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今ふたたび後藤新平の名が取り上げられている。125年前の日清戦争後に未曽有の帰還兵23万人のコレラ検疫を数か月で成功した後藤。今また取り上げられる理由は明白だ。新型コロナウィルスの影響で「令和の後藤新平はいないのか」という文脈で語られているのだ。
後藤新平はいかにして大検疫を成功させたのか。「なぜ後藤新平がなしえて現代に生きる私たちができないのか」、そんな疑問に答えるべく後藤新平を調べることにした。これはその読書ノートで今回は鶴見祐輔著『<決定版>正伝 後藤新平2』(藤原書店、2004年)と御厨貴著『<決定版>正伝 後藤新平 別巻』(藤原書店、2007年)の一部をまとめている。
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~後藤新平が選ばれた理由と体制づくり~
相馬事件で獄中にあった後藤新平は無罪放免、出獄後に多くの友人により雪冤会(祝賀会)を催された。石黒忠悳(ただのり)は新平の無罪判決を知るやすぐに電報を打ち広島に招いた。当時広島に(日清戦争時)日本の大本営が置かれていて「日本の中枢神経があったところ」である。石黒は明治10(1877)年の西南戦争に大阪陸軍臨時病院院長だった人物で日清戦争時は野戦衛生長官をしていた。西南戦争時に大阪陸軍臨時病院の試験を受けるように新平へ勧めたことは「読書ノート1 似島大検疫所の大成功は後藤新平ひとりによるものではない 似島大検疫所の成功は後藤新平ひとりによるものではない」に記した。新平の出獄後については世間の耳目を集め、陸奥宗光にいたっては伊藤博文に「あの男には、早く何らかの椅子を与えてやらなければならぬ。このまま浪人させておくと、あの男は社会党を起こすかもしれぬ。」と言ったらしい。
この石黒は真に大した人物で無罪判決わずか1か月半の新平を中央衛生会委員に再び推挙する。そしてこれにより日本は今日語り継がれるようにコレラ検疫で大成果を上げ世界の検疫事業の基本となるのだった。
このコレラ検疫の大成功は新平一人の力によるものではない。
凱旋兵への検疫実施を建言したのは野戦衛生長官の石黒忠悳である。明治8(1875)年アメリカ留学時に研究した南北戦争における傷病兵や病院の問題、西南戦争での経験などから、陸軍大臣へ軍隊検疫設備の必要性を上申、明治28(1895)年1月20日には内務大臣野村靖に内国防疫励行の建言書を提出している。また同時期に中央衛生会委員長でも長谷川泰による同様の建議を審議中であった。両者の審議をした結果、広島の大本営に委員を派遣して協議することが決定し。その委員に後藤新平が選ばれたのである。
石黒忠悳の建言書の内容は以下のようなものである。
・出征軍人の衛生療病は対処しているが、軍夫従丁の場合帰国後について自分の管轄外ではあるが十分な警戒監視をしなければ内国に伝播する恐れがある。
・したがって、帰国軍夫従丁の内、創傷者と伝染病者を宇品に収容し、広島陸軍予備病院で軍人と均一の治療を受けさせた。(十中六、七がそれに該当する。)
・出兵及び帰還が宇品、馬関(下関)に限定されていることから警戒監視収集の便は難事ではないが、各軍の凱帰(凱旋)に各港に上陸させ、各所に散帰させた場合は十分な警戒監視を加えても、地方においてもまたこれに応ずる計画がなければ伝染病が播及する恐れがある。
そうした中、新平はまず川上操六将軍の下へ行くが後方勤務(衛生・守備の務め)のため児玉源太郎陸軍次官の下に行くよういわれる。児玉もまた、既に石黒の建議により会談前から検疫実行を決断していた。話は検疫の実行方法へと移る。すぐに児玉が「凱旋軍人、軍属ならびに陸軍用船にかかわる一切の検疫は陸軍省がその責に任じ、内地の検疫は内務省の責務であるべきだと。議は直ちに決した。余(筆者注:後藤)は深く児玉閣下の英断明快に復した。」次にこの軍隊検疫の実行に当たらせるか、費用概算の問題へと話は進んだ。
