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はじめての哲学

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抜粋 福土審『内臓感覚』脳と腸の不思議な関係 NHKブックス

2017年03月25日 | 読書
 


 脳腸相関が重要な役割を果たす病気がある。過敏性腸症候群(iritable bowel syndrome:IBS)である。


 講演の中で彼(元ザ・フォ-ク・クルセダーズの一員精神科医北山修)は、情動を表現するのに、身体用語を使うこと、特に、消化器の用語を使うことを日本人の特徴として挙げていた。


 たしかに、日本では昔から「腹黒い」「腹が立つ」「腹の内を探る」「腹わたが煮えくり返る」「吐き気を催す」「虫酸が走る」「飲めない(話)」「喰えない(奴)」など、消化器の言葉を使っていろいろな感情・情動を表現している。


 本書を読み進めると、脳腸相関を無意識のうちに表現した日本人の言語感覚の凄さがわかるだろう。


 これ(身体からの情報・えもいえぬ感じ)をソマティック・マーカー(身体からの情報)仮設という。その代表的な身体情報こそ内臓感覚である。英語では「ガット・フィーリング」(gut feeling)という。


 これ(IBS)はirritable bowel syndromeの略称である。Irritableは形容詞で「イライラした、過敏な、刺激に感じやすい」という意味、bowelは名詞で「腸」、syndromeとは「症候群」で、自覚症状や客観的な徴候のまとまりが、ある特定の異常を示すものをいう。ここでの異常とは、腹痛と下痢・便秘が関連して続くことである。


 代表的な生理学者を挙げよう。ウォルター・キャノン(1871―1945)である。キャノンは、怒りや恐怖などの情動と同時に消化管運動が変化することを発見したが、その時、彼はまだハーバード大学医学部の学生であった。


 キャノンの時代にアメリカで活躍する二人の日本人がいた野口英世と高峰譲吉である。


 キャノンと因縁の深い日本の大学がある。東北大学である。東北大学医学部教授の佐武安太郎は、キャノンと競って副腎髄質ホルモンの生理作用を研究していた。


 IBSは今、ローマⅢ基準という診断基準で判定されている。


 腸は消化「管」とも呼ばれるように、管状の構造をしている。管の壁はちょうどバウムクーヘンのように何枚かの層が重なってできている。最も内側が粘膜層、真ん中の筋層、最も外側が漿膜層である。





 腸の粘膜は自己と非自己がせめぎあう最前線である。このため、生体の中で最もと言ってよいほど、免疫系が発達している。マクロファージ、Tリンパ球、Bリンパ球、上皮内リンパ球、形質細胞、顆粒球、好酸球、肥満細胞、樹状細胞など、それぞれの役目を持った免役担当細胞ががんばっており、通行人が味方(食物)なのか、敵(病原体)なのかを区別して対処してくれている。


 腸の中には気の遠くなる数の細菌がうようよしている。ヒト糞便内には一グラムあたり、一〇の十一乗個の細菌が生息している。腸全体では一〇〇兆個になる。細菌の種類も一〇〇から三〇〇種類はいるとされている。……。腸はこれら海千山千の微生物たちとうまく交渉しながら、乳酸菌のような善玉を味方につけ、赤痢菌のような悪玉の生体内侵入を防いでくれている。これらは、驚嘆すべき腸の働きのほんの一部である。


 脳にある神経細胞は腸にもある。その神経細胞とシナプスの作動原理はその場がどちらでも変わらず、脳にも腸にも共通している。


 しかし、進化の方向としてはどうであろうか? 明らかに、腸で作られ、うまく動いて生存に有利であったシステムを脳に応用したのである。……。生体が腸で開発したものを脳に使いまわしたのである。


