旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

長崎市内散策Ⅲ、中華街・大浦天主堂

2019-06-12 23:44:40 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日は平戸観光です。翌々日9日、長崎市内観光をしました。
中華街















庄屋で昼食

チンチン電車









石橋に移動です。

大浦展望公園の猫





まち歩きマップ





南山手レストハウス



祈念坂





大浦天主堂(国宝)
「日本の開国が近いとみたローマ教皇庁は、日本での再布教をパリ外国宣教会に託した。フオルカード神父は、沖縄で日本語を学んだが、鎖国の壁は厚く、来日は果たせなかった。日本が開国すると、ジラール神父がフランス総領事の通訳として来日、横浜に天主堂を建てた。次いで長崎に天主堂を建てるため、1863年にフューレ神父を派遣。天主堂は西坂で殉教した二十六聖人に捧げるため、殉教地に建てたかったが、居留地外は許されず、現在の南山手の地が選ばれた。
 プティジャン神父も応援にかけつけ、天主堂の建築がはじまる。しかしこの時は禁教令が残っており、教会は外国人用だった。フューレ神父は、日本人に宣教できないことを悲観して帰国したため、工事がおくれた。そんなおり、奉行所の語学学校で、プティジャン神父にフランス語を教えてもらう見返りに、長崎奉行が工事人夫を3倍に増やしてくれ、建物は1864年に完成する。
 外観は黒地に白い格子のナマコ壁、内部は西洋風交差式リブ、ヴォール天井(こうもり天井)という和様折衷の建物である。正面の塔には金色の十字架が輝き、長崎の人々は[フランス寺]と呼んで見物におしかけた。プティジャン神父は日本人キリシタンの発見を期待して、正面に[天主堂]の大きな文字を掲げた。
 そして1865年2月19日、大浦天主堂は[日本二十六聖殉教者聖堂]と命名され、ジラール神父によって献堂式が行われた。フランス長崎領事のほか多くの外国商人が参加、長崎港に停泊中だった仏・英・露・蘭の軍艦からも船長と儀仗兵が駆け付つけ、祝砲も放たれた。
 大浦天主堂献堂から1か月、3月17日に宗教史上の奇跡[信徒発見]が起こる。男女子どもを合わせ12~15名の一団が天主堂の門にいました。プティジャン神父が聖堂に案内して祈ると、40歳ないし50歳位の婦人が手をあてて申しました。
『私共は、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では全部の人が同じ心を持っておりいます』『サンタ・マリアの御像はどこ?』神父が聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。『本当にサンタ・マリアさまだ!御子イエズスさまを抱いていらっしゃる。』このことは浦上ですぐに広まり、翌日から大勢が天主堂にやってきた。当時は、禁教下で、奉行所の役人は監視を強めたが、夜間や早朝に忍び込む者もいた。さらに外海地方、遠くは五島からも天主堂を訪れた。
 そのうち浦上の信者は、4つの秘密礼拝堂を造る。かやぶきの民家風で、そこに神父が密かに巡回してミサや洗礼を行った。信仰に自信を持った浦上の信者の中には、伝道士となって遠くは今村(福岡県大刀洗町)に出向いた。
 浦上では過去3階のキリシタン摘発(=崩れ)があったが、幕末から明治にかけての四番崩れが最大の迫害となった。きっかけは白葬事件で、旦那寺の僧侶を呼ばず、自分たちで葬儀を済ませたうえ『自分たちはキリシタンなので、お寺とは縁を切りたい』と主張した。
 長崎奉行所は秘密礼拝堂を調べ、1867年7月15日未明にサンタ・マリア堂に踏み込んだ。この時、他の礼拝堂含め、68人が捕まった。
 フランス公使は、将軍徳川慶喜と会見し、『キリシタンは国法を犯したが、対外関係を考慮して拷問せずに釈放する』ことを認めさせた。しかし実際は激しい拷問が加えられたため、長崎奉行は交代させられた。
 1868年1月25日、時代は明治に入る。新政府は天皇制国家を築くために神道を重視し、キリスト教は引き続き禁教とした。長崎裁判所総督(長崎県知事)になった沢宣嘉は、『中心人物は斬首、その他は流配』を政府に進言。これに英国公使らが抗議し、長崎から呼び出された弱冠30歳の大隈重信は、①混乱状態の日本では外国思想の一時禁止はやむを得ない、②西洋諸国でも宗派の違いで兄弟げんかをしている、との論陣を張り、物別れに終わる。最終的には『斬首は不穏当』として全員流配が決まった。1868年7月、中心人物114人は萩、津和野、福山に蒸気船で送られた。浦上全員3394人が20藩に預けられ、拷問や苦役を受けた。これは1873年まで続き、600人以上が亡くなっている。
 浦上四番崩れが起こる中、欧米を歴訪した岩倉具視使節団は、信教の自由を強く求められた。そして1873(明治6)年、政府は禁教の高札撤去を決定。禁教令は259年ぶりに効力を失った。こうして潜伏からカトリックへの復帰が本格化する。信者は全国で4万人を超え、1891年には函館、東京、大阪、長崎の4教区体制となった。仲でも長崎教区(九州全体)は信者数の6割以上を占め、大浦天主堂は司教が常駐する司教座聖堂異常(カテドラル)となった。信者が流配から戻った浦上では、1879年に最初の聖堂を建て、1914年には東洋一の大聖堂が寛政した。
 各地でも教会建設が進んだ。長崎市内には現在130もの教会がある。」
室内は撮影禁止です。素敵なステンドグラスでした。
説明書





































