ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

Kalmyk Dance (後編)

2020-07-11 23:32:34 | コラム

 

 

他は皆、「『ハヤブサの踊り』を人が踊っている」のに最初に見た踊り手だけは「ハヤブサが舞っている」のだ。圧倒的な違い。人間臭さをまったく感じさせず、しぐさのすべて-羽の振るわせ方やツンとした表情の作り方まで-がハヤブサのそれなのだった。バレエ独自の表現やしぐさの美しさはあるけれどもそれすらも「バレエという表現方法を通じて表現しているに過ぎない」と思えるほどハヤブサそのものにしか見えない。これ以外の方法がないのではないかと思えるほどの説得力。

 

同じバレエ団の他の踊り手が同じ舞を同じ衣装でしていても悲しいほど差が明らかである。なまじ同じであるだけに違いが際立ち、手の振るわせ方などはバナナの房が揺れているようだ。何よりも初めの踊り手は動きのどれひとつをとってもすべてが美しくすべてが絵になる、「ハヤブサ」としかいいようのない美しさなのだった。荻須高徳のバラと同じく、それ以外の何物でもない圧倒的で際立った存在。踊り手の名はラミール・メフディエフという。

 

まず技術の高さが際立つ。細かいステップ、足捌き。他の踊り手だと上半身が倒れてしまうところでも真っすぐな姿勢を維持し美しい姿を維持している。動きに無駄がない、そして表現力。手の動かし方、顔だけでなく手のひらや足先までにも表情があり、魅せ方を心得ている。完全に計算され尽くし、配慮され尽くしているのにそれでいて自然な動き。繰り返し見ているうちに涙が溢れてきた。舞踊を見て初めての経験だった。

 

メフディエフの素晴らしさにだけ感動したのではない。一地方の民族舞踊であるカルムイク・ダンスを高度な舞台芸術にまで洗練させた振付師でバレエ団創設者でもあるイーゴリ・モイセーエフの素晴らしさ、ひいてはモイセーエフを、メフディエフを育てたロシアン・バレエの伝統と層の厚さまで感じずにはいられなかったのである。

 

モイセーエフは単にカルムイクの舞踊を模倣したのではない。しっかりとした理解の上に構成し直しバレエという洗練された舞台芸術にまで高めている。イーゴリ・モイセーエフ・バレエ団(Igor Moiseyev Ensemble)ではスターを作らないことをポリシーにして他のバレエ団ならスター級の踊り手でも、ソロを躍らせる一方で群舞も当たり前のようにさせる。「一緒に」がモットーなのだ。私はバレエには不案内なので他のバレエ団のことはまったくわからないが、同団では決められたように踊ることを厳しく要求されているようだった。あのメフディエフですら、練習中に「あなたがどんなふうに踊りを変えたか気づいている?」「パートナーからスポットライトを奪ってはいけない」と注意されている。不思議なことにソロパートで他の人と同じ振付を踊るほどメフディエフの才能は際立つ。それでいて群舞の時は見事に全体の一部になっている。

 

メフディエフは素人の私でもわかるほど間違いなく素晴らしい才能を持っている。しかしその彼すらも器に過ぎないのかもしれない。メフディエフという素晴らしい器を通してモイセーエフの世界が、カルムイクの伝統が、ロシアン・バレエが溢れてくる。それを表現できるだけの器を持っているのだろう。才能のことを「器」と表現する意味が分かるような気がする。メフディエフという器から表現されるすべてがロシアン・バレエでありカルムイクであり、ハヤブサなのだ。自分の中に蓄積された、また自分が生まれる前から脈々と受け継がれてきた数多のものを――恐らく本人ですら気づかないものを含めて――表現しているに過ぎない。(ただし完璧に) メフディエフの舞踊を見ているとそうしたものが浮かび上がってくるのだ。震えが走った。

 

「Kalmyk Dance」で踊り手が自我を捨て振付に忠実になるほどにすべてが捨て去られ自然物、つまり完璧なハヤブサになっていく。矛盾するようだが同時にそれが「ラミール・メフディエフのハヤブサの舞」という強烈な個になっている。なんと不思議なことだろう。

 

それはある意味当然のことかもしれない。私達は皆、体の大きさも考えも育ってきた環境も歩んできた道のりもすべて違う。誰一人として同じ存在などない。同じ振り付けを踊っても生み出されるものはすべて違う。無理をして「個性的な表現」をする必要などない。ただ自分の舞に集中してさえいればそれだけで良いのだ。もちろんプロの舞踊家として鑑賞に値するものを表現しなければならないがそれは振り付け段階で徹底的に検討されているはずだ。舞踊の内容に見合うだけの技術と表現力をもっていればそれは十分に発揮される。だからあとは自分のなすべきことにただ集中してさえいれば――「自分」という意識すら捨てて――それだけで個性的で唯一無二の存在になる。幸運なことにそれが見事にできたのがメフディエフのカルムイク・ダンスなのだろう。

メフディエフは現在31歳にして既にロシアの功労芸術家とのことである。

 

 

Калмыцкий танец. Балет Игоря Моисеева.

