のぞき穴のむこう

後援:博愛主義ネクロフィリア協会(嘘)

信仰告白+

2010-01-10 14:34:11 | 解体

ちゃんと書く気にならないと、ひと文字も出てこない。
思えばこれも、かなりの決心を必要とする行為で、
だからいろんなことすべてわすれて、
混乱したまま、ただ指の運動として、刻むほかない。

いまなんで並べられるかというと、
ほんとは日曜でもやってる歯医者を探さないといけないからで。
わずらわしい不可欠から逃れる手段としてなら、わりとらくちんにできることなのだ。
ほら、試験期間中おどろくほど読書が進む、あの感じ。

文章をナリワイとする、なんて、なんておそろしいことを。
すげえなあ、あの人たち。それとも、逃げ続けてるのか。何かから。


この一週間ほどは、平均3時間も睡眠していなく、
しかもそれは何も解決を生まないことを知る徒労の結果であって、
いろんなところに、それなりの傷をつくったのではないかと見回してみるものの、
どれがそれやら、はたしてどこかにあるのかさえ、わからない。

いつか気づいた世界のしくみ、
‘見えたようにしか、知れない’
つまり、感じた情報を、‘いつのまにか当たり前になっていた方法’で組み合わせて、‘創り出した’ものである以上、
どれもぼくの創作にすぎない。世界も、出来事も、ぼくも、‘方法’の存在も。

というのが、たびたび顔を出してはこちらをうかがっている。

だからでしょう。いまさらながら、真剣になれない。人生に。
どんな不運が幸運が、はたまた辛苦が悦楽が、この身にあろうがなかろうが、
すべて自らの内に作った構築物なれば、文字通り、
夢でしかない。
夢は、淡々と見るものだ。

いやあね、正直なところ、はんぶんくらい、もうちょっと多く? 信じてるのよね。
ぼくの‘外’に世界は無く、ぼくの終わりは、世界の終わり。


うすくてあわい世の中を、ビビットに縁取ってくれるのは、リクツを越えた強い感情。
怒り、悲しみ、恋い焦がれる、なにか。たとえその中心が、空洞であっても。

それもまた‘方法’なんだと思い至るとき、静かに終焉はやってくる。

そこまで論理的な思考はできてないので、今がある。いいかげんさが過ぎるのか、足りないのか。
考えてみれば自殺とかもかなりの積極的行為で、むしろその雄々しさを評価すべきなのではと思う。
真の意味で病める現代日本。それを憂い、身を持って立ち向かう最終行為者、年3万人。これは、すごいことだ、と、こっそり思う。