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タタタッ

はじめての哲学

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ロッキーズ物語  シッテンバッテンの少年野球コーチ

2017年02月26日 | 電子書籍
万年3回戦どまりの少年野球チ-ムが、10有余年の試行錯誤のシッテン・バッテンの末に、
あれよ、あれよ! という間に優勝してしまった稀有のノン・フィクションです。


目次
一 そもそも
二 恐怖のアメリカン・ノック
三 チーム名由来
四 野球センス
五 一対一ノック
六 バットスイング・チェック票
七 三回戦ボーイズ
八 ホールド・アップ
九 発声と座禅
十 チームカラー
十一 コーチ達
十二 渓流地での合宿
十三 走れ、走れ!
十四 少年たち
十五 感動をくれた少年たちへ
十六 優勝したら温泉招待!
十七 知人の輪
十八 優勝試合
十九 さよならメツセージ
二十 二〇〇〇年夏の高校野球

【おまけ】 (バットスイング・チェック票一〇枚)




一 そもそも

家族五人が湘南の地に転居した昭和五十五年(1980)、上の男の子が十歳になった頃であった。
家の前のジャリ道で、私とキャッチボールをしていた息子が「お父さん、小学校で野球やってるよ!」と言うので、子供たちとグランドを垣根越しに覗きに行ったのが、そもそもの始まりだった。
以来、二十年ほど地域の少年野球チーム「ロッキィーズ」との日々が始まった。




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抜粋 『日本人の身体』 安田 登 ちくま新書

2017年02月22日 | 読書


 解剖学的な膝頭や肩峰という「ポイントとしての身体」に対し、「界隈」に代表される「おおざっぱさ」が日本人の身体言語の基本です。


 あまり細かいことは気にしない、これが少し前の日本人でした。


 身体は一ヵ所や二ヵ所、不調があるのが当たり前です。ある年齢になったら、その不調をなんとかしようというよりも、その不調を受け入れた身体でうまくやっていこうというのが昔の日本人。健全な肉体なんて求めない。


 生まれた娘につけた名が、これまたすごい。
「ホト・タタラ・イススキ・ヨリ(富登・多多良・伊須須岐・余理)姫という。


 すなわちイシコリドヒメ(伊斯許理度売)というのは「アマツマラのマラ(男根)を固くする姫神」という名前なのです。


 ただ、『古事記』時代以来、性そのものに対するとらえ方が現代人とは違っていたようです。中野明氏も紹介する山東京伝画作の『艶本枕言葉』の中に江戸時代の公衆浴場の絵があります。




 この絵の詞書を読んでみるとすごい。
「ちょっと入れてみよう」
「いつも今頃来れば、ちょうど会うわな」
「人のぼぼ(性器)へ手を付けやがって、これ、外へ出ろ!」
「外へ出ろ、させようから(させてやるから)。よくよく飢えた野郎だな」
「はい、ごめんなさいまし」
「こんなに女に入ってこられちゃあマラ(男性器)が大変だ」
「騒々しいのは湯がぬるいからだ、もっと湯を足せ」


 「身」とは身体と魂、体と心が未分化の時代の統一体としての身体をいいます。


 日本語の「身」は心身未分化の統一体としての身体で、それに対してギリシャの身体は殻としての「からだ」と「こころ(魂)」とが別れていましたが、この中間にあるのが、『旧約聖書』の身体、ヘブライの身体です。


 「天の橋立を股倉から覗いて見るとまた格別な趣が出る。」(漱石・猫)


からだを客体化していきます。


 意志の連続性などというものは幻想です。


未分化だった「身」から心身が分離して、意識の「対象」となる。孔子(荘子)は、これを「外」になった状態といいます。


 酒に酔えば、恥も外聞もどうでもよくなる。まさに「外」の聞こえなど関係なくなる。そのとき「忘」、まさに忘我の境地になる。


 「噴せずんば啓せず」(孔子が弟子を教える時の方法)


 その顔は世の常の人の顔ではない。深く思慮する静謐に包まれながら、しかも安らかな悦びの表情を堪え、人智を超える高い望みと、そして遙けき遠い志とを兼ね備えた顔へと変わって行ったのです。


