ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

テレビの中の身長 (再掲)

2020-07-25 14:55:29 | コラム

<このところ多忙続きでご無沙汰しておりました。現実逃避のごとく今回は軽~いものです。真面目な方は飛ばして下さい。笑える余裕のある方のみお読み下さい。>

※写真は建物の壁面を利用した巨大壁画(?)



東京に生まれ育ったお蔭で、「テレビでよく見る人」にしばしば遭遇してきた。芸能人、スポーツ選手、政治家、財界人、ジャーナリスト、果ては天皇皇后両陛下まで。私はこれを「ばったり運の強さ」と思うが、友人によると単に「目ざとい」のだそうだ。ともかく、そうした中で気づいたことがある。それは政治家の実際の身長がテレビで見て感じるより低いことだ。始まりは横浜中華街前で一人演説する川口順子さんだった。テレビで見て川口さんは女性の中では長身だと思っていたが実際は小柄で、その全身から振り絞るように声を張り上げていた。その次は小池百合子さんで、スーパーのレジで見かけた小池さんは驚くほど小柄。一瞬、誰だかわからなかったくらいだ。こうしたことは政治家に対してだけ感じることで、その他ばったり会った芸能人や財界人などには感じたことがなく、実際に見かけてもテレビで見て感じる印象のままの身長である。カメラの撮り方のせいなのか。そこで試みに政治家の身長を調べてみた。

安部晋三(175cm)、麻生太郎(175cm)、谷垣禎一(176cm)、福田康夫(171cm)、 山口邦津男(176cm)、岡田克也(データなし)、小泉純一郎(169cm)、小泉進次郎(169cm) 日本の成年男子の平均身長は 167.6cm。(平成 29 年度厚生労働省「国民健康・ 栄養調査」より) (首相経験者は首相官邸ホームページ掲載のデータを参照、その他は自身のホームページやウィキペディア掲載などの値を元にしている。)

過去の首相経験者ではホームページ作成前という事情もあろうが身長の記述のないものが多い。安部さんや山口さんは身長が高いと思っていたので違和感はない。小泉さん親子は意外と低い感じだ。しかし特筆すべきは、(大方の人が同意してくれるものと思うが)麻生さんである。安部さんと同じ高さとは無理がないだろうか。組閣時の写真や官邸で並んで座る姿を見てもその差は歴然としている。テレビでもお馴染みの官邸のソファに座ると、後ろの壁は木の模様か横縞が入っていて、身長の比較がしやすいのだ。しかし首相官邸ホームページの歴代首相のデータ欄にはそう出ている。古代日本では政府代表には背が高く、見目麗しい人を選抜して中国へ送っていたらしく、かの国の史書にもそのように使節団が評されているそうだ。また幕末にアメリカ人が来航した際に体格の差を気にした幕府役人はある日、アメリカ使節団を前に力士達に米俵を運ばせる姿を見せた。これはつまり「体格の立派な人」を登場させることで、負けないように、立派に見えるようにしたということで、政治・外交分野で「体格の立派な人」は、「立派な人(国)だ」「国力は豊かだろう」など肯定的な評価を受けることが多いと捉えられていることを示す。国の命運がかかっていたのだから必死だ。先ほど見た『いだてん』でも欧米人と日本人の体格の差による困難が描かれていた。

また縦だけでなく横もそれなりに意味を持つことがある。太めの野田佳彦さんが細い菅さんの後に首相に就任した時は、あの東日本震災直後という事で、政治信条をまったく知らないのに外見だけで(体格だけでなく顔も丸く)妙にほっとしたのを覚えている。これはもう心理的なものだろう。とはいうものの、当たり前だが実際の「偉大さ」と身長には関係はなく、ガンジーの身長は164cm、マザー・テレサは152cm程度だったらしい。

