旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

這田村法界寺山ノ上付城跡

2014-06-06 11:35:48 | 三木市
2014年6月4日、法界寺にお参りした際、お寺の裏にありますので行きました。這田村法界寺山ノ上付城跡は、国の史蹟になっています。A点が法界寺です。南側の緑の部分です。右手が三木上の丸、三木城天守があったところです。その右のほうが竹中半兵衛の墓とその近くの山が秀吉本陣跡があったところです。


説明書
「城主は、宮部継潤と伝わっています。城は主郭と副郭を中心として平坦地群や土塁あります。別所氏を支援する毛利軍が明石方面から三木城に兵糧を運び込むのを防ぐために土塁を築いたものが残っています。」
写真ではわかりづらいですね。





























































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法界寺と別所公墓所

2014-06-06 10:36:24 | 三木市
2014年6月4日、法界寺にお参りしました。
山号は虚空山で、阿弥陀如来を本尊とし、浄土宗西山禅林派です。聖武天皇天平4年(732)、行基菩薩の開基と伝えられています。
説明書より『当寺は、行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚し此の地に錫を止められた折、一翁が「此の地は和光同塵の地なり、よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せさらん」と弥陀の尊像を与う。行基菩薩随喜の涙を流して信心肝に銘じ、翁の告げに応じて伽藍を建立し、宝祥祝寿鎮護国家の道場となし、虚空山と号し、法界寺と名付けた。その後、延徳年間に至り別所氏中興の祖則冶は諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めた。さらに、天正8年(1580)正月17日、羽柴秀吉の三木城攻めにより城主別所長治自害された際、遺体を当寺に埋葬する。慶長元年(1596)、杉原伯耆守により諸堂を再建、天輪石塔及び霊廟を建設。次いで長治公百回忌に当たる延宝6年(1678)、禅空素伯和尚は三木郡12町里の民衆に募縁し、東播八郡総兵別所府君墓表の碑を建立する。』
三木市別所町東這田51
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説明書



参道

東播八郡総兵別所府君墓表の碑

別所長治公像

別所公墓所





別所氏家臣墓所

山門

本堂









賓頭盧尊者像

庫裏

鐘楼





境内

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小和田神社

2014-06-06 09:46:41 | 三木市
2014年6月4日、小和田神社にお参りしました。
三木市HPより『本殿は三間社流造りで正面に2つの千鳥破風、中央に軒唐破風をもつ江戸初期の建造。昭和40年、小和田神社裏から出土した「せん仏」は縦10cm、横7cm、厚さ2cmの板状、表面には「天蓋の下に三尊仏像」が美しく陽刻された白鳳期 (7世紀)のもの。「せん仏」のほかにも仏像を陽刻した瓦塔片2片が採取されており、白鳳期には三木の地に仏教信仰が入っていたのがわかる。』
三木市別所町和田459
国道175号線大村バイパス交差点から西へ約2㎞のところです。
map

山陽自動車道沿いの神社のふもとで自動車通行止めとなっています。空き地に自動車を止めて、山道を進みました。入ってすぐに二又があり、右は舗装で左は砂利道です。
岩だらけの道



神社が見えました。

燈籠、天保15年(1844)の銘があります。

手水舎

鉢に寶暦の銘のような?

拝殿

本殿







神楽殿

末社

天穂日命、活津彦根命、金毘羅社などを祀っています。
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金剛寺

2014-06-06 08:31:00 | 三木市
2014年6月4日、金剛寺にお参りしました。
白雉2年(651)法道仙人開基と伝えられています。天長4年(825)、空海が諸国修業の折に立ち寄り、カヤの木で薬師如来を刻み一堂を建立したとも伝えられています。天正の兵乱で堂塔を失いましたが、大村由巳の尽力で寛文5年(1665)に現本堂が建立されました。
三木市大村1041
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以前は仁王門があったのでしょうか?ここから本堂まで約500mです。