この当時、いかに普墺戦争、普仏戦争、南北戦争についての所見があったとはいえ、諸外国にこのような大検疫の経験、つまり参考とすべき「先進事例」はなかった。それゆえ実行する人物に求められるものは多大なるものがある。後藤新平こそがふさわしいと考えたのが前述の石黒忠悳だ。野戦衛生長官である石黒こそが本来は責任者となるべきであったが征清大総督府に従い旅順に行くことが決まっていたため適任者として新平を児玉に推挙したのであった。児玉は出獄したての新平を使うことに躊躇したものの一度会ってみよとの石黒の言葉に従い会うことにするそこで新平に決めたもののさらに他からの意見も聞き、その推賞を得るに至り新平に任せることにした。
しかし当の本人の新平がなかなか引き受けない。出獄時に官吏には二度とならないと決意しているからということであったが一方で事業の困難さを認識していることもあるかもしれない。児玉はそこで経費に話題を移し経費について尋ねた。
新平は費用を100万円と答えた。石黒は巨額といったものの新平の算出を聞くと納得する。児玉はその場で「150万出したならば、きっとやってくれることができるか」と答えた。100万円との金額を聞いてすぐに150万円といった児玉に感心しつつ、それでも駄々をこねた新平に対して、臨時陸軍検疫部官制を改正し、文官が陸軍の行政を担当する職を明治28(1895)年に初めて設けた。
臨時陸軍検疫部官制
- 臨時陸軍検疫部ハ、陸軍大臣ノ監督ニ属シ、伝染病ヲ予防スル為メ、地方官ト相待テ、戦地ヨリ帰港スル船舶ノ検疫ヲ施行ス。
- 臨時陸軍検疫部ニ左ノ職員ヲ置ク。
一 部長
二 事務官
三 書記
部長ハ陸軍将官、事務官ハ陸軍上長官士官、書記ハ下士ヲ以テ之ニ充ツ。但事務官及書記ハ、必要ノ場合ニ於テ、他ヨリ之ヲ任用スルコトヲ得。
他ヨリ任用スル事務官ハ奏任(首相が任命)、書記ハ判任(部署の長官が任命)トス。
- 前条職員ノ外技術家ヲ嘱託スルコトヲ得。
- 部長ハ陸軍大臣ノ指揮ヲ受ケ部内ノ事務ヲ管理ス。
- 事務官ハ上官ノ指揮ヲ受ケ、庶務ニ従事ス。
- 書記ハ上官ノ指揮ヲ受ケ、庶務ニ従事ス。
- 検疫施行ノ方法及検疫所ノ位置ハ、陸軍大臣之ヲ定ム。
児玉源太郎陸軍大臣代理が部長となり、その下の事務官長が後藤新平である。ここに児玉・後藤の有名な関係が始まった。
さて、この臨時陸軍検疫部の組み立ては「彼らが苦心の末に作った陣立て」(p.282)であった。凱旋兵は死線を超えようやく帰国の途に就く。将官であればなおさら並の人間の言うことを聞くものではない。しかし石黒のように将官達の若かりし頃から知っている人間なればわがままをいわせないが急遽旅順へ行くことになった。新平では石黒のように抑えが効かない。そこで石黒は児玉に「部長は必ず君がやられよ」といい、児玉を臨時検疫部長に、新平を事務官長とした。実際は「何もかも後藤君が一人でやったのである。」(p.283)
それを可能にしたのは児玉の強力なバックアップであるが法的にもそれが可能であるようにした。
「臨時陸軍検疫部検疫規則」
- 臨時陸軍検疫部長ハ事務官以下ヲ指揮シ、各臨時陸軍検疫所ノ業務ヲ監督シ、陸軍検疫ノ一切ノ事務ヲ担任ス。
- 臨時陸軍検疫部長ハ、事務官以下ノ職員招集、若クハ差遣(派遣)、又ハ部外ニ交渉シ、検疫事務ノ完行ヲ期スベキモノトス。
- 臨時陸軍検疫部長ハ、必要に応ジ、傭人ヲ使用スルコトヲ得。
そして第五として、次のように定めた。
事務官長ハ部内一切ノ事ヲ管知シ、部長ノ命ヲ承ケ、検疫方法ヲ計画シ、部内事務ノ整理ニ任シ、且ツ部長事故アルトキ、又ハ部長ノ委任ヲ受ケ、成規定例アルモノハ、代リテ之ヲ処理ス。事務官長ハ各部団隊及諸官衙(役所)ニ対シ、其名ヲ以テ、文書ノ往復ヲ為スコトヲ得。
これにより事務官長のほぼ独断専行による検疫事業を執行し得る仕組みを成立させたのだ。
「何もかも後藤君が一人でやった」とはいえ石黒の配慮はすべてに行き届いている。今の時代もっと評価されても良さそうなものだ。新平もまた石黒が引き立てたくなるような人物だったのだろう。
<感想>
・検疫を実行するにあたっての法的根拠をして事務官長の「ほぼ独断専行による」検疫事業を可能とするバックアップ体制を事前にきっちり敷いていた。
・児玉源太郎との関係が有名だが、検疫事業をよく知る石黒忠悳や中央衛生会委員長の長谷川泰の建言書が事前に協議されていた上での検疫実施である。
・石黒はもちろん初対面の児玉ですら「この人物なら」と思わせる人間性が後藤新平にはあった。
・児玉もまた即座に後藤を心服させるほどの人物である。