一方、きっかけとなった川口さん、小池さんの身長はどれくらいだろう。調べてみると資料がなく行き詰まった。若干怪しげなサイトで小池さんが 154cm 程度だとの情報が得られたくらいだ。見た印象からしても恐らく妥当な数値のように思える。芸能人でないから公開する必要がないのは仕方がないとしてもウィキペディアにすらないのはなぜだろう・・・。その時はっと気がついた。身長を公開する男性政治家は身長だけでなく、体重もセットで公開していることが多い。身長はともかく体重は公開したくないのが女心というものだ(それ以前に必要がない)。加えて「体格の立派な人は中身も立派である」の暗黙の了解が根底にあるとしたら。それでなくても政治の世界で女性は少数派なので「立派さの評価」に繋がりやすいこの点で比較されると辛いかもしれない。男性政治家でも非公開の人は結構いる。

ならば体格に自信のある女性政治家の場合はどうなのか。突如閃いて、予定になかったあの人を急遽調べてみることにした。そう、モデル出身の蓮舫さんである。ここでは別の意味での「体格に自信のある」であり、「政治家としての体格」で はなくなっているかもしれない点はご留意及びご容赦戴きたい。すると予想を裏切らず身長と、そしてスリーサイズまで!スリーサイズが紹介される元大臣というのも何だかすごい。さすがに体重の記載はなく、掲載されたのも自身のホームページではなくウィキペディアだけれど。(さらにいえばスリーサイズも20代の頃のものである。) 蓮舫さんを調べているうちに連鎖反応してまたもや閃いてしまった。そうだ、三原じゅん子さんはどうだろう。またもや予想を裏切らず、身長と体重がセットで自身のホームページに公開していた。42kgらしい。私はこれを虚偽だとは思わない。しかし「いつの時点での事実か」という疑念は残る。ところでこの三原じゅん子さんの情報は、(この原稿を当初書いた) 数年前の情報で、最近ホームページを見たらなぜか身長体重が消えていた。理由が気になる。

政治家や外交家は身長が高く見えると好評価につながることが多い。自信がない時には非公開(あるいは隠蔽)、下駄をはかせる(あるいは偽装)する傾向があることが分かった。非公開は理解できる。そもそも身長の公開は必要がなく、中身と関係がないものだから。数値という何の感情もない客観的ものなのに見せ方、あるいは隠し方に血の通った、それぞれの個性があれやこれや出ているようでとても楽しい。


Kalmyk Dance (後編)

2020-07-11 23:32:34 | コラム

 

 

他は皆、「『ハヤブサの踊り』を人が踊っている」のに最初に見た踊り手だけは「ハヤブサが舞っている」のだ。圧倒的な違い。人間臭さをまったく感じさせず、しぐさのすべて-羽の振るわせ方やツンとした表情の作り方まで-がハヤブサのそれなのだった。バレエ独自の表現やしぐさの美しさはあるけれどもそれすらも「バレエという表現方法を通じて表現しているに過ぎない」と思えるほどハヤブサそのものにしか見えない。これ以外の方法がないのではないかと思えるほどの説得力。

 

同じバレエ団の他の踊り手が同じ舞を同じ衣装でしていても悲しいほど差が明らかである。なまじ同じであるだけに違いが際立ち、手の振るわせ方などはバナナの房が揺れているようだ。何よりも初めの踊り手は動きのどれひとつをとってもすべてが美しくすべてが絵になる、「ハヤブサ」としかいいようのない美しさなのだった。荻須高徳のバラと同じく、それ以外の何物でもない圧倒的で際立った存在。踊り手の名はラミール・メフディエフという。

 

まず技術の高さが際立つ。細かいステップ、足捌き。他の踊り手だと上半身が倒れてしまうところでも真っすぐな姿勢を維持し美しい姿を維持している。動きに無駄がない、そして表現力。手の動かし方、顔だけでなく手のひらや足先までにも表情があり、魅せ方を心得ている。完全に計算され尽くし、配慮され尽くしているのにそれでいて自然な動き。繰り返し見ているうちに涙が溢れてきた。舞踊を見て初めての経験だった。