 腸の中に物が入ってくると、反射性の運動と内臓感覚が起こることが知られている。すなわち、①蠕動反射、②腸腸抑制反射、③消化管知覚の三つである。


 ロバート・ファーチゴットという学者は血管を取り出し、血管の裏打ちをしている内皮細胞を傷つけると、血管平滑筋もアセチルコリンによって縮むことを発見した。


 狭心症には経験的にニトログリセリンが投与されてきたが、ニトログリセリンは分子構造の中にNOを含んでいる。つまり、NOを生体に供給すると狭窄した冠血管や全身循環の血管を緩め拡張させるなどの作用により、狭心症を改善させていることが判明したのである。結局、血管内にアセチルコリンが増えてくると、血管内皮細胞からNOが出て、これが血管を弛緩させる原理がわかった。これは科学としては非常に大きな進歩で、これを解明する源流を作ったファーチゴットの研究がノーベル賞を取ったのである。


 内臓感覚は普段は空腹感や満腹感、病的になると腹痛や腹部膨満感などとして自覚される。


 内臓感覚は、血液の中に増えてくる科学信号による制御とともに、摂食と排便というヒトの重要な行動を左右しているのである。ただし、これらはスプラリミナルという、「意識に上る感覚」についての常識的な話である。ところが、内臓感覚には「脳には信号が入るが意識には上らない感覚」もある。これが、サブリミナルだ。


 内臓からは意識に上らない感覚信号が常時脳に送られているからだ。つまり、腸からの信号はつねに脳に伝達されているのだが、これが脳機能によって、意識されたり、意識されなかったりする、というわけである。


 刺激が小さい時には、刺激しても神経細胞は何も変わらない。ところが、刺激の大きさがある臨界値(しきい)を超えると、生理的に別世界になり、神経須細胞が急に興奮しはじめる。その臨界値のことを閾値(いきち・しきいち, threshold)という。知覚の閾値とは、刺激を感じはじめる値のことをいうわけである。


 感覚(sensation)とは、刺激が加わった結果、感覚器官に加わった興奮が意識されることを指すのに対し、知覚(perception)とはある対象や思考に気づいたり、認識するようになる精神過程をいう。


 脳腸相関という概念


 脳は、まず自律神経、それから、腸神経系を介して腸と接続している。


 つまり、迷走神経の本務は、内臓を「支配する」よりも、内臓の信号を脳に「伝える」ことにあるようだ。


 心療内科で行う心理療法には手順がある。発散→弛緩→認知変容→行動変容という順番だ。最初から性急に行動を変容させようとするのではなく、情動を言葉にする「発散」の過程がまず重要である。


 自己開示というのは、心理学者ジェームズ・ペネベーカーが提唱した、自分の過去の体験を言葉にすることで、心理的な健康感が高まるという理論である。


 しかも、日本の勤務医は、国際的に見れば、全く裕福ではない。収入は米国の同業者の五分の二以下である。


 W・ジェームズ 「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」
 W・キャノン 脳がストレスを感じ情動が生じた時に、消化管機能が劇的に変わる


 「バロスタット」(風船)という検査法


 腸を刺激すると、視床および情動の座である辺縁系が一番活性化するが、特に前帯状回、前頭前野、島皮質の活性化が顕著である。


 アリゾナの神経解剖学者バド・クレイグの研究により、非常に面白いことがわかってきた。この細径知覚線維は、腸だけでなく、皮膚や筋肉にも分布しており、身体の生理的な状態をモニターしていることが判明したのである。これはどうも、もつと太い知覚線維とは別の役割を果たしているようだ。皮膚のより太い知覚線維は触覚などの微細な感覚の識別を行っている。これに対して、細径知覚線維の役割は、痛みの伝達であるが、それは触覚などの微細な感覚とは別物であって、重要な作用は恒常性(ホメオスタシス)を維持することだというのである。


 恒常性とは、キャノンが提唱した概念で、生体内部の環境が異常値にならないように制御する力のことだ。この力はキャノンの考えでは、視床下部から指令を受けた自律神経とホルモンの作用の結果、生じるという。その恒常性のそのまた源流に、内臓感覚とその仲間の痛覚があるというのだから面白い。


 島皮質、前帯状回、前頭前野は相互に線維連絡も豊富であり、これらが協調して、内臓感覚と情動を生み出しているようである。


 


