とてもねむい。
きのう、ちゃんと寝たせいだと思う。
ひさしぶりにパソコンの前に座ったら、
編集画面が変わっていて、さらに書きづらい。
入力の反応速度が遅くて、なにかもこもこした感じ。
ただ思ったことを書けよ。なにも考えずに。
されば文字ついで行は増え、なにがしかの模様が織られる。
凝視するのは、それからでいい。
ただ惰性と義務感で生きている。
あした世界が滅ぶとしても、なんの感慨も持たないだろう。
でも接する人には、そうとは知れないようだ。
「平和でいいですねー」などと言われたりする。
影でなされる酷評を、うやむやにして薄めて見せるのは得意で。
アタマガイイくせに子どもっぽくて、多少間がぬけてるけど、どんな人のことも悪く言わない
イイヒトだと
思われているきらい
じつは、褒めちぎられている人を、こき下ろすのも得意で。
ようはちゃんと見れば、どんなことだって断言できないだろうに、ということ。
バカモノどものザレゴトが世界を動かす
虚偽こそが、はったりが、原動力なのだ。
つまり、はんぶん目を閉じ、はんぶん耳をふさいで、走るのだ。
あーあー、聞こえない、なんにもきこえないよー と叫びながら。
ぼくは道具。役に立てば重宝するし、
どっかひっかいたりすれば、危ないと投げ捨てる
違う見方を提示することは、
新たな可能性を予感させる一方で、
その人の隠れた信念を、思い込みとして暴露する。
ぼくに対峙したあなたが、どこまで‘良心的’態度でいられるか、
さて、見ものだ。
なんの展望もない。なんのために生きているのかがわからない。
思えばそんなことばかり書いている。
いつか、ああ、そんな‘時期’だったんだな、と
振り返る日を夢見つつ、それなりに忠実につづっているのだけど、
ため込んだ空き缶のコインみたいなもので、
どうしようもない。
ざらざら鳴らして、手に感じる重みに、
誰に見せるわけでもない、複雑な表情、してみたり
ヒトはわれをして努力不足だとソシルだろうか?
確かに、ぼくはなににも注力していない。
多数の中にあるものとして、良心的であろうとはしてきたが、
それはなんの徳でもない。
正直者が馬鹿をみる、などという慣用句があるが、
正直者が馬鹿をみるのは当然であって、
つまり、
無防備なものが食い物にされるのは当たり前であって、
食うところがなくなれば打ち捨てられる。
もう見向きもされない。
無視しているのではなく、見えないのだ。
我々の感覚は、モノそのものではなく、それに付随する価値を
価値 のみ を、認識する。
これは性悪説? ハ、ばかみたい。
立場によってどうとでもなる指標で一体なにを規定しようというのか。
善悪なんてものは、道具を使いやすくするレッテルだ。
よくまあそんな間抜けな曲で踊れるものだ。
「わたしは性善説を信じたいな。」
ああそうですかどうぞどうぞ。都合のいい善人づらでかつて‘善人’だった人たちを踏みつけて回ればよい。どうせ彼らだって同程度なのだから。さぞかし迫真の泥仕合が見れるでしょうよ。
しかし、その泥仕合こそ、このせかいの すべて なのだ。
ぼくも、なんとかして、参加せねばならない。
誤解して、そのまま信じ込めばいい。方法はわかっている。やってみさえすればいいのだ。
考えれば、動けなくなる。
そう思って、もっとも手っ取り早い方法として二三下世話な・かつ至極ひかえめなアプローチもどきなど試みてみたところどれもあからさまに引かれて営業活動に支障をきたしたのでやめた。
すでにというか元からというか、信頼しようが好意をもとうが結局そういう対象にはならない物体らしい。ぼくは。
だったらさっさと抹殺すればいいのに。ぼくは交通信号機や自動販売機の類ではない。そんなに辛抱強くない。
例のヒトヅマをなんとなく励ましてみたところ、内緒話を交換するメルトモみたいなものになりかけたが、ここ4、5日極端に簡潔な業務連絡しかこない。
あいかわらずつっつきまわしてはふざけてくれるので、そう明確な心境の変化があったとは思わないが、おそらくもっと望ましい他の対象ができたのだろう。メールのやりとりは、比較的短期間で文章の交換を繰り返すのだから、それなりの労力が要る。繕っても変化は明白。そう、ぼくはこれを、よく、知っている。
世の中にどんなことがあるのか、ぼくだってまあ予想はつく。
ある意味、反吐まみれな醜悪さだが、その感覚は当事者ではないからだ。
そしてぼくは、いつだって当事者ではない。
とりあえず、期待をひとつ、廃棄する。
業務連絡は、簡潔に。