旧羅典神学校

グラバー通りの店舗

長崎市内観光を終了し、長崎空港へ



































お疲れさまでした。
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長崎市内散策Ⅱ、平和公園・浦上天主堂・出島

2019-06-12 23:41:55 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日は平戸観光です。翌々日9日、長崎市内観光をしました。
ホテルの客室から長崎港です。豪華客船が停泊していました。

ホテルでチンチン電車の1日乗車券を購入しました。

平和公園

防空壕









核兵器禁止条約締結を求める集会をしていました。







平和公園から浦上天主堂に行きます。



浦上天主堂
『1867(慶応3)年の浦上四番崩れによるキリシタンの流配(旅)から戻った浦上のカトリック信徒達は旧浦上村の庄屋宅跡を購入し、1880(明治13)年補修して仮聖堂としました。その後、1895(明治28)年主任司祭・フレノ神父はロマネスク様式で煉瓦造の聖堂建設に着手。1914(大正3)年献堂式が行われ、1925(大正14)年双塔の竣工をもって完成に至りました。当時の天主堂は「東洋一の教会」と称されていました。



































拷問石











出島
「1571(元亀2)年ポルトガル船が入港し、以来長崎は世界都市とし発展を続けてきました。長崎の町には協会が建てられキリスト教が広がり、各地から商人たちが集まってきましたが、豊臣秀吉の時代になると天領となりキリスト教への弾圧が始まり、更に江戸幕府は徐々に貿易の独占とキリスト教の禁教政策を強化してきました。
 1636(寛永13)年長崎の町の岬の先端に徳川幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して出島が築造されました。町の中で暮らしていたポルトガル人を収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成しました。その翌年島原・天草一揆が起こり、1639(寛永16)年ポルトガル船の来航は禁じられました。そののち当時平戸で貿易をしていたオランダの商館が出島に移され、以降、幕末まで日蘭交流は続き、日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地、また蘭学を初め日本の近代化に必要な情報の発信地として、出島は重要な役割を果たしました。
 1859年以降は通商条約に基づき横浜や函館でも海外貿易が行われるようになり、長崎においても貿易の中心は出島からT.グラバーやF.リンガーたちが活躍した現在のグラバー園周辺の外国人居留地へと移っていきました。中島河の変流工事や周囲の埋め立て等により形も失われてきました。
 第二次世界大戦後間も無い1951(昭和26)年、出島の復元計画が動き出し、長崎市は50年の歳月をかけて取り組み、2016年時点で16棟の19世紀初頭の町並みが出島に甦っています。」

一番船船頭部屋
「1階は倉庫、2階では、オランダ船船長やオランダ商館員が暮らしていた部屋を再現しています。」













一番蔵
「砂糖などをおさめていました。出島の建物の復元方法や発掘した基礎石を展示しています。」













二番蔵
「染料の原料となる蘇木などが収蔵されていました。出島で取引された貿易品と貿易の仕組みを紹介しています。」













ヘトル部屋
「商館長次席(ヘトル)の住いでした。内部は復元ではなく[ミュージアムショップ]やトイレとして活用しています。」





三番蔵
「長崎の食文化に欠かせない砂糖を保管していました。はじめは台湾、後にインドネシアから輸入されていました。」









拝礼筆者蘭人部屋
「オランダ商館の首席事務員の住居。エレキテルや顕微鏡等の珍しい西洋から伝わった器具の仕組みが判ります。」











カピタン部屋
「オランダ商館長(カピタン)の居宅。2階には、商館長の仕事ぶりやクリスマスの宴会を再現した部屋、1階では体験展示を楽しめます。」





















































女中部屋

寝間

図書室

涼所

乙名(おとな)部屋
「出島の貿易やオランダ商館員の生活を支えていた出島乙名の仕事ぶりを紹介しています。」

大砲

時鐘
「この鐘は正午の昼食時に撞かれ、また、貿易時には、朝、積載品が降ろされる時に撞かれる。鐘が三度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向く。と記録にあります。紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いたものを吊ってあります。」

用水池
「1798(寛政10)年、出島では西側半分を焼失する大火が起り、オランダ商館は大打撃を受けました。その後、火災に備え、この場所に間口1間半×4間の用水池を設けました。」

新石倉

旧石倉

筆者蘭人部屋
「出島が貿易や文化交流を通じて世界と日本各地とつながっていた様子をわかりやすく紹介しています。」



十四番蔵
「かつては砂糖蔵でした。蔵の下の発掘遺構や出島築造の様子、出島と長崎の町をつなぐ橋を紹介しています。」

乙名詰所
「表門から出入りする人を監視するため出島の管理者である乙名が詰めていました。」

組頭部屋
「乙名の補佐役(組頭)の名前がついていますが、銅を計量したり、梱包したりしていた場所でした。」



旧長崎内外クラブ
「1903(明治36)年、T.グラバーの息子倉場富三郎の尽力により、長崎の外国人と日本人の社交場として建てられました。現在はレストランとして交流の場となっています。」



