のぞき穴のむこう

後援:博愛主義ネクロフィリア協会(嘘)

主観的個人批判批判

2006-07-03 10:33:11 | Weblog
てんで的外れな思い込みにすぎない可能性を考慮せずに、
始めの印象だけ握り締めて無邪気に激昂したりするのは、
いったいどういう自信のなせるワザなのか。

つまり、

よく考えもせずに人の悪口わめいてまわるなんて、何様のおつもり?


という不満をつらつら書き綴った文章がここにありますが、
酔っ払いが三人に分裂して嘆いたり罵ったりハナで笑ったりし合っておるので、
ナニガナニヤラ?


でもまあ、そんな自信家がやたら多いのも事実で。
本人の反論を許さない個人‘批判’は、単純に陰口です。
ぼくには負け犬の遠吠えにしかみえないので、するのも見るのも嫌いですが、
吹聴してまわってる本人たちの言い分によりますと、

面と向かった議論になると、その技量とか力関係によって「事実が歪められる」

ということのようです。
でも、
ヒトは、(善人・悪人にかかわらず)自分の利害関係に沿って情報を取捨選択するようにできているのではないでしょうか。
つまり、
あなたの望むシナリオに当てはめて都合よくそろえた、あげ足とりみたいなあなた個人の 印象 が、
なぜ即「事実」であると信じ込めるのか、まったく解らない。

多少なりとも己の言説に説得力を持たせたいのなら、
主張は疑問形であるべきだ。   イヤ、 あるべきではないでしょうか?
タカダカ一個人にすぎない自分が、時々思い出して腹を立ててる程度で、客観的で公平な視点まで至れるという感覚自体がオコガマシイ。それを断定的に怒鳴り散らす神経がユルシガタイ。

実はそんなに自信あるわけでもないんでしょうが。だから、強く言えばなんとなく同調してくれそうな人たちの前(のみ)で、おんなじことを繰り返し繰り返し繰り返してみせては、繰り返し繰り返し同意を求める。

「だってそうでしょ?」「だとおもわない?」

あんまり色よい反応が引き出せなかったときは、反論される前に自己完結させようと慌てる。

「とにかくオレはそう思うね。」「わたしの考えはこうだから。」

ぼくにはどっちも、論拠のうすさを勢い(と、自分と相手の、この問題に関しては直接係わりない総合的利害関係)でごまかそうと必死になってるようにしか見えズ、恥ずかしいのでちょっと使えないセリフです。

まあ、多少ムリのある主張に同調してもらえれば、それだけ信頼感じられてより安心できたりするんでしょうが、
そりゃ、勝手な悪評カゲで流してる後ろめたさを共有する、共犯意識(互いに弱み握ってるから裏切れないはず、という打算)であって、それを強制し合うことを‘友情’とか呼べるのかハナハダ疑問ではありますな。

結局みんな、そんなもんだよ。

そう言われれば、グゥの音も出ないんですがねぇ。

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