ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

行ったり来たり

2018-11-23 23:49:36 | コラム

私の名は漢字で書くと男のような名前である。読みは女につけられるごく一般的なものだが漢字表記にすると男性と間違われることがしばしばある。まず頂戴するものがアメリカ軍戦闘機及び爆撃機のセットだったり(この本格的なF15は私の自慢の一品だった)、野球チームのマスコット柄の布団だったりと、まず女子には贈らないだろうというものがよくあった。子供の頃にこういうものが普通にあるとそれが日常となる。幼馴染には男の子もいたのでウルトラマンやF15で、あるいはリカちゃん人形やぬいぐるみで遊ぶことがそれぞれ違和感ないものとなる。

外見も男の子に間違われることが多く(スカートをはいていたら、何年も通院していた小児科の女医さんに「あら、女の子だったんですか?」と言われたことがあるそうな。)、まあ性格形成に多少なりとも影響していたと思われる。

得をすることも多い。それは就職活動の時で、男性と間違われることで書類審査をどうも突破していることがあるらしいのだ。履歴書の頭に写真を貼付しておいたにもかかわらず、面接で「女の人だったんですね。」と驚いたように言われたことがあった。自分が男性と女性との間を行ったり来たりするのは時に楽しい。最近はジェンダー学の観点から性別にとらわれない名前をつけることがあるが、私の家では数十年も前にそうしたことが(学術的観点からではなく、単なる偶然で)行われていた。

長じて、名前には二つの役割があることに気がつく。ひとつは個人名などの名称としての役割。そしてもう一つは分類としての役割である。名称と分類は重複している面も多いので紛らわしいが、踏み込んでいえば分類としての側面は、ややもすれば枠にはめることに繋がる。例えば、私達は「男女」という名前、「年齢」という名前、「経歴」「学歴」といった名前によって個体を分類していくと同時に、それらを枠にはめてしまい一つ一つを見なくなってしまう傾向にある。個体一つ一つは異なっているのに便利な名前に頼り切ってしまう。名前も便利なものであるけれど普遍的なものではなく、仮のものに過ぎないはずなのに。

こうしたある種、哲学的なことに気がついたのは仕事をするようになってからである。ある職場で渡されたマニュアルの一つに「新たなビジネスチャンスを見出すためには一度そのものを新たな目で見直す必要があります。これは○○とあるけれど、○○をもう一度見直すとそこにはその言葉にとらわれない、数多くの機能や側面があることに気づくでしょう。そこにビジネスチャンスがあるのです。」というような印象的な文章に出会った。マグカップを例にとってみよう。「マグカップ」という言葉で私達はこれを「ものを飲む器」として捉えるが、そこに土を入れて植物を植えれば植木鉢になる。アロマキャンドルを入れればキャンドルホルダーにもなるし、きれいなガラスキューブを入れたり、取っ手を糸で吊るせばオブジェにもなる。料理で調味料や食材を入れボール代わりに使うこともできる。アイスキャンディーを作る容器にもなり、子供にとっては人形の家にもなる。そこに多くの可能性がある。衝撃的とすらいって良かった。

人生の前半では名前を付けることや名前を覚えることが、人生のある時点からは名前から離れることが大事なこととなる。私達は何だかとても不思議なことをしている。一番大事なことはものの本質を見ることに変わりはないはずだけれど。名前と本質との間を行ったり来たり自在にできることが優れたアーティストや開発者、詩人なのかもしれない。私につけられたあらゆる名前から離れてみると、はてさて私は一体何者なのだろう?