旧出島神学校
「1878(明治11)年に建てられた。現存する日本最古のプロテスタント神学校です。」





模型
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長崎市内散策Ⅰ、日本二十六聖人祈念聖堂(聖フィリッポ教会)・本蓮寺・聖無道寺・福済寺・聖福寺

2019-06-12 23:40:40 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日、ホテルで簡単な近隣マップをもらい、歩いて散策しました。
狭い階段を降りていきます。

五社稲荷の鳥居です。





とにかく狭い階段、生活している人達は大変ですね。

聖フィリッポ教会
リーフレットより「この教会は1962年、ガウディ研究の第一人者であった早稲田大学教授・今井兼次氏によって設計され完成いたしました。26聖人が実際に殉教した場所に建てられた教会でありますが、すでに大浦天主堂の正式名に『二十六聖人』の名称が使われていたため、外国宣教師6人の内の一人でメキシコ人初の聖人となったフェリペ・デ・ヘスス(聖フィリッポ)の名前が、教会名に選ばれました。2002年4月に長崎大司教は、[巡礼所]に認定し、2012年には日本司教団により[公式巡礼所]の認定を受けました。」
聖フィリッポ像
「この像はメキシコのグアダラハラ大司教、フランシスコ・オロズコ・ヒメネスより、長崎の大司教パウロ山口(在任1937~1962)に送呈されたものです。第二次世界大戦の間、この像は大浦の大司教館に保管され、後にこの西坂の聖フィリッポ教会に移されることになりました。」

室内のステンドグラス





双塔
「二つの塔は、高さが16メートルあります。





日本二十六聖人祈念館

南東に進みます。

墓地を通り抜けます。猫がいます。

まるで墓守をしているようです。



本蓮寺
『1620(元和6)年、大村本経寺住職の日恵が開創。サン・ジョアン・バウチスタ教会、サン・ラゼロ病院の跡地でした。1648(慶安元)年、朱印地に指定され、長崎三大寺の一つでした。江戸時代末、大乗院と一乗院という塔頭があり、大乗院には、勝海舟が4年ほど滞在し、海外伝習所で航海術や砲術などを学びました。近所に住むお久(梶くま)とのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりといわれています。一乗院には、シーボルトが息子アレキサンダーと滞在し、おタキや娘のおイネと会った場所です。二天門は原爆で焼失しましたが、往時の礎石の跡が残っています。当寺の西川家墓所内には、海援隊士・沢村惣之丞(1843~1868)ら土佐人が葬られています。沢村は、坂本龍馬とは土佐脱藩以来の同志。竜馬の死後、1868(慶応4)年1月14日、海援隊が長崎奉行所を占拠した際、誤って薩摩藩士を射殺し、その責任をとって切腹しました。「生きて世に残るとしても生きて世に有らむ限りの齢なるらむ」という辞世の歌が残っています。』
map
参道の階段





サン・ラゼロ病院、サン・ジョアン・バウチチスタ教会跡碑、境内入り口にあります。
「1580(天正8)年長崎はイエズス会領として寄進され、イエズス会本部が置かれるなど、わが国におけるキリスト教の一大中心地となり、数々の教会が建てられました。その様子はのちに、日本における小ローマと称するほどでした。1591(天正19)年に渡来したローケ・デ・メロベレイラは、この地(のち本蓮寺)に住民のための病院を開きました。そのかたわらフランシスコ会司祭のバウチスタが壮大なサン・ジョアン・バウチチスタ教会(司祭は日本人)を建てました。しかし、1614(慶長19)年に禁教令により破壊されてしまいました。」

勝海舟寓居の地碑
「勝海舟(1823~99)は、勝小吉の長男として江戸本所亀沢町(現東京都墨田区)に生まれました。1855(安政2)年から約4年間、長崎奉行所西役所に置かれた海軍伝習所の伝習生となり、オランダ海軍士官カッテンディケらの指導を受けました。長崎に滞在中は、この地にあった大乗院に宿泊し、長崎の女性、梶くまとの間に一男一女をもうけました。くま(法名は容誉智顔麗光大姉)の墓は、本蓮寺隣の聖無道寺の梶家墓地にあります。」

日蓮上人

本堂



装飾瓦



庫裏



聖無道寺
「1644(正保元)年利生院専音が利正院を創建。1658(万治元)年聖無道寺と改称しました。当時は、江戸時代、オランダ船の航海安全等、出島乙名や阿蘭陀通詞等に海上安全・家運繁盛の守札を配布し、江戸参府の際には、海陸祈安の守札を贈っていました。寺には、安全祈願の石燈篭が残っています。また、江戸時代中期の頃には、出島の火災時のオランダ人の避難場所に定められていました。同寺には勝海舟と巡り合い恋に落ちたお久(梶くま)の墓があります。この墓は、1974(昭和49)年に放映された大河ドラマをきっかけに発見されたもので、その中からは銀のかんざしが出てきたそうです。」
参道の階段









