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はじめての哲学

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抜粋  蔵本由紀『新しい自然学』非線形科学の可能性 ちくま学芸文庫 二〇一六年

2018年05月24日 | 物理学






 文庫版への序


 この「無知への自覚」こそ、すべての考察における建設的な出発点になるべきではないか。原子力をまともにコントロールできず、自然の底知れぬ破壊力にほとんど無力な人間が、一方では最もデリケートな自然である生命の操作と改変に向けて驀進している。



まえがき


 「科学は、自然を従来のような描法でしか描くことはできないのか」


 私はかねがね、現代における科学的な知のあり方は相当に〈いびつ〉なのではないかと思っている。


 本書では、試みに垂直と水平両方向へ伸びる二本の概念を用意し、これらを座標軸とする二次元概念空間の中に物理的科学を置いてみた。


 垂直方向には、M・ポラニーの「周縁制御の原理」という、いわゆる「創発」概念に密接に関係した概念を採用した。水平軸としては、前記小論文(開放系の非線形現象)でもその意義を強調した「述語的統一」という概念を適用した。


 古代ギリシャの自然学から現代科学にいたるまで、自然の中に見出される「同一不変なもの」を通じて多様なもの変転するものを理解するという態度は一貫している。


 近代科学革命は、そのような同一不変構造を、観察言語と理論言語を用いて孤立分断的に、(すなわち、それをとりまく状況に言及することなく)切り出す方法を確立したのであった。

 同一不変構造には主語的なものと述語的なものとがある。上位レベルに行けば行くほど、述語的な同一不変性の重要性が増す、というのが本書を通しての私の主張である。


 現代の科学的自然観に偏りがあるとすれば、その一因として述語的統一の契機の弱さということがあるのではないか。書名の「新しい自然学」とは、このようないびつさを是正するような来るべき科学に仮に冠せられた名称である。


 科学的自然描写というものが基本的に孤立分断的記述でしかありえない、という立場は、本書における私の一貫した立場である。



 Ⅰ 科学描写の構造


 現代科学は少々バランスを欠いているのではないか、科学にはもう少し違ったあり方が可能なのではないか、と言いたいだけなのである。いびつに肥大化した知は無知につながる。


 それは、自然の基本法則の探求、すなわち自然の多様性の背後に潜む普遍的な数理構造の探求を最大の使命と心得る物理学が、地上に生起するさまざまな複雑現象にも並々ならぬ関心を示し始めたように見えることである。


 複雑な経験世界のまっただ中にも、目を凝らせば見えてくるような「基本法則」や「普遍の原理」がないといい切れようか。「基本」や「普遍」の意味をもう少しゆるやかに理解することで、物理学をもっと豊かでみずみずしいものにできるのではないか。


 もつとも、このような学問をしいて物理学と名付ける必要はないのかもしれない。自然学と呼ぶのがむしろふさわしいようにも思える。実際、このようなまだ形の定かでない、しかし大きな可能性を予感させる自然科学の領域を私は便宜的に「新しい自然学」とよぼうと思う。


 しかし、研究者としての実感から言うと、硬質の物理学というものをゆめゆめあなどるべきではない。


 だからといって森羅万象の探求ははたして量子力学の「応用問題」に過ぎないのだろうか。


 現代の「脳科学」の主流が「脳部品の科学」であるのと同様である。それらとは違って、「生命性の物理学」とでもよびたいようなもののことを私は言っている。


 ただ悪いことに、ミクロ法則だけでは解決できないことがあまりに多いということだけがはっきりわかってきたのである。


 私としては以前からしきりに気になっているにもかかわらず、科学哲学や科学論の方では一向に取り上げてくれる気配のない問題が一つある。それは、複雑多様な生ける現実世界の科学描写の可能性というものをどう考えたらよいのか、という問題である。


 複雑世界を前にして、多少の科学的精神の持ち主ならば、「科学的に世界を理解するとはいったいどういう認識の仕方をいうのだろうか」という基本的な問題に思いを馳せてしかるべきなのである。


