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はじめての哲学

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抜粋 小川洋子『博士の愛した数式』新潮文庫 平成十九年

2018年02月27日 | 読書
 

 今自分は、閃きという名の祝福を受けているのだと分った。





*平成三十年二月二十七日抜粋終了。
*全く知らなかったねぇ、阪神タイガースの江夏が活躍する物語だとは。
*王「一番」も長嶋「三番」も美しくない。江夏の「二十八番」に比べりゃ。
*完全数(かんぜんすう,英: perfect number)とは、自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の3個は 6 (= 1 + 2 + 3)、28(= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) である。「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来する[1]が、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである[1]。中世の『聖書』の研究者は、「6 は「神が世界を創造した(天地創造)6日間」、28 は「月の公転周期」で、これら2つの数は地上と天界における神の完全性を象徴している」[1]と考えたとされる[2]。古代ギリシアの数学者は他にもあと2つの完全数 (496, 8128) を知っていた[1]。以来、完全数はどれだけあるのかの探求が2500年以上のちの現在まで続けられている。
完全数に関する最初の成果は紀元前3世紀頃のユークリッドである。彼は著書『原論』で、2n − 1 が素数ならば、2n−1(2n − 1) は完全数であることを証明した。2n − 1が素数となるには n が素数である必要があるため、これにより、2p − 1 が素数となる素数 p の探求に終始されることとなる。2p − 1 を通常 Mp で表し、メルセンヌ数という。メルセンヌ数が素数であるかの判定法が考案され(リュカ1876年、デリック・ヘンリー・レーマー(英語版)1930年代)、1950年代からコンピュータが使われるようになり、現在では分散コンピューティング GIMPS による探求が行われている(詳細はメルセンヌ数を参照)。(ウィキペディア)
*江夏阪神入団の際、提示された背番号は「1」「13」「28」だった。その中から、江夏の選んだ背番号は「28」だった。「28」が完全数であるというこの発見を小川洋子はどのようにして見つけたのだろう。
*老数学者、家政婦の「私」とその十歳の息子の三点が、数学と阪神タイガースという二色の紐で結ばれ三角形をなしている。(解説・藤原正彦)
*くっきりした輪郭に、ぼんやりした暗示が縦横に張り巡らされていて、墨絵のような静謐をかもし出している。(解説・藤原正彦)
*フェルマーの最終定理がワイルズによって証明されたのは日本人数学者谷山豊・志村五郎の業績が大きく貢献している。
*博士の愛した数式そのものの展開がもっとほしかったというのは、一読者の勝手になるのだろうか。

抜粋 中村明一『「密息」で身体が変わる』新潮選書 2006

2018年02月25日 | 読書


 その中(『夜船閑話』)で白隠は、「真人の息は踝を以ってし、衆人の息は喉を以ってす」という荘子の名言を引いていますが、蜜息をすると、この感覚がよくわかります。おそらくは、骨盤を倒し、腹を膨らませるために、大腰筋などを使い、その力が腿から踝へ伝わっていくのだと思います。


 「蜜息」という言葉の響きがまた、秘密の技法を連想させます。けれど、海童道祖がどのような考えで命名されたのかはたしかではありませんが、私はこれを「息をひそめる」、吸うも吐くも密やかに、息をしていることを自他にわからせないようにすることだと解釈しています。


https://www.youtube.com/watch?v=aVyxU21e29A


 海童 道祖(わたつみ どうそ、1911年11月20日 - 1992年12月24日)は、尺八奏者。福岡県出身。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画サクリファイスでも使用された。門弟に横山勝也がいる。(ウィキペディア)


四つの呼吸法
 ❶腹式呼吸
 ➋密息
 ❸胸式呼吸
 ❹逆腹式呼吸


 外界の情報を遮断すると、妄想、幻覚が現われやすくなるといいます。外界の刺激を制限することにより、脳内に現出するものの割合を多くする。そうして現実の時間、空間に対する感覚は歪められ、さまざまな要素が溶け合った、別世界が現われる。座禅もそうですが、茶の湯はそのすぐれたシステムではないでしょうか。


 「密息」による静止感、フォーカスイン/アウトの視点、それによって私たちの身体は、タイミングや、速度、温度、音量や音高、空間、感触、匂いなど、さまざまなパラメータに対して敏感になり、刺激されます。そして、それらが別々のものとしてではなく、一体化してしまう。すべてのパラメータが呼応して一緒になっていくという現象が、脳の中で生み出されるということです。


