第0094号
*****(制作進行中)*****
『ちび猫のつぶやき』(営業)はこちらから。
『ちび猫のつぶやき』(主張)はこちらから。
『ちび猫のつぶやき』(記録)はこちらから。
新着の紹介はこちらから
68.ちび猫が見付けた『パラダイム』の自由議論(2)を参照して下さい。
令和6年度版
科学に心を足そうとしたパラダイム論。【4月23日・火】
科学に心が無いから近代科学文明は人が生きづらいのだと言われているが、
本当はそんな近代科学を何とかしようとして、
科学に人の心(『前後が反転した時間認識』での『特定の土台の上』や『歯車のシステム』の『閉塞した世界観』)を足そうとしてパラダイム論を膨らませた(ノーベル賞で盛って、理想のものだとスリ変えた)事が、
人の世を生きづらいものに決定付けたのである。
令和5年度版
*パラダイム論の裏主旨(補足)。【5月26日・金】
{特定の活動組で}役立ちたいのに役立っていなくてうなだれる(理想の納豆食をするが自由(歯車のフリー)にならず納豆嫌いになってしまってうなだれる)のではなく、
勝手(勝手な納豆食)を楽しんでいる人(待機組)で在ってほしい。
活動組(待機組の排除)で頑張ったのに{大きなお金を{ヒエラルキーに相対して}動かした割りには}成果を上げられなくてうなだれる人とか、
待機組(活動組の非難)で努力したのに{大そうな危機管理を唱えた割りには}評価を得られなくてうなだれる人とかではなく、
{大全体の構成員としての}勝手(自分の好みや都合の優先)が出来ている{納豆嫌いでうなだれていないで、勝手な納豆食をする:ヒエラルキーに相対したお金の流れ(配分)の末端だとうなだれていないで、買ったら高額の【生きた水】の活用品で生活を豊かにする}人で在ってほしいし、
勝手(理想(自由(歯車のフリー)になる事)とは違うコト)を楽しんでいる{自分とは違う納豆食の排除や非難などしない:アリの巣のシステムでの待機組の為だと言って(危機管理だとして)歯車システムでの特定の活動組(現存世界で頑張っているモノたち)を否定したりしない}人で在ってほしい。
*パラダイム論の裏主旨。【5月26日・金】
安心安全の為にヒエラルキーに相対する事を目指しか結果が『理想形追求』であり、
閉塞世界の打開の為に神への奉納を目指した結果が『貢ぎ過ぎ』であり、
危機管理の為に淘汰を目指した結果が『待機組不足』である。
三段論法の家畜の安心や手垢塗れの中のペットの安全の為だとする、
{神の預言に基づく}ヒエラルキーに相対する事を理想形として追求する事を、
{お金の使い方がヒエラルキーに相対する指示命令系統の範疇(お金が流れて(配分されて)特定の指示に効力が発生する)に限られているように}誰もがそれを当然の事として{無自覚に無条件で、反省転嫁までして}受け入れてしまっているものだから、
理想形の追求(特定のパラダイムの形成)には{理想の納豆食で納豆嫌いが生み出されるように:向き不向きが明確に出る世界(パラダイム)を科学が作るように:経済活動の末端にはお金の流れ(配分)が少ししか来ないように}格差が生じてしまう。
前後が反転した時間認識に基づいた特定の土台の上に物事が積み上がる閉塞世界観を打開する為だとする、
{「個人の自由(歯車のフリー)」や「社会の歯車のシステム(特定の活動組)」への妨害(邪魔モノ)となる『世界の理』の創造主であり、不条理を生み出す悪魔かもしれない存在であって、理性的には信仰は難しくても、信仰しているという事(自分の姿)に利が生じる}神への奉納を目指して{大きな下心で、やり過ぎるぐらいに}貢(ミツ)ぐ事を、
{独善であろうと偽善であろうと、募金がされて社会福祉の充実に貢献するのであれば、それ(募金)は善であると認知されるのと同じように信仰を認識して}誰もがそれを当然の事として受け入れてしまっているものだから、
神への奉納での{過ぎた}貢ぎには{打算に付きものの}過度な欲求(見返りが少ない時(閉塞した事態)の過剰な不満や怒り:『世界の理』に邪魔(人の世の閉塞:砂上の楼閣の人の営み)される:不条理(特定の土台の上で積み上げた物事(特定のパラダイム)が破綻する)な事態)が生じてしまう。
禍根を残さない事で不満を噴き出させないようにする危機管理の為だとする、
{歯車のシステムでの交換・廃棄を駆使しながの}淘汰の上手な乗り切りを目指す事を、
{自由(歯車のフリー)にならない{特定の活動組での、自分が下手クソな}事にうなだれて、上手く行く遣り方を{待機組から}探さずに我慢して}誰もがそれを当然の事として受け入れてしまっているものだから、
『待機組不足』による{世界の理を無視した}不自然な肥大化(パラダイムでの進歩:破綻する時は一気に破綻する:何度でも破綻する)が色々な分野で生じてしまう(パラダイム論の裏主旨)。
端的に結論を言えば、
「後進する時間認識での特定の土台の上の閉塞世界観の事を言っているのがパラダイム論(理想の追求:ヒエラルキーに相対する事)だと分かれば、人の世が世界の理を無視するモノ(理想の納豆食:ヒエラルキーに相対したお金の使い方)であるという事が分かり、{そして}それが人の世に不条理(納豆嫌い:貧富の格差)が多発する理由だという事も分かるのです」
