ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

エコ ここ コロコロ

2019-10-06 23:36:29 | コラム
幼かった頃、買い物には買い物かごやバッグを持って行くのが普通だった。レジ袋をくれるのはスーパーくらいで、多くの商店ではレジ袋はなく八百屋などでは紙や新聞紙に包むこともあったように思う。豆腐屋にはボールを持って買いに行く。個人商店はどんどん減っていきスーパーなどの大型店舗、チェーン系の店舗での買い物が日常となるとレジ袋の使用も日常となる。それに並行して買い物袋を常に携帯する、私の母親世代には一般的だった習慣も薄れていった。

最近になりそれがエコ、地球にやさしいということで「買い物袋」は「エコバッグ」と名前を変えて再登場する。洒落たデザインのものが多数販売されていることはご存知の通りだ。風呂敷も見直され、そしてそれが「オシャレ」「カッコいい」扱いとなっているのは結構なことである。「義務」では喜ばれない。オシャレ、カッコいいものなら人は喜んで取り入れる。

飲料はどうかというとサイダーの瓶に始まり、自動販売機では紙コップ、缶飲料とのお付き合いが長く続く。缶飲料の世界も変化があって200mlが350mlに変化したのはいつだったか。350mlの缶を見た時にはずいぶんと寸胴に感じたものだ。そしてある時から「缶入り飲料は環境にやさしくない、海外では再利用可能なペットボトル入り飲料に移行している。まだ缶入り飲料を置いているのは日本くらいだ」とか、外国人が「日本のコンビニの冷蔵ケースを見て缶入り飲料がまだあるのに驚いた」と語る報道が盛んにされるようになった。そうしてペットボトル飲料に移行していったのだが、私はこの一時大量に流れた報道を胡散臭く思っている。なぜならこうした報道がいうところの「海外」ではいまだに缶入り飲料が販売されているからである。

「海外では」の報道は恐らくペットボトルに移行するための「根拠キャンペーン」なのだろうが、そうした時やたらと「海外では」式の比較を出すのはどんなものだろう。かつて問題となったテレビ番組のことを思い出す。米国人学者が英語で紹介する学説の日本語訳が本人のものとはまったく違う内容だった、あの捏造事件のことである。外国人のいうことなら「最新でありがたみのあるもの」という私たちのどこかにある思いの脆さを突く事件のようだった。時期としては捏造事件の方が後だが、あの事件で感じた嫌な感じと同じものをペットボトル普及時のキャンペーンにも見る思いがしたのだ。

そうしたら今度はペットボトルが、というよりプラスチックが「環境にやさしくない」ことになってしまった。なんでもプラスチックごみが海及び海に住む生物に多大な悪影響を及ぼしているらしい。だからレジ袋もペットボトルも減らさないといけないそうなのである。まあ何と「環境にやさしい」の定義がコロコロと変わること。その時々の発見と技術事情によるから仕方のないことだとは思うけれど一方で胡散臭くも思ってしまう。

缶入り飲料から、いいやその前の瓶入り飲料から次の段階へ移行する時、なぜマイボトル(水筒)にならなかったのだろう? 環境への意識が当時それほど高くなかったことがあるからかもしれないけれど、でもそこには産業界の事情があったのではないか。化粧品業界では長らく詰め替え販売は難しいとされてきた。「衛生上問題がある」ということで。しかしボディ・ショップが詰め替えを始めそれが世に受け入れられるやどうだろう、いまでは大手化粧品会社の商品も詰め替え用商品を普通に販売している。シャンプー、ボディーソープ、その他洗剤類も同様だ。そういう訳で私はこの、その時々でコロコロ変わる「環境にやさしい」の定義を胡散臭い目で眺めている。

ところで缶からペットボトル飲料への移行期にはほぼ無くなってしまった文化がある。ストローだ。缶入り飲料の時までは缶に直接口をつけて飲むことはラッパ飲み、「行儀が悪い」とされていた。少なくとも家で飲む時にはコップに注いで飲みなさいといわれたものだ。外で飲む時にはストローをつけて飲むのが(女性の場合)好ましいとされ、コンビニのレジの横にはストローが置いてあった。しかしペットボトルになってからは女性でもラッパ飲みをするのが普通になったのが少し哀しい。あまり見栄えのする光景ではないように思うのは私だけだろうか。え?ストローのプラスチックは環境に悪い?
・・・・・・あ、そうですか。






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