 その中で私にとって大いに助けになったのは、M・ボラニーによるいわゆる「創発」概念、あるいはそれに密接に関係した「周縁制御の原理」という概念である。


 ただそのように見ること(同一不変の基底を持っている)で混沌の世界に秩序が導入され、それが理解可能なものになるのであろう。モノの同一不変性にもとづいたこのような世界把握の様式を以下では主語的統一とよぶことにしよう。


 ヘレン・ケラーのWATER経験→主語的な統合の重要性


 個物が互いにばらばらではなく、さまざまなつながりをもってこの世界を構成していることが知られるのはこのような見方、つまり述語的統一によっている。述語的統一においても、通常私たちは惰性的なものの見方しかしていない。しかし、思いがけない述語的統一が導入されると、それによって個物間の関係が一新され、そこに新鮮な世界像が現われる。


 西欧文明において主語的統一が優位であるのに対して、日本は伝統的に述語的統一が優位な文化を発達させてきた、という趣旨のことがしばしば言われる。(時枝文法)


 数理言語というものは、それを誰がどのような状況で受け取ろうとも同一の確定的な意味が伝えられる最も公共的な言葉である。


 科学用語として共有されるべき意味の芯を理解した上で、その周囲にさまざまな意味を感じとる自由が禁止されているわけでは決してない。極端な場合には、科学的言明が詩的言語にも似た強いイメージ喚起力さえもつことがある。


 明晰判明性に病的に固執すれば、科学的自然描写の可能性はひどく狭いものになる。多義的解釈の余地を一切排除することが科学的記述の一つの理想と考えられていることは確かだと思うが、現実の科学はその意味で理想に近い数理的物理科学から数式をほとんど用いない記述的科学まで広いスペクトルをもっている。


 生命の生命らしさ、その多様性・全体性を損なわずに科学的記述を試みようとすれば、たとえば中村桂子の「生命誌」のように、近代科学の概念から相当に離れた歴史的・物語的な様相をも呈することになる。


 すでに述べたように、述語的な世界というものにより関心を向ける態度から生まれる科学描写を私は念頭においているのであるが、


 科学にとって宿命的とも思われる「孤立分断的記述」ということについて少し考えてみたい。


 デカルト『方法序説』は分析の重要性を強調するが、総合の困難性にはわりに無頓着だったように見える。


 それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。


多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的諸性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。


 大森荘蔵は科学の自然描写に対して「抜き書き」という巧みな表現を用いている。私もこれにならい、以下では「抜粋描写」あるいはそれに類した言い方を併用したい。


 ニュートンの運動法則がもつ不変性の高さは驚異的である。この法則は、第一に微分方程式の形で表現され、第二に力という量を含んでいるが、これら二つの事実のおのおのに巨大な不変性を見ることができる。


 日常の経験世界では、場所と時間はその場所その時間に固有の意味をもっている。ミクロ世界の科学的記述ではこの事実はひとまず視野の外に置かれ、ひたすら不変性の高い法則が追及される。


 粒子運動に関するニュートンの力学法則が時間のみをパラメタとするいわゆる常微分方程式であるのに対して、マクスウェル方程式は時間と共に空間をもパラメタとするいわゆる偏微分方程式である。


 基本的実体とそれに対する「いつでも」「どこでも」成り立つ局所法則、それに含まれる途方もなく巨大なブランク、これがミクロ法則の基本的性格である。この巨大なブランクをデータで埋めてはじめて現実世界を具体的に語ることができる。


 ボラニーの創発概念
  この概念を、「ブランク」へのデータ入力による基本法則の具体化という意味で使用したい。


 このように、現実界は一般に階層構造をなしていて、上位レベルに行くごとに下位レベルの法則によっては表現できない組織原理が現われる。これを創発という。もう一つの例は発話である。


 このように見てくると、ここにいう創発は先に述べた「基本法則の逐次的実現」とほとんど重なるのである。


 自然法則の逐次的現実化


 「周縁制御の基礎科学」とでもよぶべき科学の領域がきわめて大きな重要性をもってクローズアップされてくることが分かる。


 非線形科学は、物質の高次の組織化原理に関して、非平衡統計力学という強固な物理学的基礎をもっている。さらに、カオスの発見がもたらしたインパクト、分岐理論を始めとする充実した数理的基礎、シミュレーション手段のとしてのコンピューターの驚異的な進歩等々がある。