という事になる。
*パラダイム論とアンチパラダイムと個別パラダイム。【5月15日・月】
危機管理の名の下に{歯車のシステムでの}現状(閉塞の先送り)の安心安全(三段論法の家畜や手垢塗れの中のペットにとっての{神への奉納によって得られている;強迫観念で形成・維持されている}自由と幸せ)を脅かす(危機感を煽る)のは、テロであり、本末転倒だ。
{前進する時間認識での}アリの巣のシステム(和解(一本化)も両立(一元化)も{反省転嫁はしないで}求めない)の主旨はダメダメで、KY(空気を読まない)で、ブレて{危機管理の担い手予備軍として}待機しつつ、{大全体を構成する}多様性の中の一つとして、現状(閉塞の先送り)を補佐するコトだ。
「閉塞の先送り」も「危機管理の担い手予備軍としての待機」もアリの巣のシステムに於いては、{大全体を構成する:更新していく}多様性の構成員としては同じだ。
{神への奉納に異を唱える}アンチパラダイム(進歩(科学観)が一律で、発展(経済活動)がヒエラルキーに相対している事(強迫観念の、お披露目であるコト)への反感)が個別パラダイム(人が「名もない花」で在る事により、人の世の営みがアリの巣のシステムになる)の原動力であるのは確かだ。
パラダイム論(一律に縛られる事や、その縛りが繰り返される事の正当化)を危機管理の下で否定し、ノーベル賞(ノーベル財団を含めて)を非難(タネを隠したマジックショーへの不満)するのは、個別パラダイムが交換・廃棄の対象として{自制心(理性:ケダモノ以下な事が出来る)によって}邪魔モノ扱いされ、アンチパラダイムが{自由(歯車のフリー)に対しての勝手として}テロ指定されるのと同じだ。
*『パラダイム論』はタネを隠した{手品の}ショーである。【4月14日・金】
『パラダイム論:パラダイムのシフトチェンジは理想の進歩である』はタネを隠した{手品の}ショーであり、
そのタネが『パラダイムの呪縛:パラダイムのシフトチェンジは物事を積み上げる特定の土台を{みんなで一様に}交換するだけの{一律に行われる}事で、{積み上げに於いて閉塞するのは必然で}人間(人の世の営み)は閉塞からは逃れられない』である為、
その事(タネ)は公然の秘密とされていて、
『パラダイムシフト』が{可能性の広がりとして}肯定的に扱われる事はあっても、『パラダイムシフト』が{人間が枷で縛り続けられる}否定的な意味で使われる事はない。
人類学者は『パラダイムの呪縛』の公表を先のゴールに{設定}して、
{権威に従順な善良な市民との不要な諍いを避けて、穏便にノーベル賞を目指す為にも}それに向けた方向を示唆(シサ)する研究・開発(「可能性は各個の先に在るもので、みんなの一律な行いの先に在るだけのものではない」の提起:「各個の可能性が一律にされる事による人の世の営みの閉塞」や「各個の可能性の広がりによる人の世の営みの可能性の更なる広がり」を提言する)をするのが良いと思うのです。
*エントロピーの復原の普遍化。【4月11日・火】
内部から末端へと向かう作用の働き掛け(「外部から掛かる力」だとされている)が無ければエントロピー(乱雑化)は復原しないハズだとされ、
内部から末端へと向かう作用の働き掛けの継続でエントロピーを{効率よく}遅延させる事(復元の必要を無くす)も出来るハズだとされていて、
内部から末端へと向かう作用の働き掛けをノーベル財団は{ノーベル賞を授与する危機対応(画策)で}推奨しているように見えるが、
{それに倣って}内部から末端へと向かう作用の働き掛けの研究や活動をしても{ノーベル財団による危機対応である}ノーベル賞が授与される事はない。
{勝手には起こらないハズの}エントロピーの復原の普遍化(内部から末端へと向かう作用の働き掛けでは困難)でノーベル財団に{ノーベル賞を授与する}危機感を抱かせる事が出来るハズなので、
{勝手には起こらないように常識化されている}前後が反転した時間認識の修正(時間認識の前進)の普遍化や、
{勝手には起こらないように画策されている}パラダイムの多重化(パラダイムの個別形成)の普遍化の為に、
{歯車のシステムに於いて交換・廃棄の対象にされるので通常は忌避されている}内部へと向かう末端からの作用の働き掛け(「時間認識の前進」や「パラダイムの個別形成」に欠かせないアリの巣のシステムで、本来の「外部から掛かる力」である)に取り組めば、
ノーベル財団にノーベル賞の授与を考えさせる事にはなると思う。
*内部へと向かう末端からの作用の働き掛けの普遍化。【4月10日・月】
エントロピー(乱雑化)には否定的で、
パラダイム(特定の土台の上:閉塞(破綻)の先送り:エントロピーの先延ばし)には肯定的なのがノーベル財団で、
その為の画策がノーベル賞の授与である。
「エントロピーが至り切った大全体の肯定」を仄(ホノ)めかす事がノーベル賞への近道になるように、
「破綻に縛られた人の世の営み(否定的な認識)としてのパラダイムの認識」というパラダイム論の修正を仄めかす事もノーベル賞への近道になる。
