ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

命懸け(再掲)

2019-10-09 12:08:18 | 小説

皆さん、押さないで下さい。私は逃げも隠れも致しません。皆さんにきちんとお話しします、そのために今日ここにいます。

どうしてこちらに来たのかって?それは皆さん、よくご存じでしょう?普通なら私のような年寄りは孫の成長くらいが楽しみのはずだったのに、そうはいかなかったんですよ、私の場合。なまじ一芸に秀でてしまったからでしょう。「一芸」、ちょっと謙遜し過ぎですかね。ええ、その程度のものではありませんね。

私がこの仕事に就いたのは31歳の時です。当時はまだ世の中もこうした感じではなくて、もう少し余裕がありましたね。将来には希望が持てるというか。私が大学で演劇を専攻したのも女優になろうと可愛い夢を持ったからです。女優として働くうちに縁があってこの仕事に就くようになった訳ですが、それでも70過ぎたこの年まで働けるとは正直思ってもいませんでした。色々なことも見てきましたし、経験も積みました。

2か月が経ちました。印象ですか?そうですね、話すスピードがずいぶんと早いことがまず気になりました。もっとゆっくり話したほうが良いと思います。その方が人の記憶に残ります。若い女性でも話し方が速いから聞き取れなかったり、何だか息が詰まってくるような感じがします。テレビアナウンサーに至っては勉強不足を感じると言ったらひどいとお感じになるでしょうか。原稿を読んでいると「内容をわかって読んでいるかいないか」がはっきりわかります。若いアナウンサーはわかってないまま読んでいるのが伝わってきます。これではすぐに現場からいなくなるでしょう。「上手にできなければ仕事がなくなる」と言ったのが意外ですか?それは偏見です。皆さんが考えている以上に、私のこれまでは能力が仕事どころか人生を文字通り左右する、そういう環境でした。事件の背景に何があるのか、何を伝えるべきなのか、どう表現するべきなのか。そうしたことを判断して表現する。そう、表現力は大事ですよ。こちらでは表現の仕方が通り一遍だと思いました。通り一遍の表現力は私の方ではなかったかって?それは違います。先ほども申し上げたように報道する内容の主体、背景、狙い。そうしたものを瞬時に判断して表現することが求められました。そうしなければすぐ現場からは外されます。あちらではそうでした。皆、命懸けです。

私は一般の人より情報に近い立場にいましたから、取り扱いには常に気をつけていました。家族にだってもちろん話せませんし、同僚にも同様です。ちょっとしたおしゃべりが原因で左遷させられた人は大勢います。それどころか表現の仕方が不十分で左遷させられた人もいます。表現力以前に判断力がなかったのですね。泣いて表現すべきところで彼は泣かなかった。気づくのが遅いのです。普通ならそれとなく周囲に確認するか、スタジオの雰囲気で察するのに。左遷後にその人がどうなったか、ですか?今だから言えますが、2か月間の矯正プログラムを受けました。程度としては極めて軽い方です。これはそれまでの功績がものを言ったからです。

私はこうした中を40年以上生き残って、なおかつトップであり続けました。ここでもそうなる自信はあります。若かったらそうしたかもしれませんね。でも年をずいぶん取りましたから、ゆっくりしようと思います。そうはいうものの相談は受けますし、講演依頼はたくさん来ています。顧問などになるのもいいですね。誰が対象なのかを見定めて動くこと、話すことです。それがすべてですよ。これまでは党幹部がその対象でした。それが変わっただけです。あとは同じ。私はこの2ヶ月、その対象を見定めてきました。この国で誰に向かって言えばいいか、どう表現すればいいかわかりました。もう少し早く亡命していたら、韓国でもトップのアナウンサーになったでしょうね。自信はありますよ。命懸けの40年でしたから。こちらの人たちは甘いです。ふふ、うふふ・・・。


<司会の声>
これでリ・チュニさんの記者会見を終わります。

 

 

 

(作者注) 昨年12月掲載記事の再掲。


エコ ここ コロコロ

2019-10-06 23:36:29 | コラム
幼かった頃、買い物には買い物かごやバッグを持って行くのが普通だった。レジ袋をくれるのはスーパーくらいで、多くの商店ではレジ袋はなく八百屋などでは紙や新聞紙に包むこともあったように思う。豆腐屋にはボールを持って買いに行く。個人商店はどんどん減っていきスーパーなどの大型店舗、チェーン系の店舗での買い物が日常となるとレジ袋の使用も日常となる。それに並行して買い物袋を常に携帯する、私の母親世代には一般的だった習慣も薄れていった。