*ランボー → 五感を晒す

 ……、映画監督の崔陽一氏が「暮らしのなかの立ち居振る舞いというものが人間の感情をどこかで支配する」――佇まい自体が表現というものを持つ、まるで意識してそういう時代があったという意味のことを語っていました。
 佇まいが表現になってしまう――やはりそれは、わずかな変化の中に、誰もが何かを見出せるという共通の感受性や美意識があったからでしょう。


 能という芸能は、意識をイメージの世界に持っていくためのツールなのではないかと思われるのです。


*能舞台→平面的・非立体感・挙動が少ない等から脳内に意識が飛翔していく。


 能とは、特殊な倍音と、呼吸またその他のさまなざまパラメータにより、時間の中に空間を組み込み、空間の中に時間を組み込み、時間、空間を歪め、最終的には、それらを全部、まるで意識してまとめたようなものなのです。


 倍音とは、一つの音に含まれている要素で、すべての音は、基音と、その上に重なる倍音から成り立っています。


倍音【ばいおん】
基本音(基音)の整数倍の振動数をもつ上音をいう。一つの発音体が発する音は一般に複数の成分音(部分音)の集合として成り立ち,そのうち最も振動数が少なく,楽音の音高(音の高さ)を決定する音を基本音fundamental tone,これより振動数の多い音を上音overtoneという。(百科事典マイペディア)


 倍音は、整数次倍音と非整数次倍音とに分類することができます。
 整数次倍音が強い音は、キンキン、ギラギラした音に聴こえます。モンゴルのホーミーが、この音色の典型的なものです。……この声の特徴的な歌手は松任谷由実。
 いっぽう、非整数次倍音とは、濁った音、ガサガサとかカサカサ、しゃがれたような音のことです。非整数次倍音を特徴とする歌手は、宇多田ヒカル、平井堅などです。
 森進一の歌は、整数次倍音と非整数次倍音とが渾然一体となり、驚くばかりの音の変化を見せています。


 黄倉雅広氏が「打検士の技」という話を書いています。


*宮本常一『忘れられた日本人』ある村での合議の様子。


 そこでは、村のいま問題となっていることがダイレクトにとりあげて議論するのではなく、何時間もかけて外側のさまざまにことを話し合う。それも一日ではなく、翌日もその翌日も集まって、ずっと話し合いをし続けるのです。こうすることによって、何か一つの事柄についてだけ
決定されるのではなく、その事柄を含む全体が決定され、システムが確立されてゆく、というのです。
 なんという、ゆるやかで大掛かりな思考方法であることか。
 西洋文化の中で培われた、主構造の明確な論理性とはまったく異なる文脈の、いわば従構造で包み込むような論理性。人間が社会を作りそこで生きていくために編み出した、有機的で柔軟な、日本人独自の思考法だと思います。


*ダイアローグにしてもティベートにしても別世界のことども。


 明確な主構造をもつ文化と柔軟な従構造で成り立つ対照的な文化を、パラレルに見つめ、味わい、そこから発想を広げることができるわけです。これは大きな喜びとなるにちがいありません。





*平成三十年二月二十五日抜粋終了。


【参考】







抜粋 R・M・ロバーツ『セレンディピティ―思いがけない発見・発明のドラマ』安藤喬志訳 (株)科学同人

2018年02月22日 | 読書
 

セレンディピティ(serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポール(ゴシック小説『オトラント城奇譚』の作者として知られる人物)が1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話にちなんだものである(セレンディップとはセイロン島、現在のスリランカのことであるから、すなわち、題名は「スリランカの3人の王子」という意味である)。ウォルポールがこの言葉を初めて用いたのは、友人に宛てた書簡において、自分がしたちょっとした発見について説明しているくだりにおいてであり、その書簡の原文も知られている。
この私の発見は、私に言わせればまさに「セレンディピティ」です。このセレンディピティという言葉は、とても表現力に満ちた言葉です。この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。かつて私は『セレンディップの3人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?  ((ウィキペディア)


 擬セレンディピティ
  紀元前三世紀アルキメデスは「ユリイカ!」と叫びながら走り出した。


 「偉大な発見の種はいつでも私たちのまわりを漂っている。しかしそれらが根を下ろすのは、それを待ち構えている心にだけなのです。」(物理学者ジョゼフ・ヘンリー)


 「皆さん、夢みることを学びましょう。」(科学者夢想家ケクレ)


 「私は、この世で達成できないほどの夢を見る人を助けたいのです。」(ノーベル)


 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツが、実りの多いアイデアは「朝、目覚めた頃頭に浮かぶこと
が多かった」と述べていることも指摘している。