 構造の自発的形成過程とよばれるような現象


 非線形科学は物質科学にとっては周縁的な条件の制御に関する科学であるから、これまでの物理学とは関心の置き所が異なるのは当然である。それだけではなくて、自然における同一不変構造の切り出し方において従来の物理学とはかなり趣を異にするのである。


 境界条件を具体化することで一般に現象は飛躍的に多様化する。


 物理学には「これ以上の多様性には関わりあいたくない」という秘められた姿勢があるのではないだろうか。


 分類というものは領域の区分けであり、仕切りを入れることによって混沌とした対象に秩序性を導入しようとするのである。


 もみじの葉によって赤子の手を表わすのは隠喩であり、ポストによって手紙を表わすのは換喩である。隠喩では、関連付けられる二者は普通の意味において近いものではなく、したがつて関連性は伏在しているが、換喩においては二者の近接性はあらわである。


 隠喩・換喩にしても主語的・述語的統一にしても、人間の精神活動全般に関わる二つの基本軸の現れと考えられるが、科学的描写という限定された営みに対しても、これらを参加軸として眺めれば良い見通しが得られるように思う。


 そして、物質の周縁制御に関わる複雑世界の科学描写においては、隠喩的ないし述語統一的性格がいっそう濃厚になると思われるのである。


 一般には、さまざまな度合いの確実性をもつさまざまな力学モデルが存在する。信頼するに足る力学モデルを構築すること自身がしばしば重要な目的となる。


 時間経過を連続的に追跡するのではなくて、ストロボスコビックに追跡することがより有効な記述になるケースもしばしばあり、その場合は微分方程式モデルの代わりに差分方程式モデルが用いられる。


 このような力学系(発展方程式)は一般に「非線形」の「散逸」力学系である。非線形とは、フィードバック制御機構を内在させたシステムということができる。もちろんここでは自然的な制御を問題にしているわけである。


 このような、自然自身がもつ自己調節機能が数学的には発展方程式の非線形項として表現されているのである。


 非線形系は、一般に正と負のフィードバックをあわせもっており、それらの発現のタイミングによってはきわめて複雑な現象が生じる。


 それは何らかの方法で再組織化されなければならないのであるが、分類学的な組織化ではない隠喩的・述語統一的な記述による組織化が有力な可能性として浮かび上がってきた。


 不安定化を通じて新しい時空構造がまさに出現しようとする状況においては、数学的な普遍構造が顕在化するというこの事実は、かつて数学者ルネ・トムによって主張されたように自然観にとって重要な意味をもつ。


 錯雑した現象世界を眺める人間にとって、特に注意を惹かれる現象とは不安定現象ではなかろうか。それはカタストロフィーと呼んでもよい。


 ものの様相が、ある時点を境にシャープに変貌するときこそ決定的な瞬間であり、そのような臨界状況に注目することで、混沌の世界にくっきりとした分節構造が導入されるのではないだろか。


 ところが、「似通ったもの」という人間の直感の一つをすなおに数学的に表現したものとして、「トポロジカル(位相幾何学的)な同一性」というものがある。


 二十世紀初頭に数学者・物理学者ポアンカレによって創始された現代数学の一分野であるトポロジーは、さまざまな違ったものをごく自然な見方によって「同じもの」としてまとめてみるための数学だともいえる。


 これ(フラクタル)は、自己相似性によって数学的に特徴づけられる図形を意味する概念である。


 惰性化された世界像に揺さぶりをかけ、精神の新しい地平を切り開く機能はもっぱら芸術によって担われると考えられているが、まったく別の角度からとはいえ、現代科学もまた類似の機能をもちうるのである。それは現代科学の一部に顕著に見られる述語統一的性格に負うところが大きい。