中の坊と境内







霊明殿と境内







墓地内の像など





参道

仁王像



蓮池

薬師堂

境内にて









燈籠

手水舎、鉢が亀ですね。

鐘楼、斗組がすごいですね。











本堂













鬼追殿











鎮守社



五重塔







説明書
『その昔真言宗伝持の第五祖であるインド僧善無畏(ぜんむい)が北インドの乾陀国の金属王塔の前で、塔上で輝く瑞雲の中に現れた金文字を写し取ったものが、「大日経」と言われています。この逸話を平安時代の絵師藤原宗弘が「大日経感得図」にあらわしましたが、この図を参考にしてこのたび金属五重塔を発し、篤信者山本勝次氏の全面的協力を得て、鋳工平安美術の指導監督のもと3年の歳月をかけて、金色と丹塗りに輝く五重寶塔が如意山金剛寺の谷間に湧出するが如く出現しました。大日経は真言宗最高の経典であり、宇宙の中心である大日如来の悟りの智恵、絶対智をどのようにすれば得られるのか、つまり仏になるためにはどのような実践修業をすればいいのか、その方法をといた経典です。その教えに従って堂内には大日如来を中心にその働きを示す四如来が四方にまつられています。・・・・』
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谷大膳の墓

2014-06-05 13:39:24 | 三木市
2014年6月4日、谷大膳の墓をお参りしました。
三木市大村
平田小学校の北側にあります。B点です。
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説明書より「谷大膳は豪将でならした人で、天正四年(1576)の石山の戦いで大手柄を立てたため、秀吉方の武将として三木城攻めでは重要な平田の陣営をまかされていた。天正七年(1579)九月九日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲を受け、なぎなたをふるって奮闘したが、力及ばず戦死を遂げたのである。」



谷大膳公の碑
そのまま引用します。
「谷大膳亮衛好公、幼名小太郎享禄2年(1529)宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之の次男として美濃國莚田郡伊地良村に生る。幼にして近江國甲賀郡長野住豪族伯父谷衛之養はれ谷姓を冐す。養父衛之浅井亮政に属し佐和山の合戦に死す。公長野の地を継承せしも、後伊地良村に住し斉藤道三、織田信長に仕ふ。天正六年九月豊臣秀吉公に従ひ三木城攻略に参じ平田大村の砦を守る。攻防一年有余別所氏密使を毛利氏に送りひそかに糧食の補給を計る。天正七年九月九日夜半、別所毛利の精鋭月明を利して大膳公の砦を急襲、補給の道を開かんとして激戦数刻に及ぶ。大膳公身長八尺無双の大力なり、部下を督励し自ら大長刀をふるって奮戦せしも衆寡敵せず身に五十余創をうけ壮烈なる戦死を遂ぐ。時に享年五十。九月十日黎明なりき。
秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。法号、亮衛院殿月賛玄光大居士、共に戦死せし兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬る。一族の位牌すべて大村金剛寺にあり、公の嫡男衛友この戦に仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨を晴らせり。秀吉公、父子の功を嘉彰し丹波山家に六千石を給ふ。徳川氏の治下に入るや加封され一万六千石の大名となり明治に至るまで歴世城主たり。明治以後華族令により子爵に列せらる。現存する墓碑墓域は、公二百回忌を期して九代孫衛秀の部下福田正親に命じて造営せしむる所、以てその忠節を偲び遺徳を後毘に顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年公等一族の事蹟を更に闡明にすべく改めて金石に刻して墓域を飾る。英魂子孫の彌栄をみそなはしめ給へ。」

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戎神社

2014-06-04 20:24:10 | 三木市
2014年6月3日、戎神社にお参りしました。
説明書より『「大塚のえべっさん」として知られるこの神社は、もと西宮戎神社から勧請して創建されたと伝えられており、延享4年(1747)の「三木町寺社帳」に西宮の分社としての記録がみられます。祭神として七神が祀られています。今宮のえべっさん「事代主命」と、西宮のえべっさん「蛭子命」の両方が祀られているのが特徴です。当初は極楽寺境内に位置していたのが、1878年3月18日に現在の場所に移築された』
三木市大塚2丁目43
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説明書

鳥居

参道

手水舎

拝殿

狛犬





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本長寺と三木町義民の墓

2014-06-04 17:10:15 | 三木市
2014年6月3日
湯の山街道を歩く途中にあります。
説明書より「三木城主であった別所長治の家臣加古与七郎秀久は、三木が戦に敗れた後、自分の幕下(=家来)になるよう豊臣秀吉に勧められました。秀久は「武士は二君に仕えず」と丁重に断り、別所氏の家臣として忠誠を守ったと伝えられています。
 秀久の武士としての気構えに感動した秀吉は、秀久に母衣(よろいの下に着る矢よけの着物)を授け、杯を取らせました。その時、西から風が一段と強く吹き、そばの竹林から笹の葉が舞い散り、その一葉が秀久の杯に落ちました。秀久はこれを見た秀吉から、「九枚笹」の家紋と大西の名字を賜りました。その後秀久は屋号を小浜屋と称し、名前を大西与右衛門と改め、平山町で造り酒屋をひらき、町人として暮らしました。晩年に与右衛門は仏門に入り、僧名を承慶と名乗って主君別所氏の冥福を祈るために文禄元年(1592年)本長寺を建立し、以来大西一族の菩提寺となりました。」
三木市府内町6-43
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説明書

