こんばんは。ありがとう。
あなたのやっと‘見つかった’夢、かなうといいですね。
歌は高らかに響くほど、道のりを忘れて歩めるものです。
夢は、見ている内が夢、というのもほんとうですが、
なに、そのときはまた別の歌、歌えばいいんです。
あなたくらい自分に歌える人ならば、きっと、だいじょうぶ。
危険なのは、口ごもることです。
疑問に思ってよく見たり、余計なものに手をのばして、立ち止まることです。
とにかく、進めるうちは進む!
まっすぐ前を見て、振り返らずに進む。
半ばやけくそな叫び声でも、
メロディが追える内は、みな拍手をくれるものです。
いやむしろ、下手なほど、喝采は大きくなります。
さあ進め、ワコウドよ。
いざ行かん、約束の地へ。
もちろんぼくだって、応援してますよ。
響く伴奏に合わせて、拍子とりながら。
ちったか・たからか・ちったかたー。
ところで、学校は、生徒の学ぶ権利を保障するところではありません。
厳然として今あり、これからも続いていく社会という(良いか悪いかは別にして)多数の合意により運営されている、多少効率的であろうシステムに、迎え入れるための訓練機関です。
ぼくは教員免状を持っています。そのための教育を受けました。
しかし、大学、現場、双方とも、
前者(生徒の学ぶ権利を保障する場という側面)は口にしても、
後者(社会の一員になるための訓練機関であるという側面)には触れません。
そこらへんは、終始うやむやです。
技術はいろいろ細かくしつこく教えますが、大元になるはずの理念ははっきりしません。
考えるに、ある時期この国に吹き荒れた‘戦前’丸ごとへのほとんど反射的な攻撃やら、‘あかるいみんしゅしゅぎ’への盲目的な信仰やらが、よくわからない(考えるのめんどくさい)大多数の追従者の支持を得て、うやむやにしても後ろめたくない環境を整備したのだと思います。
でも、教育のそもそもの機能において、今も昔も、事実として、「後者」が大きな部分を占めている以上、それを直視しないことには、何を言おうが空論です。
問題は、「教師が権力を振りかざす」ことにあるのではありません。
教師の権威が、何に由来するのか、どこにおよぶのか、はっきりしていないことにあるのです。
それゆえ、自分の存在をはきちがえた‘教師’が、エラそうにわめき散らす。そうでないのは自信をなくしてこそこそする。
不満をもった生徒が、投げやりな無策を、目的のない破戒を、正当な行為と勘違いする。
そこに身を置く双方の馬鹿どもが、その場のノリで、嬉々として騒ぎ立てる。
ああ、あほくさ。
そんな矛盾の中に身を置くあほくささが、教員を目指す気持ちを白けさせたのでした。
‘先生’になるには、生徒の可能性への期待と、それに参画できる光栄を喜ぶ心、のほかに、矛盾を気にせずエラぶれるバイタリティ(悪く言や厚顔無恥)が要るんだなあと、ひとりごちた、あの日。
(念のために言っときますが、あえて乗り込んでいってそこらへんを正して回らねばならぬお義理は、ぼくにはありませぬ。そこに投じなければならない我が遺伝子の継承者も存在せぬことですし。)
いまさらといえばいまさらなんですが、
すうがくとかかがくとかえいごとかがあんなに幅を利かすのは、どうかと思う。
あんなのはみんな自由選択科目にすりゃいい。じゃなきゃどこぞのなんとか教室へ行け。
中心に据えなきゃならんのは、公民だろう?政治とか、経済とか、法律とか。要するにそれらを含んだ‘常識’。
教師とは、人生の先輩として、アドバイスする役。プロになるなら、いろんな可能性を示すプロになれよ。エラぶるんじゃなくて、長く生きてる実績を見せろ。
道徳(別に「修身」でいいと思う)は、‘これが正しい’でなく、‘現状ではこれが正しいとされている’と教えるべきだ。宗教じゃあるまいし、誰が断言できるんだよ、そんなの。よくあるみたいに「みんなで考えましょう」ってのも、無責任な話。
‘考える方法’を教えるのは、どうだろう。
フランスなんかじゃかなり早いうちから哲学の授業があるけど、それが現状の批判、ついには否定という機能を持つ以上、学校にはなじまないかもしれない。それが公共の利を実現する機関ゆえ。
「個人の自由」なんて、存在しない。
より正確に言えば、「個人」なんていない。
それらはある概念に対して自分の立場を明確にするために、前提を示して初めて使える、いわば‘学術用語’だ。
そんな自覚もなしに、お気軽に口にする。声高に叫ぶ。
アルプスの山々に向かって、叫んでおくれ、ハイジよ。
ばっかじゃないのーのーのー