福済寺
「分紫山福佐済寺は、1628(寛永5)年中国の僧覚悔禅師によって創建され主たる堂宇は明朝式建造物で明治43年特別保護建造物、昭和2年国宝に指定された。明治12年には米国のクランド大統領、同23年には中国の丁汝昌提督等来山、国際親善友好の場として有名であった。書院には小原慶山、沈南蘋等国宝級の絵画の大作があり。文化財の宝庫と賞讃されていた。然るに昭和20年8月9日長崎に原子爆弾炸裂、創建317年にして大伽藍はことごとく、火焔に包まれ一物も残らず焼燼して境内は瓦礫の丘と化してしまった。現在の木造の堂宇は昭和27年先代三浦実道禅師によって戦後はじめて本堂兼庫裏として大書院跡地に建造されたものである。戦後30有余年、ようやくにして元国宝雄宝殿跡地に鎮魂慰霊の殿堂として萬国霊廟長崎観音が造営された。高さ35メートル、重量35トン。被爆都市長崎の原爆観音として平和祈念像と共に後世に永く戦争と原爆の悲惨さをつたえる慰霊鎮魂の道場となることでしょう。亀の形は中国、韓国、日本と仏教伝来の過程に於いて、亀の背に仏様や碑文を立てて、亡者の往生安楽を祈願した形が多くの地方に見られる。この霊廟もその主旨にそい、その形式を建築様式化して、亀の形をかたちどっている。」













鎮魂の鐘









非核非戦の碑

幣振坂
幣振坂の名前は、1634(寛永11)年、諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に降ろした際、宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って、人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では、この坂のほか晧台寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。』

観善寺







聖福寺
「1677(延宝5)年に鉄心道胖が開創した黄檗宗の寺院。1867(慶応3)年5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。4月23日、坂本龍馬らが乗った「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没、その賠償交渉が鞆の浦(福山市)と長崎で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。このとき龍馬は世論を味方にするため「船を沈めたその償いに、金をとらずに国を取る」という歌をつくり、長崎の街中に広めたと言われています。」
山門(重要文化財)
「この山門は、堺の豪商・京屋宗休が寄進し、堺の棟梁によって1703(元禄16)年に竣工。堺で木材を切組み、海路長崎に運んで建造した。八脚門形式で、屋根は切妻の段違いで本瓦葺き、中央部を一段高めた雄大な造りである。中央の大額は、黄檗宗開祖の隠元が揮毫したものである。」









惜字亭(長崎市指定有形文化財)
「これは、経文をはじめ、寺内の不要文書類を焼却するための炉で、惜字亭という名称は、文字を焼却するにあたり、書かれた文字を惜しむという意味を示し、たいへん奥ゆかしい。炉は、煉瓦造り漆喰塗りの六角形で、築造は1866(慶応2)年7月とされている。赤煉瓦の製造法は、幕府の要請により長崎製鉄所建設指導のため、1858(安政5)年頃長崎に来たオランダ海軍技師官によってもたらされた。中国人信徒によって築造寄進された。」

天王殿(重要文化財)
「天王殿という名称は中国伝来のものである。中央に弥勒菩薩(布袋)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした、仏殿と門を兼用する独特の形式を持つ。中門・弥勒門・護法門などの別名がある。当寺山門と同じ堺の棟梁により、1705(宝永2)年に竣工。鉄心が修業した京都の黄檗山萬福寺に倣い、中国建築様式の特徴である朱丹塗を避け、彩色は扉やその他局部に止め、素木を主体としている。反りのある優美な屋根と吹き放しにつく曲線の黄檗天井が特徴の建物である。」



鐘楼(重要文化財)
「この鐘楼は、堺と長崎の棟梁の合作で、1716(享保元年)に竣工。長崎県下での鐘楼建築では現存する最古のものである。全体的には禅宗様を基調にした造形で、長崎の黄檗宗寺院に見られるような強い中国色はほとんどない。全体の姿形は均整がとれていて、秀逸である。細部様式も派手さはないが、逆に抑制された上品さが感じられる。一部後世の改造が見られるが、創建当初の構造形式がよく保持されており、創立当時の伽藍遺構を構成する一連のものとして、建築史的価値の高い貴重な建造物である。」



大雄宝殿(重要文化財)









石門(長崎市指定有形文化財)
「聖福寺の背後に位置する金比羅山にあった祟岳神宮寺は、衰退を重ねた後、福済寺の住持であった唐僧木庵性瑫が無凡山神宮寺と命名した。この門は、神宮寺にあったもので、明治新政府より出された神仏分離令によって金比羅神社となり、仏寺関係の一切が除去破却された中で、境内に残された。石門の中央要石に、木庵筆「華蔵界」の文字が刻んであり、聖福寺開基鉄心道胖が木庵について修行した由縁があったので、1886(明治19)年聖福寺が金比羅神社より譲り受け、現在地に移築した。こうしたアーチ式の石門は、江戸初期に中国からもたらされた形式で、市内の寺院にいくつか残っている。この石門は神宮寺がさ再興された1725(享保10)年以降の建造と推定されるが、その唯一の遺構としても貴重である。」