 情動とは、喜怒哀楽をいう。好き嫌いも情動である。しかし、厳密な定義にはこれでは足りない。喜怒哀楽や好き嫌いは脳の中で自覚される感覚である。脳科学の用語では、これを感情(フィーリング)という。情動(エモーション)という場合には、感情に加えて、胸がどきどきする、手に汗を握る、鳥肌が立つ、涙が流れる、破顔一笑する、真っ青な顔になる、肩が凝る、尿意を催す、青筋を立てるなどの、「身体の変化」を伴っている。


 最近の脳科学は、情動を知情意の中で最も根源的な心理機能として捉えはじめている。


 ラミナーニューロンが皮膚、筋肉、腸という一見ばらばらな臓器の恒常性維持のために働いているのは、このような生命の歴史を反映しているからではないだろうか。


 すなわち情動を持ったことで哺乳類はほかの動物よりも生存に有利になったと考えられるのだ。


 「おぼしき事いはぬは、げにぞ、腹ふくるる心地しける」『大鏡』序


 ソマティック・マーカー(身体からの情報)仮設


 われわれが意識しているか、いないかにかかわらず、身体からの情報(ソマティック・マーカー)が、情動形成に重要であることは多分間違いがなかろう。その上、これらの身体からの情報が、意思決定や行動選択にまで使われているかもしれないのである。著者のような心身医学徒には、実に魅力的な仮説である。


 感覚の脳内処理には、刺激を加えても意識されないように処理されるサブリミナル処理、刺激が意識されはじめるリミナル処理、刺激を完全に意識するスプラリミナル処理の三つの過程がある。


 IBSの危険因子の一つに「アレキシサイミア」という心理状態があることがわかり、現在注目されている。アレキシサイミア(alexithymia)とは、精神医学者P・E・シフネオスが提唱した、感情の言語化が困難な心理状態をいう。


 ところが最近は、感覚こそ、脳機能の土台ではないか、と風向きが変化してきた。その中でも内臓感覚は依然として大きな謎に包まれている。脳腸相関の研究を契機として、その謎が次第に説き明かされようとしているのだ。


 内臓からの求心性の信号と脳腸相関の先には、意識の根源を問い直すような壮大な地平も広がっている。





*二〇一七年三月二十五日抜粋終了。
*人体の摩訶不思議に生かされている事実を突き付けられました。
*読み進めていくにつれて、病理研究室の現場に引き込まれていました。


抜粋 ロック『市民政府論』 鵜飼信成訳 岩波文庫 

2017年03月14日 | 哲学

 自然状態には、これを支配する一つの自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それに聞こうとしさえするならば、すべての人類に、一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである。


人間はすべて、唯一人の全智全能な創造主の作品であり、すべて、唯一人の主なる神の像であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。


自由とは、他人による制限および暴力から自由であることであるが、それは法のないところにはあり得ない。


そこで、人間の自由および自分の意志に従って行為する自由は、理性を彼がもっている、ということに基づいているといえる。


絶対的恣意的な権力、あるいは定まった恒常的な法なしに支配することは、すべて社会および政府の目的と両立しない。


それ故にたとえどんな形態を国家がとろうとも、支配権は、宣言承認された法によって支配すべきで、臨機の命令、不明瞭な決定によるべきでないのである。


もしその行為を指導是認するなんらの標準も定立されていないというのであれば、人類は自然状態におけるよりはるかに悪い状態におかれることになるに相違ない。


しかも立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力に過ぎない。立法権がその与えられた信認に違背して行為したと人民が考えた場合には、立法権を排除または変更し得る最高権が依然としてなお人民の手残されているのである。


Salus populi suprema lex(公共の福祉は最高の法)というのは、たしかに公正かつ基本的な規則であるから、これを誠実に守る者は、危険な誤りに陥ることはあり得ないだろう。


国王ジェ-ムズ一世は、一六〇三年、国会での演説の中で、こういっている。
  ……国家の富と福祉を考えることが私の最大の幸せであり、この世における幸福である。


法の終わるところ、専制がはじまる。


解 説

ジョン・ロック(一六三二~一七〇四)は、イギリス経験主義哲学の祖として、十八世紀啓蒙主義の出発点立つ思想家であるが、とくに、その政治思想が近代的政治原理の基礎を築くために果たした役割は、大きい。


一七七六年、アメリカが、イギリスのきずなを断ち切って、自由と独立を世界に宣言したとき、それを理由づける文書、いわゆる独立宣言の中に、ロックの、とくに本書に現われた思想が、ほとんど文字通りに用いられたのは、当然であった。





*二〇一七年三月十四日抜粋終了。

以下のようなエピソ-ドから、帰納的にある結論に至りました!