 心身が分かれていなかった大らかな日本人は、生者と死者との区別も曖昧であり、他者と自分との境界も曖昧でした。


 いま舞台上で演じられている能に近い形が大成されたのは、今からおおよそ650年前の室町時代ではないかといわれています。


 能『定家』主客の別の消失・時空の歪み


体の大きさによってその生物の中に流れる時間も違う……本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』


*「そうそう、本川達雄東京工業大学教授の「歌う生物学」(平成8年7月16日朝日新聞夕刊:私空間)のような発想がすばらしい。」『人様のお金』第1章制度発足30年経過して 高野義博著 平成12年8月脱稿


 「君子は和して同ぜず」(孔子『論語』)


 議論にも「同」の議論と「和」の議論とがあります。
たとえばディベ-ト、これは「同」の議論です。


合意形成という議論


理想的な「和」の議論とは『三人寄れば文殊の智慧』の議論です。
議論に参加している人が、誰も考えてもいなかった結論が、自然に導き出されて行く、そういう議論が「和」の議論です。


ものすごき秋の夕かな 能『殺生石』


能では、ふたりの会話がピークに達したときには、ふたりの心情でも、ふたりの行動でも、またふたり自身のことでもなく、情景・風景が謡われます。会話するふたりの間の境界がなくなり「思い」に達し、それがさらに進むと、ふたりどころか環境との境界も曖昧になり、ふたりは環境と一体化してしまうのです。
そして観客である地謡によって謡われる風景の中に、ふたりの「思い」や、そして何より自分自身の「思い」を感じるのです。


風景の中に「思い」を感じる、これは私たち日本人にとってはふつうのことです。


「思い」を言語化することはできませんが、風景を読むことによってそこに近づくことができるのです。


『朧月夜』を朗読したとき、この歌詞には感情表現がひとつもないということに気づいて驚きました。


二、里わの火影も、森の色も、
  田中の小路をたどる人も、
  蛙の鳴く音も、鐘の音も、
  さながら霞める朧月夜。 (文部省唱歌・作詞高野辰之 作曲岡野貞一)


音すらも朧月によって霞む、もうこれは共感です。
なんという日本人の感性。


あるきっかけによって、奥に隠れている深い感情である「思い」が出てくる。その糸口を、「感情の糸口(緒)」、すなわち「情緒」といいます。


*『情緒の力業』高野義博著 近代文藝社 1995年


私たちは、風景の中にそのような「情緒」をたくさん持っています。風景の中の、その糸口(情緒)に刺激されて、私たちの感情も風景の中に流れ出てしまうのです。
しかし、これは一方通行ではありません。感情の糸口である「情緒」を通って、溢れ出した風景そのものも私たちの中に入ってきます。


「懐かしい」とか〔悲しい〕などという感情表現の言葉を使う必要は一切ありません。ただ、ただ風景を詠うだけでいい。それが日本の歌の特徴なのです。

日本の韻文では「悲しい」とか「嬉しい」とかいうような感情表現を使うことは野暮です。私たちの感情は「悲しい」とか「嬉しい」とか、そういうわかりやすいものではありません。そういう言葉では表現できない「思い」、それを表現するのに風景をうたったのです。


俳句や短歌の中に「私」を詠み込むことはほとんどありません。


東の野に陽炎が立った。振り返ると月が傾いていた。
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ(人麻呂)


中国にも老荘思想にはそのような(草木国土丐悉皆成仏)考え方があるし、中国仏教にもそのような文脈はありました。しかしここまで徹底して「人間も草も木も、そして国土もみんな同じ」というのは、日本ならではの発な想です。


慰めし月にも果ては音をぞ泣く 恋やむなしき空に満つらむ(顕昭法師)


物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる 魂かとぞみる(和泉式部)


あくがるる心はさても山桜ちりなん後や身にかへるべき(西行法師)


思ひあまり出でにし魂のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ(『伊勢物語』)


もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける(『源氏物語』)


嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま(『源氏物語』)


能という芸能は、溢れ出た死者の思いを掬い取って聞くということを、その基本構造としている芸能です。


その思いを聞くことによって、その爆発をとどめる


ピダハンにとっての性霊は、私たちが「見える」というときの見えるとは違う見え方で見えるのです。(ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』)