 軌道不安定性(カオス)とは、状態の微小なズレが時間の経過とともに幾何数列的に増大するという性質である。


 実際、科学はもっぱら人間にとって制御のしやすい側面にこれまでひたすらエネルギーを投入し、人々はそこから多大な利便性を引き出すことに成功したのであるが、制御や予測を頑強に拒む自然の別の顔に十分注意を払ってこなかったのではないかと思われる。


*原子力発電所・福島の惨劇の真因


 近代科学以来の、モノ的な孤立分断的記述を追求するかぎり、科学がこのような体質にならざるをえないことはこれまで述べてきたことから理解されるであろう。地上の複雑現象に関わる科学は別の記述方式を採用しなければならないのである。



 Ⅱ 非線形科学から見る自然


 エネルギー散逸による不可逆性という性質はきわめて普遍的であって、熱力学の第二法則あるいは別称「エントロピー増大の法則」として言明されている。


 非線形現象、あるいは非線形系とはそもそも何を意味するのであろうか。大雑把に言えば、非線形現象とは何らかの形でフィードバック機構、つまりあるプロセスが進行すればそれによって生じる事態がそのプロセスの進行を促進したり阻害したりするような機構、それを内蔵しているシステムを非線形系とよんでよい。


 この世界は無秩序性の指標であるはずのエントロピーを不可逆的に生成しながらも、構造・秩序の崩壊とともに、それらの形成発展も同時進行しているのである。


 地球は一個の巨大な非平衡開放系であり、何十億年もの間解消されることのない内外の温度差によって駆動されたダイナミクスが進行しているシステムである。


 生命はこのような駆動力が生んだ最高度の非平衡開放系である。


 熱平衡にあるシステムは、温度や圧力などの環境条件が変化するとある臨界点を境にしてその姿を一変させるが、ミクロに見ればしばしば、秩序性の発生または消失が同時に起っている。新しい環境条件に適合した熱平衡状態をシステムが実現するために、ミクロな要素(原子・分子など)が互いに協力しあって、このような秩序構造が形成されるとも言える。


 あるいは、システムが自発的に一つの可能性を選び取ったのである。


 対称性の自発的破れ


 非平衡開放系では自発的運動が現れるということが非常に重要であって……


 化学反応という現象は、流動現象とならんで、自然において最も普遍的な非平衡の過程といえる。いずれにおいても非線形性が重要で、これが現象の自己組織性や複雑性のもとになっている。


 ラシェフスキーとチューリングの関心は共通していて、いずれも形態形成に関するものだった。すなわち、どこから見ても一様で対称な球状の受精卵が、その空間対称性を破って生き物の形へと自己組織できるのはなぜか、という問題意識である。


 組織形成のさまざまな段階で、空間的に不均一な構造が自発的に形成されるという事実がある。


 それを生成する反応がそれ自身の存在によって促進され、したがつて自己増殖的に量が増大するような物質である。増大一方ではシステムは崩壊する。これを防ぐために活性化物質の崩壊反応を促すのが抑制因子である。そのような抑制物質は活性化物質の存在下で生成され、その支えなしには自ら崩壊するという性質をもつ。


 活性化因子―抑制因子系は、最も原初的な空間・時間秩序を示す非平衡開放系のメタファ(隠喩)であると言える。メタファは、具体的な観察事実を説明するための実体的なモデルとは異なり、それを通じて個別現象の中に自然が潜ませている、ある普遍的な「仕掛け」を見ようとするものである。


 自励発振現象は、化学反応以外にも流体運動、機械振動、電気振動など身辺のなじみのある現象として広く分布している。また、生物リズムという言葉にも見られるように、生命現象との関連でも振動は広く見られる。


 振動現象と近い関係にある現象として、興奮現象というものがあり、これも生命過程との関連できわめて広く見られる。システムに外部から微弱な刺激を加えたとき、その強度がある値(しきい値という)を超えるとシステムが一過的な強い反応を示すことがあり、これを興奮現象とよぶ。


 すなわち、反応の過程で溶液の色が約一分周期で周期的変動を示したのである。(ベルーソフの実験)しかし、物質濃度が振動するというベルーソフの主張は、当時の学会の常識がうけいれるところとならず、彼は不遇なままに生涯を終えた。


