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はじめての哲学

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抜粋 中村明一『倍音』音・ことば・身体の文化誌 春秋社 2010

2018年03月16日 | 音楽
 

 都はるみは、ひとつのフレーズの中で、
 異なった〝倍音〟の間を自由に行き来している。
『アンコ椿は恋の花』という歌の
「あんこ~♪」の部分を見てみると、
「あ」で<整数次倍音>を出し、
「ん」と唸る部分では[非整数次倍音]が強く、
 最後の「こ~」というところは、倍音の少ない裏声に抜けていく。



 一般的に、音は、ひとつの音として聞こえる場合でも、複数の音による複合音からなっている、ということです。「ひとつの音」と思って聞いている中に、さまざまな音が含まれているのです。それらのさまざまな音がどのように含まれているか、によって、音色はつくられます。音色(音質)をつくっているのが「倍音」なのです。


 音に含まれる成分の中で、周波数の最も小さいものを基音、その他のものを「倍音」と、一般的に呼び、楽器などの音の高さを言う場合には、基音の周波数をもって、その音の高さとして表します。

 「倍音」のことを、英語では「オーバートーン overtone」あるいは「ハ―モニックス harmonics」と言います。


 その理論(大橋力ハイバーソニック・エフェクト)によれば、そのとき、二十六キロヘルツ以上の音(つまり可聴域外の音。超音波、高周波とも言われる)は、皮膚から脳に伝達される。そのとき、その音により、視床の血流が増加し、脳基幹部を活性化するということです。


 日本語の特徴
❶母音中心
➋子音は母音と常にセットになっていること
❸言葉の音響的変化が大きいということ
❹一音一シラブルという構造


 日本語は、母音が主体であることにより、音響を大きく変化させることが可能な豊かな表現力を持った言語となり得たのです。


 日本語の特異な点は、自分にとって重要な言葉には、必ず〔非整数次倍音〕を入れる、ということです。


 〔非整数次倍音〕こそが、心に残る言葉、ネーミングの重要な因子といえるのです。


折口信夫『言語情調論』にほん
幸田露伴「音幻論」


 すると、頭の中で、論理的な意味と、それを伝える音響が、齟齬をきたすのです。


 私も「あ・い・う・え・お」という発声練習を、小学校の時にさせられました。その西欧式の発声法のもと、口を大きく開けては「知らざぁ、言って聞かせやしょう」などという言葉は発することができない。口を大きく開けると倍音が少なくなるので、伝統的な語りになりません。
日本語の音響としても、判別がしづらくなるのです。


 日本の伝統音楽には、音量について記した楽譜がまったくと言っていいほど見当たらない、ということです。


 空間を聴いているとも言えます。


 音の出し方により、空間が変容するのです。


 あらためて、虚無僧の曲は空間性の変化を念頭に作られているのではないかと、思い当たりました。


 たとえば、義太夫節でも、〔非整数次倍音〕の多い激情的な語りから歌に移っていくときに、こうした現象が起きます。それによって、あたかも空間が動いているような効果が出ます。とても広く感じられる場所にいたと思ったら、急に自分の前に空間がギューッと収縮してくるような、そんな感じを受けるのです。


 このようにして、倍音構造を演奏者自身がコントロールできるので、私は、尺八のことを「江戸時代のシンセサイザー」と呼んでいます。いまから一三〇〇年以上前に、中国から伝わってきたときの尺八には、こうした特性は備わっていませんでした。これが、日本の中で、西欧の楽器とはまつたく異なる方向に、改良され、発展してきたのです。それは数多くの日本人たちの感性によってなされた、無名性の高い改良、発展でした。


 視覚の場合、その情報が意識下で認識されやすいのに対して、聴覚の場合は意識下で認識しにくい部分が大きいということです。すなわち、音は、無意識の深い大きな領域にアブローチする貴重な手段なのです。


「宇宙の心臓部では絶え間なく、執拗に鼓動が鳴り響いている。それは同期したサイクルの音だ。その音は原子核から宇宙にいたる自然界に、あらゆるスケールで充ち拡がっている。」(S・ストロガッツ『SYNC――なぜ自然はシンクロしたがるのか』長尾力訳 早川書房)


 外有毛細胞と呼ばれる、静的なときにのみ反応し、同期する細胞があるのです。


 ですから、非言語性コミュニケーションには、主たるメッセージだけではなく、サブメッセージを織り込むことも容易ですし、無意識のメッセージが自然に多く含まれる結果となります。


 聴覚による非言語性コミュニケーションである音楽の音響性を軽視して、基音による音組織の論理性のみに視点を狭めるならば、ここまで述べてきた、豊かなさまざまな特質を失ってしまうことになります。


 一概には言えませんが、論理性の希薄なものほど複雑性・多面性が強く、無意識の領域に関わっている部分が大きい傾向があります。


 無意識は判断や反省はおこなわない。そのかわりに理性が理解しきることのできない状況の本質を、直感的に理解して、熱狂や陶酔の力をかりて、自然界にあるようなバランスを社会に取り戻させるために、むっくりと動き出すのである。(中沢新一『アースダイバー』講談社)


 絶対音感とは、ある音を単独で聞いたときに、その音高を判断することができる能力のことを言います。


 最相葉月『絶対音感』新潮社


 一方、そうした多様で複雑な音響の、基音だけを捉え、過剰特化して識別するのが絶対音感です。


 日本の音楽が非常に軽視され、教育の現場から日本の音楽がまったく消し去られてしまい、その代わりに西洋音楽がそこに当てはめられてしまつたのです。


 私たち日本人の手から日本の音楽が奪い取られた結果、何が起こったかというと、それまで私たちの中で日常的に生活と共にあった音楽や音響による非言語性のコミュニケーションが、希薄になってしまったのです。


 その末に、二〇世紀末には「旋律は、順列組み合わせにより、すべてが出尽くした。今後は、その再利用しかない」とする、閉塞感を持った考え方さえ生まれました。
 しかし、ここで、倍音に目を向ければ、そこには、無限の大地が広がっているのです。


 私たちは、いま、歴史的に大きな転換点に立っています。基音による音組織をもとに大きく発展してきた西洋音楽の発展は終焉を迎え、世界は倍音に重きを置いた音楽にシフトチェンジして行くでしょう。


 平安時代には「しじま遊び」という遊びがありました。これは、どれけだけ黙っていられるかを競う遊びです。





*平成三十年三月一六日抜粋終了。