「本来の仏教」の冊子を頂いて帰って読みました。加藤住職のお釈迦様の教えのように殺し合いは止めようの思いが貫かれています。境内に張り紙されている「集団的自衛権」の名で紛争から戦争への道をストップと声をあげていること、不殺生戒を守ろう。に共感します。
お疲れ様でした。(合掌)
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太山寺(松山市)

2016-10-22 18:51:45 | 愛媛
2016年10月18日、17日に道後温泉の八千代に宿泊し翌日お参りしました。今日も天気がいいですね。松山市内で数か所を散策し神戸に帰ります。
愛媛県松山市太山寺町1730
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仁王門(重要文化財)
「鎌倉後期の1305年再建、三間一戸八脚門、入母屋造、本瓦葺。」







もう少し先に駐車場があるので進みます。駐車場から本堂まで300mの参道です。

参道

一畑薬師様

参道



















子安観音堂







縁起説明書より『四国八十八か所の五十ニ番札所である。瀧雲山護持院と号し、本尊は十一面観音菩薩である。この寺の開創説話に、炭焼き小五郎にちなむ伝承の「一夜建立の御堂」がある。豊後国(大分県)の炭焼き小五郎が黄金を発見し真野長者となった。あるとき、船で難波に向かう途中、高浜沖で大嵐にあったが、瀧雲山(経が森)に光明を見て助かった。翌日、山に登ってみると、小さな草堂に十一面観音が祀られていた。長者は霊験に報いるために、国に帰り、材を船に積んできて、一夜で堂宇を建てたという話である。この真野長者堂は、現在、本堂の左に祀られている。寺伝によると、この寺は天平11年(739)、聖武天皇の勅願により僧行基が開いたという。平安時代には冷泉から近衛までの歴代天皇が十一面観音像を奉納している。伊予の豪族河野氏は、嘉元3年(1305)と文明17年(1485)に本堂、山門などの大修理を行った。その後、松山城主加藤嘉明、松平家歴代藩主の帰依を受け、今日に至っている。』

四天王門
「入母屋造楼門、1683年再建」



















仏足石







本堂(国宝)
「蟇股の墨書銘より、嘉元3年(1305)の建立と判る。中世には全国各地にこうした床張の仏堂が数多く建てられたが、この本堂は内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、内陣の厨子も含め、和様でまとめられた意匠も優秀である。桁行7間、梁間9間、屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。」

























摩尼車

香炉





大師堂



















長者堂









聖徳太子堂

力くらべの亀石

稲荷堂







鐘楼堂

お疲れ様でした。(合掌)
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道後温泉の伊佐爾波神社、寶厳寺、圓萬寺

2016-10-21 23:16:50 | 愛媛
2016年10月18日、17日道後温泉の八千代に宿泊し翌日、伊佐爾波神社にお参りしました。道後温泉駅から東側の小高い山の上に鎮座しています。
伊佐爾波神社
説明書より「延喜式内社で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。伊佐爾波(いさにわ)という社名は諸説あるが『古事記』に「建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。是に大后、歸神して・・・」、『日本書紀』に「建内宿禰に命せて琴撫かしめ、中臣烏賊津使主を喚して審神者と為す」とあり、これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。現在の社殿は、松山藩松平第3代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。」
愛媛県松山市桜谷町173
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正面に鳥居が見えます。



参道の133段の階段

燈籠

説明書

手水鉢





狛犬











境内より



手水舎





楼門(重要文化財)
「江戸中期の寛文7年(1667)に建立、一間一戸楼門、入母屋造、向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」





















重要文化財などの説明



廻廊(重要文化財)
「桁行延長五十七間、梁間一間、一重、入母屋造、南門及び北門部 向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」

























































本殿(重要文化財)
「内陣 桁行九間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺。外陣 桁行九間、梁間二間、向拝三所、一重、流造、檜皮葺。」