2017年03月04日 | 哲学
iDeCoで日本経済改造 ズバリROE投資!


2017.02.19
年金カウンセラー 高野義博


筆者は、以下のようなエピソ-ドから、帰納的にある結論に至りました。

●厚生年金基金事務所での、ど素人運用経験25年。

●1998年、企業年金連合会の受託者責任研究会WGに参加。

●1999年、米国訪問時、Hewlett‐Packard Company(HP)で、5万ドル(120円で円換算すると、600万円)で、充分豊かな生活が出来ています。税金・公共料金・土地の価格・物価等々の低廉がそれを可能にし、10年来賃金上昇を招かず国際競争力を高めています、と説明を受ける。

●2002年、企業年金連合会の株主議決権の行使はじまる。(「ROE 8%基準」)

●日本の会社のROEが各国比較で極端に低い。


出所:(経済産業省・伊藤レポート)


●日本は製造業マインドが強く、投資を回避する風潮が強い。



●日本の労働者の低賃金。



●厚生年金基金破綻から2001年確定拠出年金スタ-ト、2017年社会的インフラiDeCo(60歳以下の全国民対象・個人勘定の年金システム)誕生。

●帰納的結論→iDeCoで日本経済改造 ズバリROE投資!




iDeCoで日本経済改造 ズバリROE投資!


1.日本経済の現況
2017、iDeCoが始まった日本経済の現況は、日本的経営(年功序列・終身雇用)の成功体験に酔っている間にグローバリズムの大波に飲み込まれ、失われた10年・20年を呻吟して、その悪循環はついに日本を低賃金国にしてしまいました。

その日本の会社にはローテーション人事等によるゼネラリストしかいないため経営者も管理職も短期志向であり、安定を唯一の拠り所として垂直統合型経営ですべてを抱えこみハイコスト経営になっている。つまり、日本企業の資本コストに対する意識は薄く低資本効率であり、「資本生産性」と「資本効率性」に対する経営者の意識の低さが際立っており、「稼ぐ力」が長期・持続的に弱いままである。

機関投資家(証券会社・銀行・保険会社等)は、受託者責任等の意識は全くなく、手数料が多く得られる短期志向に傾きがちで売買回転率・手数料が高くなる傾向がある。

労働組合は、いまだに賃金アップを団体交渉で獲得を目指しているが、その従来方法の限界を意識しないままである。別の方法、組合員のiDeCo(ROE投資)で賃金アップを図るという遠大な方法はとれないものであろうか。(1999年米国のJ&Jで自社株41%という事例がある)

日本国民は貯蓄性向が高く、投資は回避する傾向にある。

2.iDeCoでROE投資
株を始めた人は、運用で稼ぎたいと銘柄間を渡り歩く結果、手数料ばかり取られて成果が上がらないのが普通のことです。やみくもに渡り歩くより、ここはタ-ゲットを絞り込むべきでしょう。つまり、意図を持った投資哲学が必要でしょう。

iDeCoで自分年金をつくるのと同時に、そのROE投資によって日本経済のマインド(垂直統合型経営・低資本効率性・短期志向・貯蓄性向等)変換を目指すのです。

2017年、投資奨励の社会的インフラiDeCoによって、その道が示されたのです。ROEは、万能ではありませんが、いわば投資の利回りのようなもので、企業の「稼ぐ力」を示しています。このROE投資で日本経済の改造をもくろむ起爆剤としましょう。

