のぞき穴のむこう

後援:博愛主義ネクロフィリア協会(嘘)

まだ終わらない時宜児戯

2009-10-07 22:45:11 | Weblog
 
えーと?

疑似体験?

当たり前からすこしだけ、もしくはすこしずつ外れていく状況を、
脳裏に作り上げながらたどることで、
荒唐無稽はもはや受け入れる隙のない、硬直した日常感覚に、
体感的な 情報として まぎれこませる?

うそだと知っている自分に、
そんなリアルな手触りを感じさせることで、
ダマサレルことを  了承させる 。

いや、それはぼくの文脈だ。

可能性を予感するのか。
より可能性のある形で。
つまり、日々狭まっていくそれに当てはめるには、
たえず複雑な組換えとサイズの縮小が要るわけで、
年とればそれだけ、手垢じみたリアルさが不可欠になる のだ な。

してみると、自ら認める己が延び代(可能性の量)に従って、
読める(リアルに感じて効果を得られる)ジャンルが変わっていくのかも。
たとえば、
ギャグマンガ > SF・ファンタジー > 歴史もの とか。
ラノベ > 純文学 > ハウツーもの とか。

だから?


時宜ワキマエタ擬似的児戯

2009-10-07 00:03:04 | Weblog

ひどいねえ、なんだか。
もっと踊るように、せめて歩くように、書けないものか ?
やっぱりそれには、おもしろがらねばならない。
わりと好きなのだ。文字を並べることは。うん。


晩ごはんを食べてしまうと、おなかいっぱいで眠くなってしまうので、やめにする。
そしてここに座って、キーをぽちぽち押してみる、わけだ。
いろんなものから目を背けてる。そんな気がする。
でもいいのではなかろうか。わすれることが、次の一歩の余地を生む。


やはり遊ぶ場が必要。
人とのつながりにも作るものにもいえることだが、
ぼくの 今・ここ には広がりがない。空間的にも、時間敵にも。
交差する偶然が、鮮やかな奇跡が、
すぐ色あせて、過去に属するものになる。
累々と連なるそんな証拠の束が、無邪気な視線にすべからく夢のフィルターをかける。
どうせだめ、ではない。強いていうなら、 はじめから ない。
まどろみに織り込む記憶は、順序からはずれて散らばり、省みるすべ探る指から、こぼれ落ちる。
だから、といおうか、されど、というか、
遊ぶ場が必要。気づけば、そこにある、というような。 さて。



小説というものがあって、ぼくはあんまり読まないんだけど、
特におとなが手にとる話題のそれらは、
なんというか、ふつうのことが、ふつうに書いてある、だけ、のように見える。それもすかすかに。
なんのために書き、読むのか、実はよくわからない。
でも人気が出て皆が没頭したりするからには、それなりの効果が、少なくとも期待されているはずで。



(つづく?)