 

メフディエフの素晴らしさにだけ感動したのではない。一地方の民族舞踊であるカルムイク・ダンスを高度な舞台芸術にまで洗練させた振付師でバレエ団創設者でもあるイーゴリ・モイセーエフの素晴らしさ、ひいてはモイセーエフを、メフディエフを育てたロシアン・バレエの伝統と層の厚さまで感じずにはいられなかったのである。

 

モイセーエフは単にカルムイクの舞踊を模倣したのではない。しっかりとした理解の上に構成し直しバレエという洗練された舞台芸術にまで高めている。イーゴリ・モイセーエフ・バレエ団(Igor Moiseyev Ensemble)ではスターを作らないことをポリシーにして他のバレエ団ならスター級の踊り手でも、ソロを躍らせる一方で群舞も当たり前のようにさせる。「一緒に」がモットーなのだ。私はバレエには不案内なので他のバレエ団のことはまったくわからないが、同団では決められたように踊ることを厳しく要求されているようだった。あのメフディエフですら、練習中に「あなたがどんなふうに踊りを変えたか気づいている?」「パートナーからスポットライトを奪ってはいけない」と注意されている。不思議なことにソロパートで他の人と同じ振付を踊るほどメフディエフの才能は際立つ。それでいて群舞の時は見事に全体の一部になっている。

 

メフディエフは素人の私でもわかるほど間違いなく素晴らしい才能を持っている。しかしその彼すらも器に過ぎないのかもしれない。メフディエフという素晴らしい器を通してモイセーエフの世界が、カルムイクの伝統が、ロシアン・バレエが溢れてくる。それを表現できるだけの器を持っているのだろう。才能のことを「器」と表現する意味が分かるような気がする。メフディエフという器から表現されるすべてがロシアン・バレエでありカルムイクであり、ハヤブサなのだ。自分の中に蓄積された、また自分が生まれる前から脈々と受け継がれてきた数多のものを――恐らく本人ですら気づかないものを含めて――表現しているに過ぎない。(ただし完璧に) メフディエフの舞踊を見ているとそうしたものが浮かび上がってくるのだ。震えが走った。

 

「Kalmyk Dance」で踊り手が自我を捨て振付に忠実になるほどにすべてが捨て去られ自然物、つまり完璧なハヤブサになっていく。矛盾するようだが同時にそれが「ラミール・メフディエフのハヤブサの舞」という強烈な個になっている。なんと不思議なことだろう。

 

それはある意味当然のことかもしれない。私達は皆、体の大きさも考えも育ってきた環境も歩んできた道のりもすべて違う。誰一人として同じ存在などない。同じ振り付けを踊っても生み出されるものはすべて違う。無理をして「個性的な表現」をする必要などない。ただ自分の舞に集中してさえいればそれだけで良いのだ。もちろんプロの舞踊家として鑑賞に値するものを表現しなければならないがそれは振り付け段階で徹底的に検討されているはずだ。舞踊の内容に見合うだけの技術と表現力をもっていればそれは十分に発揮される。だからあとは自分のなすべきことにただ集中してさえいれば――「自分」という意識すら捨てて――それだけで個性的で唯一無二の存在になる。幸運なことにそれが見事にできたのがメフディエフのカルムイク・ダンスなのだろう。

メフディエフは現在31歳にして既にロシアの功労芸術家とのことである。

 

 

Калмыцкий танец. Балет Игоря Моисеева.