 すでに、「個人向け金融商品の代表である投資信託で、企業の資本効率に着目して株式で運用するファンドが相次いでいる。資本を使ってどれだけ利益を稼いだかを示す指標である自己資本利益率(ROE)を、運用する株式銘柄を選ぶ基準にする。」(日経・2015/4/15付・ROE投信に個人が関心、残高3800億円に 効率経営企業に投資)

 さらに、モーニングスターが伝えるところによると、2017/2月現在、ROEを冠した投資信託が5本あり、資産残高は13億円余の由です。

 ROE投資の投資信託をじわりじわりと買い進めてファンドが1兆円、10兆円、100兆円ともなれば、日本経済の受けるインパクトはボディブローのように効いてきます。つまり、日本経済はじわりじわりと改造されて行くでしょう。また、いまどきのあこぎな機関投資家さえも鉾を納めざるを得なくなるでしょう。人々は投資文化の手ごたえを感じるようになるでしょう。つまり、あなたのROE投資iDeCoが日本を変えるのです。


出所:フィデリティ投信株式会社





3.期待される効果
 ・日本の企業価値向上に伴い、世界経済に立ち向かう力を獲得できる。
 ・経営者・管理職のマインド変換圧力が高まり、稼ぐ力へのシフトが始まる。
 ・稼ぎが増え、労働者の賃金アップ要求に応えられるようになる。
 ・機関投資家の選別圧力が一層高まる。
 ・賃上げの団体交渉はオ-ルド・ファッションと化す。
 ・日本人の貯蓄性向から投資奨励の投資文化にシフト替えが始まる。
 ・日本経済の好循環が生まれる。



さあ、はじめよう!





参考:www.meti.go.jp/press/2014/04/20140425007/20140425007-4.pdf
   www.camri.or.jp/annai/shoseki/gekkan/2016/pdf/201601-8.pdf
   www.dir.co.jp/consulting/theme_rpt/vision_rpt/20150825_010054.pdf
   「401kの百聞は一見に如かず」


抜粋 D・L・エヴェレット『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』 屋代通子訳 みすず書房

2017年03月01日 | 読書


 ピダハンの文化は、こうしたコミュニケーションを必要としていない。ピダハンの表現は大まかに言って、情報を求めるもの(質問)、新しい情報を明言するもの(宣言)、あるいは命令のうちのどれかだ。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉はない。


 感謝の気持ちはあとから、返礼の品とか荷物運びの手伝いといった親切な行為の形で示される。


 アメリカ人は「ありがとう」と言いすぎる。(ブラジル人)


 ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答はもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。


答はもうあるのだ。


 直接体験の概念


 数とか勘定とは、直接体験とは別次元の普遍化のための技能だからだ。数や計算は定義からして抽象的なものだ。対象を一般化して分類するのだから。だが抽象化は実体ことだ。験を超え、体験の直接性という文化価値を侵すので、これは言語に現われることが禁じられるということだ。


 数とは、直接性を超えて事物を一般化するカテゴリーであり、使うことによってさらなる一般化をもたらし、多くの場合体験の直接性を損なうものだ。


 町へ出かけたとき彼らが最初に「川はどこだ?」と尋ねる理由がわかった。世界の中での自分の位置関係を知りたがっていたわけだ!


 それもわたしたちの経験と予測に照らし合わせて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。


 リカージョン(再帰)は従来、文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力と定義されている。


 ピダハンとプラグマティズムは、知識の価値はそれが真実であるかどうかでなく、有用であるかどうかにかかっているという点で共通している。


 わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。


 言語学の最適手法は帰納法より演繹法だ。(チョムスキーの学風)


 ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観がひじょうに優れていることのひとつの例証足りうるだろう。


 わたしたちは生まれおちたそのときから、自分の身の回りをできるだけ単純化しようとする。
世界は騒音にあふれ、見るものが多すぎ、刺激が強すぎて、何に注意を払い、何は無視しても大丈夫であるか決めてしまわないことには、一歩すら踏み出せないほどだからだ。知の分野ではそうした単純化の試みを、「仮説」ないし「理論」と呼ぶ。
 

 彼らはわたしたちに考える機会をくれる―絶対的なるもののない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。


 生存の技術




*二〇一七年二月二十八日抜粋終了