パラダイム(特定の土台の上:閉塞(破綻)の先送り:エントロピーの先延ばし)を破綻させているモノがエントロピー(乱雑化)で、
「パラダイムのシフトチェンジ」は「エントロピーの復原」である。
エントロピーの復原には外部からの作用が必要であり、
パラダイムを形成している人の世の営みでは{内部から向かって}末端へと作用の働き掛けをしている(パラダイムの持続:エントロピーの放置)だけなので、
エントロピーの遅延(至り切りの先延ばし)は起こっても、
エントロピーの復原(パラダイムのシフトチェンジ:{内部へ向かって}末端から作用の働き掛けをする)は{勝手には}起こらない。
ノーベル賞を目指すというのであれば、
ノーベル財団がエントロピーの遅延の継続(放置)を
{安寧(閉塞(破綻)の先送りによる歯車のシステムの持続:神の預言に従うコトによる神の加護の享受)の為だとして}
推奨している事(それに倣ってもノーベル賞は授与されない)を理解した上で、
{勝手には起こらないハズの}内部へと向かう末端からの作用の働き掛けの普遍化
(パラダイムの理想認識やエントロピーの否定認識を{前後が反転した時間認識を前進に変更するように}修正する)
の研究・活動
(生きた水(エントロピーが至り切った水)の意義の探究(向上)を自分の好みや都合で優先させるような個別な研究:「ダメダメで良い、KYで良い、ブレても良い」を唱えながら秩序の追求より真実の探求を優先して行うような勝手な活動)
をして(普通はしない事やみんなはしていないコトをする)、
{神の預言から逸脱する:歯車のシステムに支障をきたす}危機感を{ノーベル財団に}抱かせれば良いのです。
*意図的な科学で作られる歯車システムの弊害。【2月19日・日】
{後進する時間認識での:軍隊型の}歯車システムどうしは{《作用》が送り側に働いていて反発し合うので}ぶつかり合うし、
{物事が積み上がる土台の上の:指示命令型の}特定の歯車システムに於いては{《作用》が受け側に働いてしまうと反発し合ってしまうので}メンテナンス(交換・廃棄)が必要だし、
{自制心という理性に侵された}各歯車に於いては{勝手が禁じられて}ケダモノ以下な行為が自由(フリー)によって行われるように《作用》が働くものでして、
{各自にとっての}面白い事が自由(フリー)の名の下に{有用性や効率や、正しさや安定が優先されて:自堕落とされて}制限されてしまい、
{向いた人だけが上位になるような}人為的な科学(発展や進歩:理想の納豆食)が蔓延(ハビコ)って大多数の者が底辺(倫理道徳で憂さ晴らしに追われる:向上に追われて大切なモノを失う:納豆嫌い)に追い立てられ、
{誰もが自分の好みや都合を優先できずに:みんながさまよい続けて:理想の納豆食の枷(カセ)に縛られて}パラダイムが{文明に於いて}形成されて来たのです。
令和4年度版
*更新が続く世界で、繁栄と殺戮が繰り返される1000年の魔法。【12月11日・日】
{自由は勝手とは違うを基軸にした}歯車システム(『攻撃 悪の自然誌』の実験水槽と同じ不自然なモノ)の{パラダイム変換(シフトチェンジ)を目指す事が大前提(縛りとなっている)の}パラダイム(科学進歩や経済発展という名の土台:その上で閉塞が進行する)の構成員としての人間の{歯車としての:自由(フリー)が大事とされる}有様(在るべき姿とされるもの)が『倫理道徳』によって{魔法が人々に掛けられて}示されていて、
闇呪文(ダメで良い、KY(空気を読まない)で良い、ブレても良い。など)が唱えられずに{予備軍にも持ち駒にもなれず}更新を続ける世界に{パラダイム変換(シフトチェンジ)を何度も繰り返しつつ}人々が(人の営みが}取り残されてしまい、
人の世に繁栄と殺戮が繰り返されて来たのだが、
それがまだ1000年は続きそうなのである。
*悪循環が{一律な進歩が続いて}断続し、破綻が次々と起こる。【9月11日・日】
「進歩(発展や繁栄:正しい事)の追求の邪魔になるモノを交換・廃棄する(追求をゴリ押しする)恐怖政策(恐権体制)である事により、誰にとっても好きではない事(次々とする効率性や有用性の追究の結果)の追求を{一律に}させられている」という{不自然さの極みである}人の世である事によって、
理想の納豆食が普及する事により納豆嫌悪が増加してしまうわけであり。
{納豆嫌悪が増加するように}人々の活動が機能不全に陥って(みんなが{一律に}破綻に陥って)しまうと、
{納豆に代わる}次の何かの効率性や有用性の追究が{進歩が続くように次々と}行われて、
その{追究された事の}追求が{パラダイム変換が起こるのと同じように}みんなに{次々と一律に}提供(交換・廃棄のゴリ押し)される事になって、
人々が自主的に{一律に}追求する事による{みんなが納豆嫌いになるような}事態(破綻:交換・廃棄が必要になり(ゴリ押しされ)、その{ゴリ押しされる}交換・廃棄によって陥る:パラダイム変換が必要になる原因であり、パラダイムが形成されている事によって必然的に起こってしまう)が次々と{悪循環が{一律な進歩が続いて}断続し}起こるわけでありますが。