 私の経験では、想像力や記憶力は夢うつつかそれに近い状態(白日夢?)のときが持つとも活発である。(ロバーツ)


 「あの発見にばったり出くわしたというよりは、むしろ、あの化合物が彼の前に歩いてきたのを、さっと捕まえたようなものです。鋭敏で、柔軟で、待ち受ける心構えが必要なのです。」(ㇵ-マン・シュレーダー)


 「観察の場では、幸運は待ち受ける心にだけ味方するものだ。」(パストゥール)


 「発見とは、誰もが見ていることを見て、誰も考えなかったことを考えることである」(アルバート・セント-ジェルジ)





*平成三十年二月二十二日抜粋終了。
*有機化学の世界は未知の領野であった。
*待ち構える心状態→積習の薫重作用(『情緒の力業』)

抜粋 茂木健一郎『科学のクオリア』日経サイエンス編 日経ビジネス人文庫 2007

2018年02月12日 | 読書

*クオリア=質感=クオリア(英: qualia(複数形)、quale(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。(ウィキペディア)


*ゲスト(北岡明佳・小川洋子・小林春美・福岡伸一・山内正則・西成活裕・遠藤秀紀・中村明一・長沼毅・平藤雅之・須藤靖・沖大幹の十二名)


 小川 ええ、妄想なくして小説は書けません。


 福岡 ただ、現代の科学研究のあり方が、研究者をマーベリック(はぐれ馬・独立独歩の人)でいられなくしているという面があります。


 ポピュラーサイエンスの文化において、日本人が「わかりやすさ」の病にかかっているとすれば、その批評精神の欠如はより広い文脈においても害をなしているはずである。(茂木)


 中村 そうです。西洋の腹式呼吸とは全く違って、瞬間的に大量に息が取り込める。身体も微動だにしないので、発する音は定規を引いたようにまつすぐ伸びやかです。しかも、密息をマスターすると、世の中の見え方までが変わってきて、すべてが励起しているような感覚が得られる。


 「密息」とはどういう呼吸法かというと…それをすらすらと説明できるようであれば、苦労はないのであるが、あえて説明させていただくと、腹部の深層筋を用いて、瞬間的に大量の(おどろくほど大量の)空気を肺に取り込み、それを自在に吐き伸ばすという呼吸法である  (内田樹)


*中村明一「密息」で身体が替わる 新潮選書


 それに対して密息は縦長の金属の缶の中央をビニールの膜で横に仕切ったようなもの。上部に空気を入れれば、膜が下がり、出せば上がる。しかし、胴体にあたる缶は動きません。(中村)


 その通りです。完全な証拠はないのですが、おそらく、江戸時代は日本中の人は誰でも、密息ができていたと考えられます。(中村)


 帯は、腰骨のところに巻いてお腹と一緒に着物をはさむ役割を持っています。すると呼吸は密息のように、お腹を常に張って帯を押さえておかなければならない。腹式呼吸ですと、お腹をへこませたときに帯がずるずる上がってきて、着崩れ てしまいます。(中村)


 一〇の五〇〇乗個の異なる真空の解は、これら物理定数の値として一〇の五〇〇乗種の異なる値の組を持つ宇宙の可能性かあるということです。(須藤)


水文学(すいもんがく)の専門家です。(沖)





*平成三十年二月一二日抜粋終了。
*頼もしい限りの人たちがいるはいるは。



抜粋 R・ペンローズ『ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』竹内薫・茂木健一郎訳解説 ちくま学芸文庫 2006

2018年02月06日 | 読書
 ゲーデルの不完全性定理は、論理ではなく、理論についての定理である。(竹内薫)


 ゲーデルが証明したのは、世の中に完全な数学理論は存在しないということなのだ。(竹内薫)


 理論の不完全性と計算不可能性は、ほぼ同義語であり、ゲ―デルの証明したことは、「世の中にはスパコンでも計算できないことがあるのさ」ということだと思っても差し支えない。(竹内薫)


 周期的な五回対称の結晶が存在しないことは、結晶学の常識である。
 ところが、ペンローズは、
 「たしかに世の中に五回対称の結晶は存在しないが、準周期的な結晶ならあってもおかしくない」
 と主張して、実際に、「ペンローズ・タイル」と呼ばれる五回対称の平面充填モデルを提出した。
(竹内薫)


 意識というのは、……、部分の寄せ集めではなく、一種の大局的な能力で、おかれている全体の状況を瞬時にして考慮することができる。だから、私は意識が量子力学と関係すると考えるのです。
 量子力学でも、意識に似たような状態があるのです。大局的で、それ自体で存在していて、こまかい部分の結果ではないような状態が。(ペンローズ)