Kalmyk Dance動画

https://www.youtube.com/watch?v=hBdB5-vmgIY 

 

 

 

 

 

Alexas_FotosによるPixabayからの画像

 

 

 

 

 

 

 


Kalmyk Dance (前編)

2020-07-11 23:12:34 | コラム

 

以前の勤め先には様々な絵があった。ある時具象と抽象の中間のような花の絵が掛けられた。おぼろげな記憶では3輪のスミレである。茎や葉は具象であるが肝心の花はぺたっとした抽象的な表現であまり良いようには思われない。見る度にモヤモヤし、なぜ作者はこのような表現をするのか気になった。そのうちぺったりとしたとも、ざっと一筆で描き切ったともいえるそれは花のエネルギーを表現したのではないのかと思うようになった。そのようにして見ると作者の意図がどこにあるのかわかるような気がしたものだ。

 

しばらくすると新たな絵が掛けられた。ピンク色の背景に優し気なバラがレースを掛けられた花器に活けられ、平和で何とも慎ましやかな暖かい絵である。「ああバラの慎ましさを表現したかったのね。」画家の気持ちが真っすぐ伝わってくるような、画家の人柄さえ伝わるような、そんなやすらぎのある絵。見ていて暖かい気持ちになった。

 

またしばらくすると今度はホールに大きなバラの絵が掛けられる。緑の背景にバラが何本も活けられている。その迫力は何とも言えない。先に挙げた二つの花で表現されたのが「花のエネルギー」「慎ましやかさ」であるならば、今度のバラは「バラそのもの」としか言いようのないものなのだ。形容詞を一切必要とせず、ただ「バラ」としか言いようのない、それ以外の何物でもない、バラのすべてが詰まった「バラ」。圧倒的な存在、桁が違う才能、それを感じずにはいられなかった。あまりの衝撃に、絵の管理者を走って追いかけ画家の名を聞く。管理者は合点がいくとばかりに頷き教えてくれた。荻須高徳だった。

 

最近同じような感動を再び味わう。偶然インターネットから流れてきたバレエの動画で「カルムイク・ダンス(Kalmyk Dance)」という名の不思議な踊りである。黒い衣装の男性三人組が舞う。ハヤブサの舞らしい。勇ましく、敏捷なハヤブサが狩りをする様子だ。広い草原を飛び、膨らませた羽を震わせる。その動きが実に繊細で見事で見栄の切り方なぞは歌舞伎役者のようだ。セットが何もない舞台は草原を見立てている。主役は一人だが脇の二人が時に人間のしぐさで獲物を探す様子を表現する。終盤、主役のハヤブサは大きく舞台を走って回り片手を大きく上に向けた姿勢で旋回を始める。十回も回ったころだろうか突然大きく体を倒し、今度は反対の向きに旋回をする。獲物を捕らえたのだ。軸となる片足は獲物を攻撃している嘴だろう、かかとを大きく右に左に揺らす。荒々しく素晴らしいステップに場内から手拍子が沸き起こる。最後は後ずさりしながら翼を下ろし舞を終える。素晴らしかった。

 

中央アジアの踊りが元になっているようなので調べてみると近年まで遊牧生活をしていたカルムイク(Kalmyk)という民族の鳥の踊りが源流であることがわかる。元の踊りも素晴らしい。3人組で踊るのが基本らしくハヤブサを表現した舞は私が見たバレエと同様に飛ぶ様子や翼の表現を見事なステップと共にしている。祝い事の席で踊られることが多いのか、披露宴や卒業式と思しき集まりで皆笑顔で踊る動画をいくつも見つけた。口笛や手拍子、掛け声が起こり愛される「民族の踊り」ということが伝わってくる。舞台での映像も見られた。踊り手には素人もいたが明らかに舞踊のプロに習ったであろう見事な表現をしている者も少なくない。特にプロと思しきある踊り手は実に伸びやかに軽やかに舞う。こちらも大変素晴らしい。

 

だが素晴らしいものの「民族舞踊」の域を出ていないのもまた事実だったように思える。どれ一つとして私が最初に見た踊りに感じる、心が震えるようなあの感情までは起きないのだ。「何が違うのだろう」心に何ともいえぬ引っ掛かりを覚えて数多くのハヤブサの舞を探し比較を始める。そして気がついた。

 

(「Kalmyk Dance(後編)」に続く)