{それは}バラバラな進歩を{みんなの}誰もがするようになる{前後が反転した時間認識に基づく閉塞した世界観が修正されて、大全体(更新する多様性による無限性)を構成する予備軍が充実する1000年先}まで続くのです。
*老朽化認識による予備軍の否定により人の世は閉塞している。【8月6日・土】
人間の存在の仕方を
{人間社会を{歯車の}システム(特定の土台の上:パラダイム)とした上での}
歯車
(閉塞した世界(回転軸)に縛られた{大事なのはフリー(自由)に回転できる事である}存在)
だと思っていて(魔法が掛けられている)、
{当然のように「自由(フリー)は勝手(歯車がこれである事(老朽化が原因:パラダイムが破綻する原因)によってシステムに支障を来(キタ)す)と違う」と言って}
大全体を構成する予備軍
(様々なシステムの再構築(多様性の更新)を行う事を可能にする多種多様な歯車)
を否定
(問題の原因となる{歯車やシステムの}老朽化(土台の上が閉塞して行く特定の土台の{魔法の根幹をなす}間違った認識:パラダイム変換(シフトチェンジ)が必要な古いパラダイムの{魔法の根幹をなす}間違った認識)したモノ(歯車としての功労者やシステムとしての責任者)を交換・廃棄(人為的に出来る最高の進歩)の対象にする)
していて(魔法世界の在り様)、
何か不都合が起こったときに
「老朽化した歯車やシステムを交換・廃棄したりパラダイム変換(シフトチェンジ)したりすればいいんだ」
と{無意識に}考えてしまって(魔法の問題点)、
{予備軍の不足によるシステムの硬直を歯車やシステムの老朽化と{無自覚に}決めつけて}
頑張って{支えて}きていた人や物事を{理不尽に}交換・廃棄してしまい
(魔法世界である人の世の{繰り返される歴史の}実態)、
パラダイム変換(シフトチェンジ)に期待してしまい
(人の世(魔法世界)の{現代人に{ノーベル賞によって}上掛けされた魔法による}新たな問題解決の先延ばし)、
{『動物愛護』を理由に野良猫の虐待が推奨(野良猫などについての相談をすれば、たいていの獣医は「迷い猫や捨て猫には餌をやるな!」・「野良の子猫は水をかけて追い払え!」と言い、{懐いた野良猫を}保護して{家で屋内飼いにしたいと}連れて行けば「犯罪行為だ!!」と{禁鳥を捕まえて持って来たかのように}言う)されるのと同じで、『SDGs』を理由に{先進国の発展の持続を目標にして}発展途上国の低所得者たちへの差別の持続が推奨される事が懸念されるというのに}
最近は『SDGs』で問題(老朽化認識による予備軍の否定により、人の世は{予備軍の少なさによりシステムが硬直したものになっていって}閉塞している)から{国も企業も研究者も若者も}目を逸らしている
(人の世の未来を悲観する発言は{利口ぶって}するが、{システムから得られる既得権益の持続を目指し、これまでの人の世を支えてきた功労者や責任者や産業や文化に老朽化のレッテルを貼って、交換・廃棄を{理不尽に}断行する愚かさの}具体的な話し(「前後が反転した時間認識による、閉塞した土台の上である、パラダイムの形成(繰り返し)への疑問」や「『倫理道徳』を反省転嫁してしまう理不尽さを無くす為の{「ダメで良い・ダメと思われて良い・誰がダメでも良い(みんながダメでも良い)」や「ダメな老後で良い・ダメな死に方で良い・死後評価がダメでも良い」を日常的に唱える}闇魔法の呪文」や「『自由は勝手と違う』と言うときの自由は歯車の自由(フリー)であるという指摘」)を言うと、反社会的だとして拒絶する)。
*通勤通学の風景を観る、今はそれで良いのです。【6月17日・金】
人は所属している集団の為に{自由(フリー)に}動く歯車のようなモノ(パラダイムを構成する者たち)でしかなく、
物事は歯車で動く時計(所属している集団の集合場所に向かう通勤通学の{交差点や駅や電車内などの、同じ事が毎日繰り返される、殺伐とした}風景観)のようなモノ(パラダイム論によって暴(アバ)かれるハズだった愚行や蛮行)でしかなくて、
人の世は{まだ1000年間は}ただ観ている事しか出来ないのですが、
今はそれで良いのです。
*出来る事が無くても、それで良いのです。【6月16日・木】
パラダイム変換(思考の枷)による縛りからの人類の解放には1000年を要しますから、
今の時点で{社会に対して}出来る事(大全体を構成する予備軍としてする{一択にならないで付加になるだけの}個人的な闇処世術以外の事)は本当に無い(無理を通そうとして一択に祭り上げられれば、ノーベル賞を受賞した『トーマス・クーン』の『パラダイム論』の二の舞である)のです。
闇魔法の呪文(「ダメで良い・ダメと思われて良い・誰がダメでも良い」や「ダメな老後で良い・ダメな死に方で良い・死んでからダメと評価されても良い」)を広めようとしても{旧来の倫理道徳が邪魔になって}誰からもまともな話しだとは思ってもらえませんし、
自由(フリー)を自由(個人の好みや都合の優先)に改正しようとしても{自由の番人を気取って「自由は勝手とは違う」と言う人たちに{交換・廃棄の対象にされる}レッテルを貼られて}誰もまともに取り合ってくれませんし、
