のぞき穴のむこう

後援:博愛主義ネクロフィリア協会(嘘)

おなーべかぶぅってちょっときぃておっくれっ

2010-01-18 00:26:20 | 解体
 
やたらかなしい。
世界が終わる前って、こんなかんじ?


これは、これは、ホルモンの、脳の、器質的な、変化に過ぎないのか。
つまり、つまり、世界はちゃんとそこにあって、明日もあって、
ふつうに生きていく、そんなあたたかな空気の中、まぶしい陽射しの中へ、
歩き出していく、当たり前に、歌口ずさみながら、ふと見上げて、ほほえみなが












うーん


頭痛いのは、歯を抜いたせいかね?






うーむ、                  つらい。
ぼくの外に、あるのか?世界。
ふつうに笑ったり・泣いたりする、ふつうのせかい。
盲が耳をそばだてるように、ぼくも全知覚を振り向けるべきか。
どこにあるかわからない、闇を破る、蟻の一穴を探って。

時間が一瞬しか留まらなくなって、過去がますますあやしい。
あるのは今・ここだけだ。なにを手がかりにしたらいい?
すべてが馬鹿らしく、もしくは薄く見える。
動作がいちいち惰性に基づく。なにも目指していない。
ただうろうろしている。意味もなく廻っている。

靴が見つからないので、外に出られない。たしか、用事があったはずなんだけど。



しかたないので、二階に上がってみることにする。
狭い木の階段のぼって。一歩ごとに、きっ、きっ、と微かに軋む。
吹き寄せで三角になった踏み段左に回って、のぼりきれば短い廊下。
右手はベランダになっていて、窓がない。開け放たれたまま、

外の景色がない


ああ、だめだ

そういや一時期そんなぶきみな世界ばかり書き溜めてたっけ?
跳ぶ → 着地 → 探索 → 誰もいない → 妙な‘破れ目’を見つける → どんどん狂っていって破綻

うーむ、今思えば単にリアルな実感だったんだな、自らの。


ここのところ前にも増して表現が貧困な自覚がある。
ボキャブラリーの枯渇というより、実感の喪失。
より正確に言うならば、それを感じる必要性自体を、見失いつつある。
文章が書ける間は大丈夫だと思う。まだ、確か。
だからすがり付いているのか?


ずっと痛いびょうきにかかると、もしくは吐き気と戦う病気になると、
たいていのことがどうでもよくなるとおもう。
漢字変換でどの字が出るとか。
描いた線が太いか細いか。
考えられなくなってきている。
かんがえれ どう  い 


ヒトは子をつくるべきだと思う。しかるべき齢までに。
それで走りきれる。つまり、 買ってもらった靴。
とんとんと、かかとふまずに履いて、出かけよう。さあ。

信仰告白+

2010-01-10 14:34:11 | 解体

ちゃんと書く気にならないと、ひと文字も出てこない。
思えばこれも、かなりの決心を必要とする行為で、
だからいろんなことすべてわすれて、
混乱したまま、ただ指の運動として、刻むほかない。

いまなんで並べられるかというと、
ほんとは日曜でもやってる歯医者を探さないといけないからで。
わずらわしい不可欠から逃れる手段としてなら、わりとらくちんにできることなのだ。
ほら、試験期間中おどろくほど読書が進む、あの感じ。

文章をナリワイとする、なんて、なんておそろしいことを。
すげえなあ、あの人たち。それとも、逃げ続けてるのか。何かから。


この一週間ほどは、平均3時間も睡眠していなく、
しかもそれは何も解決を生まないことを知る徒労の結果であって、
いろんなところに、それなりの傷をつくったのではないかと見回してみるものの、
どれがそれやら、はたしてどこかにあるのかさえ、わからない。

いつか気づいた世界のしくみ、
‘見えたようにしか、知れない’
つまり、感じた情報を、‘いつのまにか当たり前になっていた方法’で組み合わせて、‘創り出した’ものである以上、
どれもぼくの創作にすぎない。世界も、出来事も、ぼくも、‘方法’の存在も。

というのが、たびたび顔を出してはこちらをうかがっている。

だからでしょう。いまさらながら、真剣になれない。人生に。
どんな不運が幸運が、はたまた辛苦が悦楽が、この身にあろうがなかろうが、
すべて自らの内に作った構築物なれば、文字通り、
夢でしかない。
夢は、淡々と見るものだ。

いやあね、正直なところ、はんぶんくらい、もうちょっと多く? 信じてるのよね。
ぼくの‘外’に世界は無く、ぼくの終わりは、世界の終わり。


うすくてあわい世の中を、ビビットに縁取ってくれるのは、リクツを越えた強い感情。
怒り、悲しみ、恋い焦がれる、なにか。たとえその中心が、空洞であっても。

それもまた‘方法’なんだと思い至るとき、静かに終焉はやってくる。

そこまで論理的な思考はできてないので、今がある。いいかげんさが過ぎるのか、足りないのか。
考えてみれば自殺とかもかなりの積極的行為で、むしろその雄々しさを評価すべきなのではと思う。
真の意味で病める現代日本。それを憂い、身を持って立ち向かう最終行為者、年3万人。これは、すごいことだ、と、こっそり思う。