 しかし、構造安定性は状況の変化とともに突如失われる。そしてこのような不連続や断絶をとおして、対象は「別のもの」に変化し、そこに新しい構造安定領域が現れる。数学者ルネ・トムは、このような不連続や断絶を「カタストロフィー」とよんで、構造安定性とその喪失という立場から自然現象を見直すことを提案した。


 分岐理論は、非線形現象の解明にとって大変な強力な武器を提供する。


 要素的なリズム間の相互同期から生まれる集団的リズムは心拍にもみられる。人間の場合では、洞房結節というという部位に局在する振動的細胞の集団から、リズミックな電気的活動が発生する。これが心室に周期的シグナルを送り、心筋の周期的収縮運動を引き起こす。


 脳内のニューロン(神経細胞)は、一定の入力を受ければ周期的にパルスを発生する振動子としてふるまうが、このような神経振動子が複雑なネットワークを組めば、そこでどれほど高度な情報処理が行われるか測りがたい。


 ミクロの複雑きわまりない運動と、それゆえにこそ保障されるマクロな安定した性質という、統計力学の基本的な思想がここに明瞭に見られる。(マクスウェルの速度分布則)


 「初期状態への鋭敏な依存性」


 ポアンカレ断面、「安定および不安定多様体とその交差」


 マクスウェルやポアンカレがいかに天才であったとしても、彼らの考えを推し進め発展させるには、カオスをその目で「見る」必要があった。ポアンカレが、複雑運動発生の条件として安定多様体と不安定多様体の公差を述べても、具体的な力学系でそれが成立しているかどうかを確かめるには、素手ではどうにもならない。現在のコンピューターならそれを確かめることはいともたやすい。


 理論とコンピューター・シミュレーションは、カオスの研究やより広く非線形科学にとっては車の両輪である。


 マクスウェルやポアンカレによってとらえられたカオスは、エネルギー散逸のないニュートン力学系のカオスである。これに対して、散逸をともなう力学系におけるカオスの存在を最も説得的に示した最初の人はE・ローレンツであろう。(一九六三年)


 吸引的なオブジェクト(相空間の点集合)は一般にアトラクタとよばれるが、カオス的なアトラクタは特にストレンジ・アトラクタ(奇妙なアトラクタ)ともよばれ、実に精妙な数学的構造をもっている。


 自然というものは対象の物理的素材には無頓着に、同じ数学的構造を、ところ構わず実現しようとするもののようである。


 ミクロな世界の空間スケール・時間スケール(一億分の一センチ程度・一億分の一秒ごと)


 一原子の広がりの大きさや、結晶において互いに隣接する原子間の距離は一億分の一センチ程度である。


 感覚的なマクロ世界がセンチや秒のスケールを基準とすることを考えれば、両者(ミクロとマクロ)の間には圧倒的な開きがある。この落差のゆえに統計力学という学問は大成功を収め、ミクロな知識にもとづいてマクロな性質を首尾よく説明することができた。


 唯一の例外は相転移点の近傍であるとされた。そこでは、ミクロ由来のゆらぎがそのスケールを増大させつつ、マクロな状態変化につながっていくのであるから、両世界をきっぱりと分離することができず、そこにあらゆる中間的なスケールが現れることになる。



 Ⅲ 知の不在と現代


 世界から聖性が脱落し、上記のような科学の根本想定が神の支えなしに成立しうると考えられるようになったのは、十八世紀の啓蒙主義を通してである。


 それは「二元論的な下絵の定着」によって特徴づけられるような思想状況である。哲学思想がそれぞれの時代における人々の世界像を色濃く反映するものならば、二元論を下絵とする世界像は哲学にとどまらず、日常生活におけるものの見方・考えに深く浸透し、それらを根底から支配してきたと考えられる。


 「物」の世界と「心」の世界が、相互に独立なものとして、世界観の下絵として描かれることになります。(藤沢玲夫)


 問題の根は科学記述が価値抜きの事実記述であるということにあるのではない。むしろ、科学記述が宿命的に部分記述にとどまらざるをえないため、一面的な知の推進がなされやすいということに問題があるのではないか。