前後が反転した時間認識を修正しようとしても{閉塞した世界観の問題をパラダイム変換への近道として認識している人たちから{特定の土台(パラダイム)とは違う土台を個別に持つ事を}パラダイムからの逸脱(通常進歩を鈍らせ、パラダイム変換を遅らせる)として警戒されてしまって}誰も見向きもしませんが、
今はそれで良いのです。
*パンドラの箱の災いを排除し、希望の実現に狂喜する人間への問題提起であったパラダイム論。【3月10日・木】
パンドラの箱から出た災い(抵抗)を拡散(累積)させない為に、
人々は{前後が反転した時間認識の}歯車システムを{みんなで見張って}意識して、
歯車のメンテナンス(交換廃棄:パラダイムの形成)に勤しみ。
パンドラの箱に残っていた希望(パラダイム変換)に期待し、
誰もが
{土台の上に積み上げる物事を{累積する抵抗になりそうなモノの徹底排除(歯車の交換廃棄:魔女狩り)をして}破綻させないようにしながら}
待ち焦がれていて、
{問題提起であったハズのパラダイム論の神聖視が妄信される中で}パラダイム変換に{理想の進歩が実現できたと}狂喜乱舞する。
令和1年度版
*生存競争の為に、データが回収されると、実験を進歩させていた。【11月8日・金】
1000年“後ろ”の時代までは。
ノーベル賞などに踊らされた様々な分野の
{【大全体】に於ける{アリ的集団な関係にある}多様性(多くは予備軍である)の意義(世界の更新の可能性)の事を隠蔽し、生存競争の厳しさを誇張して示した『進化の図:意図的欠陥品』から、非情さをスリ込まれた}
研究者たちが色々な努力を積み上げ、
そして{それが究極の進歩と信じて}目指して来たパラダイム変換
(自然に由来していて自然から派生する【根幹土台(【生きた水】の水槽:水替えをしてしまうと積み上げられた有用性(世界の更新履歴)が失われてしまう)】が無い為に必然的に破綻(自然との不適合)に至ってしまう、枠組と名付けられた『張り出し土台(『悪の自然誌』に於ける実験水槽(特定のパラダイム):魚が入れてあれば水替えが必要になるし、その魚は損傷し病気に至るし、データの回収と伴にその実験水槽(特定のパラダイム)も必要性を失う)』が
{全員による全員の為のものだという大義名分で、土台を{不良コピーである{人間の}個々による多くの{実験的}積み上げを{良いモノ(実験データ)だけを収穫して他は捨ててしまう淘汰(実験水槽(特定のパラダイム)の水(文化)を魚(人)ごと廃棄してしまう)を目指して}ただ均(ナラ)すだけではなく}直面している破綻の連鎖から逃れる為に{全てを無に帰すように}掘り起こしてしまう行為(実験水槽(特定のパラダイム)の交換)を、波動エンジン(宇宙人から提供された宇宙戦艦ヤマトの機関部:人類にとっての『お金』)のようなモノを{監視者である神などから}危機的状況に於いて{超越的に}提供されているかのように{優越感に浸って}認識してしまって}
その時々で{画期的に}差し替えられて来たのだと{破綻からの打開策(実験水槽(特定のパラダイム)の超越的作り直し)を全員に受け入れられた事(共有された事)が正当性の証しになると{妄信し}縋(スガ)って}思い込んでいる(実験データを回収してからの実験水槽の作り直し・交換を、飛躍的な進歩の繰り返しだと錯覚している)だけの{ノーベル賞などによってスリ込まれた}楽観的妄想)
を迎えるに至るその度(タビ)に、
{必然的に}破綻(実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し・交換の必要性)が極まってしまい。
近代文明は、
{それ以上の}破綻の連鎖
(まずは実験水槽(特定のパラダイム)の水(文化)が悪化する・次に魚(人)の損傷や病気が深刻化する・最終的にはデータの回収により実験水槽(特定のパラダイム)が不要になる)
を止める為に、
全ての淘汰
(破綻に至った{実験データの回収の済んだ}全てのモノの廃棄:次の{段階の}為の実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し:水(文化)や魚(人)を含む実験水槽の交換)
を
{パラダイム変換と呼ばれる現象
(人間が実験水槽(特定のパラダイム)を使った試験(文明化や経済発展などへの「自然からの拒絶反応の強さ」や「自然の拒絶反応への対抗策の効果」などのデータの回収)を担わされ、それが済むと『枠組の交換』の名目によって個々が担って来た積み上げが全廃棄(実験水槽(特定のパラダイム)の廃棄)され、最終的には実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し・交換へと{全員の共有を原則としてパラダイム論が定義されていて、それによって異を唱える事を{それによって自己の安全を得る為の人間世界への貢献(献身の証)として}自分で否定してしまって}至る事の{スリ込みの}連鎖)
として}
繰り返していたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