庫裏





永昌寺山門

西園寺公望仮寓跡碑
「西園寺公望(1849~1940)は、京都の徳大寺公純の次男として生まれ、西園寺家を相続し、後に文相や首相を歴任、最後の元老として重きをなしました。公望は1870(明治3)年4月、広運館に入学し、フランス領事のレオン・ジュリーやフルベッキからフランス語を学びました。長崎滞在中の公望は家臣山口正信とともにこの地に居住しました。3年間を予定していた長崎遊学は、フランス留学の辞令が出たためわずか7か月余りで終わりを告げました。」

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平戸城・亀岡神社

2019-06-12 23:38:00 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。
パンフレットより『松浦家26代鎮信は1599(慶長4)年亀岡に「日の岳城」を築いた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため「日の岳城」を焼却、平戸6万1700石と民を守った。以来90年間を「御館」で過ごすが、30代棟となって1704年「平戸城」の再築を開始、1718年完成した。1873(明治6)年は廃城となり、1962(昭和37)年平戸市により復元された。』入場料510円。
長崎県平戸市岩の上町1458
map
平戸市街地案内図

























見泰櫓



懐柔櫓

天守内































景色















亀岡公園案内図

亀岡神社・本殿・幣殿及び登廊・拝殿(登録有形文化財)
「1880(明治13)年平戸城内にあった霊椿山神社が老朽化したため、七郎神社・乙宮神社・八幡神社の3社と合祀して亀岡神社が建てられました。亀岡神社は、平戸城二の丸跡に鎮座しており、境内北端中央の高い石垣の上に本殿が建てられています。入口は桁側から入る平入で正面中央に階段があり、左右に神像を安置する独特の形式です。瓦には平戸松浦家の家紋である三ツ星が入れられています。本殿より1段下にある拝殿は、阿翁石と呼ばれる松浦市鷹島産の粗粒玄武岩が設けられています。壁は北を除く南東西の3面がガラス戸で、北側は幣殿、両側は格子の板壁になっています。拝殿と本殿の間にあるのが幣殿及び登廊です。本殿、幣殿及び登廊は独特の形式をもち、拝殿は均整のとれた外観で歴史的・文化的価値があり観賞価値の高いものとなっています。」
神楽殿

















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平戸観光、田平天主堂・平戸城下町・最教寺

2019-06-12 23:37:08 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日は平戸観光です。
ホテルからレンタカーで、平戸にある田平天主堂です。
田平天主堂(重要文化財)
「平戸瀬戸を望む丘に建ち、海と空の景色にとけ込む優美な姿で知られます。設計及び施工は、長崎県内の数々の教会堂建築に携わった鉄川与助(1879~1976)で、1915(大正4)年12月着工、1917年10月に竣工し、1918年5月14日に献堂式が行われました。長崎県内のレンガ造教会堂としては最晩期の建築であり、外観・内観ともに完成された意匠を見ることができます。外観は、正面中央に八角形ドームの鐘塔を備え、外壁はレンガ造および木造で、レンガの色づかいや積み方に変化をつけることで多彩な表情を作り出しています。内部は、木質にペンキ塗りで仕上げられ、連続するアーチの高窓、椿の花の浮き彫り、部分に使分けた金色などが華やかな内部空間を演出しています。建設は、信徒の手作業によって行われました。レンガ・瓦・セメント・木材などの材料は船で運ばれ、石灰は持ち寄った貝を焼いたものです。敷地内には、この貝焼き場のほか、司祭館、正面門柱、煉瓦塀、石段、隣接の墓地などが良好に現存し、教会堂とともに優れた周辺の歴史的環境も高く評価されています。」
長崎県平戸市田平町小手田免
map
室内は撮影禁止です。素敵なステンドグラスがありました。



























平戸市内城下町







オランダ井戸
「オランダ井戸は、和蘭商館時代から残存する数少ない遺構の一つです。北側(山側)は内部を礫状玄武岩で円形に、南側(海側)は板状玄武岩で方形に築かれています。方形の構築法は、西洋のレンガブロック積みの応用と考えられ、平戸でもここだけしか見ることができません。この井戸は、深さ約8メートルあり、海岸の近くに位置しますが、海水の浸入はありません。」







御船手屋敷石塀
『この石塀は、和蘭商館が出島に移転した跡地に築かれた「御船手屋敷」に付随する石塀で、コの字状を呈する平戸独特のものです。「御船手屋敷」は、船の操舵を役目とする下級武士の屋敷とされ、平戸城下に3箇所あったことが確認されており、それぞれにコの字型の石塀が存在しています。石塀の内部には小さな池等を設けて、ミニ庭園のような使い方をしていたようです。』

平戸オランダ商館
「1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。」











オランダ塀
「石段に沿って続く漆喰で塗り固められた塀は、通称オランダ塀と呼ばれています。1609年から1641年までのあいだ、この塀の東側に、オランダ商館が置かれていました。商館を外から覗かれないために、また延焼などから守るために、この塀が設けられました。塀の高さは約2メートル、底辺の幅は約70センチメートルあります。商館当時の様子を知ることのできる数少ない遺構のひとつです。」