*科学の部分記述性


 むしろ価値抜きの記述であることによって、人間のもつ本来の肯定的な働きが最も自然に発動するのだと思う。このことに関して私は完全なオプティミストである。


 シンプル・ロケィションの観念が科学的世界像を支え、そのような科学的世界像が人々の世界像を強力に支配しているという基本的構図は、現代においてもまつたくゆらいでいないのではないかと思われる。


 人間の理解様式が主語と述語という二つの基本軸をもっているという事実に対応して、これをすなおに反映した科学のあり方こそ、二十一世紀に求められる科学のあり方ではないだろうか。


 科学描写に限らずあらゆる描写は抜粋描写であるともいえる。


 描写における抜粋の仕方をまったく変えることによって、しばしば「全体性」の名でよばれていたものが回復されるのである。


 このような同一不変構造は著しく個別的情報を欠いているが、それにもかかわらず、個別のシステムの挙動を理解するうえで大きな力を発揮するのである。


 生活の快適性への欲望を直接間接の動因として、人間は自然の部分に関する知識を頼りにして自然に働きかけてきたのであるが、生態系の破壊や大気汚染に見るように、それがときに巨大な損失となって人間に跳ね返ってくるという構図は、いまや誰の目にも明らかになっている。


 これは知識と価値との分裂から来るというよりも、知のいびつさから来るものと思われる。その場合いびつさとは、部分知に比しての全体知の貧困という見方も成り立つかもしれないが、むしろ個物の相互関連の中に同一不変構造を求めるような知、すなわち述語的世界の記述における知の発達が遅れているということも重要なのではないかと思う。


 どれだけのものが失われるかに関して、前もって知識をもっていれば人は決して無謀なことはしない。問題は価値の不在ではなく、知の不在だと考えたい。


 大森荘蔵にしたがえば、原理的に真偽をもって答えようのない問題を、真偽問題と見誤るところから、不毛な議論が生じる。


 科学的描写のみが真実の描写なのではなく、可能な描写の一つと心得るべきである。


 E・マッハにとって、世界とは互いに関数的関連をもつ感覚的諸要素の集合体であった。


 自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。


 あらゆる感覚的性質を心に配属させることで外界をひどく貧しいものにしてしまったデカルト二元論は、まさにそのことによって心の観念をも貧しいものにしてしまったのではないだろうか。


 二元論的世界像がこの世の事実を忠実に反映していない不自然な描像であることが明らかになってくるように思われる。


 答はおそらく、「物語る」という形によってしかあたえられない。その「語り」が人を深く納得させるなら、それこそが正しい答えである。


 事実的な知のみが知であるはずがない。物語的な知によって適切に答えられるべき問いが、不当に抑圧されている時代は豊かな時代とはいい難い。本書の最大のテーマである、現代の「知のアンバランス」の究極の姿をここに見る。





*平成三〇年五月二十三日抜粋終了。
*著者の論理の詳細を極める展開が素晴らしく、快感に酔いしれつつ読書を楽しめた。
*堅固な物理学的基盤にしっかり足を置きつつ、奔放に視野拡大を図る柔軟性は一般の学者にあるまじき姿勢に見え、次の文章を期待させた。
*「S(主語)はP(述語)である」(アリストテレス)の断定または仮置きには、常に溢れ出す余剰がある、というのが、抜粋者の下記のような取り組みのメイン・テーマであった。
・昭和三十四年~昭和三十七年 「雑感雑記」大学ノート五〇冊
・昭和四十二年 学部卒業論文「ヤスパースの暗号について」400字詰め原稿用紙一〇〇枚提出
・昭和五十六年 小説『述語は永遠に・・・・・・・』400字詰め原稿用紙六百三十六枚脱稿
・平成七年 評論『情緒の力業』(400字詰め原稿用紙五百五十三枚)近代文芸社 出版






はじめての哲学 価格改定

2018年05月09日 | 電子書籍

2018.05
高野 義博


1.『情緒の力業』 1000円
2.「童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記」 700円
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5.「天空に舞う」 600円
6.「述語は永遠に……」 800円
7.「ソクラテス來迎」 300円
8.「抜粋集」 300円
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