Kalmyk Dance動画

https://www.youtube.com/watch?v=hBdB5-vmgIY 

 

 

 

 

 

Alexas_FotosによるPixabayからの画像

 

 

 

 

 

 

 


Kalmyk Dance (前編)

2020-07-11 23:12:34 | コラム

 

以前の勤め先には様々な絵があった。ある時具象と抽象の中間のような花の絵が掛けられた。おぼろげな記憶では3輪のスミレである。茎や葉は具象であるが肝心の花はぺたっとした抽象的な表現であまり良いようには思われない。見る度にモヤモヤし、なぜ作者はこのような表現をするのか気になった。そのうちぺったりとしたとも、ざっと一筆で描き切ったともいえるそれは花のエネルギーを表現したのではないのかと思うようになった。そのようにして見ると作者の意図がどこにあるのかわかるような気がしたものだ。

 

しばらくすると新たな絵が掛けられた。ピンク色の背景に優し気なバラがレースを掛けられた花器に活けられ、平和で何とも慎ましやかな暖かい絵である。「ああバラの慎ましさを表現したかったのね。」画家の気持ちが真っすぐ伝わってくるような、画家の人柄さえ伝わるような、そんなやすらぎのある絵。見ていて暖かい気持ちになった。

 

またしばらくすると今度はホールに大きなバラの絵が掛けられる。緑の背景にバラが何本も活けられている。その迫力は何とも言えない。先に挙げた二つの花で表現されたのが「花のエネルギー」「慎ましやかさ」であるならば、今度のバラは「バラそのもの」としか言いようのないものなのだ。形容詞を一切必要とせず、ただ「バラ」としか言いようのない、それ以外の何物でもない、バラのすべてが詰まった「バラ」。圧倒的な存在、桁が違う才能、それを感じずにはいられなかった。あまりの衝撃に、絵の管理者を走って追いかけ画家の名を聞く。管理者は合点がいくとばかりに頷き教えてくれた。荻須高徳だった。

 

最近同じような感動を再び味わう。偶然インターネットから流れてきたバレエの動画で「カルムイク・ダンス(Kalmyk Dance)」という名の不思議な踊りである。黒い衣装の男性三人組が舞う。ハヤブサの舞らしい。勇ましく、敏捷なハヤブサが狩りをする様子だ。広い草原を飛び、膨らませた羽を震わせる。その動きが実に繊細で見事で見栄の切り方なぞは歌舞伎役者のようだ。セットが何もない舞台は草原を見立てている。主役は一人だが脇の二人が時に人間のしぐさで獲物を探す様子を表現する。終盤、主役のハヤブサは大きく舞台を走って回り片手を大きく上に向けた姿勢で旋回を始める。十回も回ったころだろうか突然大きく体を倒し、今度は反対の向きに旋回をする。獲物を捕らえたのだ。軸となる片足は獲物を攻撃している嘴だろう、かかとを大きく右に左に揺らす。荒々しく素晴らしいステップに場内から手拍子が沸き起こる。最後は後ずさりしながら翼を下ろし舞を終える。素晴らしかった。

 

中央アジアの踊りが元になっているようなので調べてみると近年まで遊牧生活をしていたカルムイク(Kalmyk)という民族の鳥の踊りが源流であることがわかる。元の踊りも素晴らしい。3人組で踊るのが基本らしくハヤブサを表現した舞は私が見たバレエと同様に飛ぶ様子や翼の表現を見事なステップと共にしている。祝い事の席で踊られることが多いのか、披露宴や卒業式と思しき集まりで皆笑顔で踊る動画をいくつも見つけた。口笛や手拍子、掛け声が起こり愛される「民族の踊り」ということが伝わってくる。舞台での映像も見られた。踊り手には素人もいたが明らかに舞踊のプロに習ったであろう見事な表現をしている者も少なくない。特にプロと思しきある踊り手は実に伸びやかに軽やかに舞う。こちらも大変素晴らしい。

 

だが素晴らしいものの「民族舞踊」の域を出ていないのもまた事実だったように思える。どれ一つとして私が最初に見た踊りに感じる、心が震えるようなあの感情までは起きないのだ。「何が違うのだろう」心に何ともいえぬ引っ掛かりを覚えて数多くのハヤブサの舞を探し比較を始める。そして気がついた。

 

(「Kalmyk Dance(後編)」に続く)

 

skeezeによるPixabayからの画像