{実験水槽であった為に自然との不適合(そこからのデータの回収が目的)に陥る事(次の実験水槽(自然の拒絶反応への対策を進めたモノ)を作る為のデータが集められた)の繰り返しであった}
近代文明(生存競争の勝者(『進化の図:アリ的集団な関係や多くが予備軍である事の意義が無視されている』の幹(ミキ)の先端)であり続けようとした事)から離脱し、
{データの回収が済んでから、全ての淘汰として}廃棄されて来た実験水槽の水(文化:古くなった文明や非効率な経済)や魚(人:生存競争の足手纏(マト)い)が再度集められて(集まって)積み上げが{試験的に}行われて、
自然との適合を可能とする【根幹土台】の発見を{『張り出し土台:実験水槽(特定のパラダイム)』とは違う所へ行って}目指していたが、
{それぞれの文明や経済がそれぞれに人間世界への貢献の跡を{認められる形で}未来に残したいと思って、それぞれがそれぞれに共存関係をゴリ押しして}
まとまり(アリ的集団な関係:多くが予備軍である事:世界を更新させる{未来への}可能性)を欠いてしまっていて、
{過去のデータが示すように}成果の上がらない日々に{やはり}甘んじるしかなかったのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
アリ的集団な関係にあるまとまりであり、
多くが予備軍であって、
{それによって}世界を更新させる{未来への}可能性が高まってこそ、
{この世界に於ける、人間も含(フク)んだ}本当の意味での{永く続く}強い自然が【大全体】として成り立つ事から。
自然に於ける【大全体】の概念に基づいた、
人間の誰もがアリ的お一人様な予備軍が、
コツコツと{個々の自由な個別性を最優先で尊重して}育成されているのです。
しかし、そんな今であっても。
それ自体が自然に於ける{それが特別である}とっておきの『スーパーサブ』のような{予備軍を逸脱した}モノ(生存競争の勝者)の追求
(自然を相手(試験対象)にした{人間主体の}実験:さらなるデータの回収を目的に実験を進歩させる事)
をしてはならないのです。
*次のお知らせ。【10月13日・日】
これからは、当ブログ第0092号の【『ちび猫のつぶやき』の(主張)のこれから先の概要】をメイン用例とさせてもらいます。
*誰かの真似はもったいないダケの事。【8月18日・日】
1000年後ろの時代までは、『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』の事を、『共有』される『枠組』(パラダイム論によって示された、人間が背負いこむ『枠組』と『共有』の二重の縛り)によって起こせる、人間だけの特徴として、{誰もが妄信のように}過信していて。
{利権が手に出来る}『共有』される『枠組』の{誰かの真似でもかまわない}一番手の{称号の}争奪戦や、{『枠組』が誰かの真似でもかまわないから、『共有』そのものを利己的に操作しようとする}策略が凄まじく、人の世界に戦争や犯罪が絶えなかったのですが。
しかし1000年後ろの時代からは、『共有』された『枠組』の上に積み上げられる事によって起こるとされていた『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』が{人間を縛って作り出される不自然なモノとして}放棄されてしまい。
それによって、『枠組』とともに『共有』までもが、{人間にとっては過酷なモノだとして}断念されてしまったのです。
そして1000年先の今では、誰もが個々に、{時間に於ける前後認識が正常化された世界観での、【大更新】を起こす無限の多様性のような}様々に広がった可能性から始まる『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』を、個別に追求していて。
{一番手の座を奪(ウバ)い取ったり、陰謀をめぐらしたりして}誰かの真似をしてしまえば、それはとても窮屈(キュウクツ)で、{無限に広がる可能性を自ら閉ざしてしまう}もったいないダケの事なのだと{誰もが}思っていて。
【KY:空気読まない:【大全体】の構成員としてアリ的集団を形成する【アリ的お一人様】の特性:【営業スマイル】の使い道】な言動というものを、{各個に自由である為の羅針盤として}誰もが心掛けてはいるのですが。
しかしそれでも、その【KY】が、誰かと『枠組』として『共有』されるベキだとは、もう誰も思ってはいないのです。
・平成31年度版
*お知らせ。【3月23日・土】
これからは、当ブログ第A0015号の【道路をゆっくり走るのに、・・・】~【道路をゆっくり走るのに、・・・(~~~)】をメイン用例としていくつもりなので、参照していただけたら幸いです。
*お詫び。【3月4日・月】
【ニーチェ】の『神は死んだ』の発言に於けるこれまでの{人類への賛歌としていた}解釈を反転させる自己修正をする事に致しました。修正内容については当ブログ第A0015号の【『神は死んだ』などと言われない為に】を参照していただけたら幸いです。
・平成30年度版
