ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

Laingの作り方

2019-08-26 22:05:33 | グルメ
タロイモの葉のコココナッツ・ミルク煮込みの作り方です。
私はまだ作っていませんがフィリピンの知人がレシピを送ってくれました。どうやってタロイモの葉を手に入れよう?

https://www.kawalingpinoy.com/laing/?fbclid=IwAR0VYneGFDOx1QisI_SjVp1BaD7dnL8dBCXS_ZvCFn-tSQ5okADBHDnWxRs

土井善晴さんにも教えてあげたい🎵

おいしいフィリピン料理

2019-08-25 16:13:56 | ほっ





フィリピン料理店がもっとあればいいのにというくらいおいしい!
スープにはパイナップルやグァバが入っていて複雑な酸味と味わい。その横はタロイモの葉のココナッツ・ミルク煮込み。味が2種類あって日本のきゃらぶきのような感じ。ご飯に混ぜて食べます。地域によって味が違うようです。

私が無口になる理由

2019-08-25 13:40:47 | 日記



フィリピンに行ってきた。初めてのフィリピンで気づきが満載だ。東南アジアはこれまでも何か国か行ったけれどなぜか今回は違いとその影響がとても気になった。

マニラの街を歩く。着いてすぐ現地の知人から「ながらスマホ歩きはひったくりに遭うから危険」との親切な注意を受けたが、そもそもそんな気が起きない程のデコボコ道。危ないですねと言ったら東南アジアに詳しい同行者から「信号があるだけマシだよ」と言われてしまった。マニラ市内を車で走ればガタガタ揺れて車酔いをしてしまう。すぐ渋滞にはまる。郊外へ行くとマニラから車で2時間程度なのに高速道路を降りてから信号というものがまったくない。「フィリピンが遅れている」ということがいいたいのではない。問題はその先にある。

フィリピンの人とサツマイモの輸出の話をする。タロイモがあるフィリピンでは身近に感じられるのではないかと思ったからだが、返ってきた答えは意外なものだった。「地方から集めるのはコストが掛かり過ぎる。」ここで私の脳裏に浮かんだのはデコボコ道なのである。確かにあの道を使って集荷してマニラなり港なりまで運搬するのはコストも時間も掛かりそうだ。ましてや島が多い国ということもある。さらに「配送」の概念も日本とは大きく違うであろうことも容易に想像できる。時間や冷蔵配送の指定ができる日本の宅配業者と、郵便ですらきちんと届かないフィリピンの配送事情の違いを想像して欲しい。おまけに少子高齢化の日本と違い、フィリピンでは国内需要だけで十分かもしれない。(ここはまだ調べてないので確たることはいえないが)これらの違いが脳裏に一瞬にして浮かんでしまうのだ。

国立の研修施設に滞在した。「研修施設」という言葉から日本人が恐らく無意識の内に想像するのは「自分でする」だ。布団は自分でたたむし、ホテル並みのサービスを期待してはいけないとの了解が前提としてある。しかし私が滞在した研修施設はホテル並みのサービスといって良いような所だった。古く簡素な建物と設備ではあったけれどポーターが荷物を運び、ティータイムには会議室の外でスタッフがコーヒーと茶菓の提供をしてくれる。この背景にあるのは何だろうと考えたのは雇用機会の創出(何といっても国の施設である)、それから少子高齢化と真逆の社会だった。そしてこれは思想の違いだろうか「自分のことは自分でする」という文化、社会構造ではないということも感じた。

これはフィリピンへの批判ではない。メイドやポーターという職業が当たり前にある社会構造と背景にある文化、思想の違いを感じたということなのである。だからそうした国の人が日本滞在をすると、(日本人からすると)「なんで席を離れた時に椅子を元の位置に戻さないの?」「食べた後の散らかりがひどい」というような事態になる。