 それで、私は、今、その効果はマイクロチューブルで起こるのではないかと思っているのです。マイクロチューブルには、注目すべき特徴があります。すなわち、それは、中空の円筒状の構造物であるということです。この内部に存在するある特定の構造を持った水が、大きなスケールの量子的効果に関係しているのではないかという説があるのです。(ペンローズ)



 私が見るところでは、意識は、量子力学の収縮過程と関係していると思います。時々、量子的な状態が、他の量子的な状態へジャンプするわけです。もし、十分に大きな量子的な状態があって、それが、十分に複雑な外部のシステムと関係するならば、そこには意識が生ずると思うのです。もちろん、その際にニューロンが重要な役割を果たすことは疑いありません。(ペンローズ)


 私自身のアイデアの中心になるのは、「計算不可能性」(non-computability)です。現在知られている物理法則は、すべて計算可能なタイプです。つまり、私たちは、現在の物理学の描像の外側に行かなければならないのです。(ペンローズ)


 意識は、必ず物質的な基礎を持たなければならない (ペンローズ)


 ところが、今では、物質そのものが、ある意味では精神的な存在であるとさえ言えるのです。(ペンローズ)


 「客観的な波動関数の収縮」(objective reduction)=OR


 マイクロチューブルは、「チュープリン」(tubulin)と呼ばれる蛋白質のサブユニットから構成されている。(ペンローズ/ハメロフ)


 私たちのモデルでは、量子力学的な重ね合わせ状態が、チュープリンの中で出現し、そのままコヒーレントな状態(波動関数の位相がそろった状態)に保たれる。そして、ある質量―時間―エネルギーのしきい値(このしきい値は、量子重力理論で与えられる)に達するまで、他のチューブリンの波動関数を次々と巻き込んでいく。(ペンローズ/ハメロフ)


 こうしたプロセスの結果システムがしきい値に到達したときに、瞬間的に、波動関数の自己収縮、すなわち、「OR」が起こるのである。(ペンローズ/ハメロフ)


 私たちは、波動関数の収縮が起こる前のコヒーレントな重ね合わせの状態(すなわち、量子力学的な計算が行われている状態)を、「前意識的プロセス」と見なし、瞬間的に起こる(そして、非計算論的な)波動関数の収縮を、「一つの離散的な意識的イベント」と見なす。このような「OR」が次々と起こることによって、「意識の流れ」(stream of consciousness)が生ずるのである。(ペンローズ/ハメロフ)


 私たちは、このようなかろうじて見える輝きの一つが、意識的な思考プロセスに必然的に含まれる非計算論的要素であると主張する。(ペンローズ/ハメロフ)


*意識の流れ→波動関数の収縮が次々と起こることによって意識が流れる


 量子的状態の収縮


 人間の一生の間には、莫大な数の「OR」のイベントが起こることになる。(ペンローズ/ハメロフ)


 著者の一人のペンローズは、より深い記述のレベルにおいては、固有状態の選択は、今のところまだ知られていない「非計算論的な」数学的、あるいは物理学的な(すなわちプラトン主義的領域の)理論によって説明されるのではないかと主張した。(ペンローズ/ハメロフ)


 重力は、時空間の中で起こるイベント間の因果関係に影響を与える唯一の物理現象である。(ペンローズ/ハメロフ)


 アインシュタインによる一般相対論と、量子力学を統一すること、すなわち、量子重力をつくることは、未だに成功していない物理学の最重要課題の一つだ。そして、量子重力理論が完成した場合には、一般相対論と量子力学の両方が、根本的な変化を余儀なくされるだろうと考える強力な証拠がある。(ペンローズ/ハメロフ)


 量子重力を生物学と結びつけること、少なくとも、神経系と結びつけることによって、「意識」という現象の、全く新しい理解がもたらされる可能性があるのである。(ペンローズ/ハメロフ)


 高められた覚醒状態。たとえば、感覚入力の増加によって、コヒーレントな量子的重ね合わせの発展が速くなる。(ペンローズ/ハメロフ)


*コヒーレントとは、波動が互いに干渉しあう性質を持つことを表す言葉で、二つまたは複数の波の振幅と位相の間に、一定の関係があることを意味する。
電磁波であるラジオやテレビの電波は、その周波数や位相、波面がきれいに揃った波であるのに対し、光は電磁波の一種であるが、それらが揃っていない。しかし、レーザ光は完全ではないが、かなりコヒーレント性の高い光であり、コヒーレント光と言われることもある。コヒーレント光は拡散しにくく、遠方まで届きやすい性質を持つことから、レーザ光は光ファイバを使った長距離通信などに使われる。(ウシオ電機)