日本神話の英雄たちはみな「溢れ出る者」です。この溢れ出る者を「あぶれ者」といいます。


ワキが「欠落の人」であるのに対し、あぶれ者たちは「過剰の人」です。


この曖昧さをなくして自己と他者を峻別して「個」を作ることや、自分の「あぶれ性」をなくして社会人になることが西洋的な価値観では「成熟 (mature)」だと思われています。


『論語』や『孔子』などに代表されるような、論理体系を形成することを拒否し、いま・ここの状況との関係で思考しようとする東洋的な哲学は……


自他の境界が曖昧な人々の間にあいさつは必要ありません。あいさつは、ふたりの間の境界を破るための儀式のようなものです。古い時代の日本語やアジアの言語の多くにあいさつの言葉がないのも、破るべき境界がなかったからでしょう。


内臓波動


腸にもシナプスの作動原理と同じような働きをするニューロンのごとき神経構造がある。(福士審『内臓感覚―脳と腸の不思議な関係』 日本放送出版協会)


内臓が脳のような働きをする 東洋では「腹脳」、近年西洋ではリトルブレイン。


すなわち、『古事記』の時代の人びとにとっては、「心」とは「心臓」のことではなく、下腹部の内蔵全体を指し、そしてそこら界隈に「心」があるという実感があったのです。


損益計算書や効率性によって、ころころ変わる意思決定とは違います。人間存在の奥の方からの決断、それが「腹を決める」ことであり「肝を据える」ことです。


腹にある脳は、思考というよりも「思ひ」や情動と結びついているようなのです。


「憐れむ」という言葉は『新約聖書』では「スプランク二ゾマイ」、すなわち「内臓が動く」という語で書かれています。
内臓がぐわっと動く感覚、それを現代語にしたのが「あわれみ」であり、「あわれ」と感じる思いは「内臓」、すなわち腹でなされていたのです。


何か困ったこがあると「どうしよう、どうしよう」と思考が渦巻き状態になり、無限の循環をくり返します。(ちょうど、羊のように)



http://www.pubenstock.com/2012/eoolmark-1974-fca/


治療する者と治療される者との間にまず必要なのは、深いところでの互いの同期、すなわち「内臓(はらわた)の同期」なのです。


*少年野球のコーチ時代、雨霰の一対一のネット前ノックを少年とコーチ(私)が繰り広げたあの瞬間は同期だったのだろう。左手にグローブ、右手にバットを振り回して、グローブでトスし、バットでノックするのは夜叉の如くであった。(このブログ内記事「一対一ノック」参照)


観音様(観ることが自在) 観世音(鳩摩羅什) 「世の音を観る」


あはれてふ ことだになくは なにをかは 恋の乱れの つかねをにせむ 
(『古事記』読人不知)


日本の芸能では「間」がとても大切ですが、能ではこれを息でとります。それが「コミ」です。コミに漢字を宛てれば「込み」になるでしょう。お腹の深いところにぐっと息を込めて間を取る。それがコミです。


能には指揮者もリーダもいません。それどころか、みんなが一斉に集まっての練習や稽古もない。しかも、集まる人たちは、役ごとにみな違う流派に属している人たちです。
二日ほど前に一度、全体をざっと通すという「申合せ」はありますが、しかしそれはリハーサルとは全く違います。
感覚的には本番は常にぶっつけに近い。何が起きるかわからない。無の状態、混沌の状態から始まります。
その無の状態、混沌の状態が、この無音の音(息)であるコミの共有によって、徐々に拍子(リズム)や位が作られていきます。


せぬ隙(世阿弥)


「歌」は「打つ」と語源を同じくするという説があります。人の心や神や天地を打つのが「歌」です。能で使うお道具(楽器)はすべて「打つ」ものです。唯一の管楽器である笛(能管
)も、打つように吹きます。
内臓の深部より発する息によって打つ、それが「歌」であり、「楽」なのです。


脳管のヒシギ(高裂音)→「内臓の深部より発する深くて強い息」


能『井筒』の謡
 シテ:筒井筒。
 地謡:筒井筒。井筒にかけし。
 シテ:まろがたけ。
 地謡:生いしにけらしな。
 シテ:老いにけるぞや。


しない以外にはすべきことはない


私たちが目指すべき境地→文字通り、世の中から隠れ住む「隠居」生活です。





*2017.02.22.抜粋終了
*は、抜粋者のコメントです。