僕は小学生の頃からゲーム少年で、ファミコンとMSXに捧げた学生時代だったので、野球もサッカーもメンコもゲーゴマも全然やってこなかったんだけれども、何故か、大人になってから、定期的にけん玉ブームが何度も訪れている。
最初にハマったのは、野狐禅時代。オーガスタの先輩だった山崎まさよしさんが、ショートフィルム「けん玉」の撮影の頃に練習していたのが、ピストルもハマってしまって、その影響で始めてみたら意外に面白くて、よくツアー中、二人で遊んでいた。
昔から運動神経にはまったく自信がなく、皿に載せるのも一苦労だったけど、もしかめのラリーもずいぶんやったし、世界一周とか、とめけんとか、いくつかの技の習得にもずいぶんの時間を費やしたと思う。その横でさすがピストルは、灯台とか、飛行機とか、アクロバティックな技にも挑戦していて、たまに成功するとずいぶん盛り上がった。
その頃に買った日本けん玉協会認定の赤いけん玉は、一時期はツアーに欠かせないアイテムだったけど、いつしかブームは去り、部屋のインテリアとしての役目を担い始めた。
次にハマったのは、長男が小学校に入ったとき。
学童で昔の遊びが流行っていて、ある日、パパの部屋にけん玉があることに気づいた長男の前で、いくつかの技を披露した。あの頃出来ていた記憶のあるいくつかの技は成功しなかったけれど、小学生の眼にも運動音痴に映っていたであろう父親の意外な特技に驚いたのか、そこからしばらく、夜な夜な、もしかめの合唱の日々が続いた。幼い次男も兄とおなじようにやりたくて、でも認定けん玉の糸は長すぎて、子供用のけん玉も買い与えたのだけれど、いつしかそのけん玉はどこかへ無くしてしまった。
その後も、たまに思い出しては、プチブームみたいなものがちょっとあったりした。
そのたびに、簡単に皿に載っていたはずの玉が思うように載せられず、いろんな感覚を思い出すのに時間がかかったけれども、忘れるのはあっという間だった。
今もまた、ちょっとしたブームがきている。
こんなの簡単だよ、なんて言いながら、三男の前でやってみせるのだけれども、あの頃、2番も3番も歌えたもしかめは、もう1番のBメロまで歌うのも一苦労。どこがBメロでどこがサビなんだって話もあるけれど、とにかく1番を歌いきることは滅多になくなってしまった。
こうだったよなー、って、確かにあったあの頃の感覚を手繰る、ともすれば、そういう「思い出す感覚」すらも丁寧に思い出さなきゃならないような、そんな思いでけん玉を弾きながら、本当に、芸事を身に着けることの難しさ、芸事を極めていくことの奥深さをひしひしと感じます。
けん玉ひとつとっても、玉ひとつ、糸一本、これを操ることが本当に難しい。
楽器も、言葉も、歌も、本当に地道な積み重ね、毎日怠けることなくやること、その尊さを、年を重ねるほどに思います。
華やかな世界は、何かのきっかけで急に世界が変わることもあるのかもしれないけれど、そういうことじゃないんだよな、毎日皿に玉を載せ続けることで拓いてゆく未来を、僕は目指しているんだったよな、これを忘れちゃいけないんだ。