きのう、ちゃんと寝たせいだと思う。
ひさしぶりにパソコンの前に座ったら、
編集画面が変わっていて、さらに書きづらい。
入力の反応速度が遅くて、なにかもこもこした感じ。
ただ思ったことを書けよ。なにも考えずに。
されば文字ついで行は増え、なにがしかの模様が織られる。
凝視するのは、それからでいい。
ただ惰性と義務感で生きている。
あした世界が滅ぶとしても、なんの感慨も持たないだろう。
でも接する人には、そうとは知れないようだ。
「平和でいいですねー」などと言われたりする。
影でなされる酷評を、うやむやにして薄めて見せるのは得意で。
アタマガイイくせに子どもっぽくて、多少間がぬけてるけど、どんな人のことも悪く言わない
イイヒトだと
思われているきらい
じつは、褒めちぎられている人を、こき下ろすのも得意で。
ようはちゃんと見れば、どんなことだって断言できないだろうに、ということ。
バカモノどものザレゴトが世界を動かす
虚偽こそが、はったりが、原動力なのだ。
つまり、はんぶん目を閉じ、はんぶん耳をふさいで、走るのだ。
あーあー、聞こえない、なんにもきこえないよー と叫びながら。
ぼくは道具。役に立てば重宝するし、
どっかひっかいたりすれば、危ないと投げ捨てる
違う見方を提示することは、
新たな可能性を予感させる一方で、
その人の隠れた信念を、思い込みとして暴露する。
ぼくに対峙したあなたが、どこまで‘良心的’態度でいられるか、
さて、見ものだ。
なんの展望もない。なんのために生きているのかがわからない。
思えばそんなことばかり書いている。
いつか、ああ、そんな‘時期’だったんだな、と
振り返る日を夢見つつ、それなりに忠実につづっているのだけど、
ため込んだ空き缶のコインみたいなもので、
どうしようもない。
ざらざら鳴らして、手に感じる重みに、
誰に見せるわけでもない、複雑な表情、してみたり
ヒトはわれをして努力不足だとソシルだろうか?
確かに、ぼくはなににも注力していない。
多数の中にあるものとして、良心的であろうとはしてきたが、
それはなんの徳でもない。
正直者が馬鹿をみる、などという慣用句があるが、
正直者が馬鹿をみるのは当然であって、
つまり、
無防備なものが食い物にされるのは当たり前であって、
食うところがなくなれば打ち捨てられる。
もう見向きもされない。
無視しているのではなく、見えないのだ。
我々の感覚は、モノそのものではなく、それに付随する価値を
価値 のみ を、認識する。
これは性悪説? ハ、ばかみたい。
立場によってどうとでもなる指標で一体なにを規定しようというのか。
善悪なんてものは、道具を使いやすくするレッテルだ。
よくまあそんな間抜けな曲で踊れるものだ。
「わたしは性善説を信じたいな。」
ああそうですかどうぞどうぞ。都合のいい善人づらでかつて‘善人’だった人たちを踏みつけて回ればよい。どうせ彼らだって同程度なのだから。さぞかし迫真の泥仕合が見れるでしょうよ。
しかし、その泥仕合こそ、このせかいの すべて なのだ。
ぼくも、なんとかして、参加せねばならない。
誤解して、そのまま信じ込めばいい。方法はわかっている。やってみさえすればいいのだ。
考えれば、動けなくなる。
そう思って、もっとも手っ取り早い方法として二三下世話な・かつ至極ひかえめなアプローチもどきなど試みてみたところどれもあからさまに引かれて営業活動に支障をきたしたのでやめた。
すでにというか元からというか、信頼しようが好意をもとうが結局そういう対象にはならない物体らしい。ぼくは。
だったらさっさと抹殺すればいいのに。ぼくは交通信号機や自動販売機の類ではない。そんなに辛抱強くない。
例のヒトヅマをなんとなく励ましてみたところ、内緒話を交換するメルトモみたいなものになりかけたが、ここ4、5日極端に簡潔な業務連絡しかこない。
あいかわらずつっつきまわしてはふざけてくれるので、そう明確な心境の変化があったとは思わないが、おそらくもっと望ましい他の対象ができたのだろう。メールのやりとりは、比較的短期間で文章の交換を繰り返すのだから、それなりの労力が要る。繕っても変化は明白。そう、ぼくはこれを、よく、知っている。
世の中にどんなことがあるのか、ぼくだってまあ予想はつく。
ある意味、反吐まみれな醜悪さだが、その感覚は当事者ではないからだ。
そしてぼくは、いつだって当事者ではない。
とりあえず、期待をひとつ、廃棄する。
業務連絡は、簡潔に。