申殿及び廊下(重要文化財)
「申殿 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺。」











寶厳寺
「寶厳寺は寺伝によると天智天皇7年(668)斉明天皇の勅願で国司越智守興が創建したという。当初は法相宗であったが、平安時代中期に天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応5年(1292)寺は再建され時宗に改められたとある。時宗の開祖一遍は河野通広の第ニ子として延応元年(1239)に生まれた。幼くして僧門に入り文永11年(1274)時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した佛札の賦算を始めた。弘安2年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所住捨遊行上人と尊崇された。」









山門

一遍上人の誕生地(愛媛県指定記念物・史跡)



































圓萬寺



















行基の作といわれる大地蔵
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道後温泉・八千代

2016-10-21 20:52:18 | 温泉、旅館、ホテル
2016年10月17日宿泊しました。道後温泉は、「日本書紀」にも登場する最古の温泉で、泉質はアルカリ性単純泉です。プラン名は本当に・・!?人気のプランが最大40%OFF【お部屋で味わう豪華懐石】。四国でしか食べれない食材を八千代総料理長による瀬戸の和食本格会席、さらにゆっくりお寛ぎ頂けるお部屋食。お風呂は地下1階で、朝に男女入れ替えです。露天風呂はありますが、覆われていますので、星空は見れないですね。でも3回入浴しました。仲居さんほかスタッフは皆さん若い方でした。
愛媛県松山市道後多幸町6-34
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外観

室内



おもてなし



廊下





ロビー







売店











亀さんが坪庭にいました。



夕食お品かき

前菜 季節の彩盛り合わせ



造り

鯛のしゃふしゃぶ鍋



ビーフシチュー



鯛荒炊き

料理長より鰹のカルパッチョ

陶板焼き

鯛飯

デザート

生ビールを野見ながら完食です。ご馳走様でした。
朝食です。
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内子の町並み(重伝地区)

2016-10-21 20:02:30 | 愛媛
2016年10月17日、内子町八日市護国(重要伝統的建造物群保存地区)を散策しました。四国2泊3日の旅程で高知から須崎、四万十、足摺岬温泉宿泊し、宇和島城、西予市の卯之町、大洲を廻り、2日目の最後の観光地です。JR予讃線の内子駅から内子座まで約700mで高昌寺まで古い町並みが続きます。
「金比羅街道、四国遍路道として開けた旧街道。江戸期~明治期にかけて製蝋業にて発展、漆喰塗大壁の家が750メートル軒を連ねる。本芳我家、上芳我家、大村家など、中心的建物は特に上質である。」
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高昌寺の近くに駐車場があります。
高昌寺
『護国山高昌寺は、曹洞宗に属し、本尊は聖観世音菩薩、境内は3500㎡あって、伽藍配置は本山永平寺に似ている。特に均整のとれた楼門、唐破風の中雀門、回廊三列の石段、禅堂、勧学寮、鎮守堂などはみごとにお互いに調和し、近郷の寺には見ることができない建築物である。本堂には、戸・柱・欄間・天井にクス材が使われ、別名を「伊予の楠寺」ともいう。寺院構造一式を内子町指定有形文化財です。』

山門





中雀門

選佛場

鐘楼



回廊

本堂(大雄殿)







扁額(大洲藩主加藤泰候公の直筆「大雄殿」)

涅槃仏
「山門前の境外にあり、平成10年11月建立、長さ10m重量200t」





町並みへ























上芳我家住宅(重要文化財)
『芳我家は内子木蝋生産の基礎を築き、その発展の中心となった家で、本家を「本芳我」、街道筋上手にある分家を「上芳我」と呼びならわしている。上芳我家は街道の東に面して大壁造の主屋が建ち、その奥に離座敷や炊事場などの居住部分がある。居住部分の南と東には釜場、出店倉、土蔵など木蝋生産に関する諸施設が並び、広い晒場がとられている。各建物は上質で華やかな意匠になっており、木蝋生産で栄えた様子を今に伝えている。』































本芳我家住宅(重要文化財)
「本芳我家は街道の西に面して主屋と土蔵が建ち、主屋の背後に炊事場、北に庭園がとられている。主屋と土蔵の道路に面する部分は漆喰彫刻などを用いて凝った意匠としている。内部の座敷の造りもよく、上芳我家とともに内子の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)のなかで、重要な位置をしめ、貴重な存在である。」













































