ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

コロナ引きこもり過激派予備軍的生活

2020-10-04 23:49:25 | コラム

 

 

コロナ感染拡大でご多分にもれず自宅にいることが多くなった。引きこもり生活をしている内にYoutubeや各種SNS閲覧の機会が一気に増え、新たな発見を日々している。これは良い面。興味あるテーマをどんどん追っていくことができるし、関連テーマも表示される。「あなたにおすすめ」でこちらから追わなくてもあちらから紹介もされるため中毒症状を起こすほどどっぷり漬かっている。一日中好きなことに没頭できるのは幸せなことのはずなのに困ったことにも気がついている。社会からどうも隔絶されているようなのだ。コロナ禍ということもあり、いつも以上に人との接点がなくなっている。つまり「社会から隔絶されSNSにはまり、しかもある特定のテーマに偏っている」、どこかで聞いたことはないだろうか。そう、これは正しく過激派思想にはまる世界各地の青年の行動パターンそのものだ。

 

実際、政治的にどうも偏っていると思しき投稿が巧妙に登場してくる。ISがアルゴリズムを相当分析してSNS上での表示回数を増やし、ポップな音楽などでクリックさせようと努力していると報道されたが成功しているというか、音楽の投稿を探しているのにそうした偏った投稿も一緒の画面に登場する。爆弾テロとは関係なさそうにしても、過剰な「ニッポン(あるいは○○)すごい」とでもいうような礼讃モノだったりすることもある。自国の素晴らしい点はもちろん認識すべきだけれど疑問符をつけたくなるものもあった。それと反対の投稿ももちろんあるがそちらも反論の根拠がなく感情的な主張を効果的な音楽と印象に残る映像で訴えるだけのものもあり、考えさせられてしまった。

 

四六時中、一方的に送られてくる情報の波にどっぷりと浸かっている。しかもコロナ禍で他人との接点が極めて限られた中でだ。主体的に好きなテーマを追っているはずがいつの間にか脳が乗っ取られ状態になっている。これが健康的であるはずがない。しかも相手(クッキー)はこちらの趣味嗜好を熟知している。う~む。

 

おまけにその手法が文字ではなく映像というのがある種危険であることを付け加えておきたい。文字情報なら読中、読後に読み返しや考えることができる。しかし映像は一方的なスピードについていく必要があり且つ一過性の性格が強いため(通常短い投稿映像を読み返しのような繰り返し見る人はそれほど多くはないのでは)自らの頭で考えることが少なくなっているはずだ。

 

何だか教師が書くような文章になってきたけれど教師でなくとも心配になってくる理由がそこにはある。最近30代くらいの世代と話していて「考えない」「感情で判断する」ことが多いことに気がつく。相手のいっていることがどういうことなのかを考えず、「何かをいわれたことイコール非難されている」とだけで捉えてしまう。日本人の議論下手の点として良く挙げられるけれども、これがさらに悪化しているように感じる。その「非難」への反応のしかたも驚くほど感情的で稚拙だ。無視、ふくれ顔、無作法な態度。言葉で自らの考えを適切に主張する努力すらしない傾向が強くなっているようである。あるいは私が歳を取っただけかもしれない。原因は何かと自分なりに探っていく内に「言葉を鍛えていない」からではないかと考えるようになった。つまり読書量が少ないために言葉に含まれている意味やそれに込めた相手の深いメッセージを読み取れない、言葉の違いを使い分けできていないのではないかと。同じ30代でも読書好きのある女性は語彙が非常に豊富で自分の気持ちを適切に表現する。これを見てもこの考えはそう間違ってはいないのではないかと私は考えている。30代から下の世代はメールに親しんでいるため文章を書くのが得意といわれるがそれでも絵文字に頼らない文章はどこまで書けて、コミュニケーションはどうなっているのだろう。

 

他国の学校教育では論理学や議論をしっかり学ぶというが日本人はこれから太刀打ちできるだろうか。 それとも他国の若者も同様にSNSに慣れ切って読書量が減っているから大丈夫なのか。そうするとお互いに感情的な物事の受け止めや反応しかできないはずで世界全体にとっても大変な時代が来ることになるのかもしれない。

SNSを楽しみながら最後は何ともいえない恐ろしさを感じてしまうのだった。