*失敗例から学んで修正の更新を随時行う、修正のパッチワーク。【12月23日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪パラダイム変換がみんなの自己否定となり破綻回避が遅れた、成功の積み上げ≫
1000年“後ろ”の時代までは。{修正が無いまま破綻に至る}人の営みの成果(積み上げの為の成功)にノーベル賞が毎年次々と贈られていて、そんな『成功の積み上げ』そのものでしかないノーベル賞によって表彰されてしまったものの、『成功の積み上げ』である人の世を{反面教師的に}言い表していたのが『パラダイム論』であり、「長年続いて来た『成功の積み上げ』である人の世では、『パラダイム変換』にみんなの《自己の否定》が伴ってしまい、《破綻の回避》の為の修正が{みんなの合意が『パラダイム変換』の条件だと誤解された上に、『パラダイム変換』が究極の進歩だと勘違いされる原因となってしまうように}土壇場まで遅れてしまって、人の営みが{何時までも修正されなくて}必然のように破綻に至ってしまう」という事を{ノーベル財団を巧妙に欺(アザム)いて}言い表していたのですが。しかし、その{反面教師としての}真の意義が広く認知されるコトは、しばらくの期間{ノーベル賞に絶大な権威が集中した為に}無かったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。ノーベル賞に代表される『成功の積み上げ』を野放図に行って来た{これまでの}人の世の傲慢さに羞恥心が働き始め、人の営みの{みんなの失敗例からも学び、更新が随時行われて、個々にパッチワークをするように行う}個別な修正(ノーベル賞の呪いからの解放)に意欲を抱き始めて。
そして、1000年“前(先)”の今では。ノーベル賞が贈られていた《積み上げの為の成功》などに浮かれるコトも無く、人の営みに於ける『修正のパッチワーク』が{他人の失敗例からも学ぶ}謙虚な心で{個々に随時}心掛けられ、{傲慢さによる必然の破綻が付きまとっていた}人の世が本当の意味での成功(争う『小全体』の勝者ではなく、協力し合う【大全体】から必要とされる)に至っていて。人類の栄華(『他のモノ』たちとの協力関係の構築による様々な恩恵の享受)が、ようやく始まったのです。
*『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』を解説した『パラダイム論』。【7月1日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪ノーベル賞により『パラダイム論』が進歩の道標となって産業化や自由市場経済が続いた≫
1000年“後ろ”の時代までは。唯一神教の教義による『人間は不完全で間違いを犯す』という危機感に基づいた「滅私奉公の『組み体操的思考』での、捧げものとしての『バベルの塔作り』により、人間の精神と社会は安定が図られる」という大義名分の下で、『唯一神教社会の組織』は作られていて。
{人間が神から解放された{歓迎すべき}事への【ニーチェ】の{教会などの『唯一神教社会の組織』からの報復(粛清)を恐れての}苦渋の表現であった『神は死んだ』の歴史的発言が、信仰が薄れた社会(未来)への恐怖により発狂した末(スエ)の狂言にスリ替えられたように}
人間が特定の土台(枠組)の上だけに{【多様性】を構築する個々別の個別な取り組みの事(【更新】する【大全体】:『アスキーアート的』に環境対応をする『生きた水』:個々別に貪(ムサボ)り群(ムラ)がっているだけでありながら変幻自在な対応能力を発揮するアリ社会)が削ぎ落されて}物事(科学的な事)を構築してしまう呪縛(『バベルの塔作り』としての産業化)の構造を解説した【トーマス・クーン】の{反面教師として利用されるべき}『パラダイム論』が、{ノーベル財団が【トーマス・クーン】にノーベル賞を授与したコトにより}人間にとっての進歩の道標(個人が個別に取り組んでいる事(権利を持った自由な者として個々別に取り組むコト)には意味が無く、みんなの周知の上に産業化するコトが出来た事が人間の進歩として承認される)として祭り上げられてしまうなどしていて。
{「個々別に利用されて{間違いを犯す}人間を{悪い意味で}強くしてしまうようなものではなく、『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』としての産業化(特定の土台の上だけへの物事の構築:人間を呪縛する)がなされるものが{正しい}科学技術なのだ」というような『唯一神教社会の組織』の{歪(イビツ)な}考え方が、{地球上の}人間社会(人の営み)の様々な方面でも浸透してしまっている事により}