そういう訳で何か一つ話すと、「これ伝わらないだろうな」というような気持ちになってしまう。説明しようとしても相手にどこまで理解してもらえるのかわからない。同じ単語を使ってもそこからイメージするものはまったく違うものになっているはずだから。(前述の「配送」や「道路」から浮かぶイメージの違いを考えてみて欲しい。)この背景説明は難しくて膨大なものになるだろう。わかってもらいたいと伝えようとしても複雑過ぎたり、相手にそこまで知りたいとの興味がそもそもないかもしれない。もしくは言葉としては理解されても実感としてどうしても伝わらない等の問題が容易に想像されてつい無口になってしまう。少なくとも大きな隔たりを感じる。

言葉は厄介だ。実際に伝わるものが違っているかもしれないのに「この言葉を使ったから自分の考えている意味がそのまま通じる」と無意識の内に思ってしまう。そうした思いがひと言話す度に何度も浮かぶ。目眩がしそうだった。とはいえ、そこで諦めては何も始まらないので気力や知恵を振り絞り、理解の架け橋を作ろうとするのである。この「理解のためのインフラ建設」は実際の橋と同じくらい大変で労力と気力が必要で価値ある仕事と思うのだけれど。

ボヘミアン・ラプソディ

2019-08-17 21:14:31 | コラム

遅ればせながら映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。クィーンの音楽と才能を持つ人間が才能があるがゆえに蝕まれていく様子が描かれていた。
クィーンの名前も知っていてその音楽はラジオやテレビCMを通して知っていたけれど、それがクィーンであると認識していない程度なのでとてもコラムにする程の見識はない。書いたらファンに叱られそうだ。そこで何を書くかというとそんな私があの映画を見ていいなと思ったことを2点ほど。

映画で紹介された音楽は聞き覚えのある、つまりは大ヒット曲で「ああこれもクィーンなんだ」と今さらながら知った次第で申し訳ないくらいだ。英語の曲を聴いて内容を理解できる程の英語力は私にはないので声やメロディー、テンポ、音の構成などで曲の好き嫌いを判断するしかない。それでももちろんいい曲だとは思っていたけれど映画で字幕付きで紹介されると自分の中の「いい曲だ」の言葉が途端に厚みを持ってくる。これは人に支持される曲だ、人の心を歌っているんだと感じる。「伝説のチャンピオン」(これ、他に訳しようがなかったのだろうか?)「ウィー・ウィル・ロック・ユー」「レディオ・ガガ」がそうだった。日本のポップソングは恋愛に関するものが多くてどうも甘ったるい曲に流れがちで。恋愛の歌も悪くないけれどそれだけではね。「人間、恋愛だけがすべてではないでしょ」とか言いたくなる。ロックもあるけれど、どうもメロディーや音の構成が「歌える」感じではなくていま一つ。(好きなものもあるけれど)

もう一つはフレディ・マーキュリーがエイズの診断を下された後に病院の廊下を歩くシーンについて。サングラスで顔を隠し帽子を目深に被って歩く後ろ姿に向かって少年が「エーオ」と静かに、まるで独り言のように声をあげる。コンサートでファンと一体になるためにフレディがよくする掛け声の交換だ。フレディは立ち止まり、間を置いた後ほんの少しだけ少年の方を向き短く「エオ」と返す。嬉しそうに微笑む少年。しかしその少年の顔は明らかにエイズの症状が見られる。そう、その病棟の廊下に座る少年もまたエイズ患者なのだ。

ここで掛け声を返したら自分の正体と病が世間にバレてしまうかもしれない。しかしこの病棟にいる少年もまた自分と同じ不治の病を持つ。そして病気だけでなく、スーパースターであり、ゲイであり、複雑な背景を抱えるが故に少年の持つ孤独ややるせなさを誰よりもわかる自分。なればこそ励ましたい。少年もスーパースターを見つけて嬉しさと同時にフレディへ同じことを思っただろう。同じ病を持つ二人だからこその交感。そして(フレディがファンとの間に望んでいた)一体感と励まし。
「君もなんだね。」
「そう僕も。そしてあなたも。」
そんな声が聞こえてきそうな静かで悲しくて暖かくて、相手への労りに満ちた一瞬の一体感。それまでのストーリーのすべてが反映されて観る者に幾重もの思いを抱かせる良いシーンだった。