 

skeezeによるPixabayからの画像

 

 

 


命懸け

2020-07-03 10:39:13 | コラム

皆さん、押さないで下さい。私は逃げも隠れも致しません。皆さんにきちんとお話しします、そのために今日ここにいます。

どうしてこちらに来たのかって?それは皆さん、よくご存じでしょう?普通なら私のような年寄りは孫の成長くらいが楽しみのはずだったのに、そうはいかなかったんですよ、私の場合。なまじ一芸に秀でてしまったからでしょう。「一芸」、ちょっと謙遜し過ぎですかね。ええ、その程度のものではありませんね。

私がこの仕事に就いたのは31歳の時です。当時はまだ世の中もこうした感じではなくて、もう少し余裕がありましたね。将来には希望が持てるというか。私が大学で演劇を専攻したのも女優になろうと可愛い夢を持ったからです。女優として働くうちに縁があってこの仕事に就くようになった訳ですが、それでも70過ぎたこの年まで働けるとは正直思ってもいませんでした。色々なことも見てきましたし、経験も積みました。

2か月が経ちました。印象ですか?そうですね、話すスピードがずいぶんと早いことがまず気になりました。もっとゆっくり話したほうが良いと思います。その方が人の記憶に残ります。若い女性でも話し方が速いから聞き取れなかったり、何だか息が詰まってくるような感じがします。テレビアナウンサーに至っては勉強不足を感じると言ったらひどいとお感じになるでしょうか。原稿を読んでいると「内容をわかって読んでいるかいないか」がはっきりわかります。若いアナウンサーはわかってないまま読んでいるのが伝わってきます。これではすぐに現場からいなくなるでしょう。「上手にできなければ仕事がなくなる」と言ったのが意外ですか?それは偏見です。皆さんが考えている以上に、私のこれまでは能力が仕事どころか人生を文字通り左右する、そういう環境でした。事件の背景に何があるのか、何を伝えるべきなのか、どう表現するべきなのか。そうしたことを判断して表現する。そう、表現力は大事ですよ。こちらでは表現の仕方が通り一遍だと思いました。通り一遍の表現力は私の方ではなかったかって?それは違います。先ほども申し上げたように報道する内容の主体、背景、狙い。そうしたものを瞬時に判断して表現することが求められました。そうしなければすぐ現場からは外されます。あちらではそうでした。皆、命懸けです。

私は一般の人より情報に近い立場にいましたから、取り扱いには常に気をつけていました。家族にだってもちろん話せませんし、同僚にも同様です。ちょっとしたおしゃべりが原因で左遷させられた人は大勢います。それどころか表現の仕方が不十分で左遷させられた人もいます。表現力以前に判断力がなかったのですね。泣いて表現すべきところで彼は泣かなかった。気づくのが遅いのです。普通ならそれとなく周囲に確認するか、スタジオの雰囲気で察するのに。左遷後にその人がどうなったか、ですか?今だから言えますが、2か月間の矯正プログラムを受けました。程度としては極めて軽い方です。これはそれまでの功績がものを言ったからです。

私はこうした中を40年以上生き残って、なおかつトップであり続けました。ここでもそうなる自信はあります。若かったらそうしたかもしれませんね。でも年をずいぶん取りましたから、ゆっくりしようと思います。そうはいうものの相談は受けますし、講演依頼はたくさん来ています。顧問などになるのもいいですね。誰が対象なのかを見定めて動くこと、話すことです。それがすべてですよ。これまでは党幹部がその対象でした。それが変わっただけです。あとは同じ。私はこの2ヶ月、その対象を見定めてきました。この国で誰に向かって言えばいいか、どう表現すればいいかわかりました。もう少し早く亡命していたら、韓国でもトップのアナウンサーになったでしょうね。自信はありますよ。命懸けの40年でしたから。こちらの人たちは甘いです。ふふ、うふふ・・・。


<司会の声>
これでリ・チュニさんの記者会見を終わります。