笑門















リチャード・コックス

フランシスコ・ザビエル像

王直

松浦史料博物館















平戸の六角井(長崎県史跡)
「明(中国)の海商、王直は1542(天文11)年松浦家25代隆信(道可)の優遇を得て平戸に居を構え、ここを根拠として貿易を行い、多くの明商人が平戸に定住した。この井戸はその当時、明の様式で作られたと言われ、六角形の石柵で囲われているのが特徴である。」

観音地蔵堂

大蘇鉄
「江戸時代初期の平戸にはオランダ・イギリスの東インド会社による貿易の窓口がおかれていた。樹齢400年になるかとおもわれるこの大蘇鉄は、当時の貿易商、川崎屋の庭に植えられていたものであるという。」

延命地蔵堂








暑いのでアイスクリームを食べました。

うで湯・あし湯

教会と寺院の見える坂ですが、教会が工事中なので行きませんでした。

最教寺
「真言宗智山派の寺院、山号を高野山、本堂に虚空蔵菩薩を祀る。奥の院は弘法大師を祀る。」
鐘楼

庫裏



霊宝館





愛染堂

















奥の院







三重塔



猫ちゃん






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長崎市内観光その5、興福寺

2016-09-13 00:23:35 | 長崎
2016年9月6日、長崎市内観光です。正覚寺下駅より公会堂前まで電車で移動です。





興福寺
「国内最初の黄檗禅宗の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎居住の中国人もキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺が建てられたといわれています。日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第ニ代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころは、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。」
山門(長崎県指定文化財)
『三間三戸八脚の入母屋造単層屋根、総朱丹塗りの豪壮雄大な門、上部の扁額「初登宝地」は隠元禅師の御書。』

















大雄宝殿(重要文化財)
「本堂になります。寛永9年(1632)第ニ代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建。さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。桁行三間、梁間四間、一重もこし付、切妻造、本瓦葺。」











鐘鼓楼(長崎県有形文化財)
「寛文3年(1663)の市中大火のあとの元禄4年(1692)再建。2階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き階下は禅堂とした。」







中島聖堂遺構大学門(長崎県有形文化財)
「儒者向井元升の流れをくむ聖堂。学舎の門で正徳元年(1711)に竣成。昭和34年保存のため興福寺に移築。」















三江会所門(長崎県有形文化財)
「江南・浙江・江西三省出身者が明治初期に設立した集会所。原爆で大破し門だけ遺存。豚よけの高い敷居が中国風。」









唐人さんの寝棺











媽祖堂(長崎県有形文化財)
『寛文10年(1670)の扁額「海天司福主」がある最古の建物。唐船に祀る守護神の媽祖小像を在泊中、安置した。』





旧唐人屋敷門(重要文化財)
「元禄2年(1689)に完成した広大な唐人屋敷に遺存した門を保存のため移築したねの。」





魚板









一覧橋と光永寺の説明書



中島川の鷺





お疲れ様でした。
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長崎市内観光その4、崇福寺

2016-09-13 00:23:04 | 長崎
2016年9月6日、長崎市内観光です。
石橋駅に戻ります。

電車に乗ります。蛍茶屋行きです。西浜町駅で正覚寺下駅に行きます。



崇福寺
「寛永6年(1629)長崎に在留していた福州人たちは、故郷の福州の僧超然を迎えて、寺を造りました。これが崇福寺の始まりです。建築の特徴は、明の末期から清の初期(17世紀)の南支建築様式をそのまま輸入したものでわが国では他に類例がありません。享保年間(18世紀初)唐僧の渡来が絶えましたが、それまで渡来して来た唐僧には書画に秀れた人が多く、寺にかけられている扁額や柱聯は、これら唐僧の墨跡です。」
三門(重要文化財)
「俗に竜宮門といわれています。嘉永2年(1849)棟梁大串五郎平が、中国人の指導を受けて造りました。桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付です。」





















第一峰門(国宝)
『唐門、赤門、海天門などともいいます。正保元年(1644)創建、元禄9年(1696)改築、寧波で切組み唐船で輸入して組立てた。軒下の複雑な斗栱と、即非禅師の扁額「第一峰」で有名です。四脚門、入母屋造、本瓦葺。』









大雄宝殿(国宝)
「本堂です。本尊は釈迦如来。正保3年(1646)創建、桁行五間、梁間四間、二重、入母屋造、本瓦葺。」









媽祖堂門(重要文化財)
「文政10年(1827)再建、媽祖堂に対する門と仏殿と方丈を連絡する廊下を兼ねている。菩薩門とも呼ばれ、三間三戸の三棟造の八脚門形式になる。前面は黄檗系の建物によくみられる輪垂木の化粧屋根裏とし、意匠的にもみるべきものがある。」



大釜(長崎市指定文化財)
「天保年間の飢饉のとき、住持千獃禅師が、書籍什物を売って施粥をしました。そのとき鍛冶屋町の鋳物師に注文して造ったものです。4石2斗を炊くと伝えています。」



