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はじめての哲学

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抜粋 砥上裕將 『線は、僕を描く』 講談社 2019

2019年10月06日 | 小説

 「何かになるんじゃなくて、何かに変わっていくのかもね」

 

 

 ……、白い画面の中に色で描かれれば、描かれたものが強調され、際立つ。目は書かれたものへ吸い込まれ、緊張感が生まれる。その緊張感を描かれたものの筆致が、それぞれの趣でほぐしてくれる。描かれたものの主題や筆致や雰囲気が、それぞれに伝わってくる。

 

 

 「できることが目的じゃないよ、やってみることが目的なんだ」

 

 

 こんなにも何度も失敗を黙々と繰り返したことは、僕にはない。失敗を繰り返すほど、何かに挑んだこともなければ、失敗を楽しいと思ったこともない。

 

 

 「力を入れるのは誰にだってできる、それこそ初めて筆を持った初心者にだってできる。 それはどういうことかというと、凄くまじめだということだ。本当は力を抜くことこそ技術なんだ」

 

 

 「いいかい。水墨を描くということは、独りであるということとは無縁の場所にいるということなんだ。水墨を描くということは、自然との繋がりを見つめ、学び、その中に分かちがたく結びついている自分を感じていくことだ。その繋がりが与えてくれるものを感じることだ。その繋がりといっしょになって絵を描くことだ」

 

 

 「……。感覚的な言葉だね。手が柔らかくなるというのは、実際に手がふにやふにゃしている、ということじやなくて、筆致というか、線を描くタッチが、柔らかくなったということだよ」

 

 

 「まじめというのはね、悪くないけれど、少なくとも自然じゃない」

 

 

 「才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない」

 「絵を楽しんでいるかどうか……」

 「水墨画ではそれを気韻というんだよ。気韻生動を尊ぶといってね。気韻というのは、そうだね……筆致の雰囲気や絵の性質のことも言うが、もっと端的に言えば楽しんでいるかどうか、だよ」

 

 

 突然、平面だった空間に一本の枝垂れた葉が存在し、絵の中に奥行きそのものが現れた。空間があって、そこに現象が生まれるのではなく、現象が先立ってあって、空間が生まれるという現実にはあり得ない瞬間を見るのは楽しい。

 それは打ち上げられた花火を見上げて初めて、夜空の闇を意識するような感覚だ。

 

 

 其の麗しきこと蘭のごとし

 

 

 ……水墨画には『塗る』という所作がありません。すべては描くという所作に繋がっていきます。それは同時に、筆致によって生命感を表現しようとする絵画だということです。減筆という考え方は、水墨画のどの段階で生まれたものかは分かりませんが、その筆致を際立たせるための考えであることは間違いありません。

 

 

 「墨と筆を用いて、その肥痩、潤渇、濃淡、諧調を使って森羅万象を描きだすのが水墨画だが、水墨画にはその用具の限界ゆえに描けないものもたくさんある。絵画であるにも拘わらず、、着彩を徹底して排していることからも、そもそも我々の外側にある現象を描く絵画でないことはよく分かる。我々の手は現象を追うには遅すぎるんだ。

 

 

 「いいかい、青山君、絵は絵空事だよ」

 

 

 「美の祖型をみなさい」

 

 

 それは命のあるがままの美しさを見なさいということだつた。こうして花を感じて、絵筆をとるまで何も分からなかった。

 水墨とはこの瞬間のための叡智であり、技法なのだ。

 自らの命や、森羅万象の命そのものに触れようとする想いが絵に換わったもの、それが水墨画だ。

 花の命を宿した一筆目を僕は描いた。

 穂先の重みは画仙紙の白い空間の中に柔らかく溶けながら、移しかえられた。心がそっと手渡されるように、命は穂先から、紙へ移った。心の動きが体に伝わり、身体の動きが指先に伝わり、指先は筆を操る微かな圧力を伝わって、画仙紙という不安定で白い空間に向かって消えていった。それはたった一瞬だった。だが、それは、ここにいたるまでのあらゆる瞬間を秘めた一瞬であり、一筆だった。

 菊の芳香と墨の香りが部屋を満たしていた。

 

 

 僕は長大で美しい一本の線の中にいた。

 線の流れは、いま、この瞬間を描き続けていた。

 線は、僕を描いていた。

 

 

 

 

 

*令和元年十月六日抜粋終了。

*こんな微妙なことどもをよくもまあ書いたものである。