大村家住宅(重要文化財)
「大村家は染め物商などを営んだ商家で、主屋や裏座敷の他、木小屋、釜場、藍蔵などの建物がある。主屋は通り庭をもつ大壁造の建物で、主屋の背後に接して建つ裏座敷は二階に座敷を作る。大村家の主屋は内子の町並みの中で最も古い民家の一つであり、附属屋もそろい、図面や記録もあって、古い商家の姿を知る上で貴重である。」

















内子座(内子町指定有形文化財)
「大正5年(1916年)に大正天皇の即位を祝い、内子町の有志によって建設された。」



















お疲れ様でした。2日目の最後の観光地を後にして道後温泉に行きます。
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大洲の町並み散策

2016-10-21 18:18:45 | 愛媛
2016年10月17日、大洲(おおず)の町並みを散策しました。宇和島城、西予市の卯之町を散策し大洲に着きました。大洲小学校前の観光駐車場に車を止めて散策です。
大洲市は、愛媛県の南予地方に位置する市で、「伊予の小京都」と呼ばれます。肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町です。大洲街道と宇和島街道の中継地にあたります。
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大洲市案内図

大洲マップ


大洲城の天守の後、町並みの散策です。

俳人松根東洋城大洲旧居





400m東側の大洲観光総合案内所の駐車場へ移動
大洲まちの駅



大洲共同基督教会

おはなはん通り
『NHK連続テレビ小説「おはなはん」のロケ地』



















石張舗装の道



大洲エリアマップ

東の筋へ



渡辺勘兵衛邸跡



井戸

臥龍山荘(重要文化財)















明治の家並み

















昭和燈





お疲れ様でした。次は内子に行きます。
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大洲城

2016-10-21 18:18:03 | 愛媛
2016年10月17日、16日足摺岬温泉に宿泊し、17日宇和島城、西予市の卯之町散策し、大洲(おおず)の町並み散策と大洲城に行きました。
「大洲城は、鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれています。その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。元和3年(1617)加藤貞泰が入城し、以降加藤氏代々六万石の居城であった。現在は四棟の隅櫓を残すのみであるが、台所櫓及び髙欄櫓は本丸にあり、天守に渡櫓で続いていた。苧綿櫓は肱川の土手に突出して造られ、旧二の丸の東南隅にあたる。三の丸南隅櫓は現在加藤家の宅地内にあり、加藤家の所有になっている。これらの遺構は勿論大洲城当初のものではないが、 その往時をしのぶ貴重な遺構である。現在の天守は、平成16年(2004年)に復元されたものです。」
大洲市大洲903番地
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西門跡、大洲高校の東南の角です。











丸南隅櫓(重要文化財)













旧加藤家住宅主屋(登録有形文化財)
「桁行12m,梁間10mの規模,木造2階建,寄棟造とする。玄関は南面に切妻造で突出する。2階は中廊下を南北に通し部屋を配す。三方を縁側とし,ガラス障子の開放的なつくりで,戦前の旧大名家の暮らしぶりが窺える。」



お殿様公園



大洲城天守

内堀菖蒲園

天守に向かいます。

北の菱御門跡







高欄櫓(重要文化財)
「江戸末期文久元年(1861)再建、二重二階櫓、本瓦葺。」









井戸丸



天守





暗り門跡

台所櫓(重要文化財)
「江戸末期の安政6年(1859)再建、二重二階櫓、本瓦葺。」





大洲城の沿革の説明書

















御門番長屋







市民会館付近からの眺め

苧綿櫓(重要文化財)
「江戸末期の天保14年(1843)に再建、二重二階櫓、本瓦葺。二の丸東端に位置し、石落しに格子窓が備えてあるのが特徴です。」





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西予市宇和町卯之町(重伝地区)