鐘鼓楼(重要文化財)
「享保13年(1728)の再建。楼上に正保4年(1647)開創時の檀越たちの名を連ねた梵鐘がかかっています。」





媽祖堂(長崎県指定史跡)
「往時唐船主たちが海上安穏を祈願して海の神様媽祖を祀ったものです。」



方丈

開山堂



祠堂

魚板


















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長崎市内観光その3、大浦教会・大浦天主堂・旧香港上海銀行長崎支店・東山手十三番館

2016-09-13 00:21:22 | 長崎
2016年9月6日、九州旅行の2日目、長崎市内観光です。グラバー園の後、グラバー通りを下りての観光です。
大浦教会













大浦天主堂(国宝)
「幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ調の国内現存最古の教会堂です。聖堂内を飾るカテンドグラスには、約100年前のものもああります。」
拝観料600円













長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館(重要文化財)
「香港上海銀行は、明治25年長崎に支店を開設した。現在の社屋は下田菊太郎の設計によって明治三十七年に完成した。この支店は昭和六年に閉鎖された後、警察関係の庁舎として用いられ、その後、長崎市立歴史民俗資料館になった。建物は煉瓦造、三階建であるが、前面は石造とし、正面に特に意をもちい、一階部分をアーケードとして出入口を設け、2、3階部分を通してコリント式の円柱を建てた大オーダーとし、上に切妻破風をあげ、正面のデザインをこらしている。旧香港上海銀行長崎支店は、銀行建築として、重厚で端正な意匠になっており、長崎の海岸通りに建つ規模が大きい建物として欠かせない存在である。」











長崎市べっ甲工芸館(重要文化財)
「歴史と伝統に培われたべっ甲細工の技術と技能を保存するため、社団法人日本べっ甲教会から寄贈を受けた貴重な作品のうち約300点を展示、ビデオの上映や税関に関する資料等も展示している。」







蛍茶屋行き電車



領事館の小径

旧長崎英国領事館(重要文化財)
「安政5年日英修好通商条約が締結された後、長崎は開港場として自由貿易が開始され、英国領事館が開かれて外交事務が始められた。現在の領事館は、在上海英国政府建築課ウィリアム・コーワンの設計によって、明治40年に建設された。第二次世界大戦中にこの領事館は閉鎖され、昭和30年に長崎市が買収、現在は児童科学館として活用している。」本館は工事中でした。



オランダ坂に行きます。







湊会所跡





オランダ坂の説明書
『開国後も長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられている。現在は主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院前の坂がオランダ坂と呼ばれている。』



東山手十三番館
「東山手オランダ坂の西側に占める敷地の南寄りに建つ。桁行14m梁間9.9m、寄棟造桟瓦葺の2階建で、南に寄棟造2階建の付属屋を突き出し、北に庇を設ける。外観は下見板張で、港側の西面にはベランダを設ける。港町長崎の主要な景観要素の一つである。」
喫茶室として休憩ができるようになっていました。暑いのでジュースと長崎カステラをいただきました。



























東山手洋風住宅群(長崎市指定有形文化財)
「この7棟の洋館群は、明治20年代後半に社宅または賃貸住宅としてまとめて建設されました。このように用途の住宅遺構が群として残存することは全国的に類がなくまた、東山手の景観上特異な存在であり貴重である。」

















孔子廟中国歴代博物館











日本キリスト教団長崎教会(登録重要建造物)

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長崎市内観光その2、グラバー園

2016-09-13 00:20:27 | 長崎
2016年9月6日、九州観光の2日目です。長崎市内で平和公園、中華街で昼食の後、築町駅から電車で移動です。
石橋駅からグラバー園に行きます。大浦天主堂下駅からも行けますが、登り坂となるので石橋駅から下っていきます。
旧居留地マップ

大浦川沿いのまち並み説明書

グラバースカイロードに行きます。こちらはエレベーターがありますので大変便利です。

もちろん無料です。地域にすまれている方が利用もしています。





景色です。











グラバー園マップ、第2ゲートから入場します。





旧三菱第2ドックハウス
「ドックハウスは修理のために船が造船所に入っている間、乗組員たちが宿泊した施設のことです。明治29年に造られた典型的な西洋風建築で、上下のベランダを8本の柱が支えています。ベランダからは長崎のすばらしい景色が眺められます。」

















































旧長崎高商表門衛所
「明治から昭和初期にかけて日本の経済分野の高等教育を担った官立高等商業学校(長崎高商)創立時の表門衛所を移築復元したものです。モダンな装飾の中に障子の間があり和洋折衷の造りになっています。」





旧ウォーカー住宅
「イギリス人実業家、ロバート・ネール・ウォーカーの次男が暮らしていたこの家は、明治中期、大浦天主堂のすぐ隣に建てられていました。屋根から突き出した日本風の庇など、細部に日本趣味が反映されています。」





旧長崎地方裁判所長官舎
「明治16年、長崎市の上町に建てられた長崎地方裁判所長の官舎。居留地の外側に建てられた洋風の官庁建築として長崎で唯一残る貴重な建物です。内部は日本人の設計によるもので、板張りの洋間と畳敷きの居間があります。」