山門

義民 大西与三右衛門の墓
説明書より「三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、免租地でしたが、延宝5年(1677年)幕府は「延宝検地」という令を出し、年貢を取る通知を交付しました。町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として名乗り出たのが、平田村の大庄屋:岡村源兵衛成次と、平山町の年寄:貝屋大西与三右衛門の二人で、死罪を覚悟で幕府にお願いをして取り消してもらいました。その後二人は義民と呼ばれるようになりました。義民の一人、大西与三右衛門の墓所は本長寺(三木市府内町6-43) にあり、毎年12月8日には義民冬祭りが本長寺で行われています。」

義民の顕彰碑

本堂







境内にて





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湯の山街道

2014-06-04 16:18:07 | 三木市
2014年6月3日、三木城二の丸公園の北側の階段を降りて上の丸交差点から戎神社までの湯の山街道を歩きました。
有馬の湯が栄えだしたころ、これに通じる道として整備され、特に羽柴秀吉が三木城攻めの頃(1578~1580年)から、その名は顕著になりました。有馬の湯を知った秀吉は、三木合戦の最中、兵卒のけが人に対して、この有馬の湯を汲んできて、安福田の野風呂で療養させたとも伝えられています。また、参謀の竹中半兵衛が病気療養のため、この湯の山街道を通ったとのことです。秀吉は三木合戦の折に兵糧などのために三木から湯の山までの道を整備し、さらに姫路に至る道も整備しました。
AからDに歩きました。

湯の山街道の説明書





上の丸交差点

屋根裏の暑くなった空気を抜きのために、軒下に換気口があります。



舟板塀



芝町太鼓屋台と屋台蔵の説明書
毎年10月第2土曜日、日曜日に行われる岩壺神社の秋の例大祭では町民が一体となって町内を練り歩きます。この芝町の太鼓屋台は、四神を配した提灯や優れた彫りの雲板がみごとです。

志るしの杉玉
奈良県の三輪神社(酒造りの神様)の御神体である三輪山の杉を使って酒造りの御守りとしてつくられています。香り高い新酒ができた時に蔵元の玄関に飾られます。

軒下に吊っています。















景観形成重要建造物

























本町滑原遺跡の説明書

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三木城跡

2014-06-04 14:55:39 | 三木市
2014年6月3日、上の丸稲荷神社にお参りの後、上の丸公園に行きました。
三木城復元図

羽柴秀吉対別所長治の説明書

公園の中の様子です。
別所長冶公石像
戦国時代も三木城を居城として東播磨地方を領有した戦国大名別所氏の五代目当主、四代目安冶の嫡男で小三郎長治という。安冶が39歳の若さで病死したため、13歳で当主となりました。当時、天下統一をめざしていた織田信長と同盟関係にあったが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に味方したため、信長は家臣の羽柴秀吉に命じて三木城を攻めた。秀吉は、ほぼ2年間にわたり三木城を包囲し、兵糧攻めにしたことから、三木合戦といわれるこの戦いは、"三木の干殺し"とも呼ばれています。長治は、飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを秀吉に申し入れ、天正8年(1580)1月17日、一族とともに自害した。享年23歳といわれています。



三木城址説明書



本丸井戸(かんかん井戸)



公園内で













歌碑
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」

三木合戦図

天守跡

城郭を下から見たものです。

公園からの景色
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上の丸稲荷神社

2014-06-04 14:44:56 | 三木市
2014年6月3日、お参りしました。
由緒は、三木城主別所長治氏がが京都の伏見より勧請して城内に創建したと伝えられています。天正8年(1580)別所氏が滅亡の時烏有に帰したが、後に豊臣秀吉によって再建された。
本殿の横や裏には数多くの祠があります。
三木市上ノ丸町798
三木金物資料館の西隣です。

鳥居

拝殿





本殿

祠と塚が数十あります。






























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