最近になりそれがエコ、地球にやさしいということで「買い物袋」は「エコバッグ」と名前を変えて再登場する。洒落たデザインのものが多数販売されていることはご存知の通りだ。風呂敷も見直され、そしてそれが「オシャレ」「カッコいい」扱いとなっているのは結構なことである。「義務」では喜ばれない。オシャレ、カッコいいものなら人は喜んで取り入れる。

飲料はどうかというとサイダーの瓶に始まり、自動販売機では紙コップ、缶飲料とのお付き合いが長く続く。缶飲料の世界も変化があって200mlが350mlに変化したのはいつだったか。350mlの缶を見た時にはずいぶんと寸胴に感じたものだ。そしてある時から「缶入り飲料は環境にやさしくない、海外では再利用可能なペットボトル入り飲料に移行している。まだ缶入り飲料を置いているのは日本くらいだ」とか、外国人が「日本のコンビニの冷蔵ケースを見て缶入り飲料がまだあるのに驚いた」と語る報道が盛んにされるようになった。そうしてペットボトル飲料に移行していったのだが、私はこの一時大量に流れた報道を胡散臭く思っている。なぜならこうした報道がいうところの「海外」ではいまだに缶入り飲料が販売されているからである。

「海外では」の報道は恐らくペットボトルに移行するための「根拠キャンペーン」なのだろうが、そうした時やたらと「海外では」式の比較を出すのはどんなものだろう。かつて問題となったテレビ番組のことを思い出す。米国人学者が英語で紹介する学説の日本語訳が本人のものとはまったく違う内容だった、あの捏造事件のことである。外国人のいうことなら「最新でありがたみのあるもの」という私たちのどこかにある思いの脆さを突く事件のようだった。時期としては捏造事件の方が後だが、あの事件で感じた嫌な感じと同じものをペットボトル普及時のキャンペーンにも見る思いがしたのだ。

そうしたら今度はペットボトルが、というよりプラスチックが「環境にやさしくない」ことになってしまった。なんでもプラスチックごみが海及び海に住む生物に多大な悪影響を及ぼしているらしい。だからレジ袋もペットボトルも減らさないといけないそうなのである。まあ何と「環境にやさしい」の定義がコロコロと変わること。その時々の発見と技術事情によるから仕方のないことだとは思うけれど一方で胡散臭くも思ってしまう。

缶入り飲料から、いいやその前の瓶入り飲料から次の段階へ移行する時、なぜマイボトル(水筒)にならなかったのだろう? 環境への意識が当時それほど高くなかったことがあるからかもしれないけれど、でもそこには産業界の事情があったのではないか。化粧品業界では長らく詰め替え販売は難しいとされてきた。「衛生上問題がある」ということで。しかしボディ・ショップが詰め替えを始めそれが世に受け入れられるやどうだろう、いまでは大手化粧品会社の商品も詰め替え用商品を普通に販売している。シャンプー、ボディーソープ、その他洗剤類も同様だ。そういう訳で私はこの、その時々でコロコロ変わる「環境にやさしい」の定義を胡散臭い目で眺めている。

ところで缶からペットボトル飲料への移行期にはほぼ無くなってしまった文化がある。ストローだ。缶入り飲料の時までは缶に直接口をつけて飲むことはラッパ飲み、「行儀が悪い」とされていた。少なくとも家で飲む時にはコップに注いで飲みなさいといわれたものだ。外で飲む時にはストローをつけて飲むのが(女性の場合)好ましいとされ、コンビニのレジの横にはストローが置いてあった。しかしペットボトルになってからは女性でもラッパ飲みをするのが普通になったのが少し哀しい。あまり見栄えのする光景ではないように思うのは私だけだろうか。え?ストローのプラスチックは環境に悪い?
・・・・・・あ、そうですか。





感謝!

2019-10-05 13:08:49 | 仰天

昨日の朝ブログへのアクセス数激増に気づく。
どこかで紹介されてる?でもどこかは不明。(お心当たりの方はお申し出下さい。)とにかくブログ村のコラムで1位に、gooブログでも一時100位以内に入りました。

皆様ありがとうございます!

それにしても人気記事が「白髪」と「テレビの中の身長」というところに人間における関心事の真実を見出した感があります。