2016-10-21 11:44:09 | 愛媛
2016年10月17日行きました。宇和島城の後に立ち寄りました。宇和島城から約20Km北側の重要伝統的建造物群保存地区です。JR卯之町駅から400mくらいのところから町並みがあります。国道56号線より1筋入った商店街の2時間無料の市営駐車場(西予市商工会から北西に50mのところ)に車を止めて散策です。
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説明書
「西予市宇和町卯之町は、江戸時代を通じて宇和島藩下の在郷町とつし栄えた。地場産業である良質の檜材や、宇和盆地でつくられた良米等が集まり、5軒の造り酒屋が店を構え、商家が立ち並んだ。また宇和島・大洲を結ぶ街道の拠点として物資が集散したり、白装束のお遍路さんが往来して宿場をにぎわせた。この区域には、近世(江戸時代)の面影を伝える町家が軒を並べ、併せて寺(江戸期)・学校・教会等、明治・大正・昭和初期の歴史的建造物により、伝統的な町並みが形成されている。町並みの特徴は妻入りと平入りが混在していることである。妻入りの町家は四国地方にあまり例がなく、また格子や蔀、床几、大戸などに加え、卯建、袖壁、一階軒下の持送り、二階の手摺り、飾り瓦等の意匠も特徴的である。保存地区は中町、新地、横町、大念寺、下町に分けられ、江戸時代の地割や、各時代の建造物で独自の景観を醸し出している。」

商店街の通り、













光教寺石標



宇和民具館、月曜日休館です。



開明学校(重要文化財)
「明治15年(1882)に町民の寄附により建築された擬洋風の小学校校舎。アーチ型の窓にドイツ製のガラスが使用され、文明開化に近づこうとした町民の教育に対する情熱が込められています。現在は、教育資料館として、明治初期の貴重な掛図をはじめ、昭和初期にかけての資料約6000点を収蔵展示。」

歴史民俗資料館

申義堂
「郷校として使用された明治2年築、開明学校前身」

道祖神、この前で妻と手を握り合いました。(笑) 旧開智学校との姉妹提携により松本市から贈られたとのこと。



光教寺
縁起書より「当寺は清泰山光教寺と号し、臨済宗妙心寺派に属し、開山以来7百数十年を有する禅寺です。開山は明遠和尚、ご本尊は釈迦如来立像です。京都の西園寺家が嘉禎2年(1236)宇和郷を領有してからほぼ30年後、岩瀬(松葉城)山麓に創建されたと伝えられています。その後西園寺家が天文年間(1532~1555)に居城を黒瀬に構えた際に城内(光教寺谷)へ寺を移転し、さらに万治年間(1658~1660)に今日の場所に移りました。現在の本堂、庫裏は天保年間(1830~1843)に再建されたものです。裏手には、再建に当たった第6世利道文益和尚の作による優美で趣の深い庭園が今に残されています。明治時代に入ると、境内地を開明学校新校舎の敷地に提供し、続いて隣接地に申義堂も移築されます。当時、ニ世代にわたって長州出身の住職が当寺に迎えられ、とりわけ猷山和尚は蘭学、英語、数学や哲学など学問に長け、向学心に燃える宇和の若者たちに大きな影響をもたらしました。山門を入ると正面に本堂、右手に庫裏が並び、左手には観音堂、太子堂があります。本堂と左手の方生池との間を奥に進むと杉木立孟宗竹の薮を後ろに控えた美しい枯山水庭園が望まれます。心休まる空間をお楽しみください。」(合掌)





山門

本堂

















庫裏



町並みに戻ります。



末末住宅(西予市指定文化財)
『明和7年(1770)に建てられた平入りの建物で、蔀や格子など卯之町らしいデザインが残る町並みの代表的な町家。大正時代初期まで酒造業を営み、大正8年(1919)に「卯之町醤油株式会社」を設立し、昭和12年(1937)まで醤油製造、販売を営んでいました。』









































鳥居門(西予市指定文化財)
「天保5年(1834)、庄屋鳥居半兵衛が建てたもので、ケヤキをおしげもなくつかっている。門扉には鉄鋲を打ち、そりのある屋根には高々とした大きな鬼瓦があるいかめしい門。」







二宮敬作住居跡

お疲れ様でした。、次は大洲に行きます。
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