水道創設当時の共用栓

旧自由亭
「江戸時代の終わりごろ、日本人シェフによる初めての西洋料理店として伊良林の神社前にオープン。創立者の草野丈吉は出島のオランダ人のもとで修業し、大いに料理の腕を上げたといわれています。」









三浦環の像

旧リンガー住宅(重要文化財)
「明治初期に建てられた三方をベランダで囲まれたバンガロー風の建物。ベランダの床石には、ウラジオストクから運んだ御影石、ベランダの屋根を支える角柱には天草の石を使用。木と石が調和した珍しい木骨石造です。」







旧オルト住宅(重要文化財)
「長崎の残る石造りの洋風建築の中で最も大きいものが旧オルト住宅です。大浦天主堂、旧グラバー住宅を手掛けた小山秀によって施行。港に向かって突き出た切妻屋根のポーチ、廣井ベランダを支える天草石の列柱が見事に華麗な建物です。」













旧スチイル記念学校
「明治20年、東山手の丘に建てられたミッション系の学校。居留地時代には作られた典型的な木造洋風建築です。3階は鐘楼になっており、平屋建ての建物の多いグラバー園の中でも一際高い建物です。」











旧グラバー住宅(世界遺産・重要文化財)
「幕末期、1863年に建てられた、現存する日本最古の木造洋風建築。正面玄関を設けないクローバー形の建築は、南国のバンガローをイメージさせます。2015年7月8日明治日本の産業革命遺産の1つとして世界遺産登録されました。」

























































トーマス・ブレーク・グラバーの像









園を出ます。

土産物店




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長崎市内観光その1、平和公園・中華街

2016-09-13 00:17:27 | 長崎
2016年9月6日長崎市内観光です。4日から9日、九州3泊と船泊2日の旅行です。5日は大分の日田、福岡のうきは、佐賀の鹿島、長崎の島原と観光し雲仙に宿泊しました。台風12号も過ぎ去って、好天です。むしろ暑いくらいですね。雲仙から少しはなれていますが馬込教会に最初に行き、今日1日市内観光をします。まずは、松山町駐車場に車を止めて電車で移動します。駐車場管理事務所で500円で何回も乗れる「電車1日乗車券」を購入しました。電車は1回乗車は120円なので5回以上の乗車すれば得ですね。長崎のパンフレットはインターネットで事前に観光協会に申し込み郵送していただきました。
1日乗車券

松山町駅

平和公園案内図



平和公園、エスカレーターが設置されています。

















長崎の鐘、原爆殉難の碑

平和記念像
「世界平和への願いを込めて長崎出身の彫刻家北村西望が製作、小高い丘に建つ平和記念像は、軽く瞼を閉じ原爆犠牲者の冥福を祈り、悲惨な戦争を二度と繰り返さないように天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和への想いを表わしています。」
核兵器はなくさないといけないですね。オバマ大統領が2009年のプラハでの演説で「核兵器のない世界」の実現を訴えましたが、核抑止力は国同士でのけん制はあるのかも判りませんが、国家ではないテロリストには効果はないのでしょうね。だから、オバマ大統領は2001年の9.11同時多発テロを機に、もしもテロリストに核兵器が渡れば都市が壊滅すると危惧したのではないでしょうか。核保有国は真剣に検討し、完全に核兵器を廃止してもらいたいですね。

折鶴の塔

浦上天主堂、時間の関係でお参りはしませんでした。
「東洋一の大聖堂はレンガ造りで大正14年正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘を備え完成。明治維新後、弾圧に耐え続けようやく信仰の自由を得た浦上のキリスト教信者たちが建てた天主堂です。ロマネスク様式の大聖堂で30年の年月をかけて築かれましたが、原爆で建物は破壊され、鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。現在の建物は昭和34年に再建され、昭和55年に往時の姿に復元、原爆の爆風に耐えた一方の鐘が今も時を告げています。」

長崎刑務所浦上刑務支所跡案内



平和の泉

松山町駅に戻ります。



松山駅です。正覚寺下行きの電車がきました。この駅では蛍茶屋行きと2系統があります。それぞれ8分毎に運行していますので、とっても便利ですね。

八千代町駅です。

バスも運行しています、そして1日乗車券があります。事前に調べましたが、電車のパンフレットは色分けしてどこからどこへと運行しているのが一目で判るのですが、バスは系統図がありませんでした。観光客には不案内の路線図です。ということで、バスは選択しからはずれました。

八千代町で「日本26聖人殉教の地」と本蓮寺に行こうと下車しましたが、昼前なので、中華街に移動することにし、正覚寺下行きで築町駅へ。

築町駅



長崎新地中華街です。
「日本三大中華街の一つ、あわせて約250mの十字路で、東西南北の入り口に中華門が立ち、通りには中華料理店等が軒を連ねています。東門に青龍、西門に白虎、南門に朱雀、北門に玄武と中国伝説上の動物があしらわれています。」
中学校の修学旅行生で一杯でした。























































くるりと一周してもとにもどり「西湖」で長崎ちゃんぽんを食べました。あっさりした味です。妻は揚げそばを食べました。同じ具材でとろみをつけたものを麺にかけていました。

お腹も満たしたので、築町駅から石橋駅に行きます。黄色の電車です。

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