 結果として生ずる波動関数の自己収縮、すなわち「OR」が、時間的に不可逆なプロセスとして起こる。これが、意識における心理学的な「今」を決定する現象なのである。このような「OR」が次々と起こることによって、時間の流れと意識の流れが作り出される。(ペンローズ/ハメロフ)


 仏教においては、意識が一つ一つ独立した、離散的なイベントのつながりであるという考え方がある。修養を積んだ瞑想者は、現実の経験において、「ちらちらする瞬間」を経験するという。
 仏教の経典は、意識を、「精神現象のある瞬間における集合」や、「明瞭な、お互いに独立した、永続しない瞬間が、生成したと同時に消滅する過程」として説明している。(ペンローズ/ハメロフ)


 それぞれの意識的な瞬間は、次々と生成し、存在し、消滅する。その存在は瞬間的て、時間的な継続はない。なぜならば、点には長さがないからだ。(ペンローズ/ハメロフ)


*映画のフィルムの流れ コマの連続が時間を生み出す


 いくつかの仏教の経典の中では、意識の瞬間の頻度について定量的な記述さえ見られる。たとえば、サルヴァースティヴァーディン(説一切有部)では二十四時間の間には六四八万個の「瞬間」があると言われている。つまり、平均すると一つの瞬間は一三・三ミリ秒だということだ。
(ペンローズ/ハメロフ)


 別の仏教の経典は、瞬間を〇・一三ミリ秒としている。(ペンローズ/ハメロフ)


 一方、ある中国仏教の伝統の中では、一つの「思念」が二〇ミリ秒続くとされている。(ペンローズ/ハメロフ)


 このような記述は、瞬間の長さの変化も含めて、私たちが提案した「Orch OR」と矛盾しない。(ペンローズ/ハメロフ)


 私たち人間の意識下での知性には、非計算的要素がある。したがつて、計算的プロセスに基づくデジタル・コンピューターでは、意識も、知性も実現できない。その非計算的要素は、未解決の量子重力理論と関連している。(ペンローズ『皇帝の新しい心』)


 「すべては数学で書くことができる」(ペンローズの信念)


 数学的言語に基づかない、「言葉」=自然言語に基づく議論は、いくら積み重ねても限界があるということになる。(茂木健一郎)


 ……プラトンは、思考が形式化できるものだとは、一度も考えたことがなかった。「意味」が、思考において欠かすことのできない役割を果たしていると考えていたのだ。(茂木健一郎)


 ここに、あるプロセスが「計算可能」であるとは、それがアルゴリズムとして実行できることを指す。アルゴリズムとは、一連の規則に基づいて、シンボルを操作する手続きのことである。
(茂木健一郎)


 ペンローズの人工知能批判の核心
   コンビューターには、計算可能なプロセスしか実行できない
   意識は、計算不可能なプロセスが実行できる
   したがって、意識は、コンビューター以上のことができる
(茂木健一郎)


 ペンローズは、現在主流のニューロンの発火を通しての精神現象の理解は、より深いレベルでの細胞骨格の活動の「影」をなぞっているにすぎないと主張する。……ニューロンの発火は、精神現象を支える「本当の世界=マイクロチューブルを始めとする、細胞骨格の世界」のほんの一部の属性を反映する、「心の影」にすぎないというわけである。(茂木健一郎)


 量子力学は、過去と未来が非対称な理論なのだ。これはとても重大なことで、決して忘れてはいけない! (茂木健一郎)


 私たちの言葉の意味の「理解」も、数学的真理の発見も、結局は脳の中のニューロンの発火によって支えられているのである。(茂木健一郎)


 私に言わせれば、「宗教」が「意識」や「心」の問題を解決できる可能性はほとんどない。
 「科学」にこそ、「意識」の問題を解決できる可能性がある。……。
 つまり、一定の手続き(=「論理的整合性」や、「実験による検証」などの条件)にさえ則っていれば、どんなに革命的な理論でも、科学は、それを自分のシステムの中に取り入れてしまう。
(茂木健一郎)





*平成三十年二月六日抜粋終了。
*かくのごとく、神仏を信じた時に、そこに感応道交ということが起こってくるのは、その神仏と自分の間に入我我入という現象が生じて来るからである。(林屋友次郎『祈願の籠め方』)