{【多様性】によって物事がなされる}【大全体での更新機能】の代替えである{【大全体】の構成員が【多様性】を構成する時の【単体での更新機能】を切り崩していく}【部分解禁】への過剰な依存(英知という名の下での意図的な乱用)によって人の営みが{それが当然であるかのように}破綻してしまう事や、『倫理道徳の試練』の自己規制に憂さ晴らしが必要である事によって人間(精神、組織、社会)が{それが人間の本性であるかのように}病的化してしまう事や、『時間に於ける前後認識の逆転』が周知徹底されている事によって「『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』を解説した『パラダイム論』が、人間にとっての進歩の道標となってしまっている事」への疑問の発生が{そこに限界点があるかのように}抑止されてしまう事が、人の世に起こり続けてしまったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。ノーベル財団に代表される『唯一神教社会の組織』の弊害が{善良であろうとした訳ではない善良な人々が、その報復(粛清)を恐れずに立ち上がり、人間が善良である自覚を回復させて}認知されて、『パラダイム論』の{反面教師としての}真価が再認識され。
そして、1000年“先”の今では。自由市場経済によって人間性が呪縛される事(配分を受ける個々別の権利の放棄)の危険性(人間からの多様性の消失:【部分解禁】されるコトにより人間(精神、組織、社会)が次々と切り崩されていく)が露呈して、{ノーベル賞の授与による「『パラダイム論』に於ける『個人が個別に取り組むコト』の意義の反転」によって軽視されていた}個々人の自由(個々別な経済活動)が重要視(確保)される配分経済が復活しているのです。
*『パラダイム論』で“連綿性”と“共通性”が重要視されている問題。【6月3日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『パラダイム論』に於ける枠組(その変換)の肯定と並ぶ弊害≫
1000年“後ろ”の時代までは。{『パラダイム論』に於いて}パラダイム変換とは、“連綿”と続く人間集団(小全体)に於ける“共通”した認識(概念)のステップアップ(差別化ではなく底上げとしての有効性の発動:全体としての共通認識となったモノだけが未来と繋(ツナ)がっているので{神と共鳴できたものとされて}評価の対象となり、個人が認識しただけのモノでは未来に影響が残らないので{悪魔が個人を唆(ソソノカ)したものとされて}評価に当たらないとされる)だと定義され、その“連綿性”と“共通性”が重要なのだと{無神論者を含む}誰からも疑われずにいて、{『指示命令系統』の下に入らない“個々別さ”と砂糖の利用に縛られない“自由さ”が欠かせない}『大全体』の構成員の資格としての『アリ的お一人様』での『幸せな想い』や『独立独歩の為の科学技術』など非人間的な蛮行だと決めつけられて{初めから拒絶されて}しまい。『倫理道徳の試練』による憂さ晴らしが無くならない{八つ当たりなガス抜きの正当化の為に制度が作られるような}人間社会や、不自然な人の営みである為に必然的に破綻するモノが作られる{神への捧げ物としての行為であった『バベルの塔作り』と同じ}科学技術産業が、{“連綿”と“共通”されたモノである}当然の事とされて、暴力が{必要悪として}蔓延(ハビコ)り、世紀末思想による『市民運動』や『テロリズム』の促進が活性化してしまったのですが。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。自由な価値認識を個々別に{特定の善悪に縛られずに}持ち、{多次元的で多重構造の}『アスキーアートの世界観』で多角的に過去を{隠していた汚点を掘り起こしてきて}想い、そんな過去をピース(材料)に縒(ヨ)り合わせて{『アリ的お一人様』が織り上げる一点物として}紡(ツム)ぎ、未来を{可変的な}『大全体』として{神への捧げ物とする安心感にみんなして騙されるコトなく}構築していくという事の意義に気付き、『パラダイム論』の下に切り捨てられてしまうハズであった個々人の自由な{過去に生きた者から現在に生きる者までの}想いを大切にするコトが人々に広まって。
そして、1000年“先”の今では。『パラダイム論』に於ける“連綿性”と“共通性”の重要視が、{「人間の思考が縛られる事の繰り返し」への疑問の消失を招いた}枠組(その変換)を肯定したコトと並んで、『パラダイム論』の{二大}弊害と周知され、{隠蔽されるコトなく}人間世界の未来を紡ぐピース(材料)とされているのです。
・平成29年度版
*オカシイものがオカシイと責任追及されてきた時代~5~(概要)。【8月6日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪可笑しいモノを可笑しいと笑える時代へ=パラダイム編=≫
1000年“後ろ”の時代までは。『権力者を支える科学者の側』の者達により、『パラダイム』に縛られた進歩を段階的に繰り返すコト(必要に迫られて枷(未来の為の土台)が繰り返し交換されていて、人の営みの可能性(人の未来観)が『ブロック積みの世界観』によって縛られている状況にある事)が、究極の進歩のように認識され。人間が破綻に至った中途半端なトコロでリセットしてしまって、その先への可能性を潰してしまっている{何回でも繰り返し『ガレキの山:破綻のまま放置されたモノ』が築かれ、破綻が[この世界]の必然であるとしか思えない}状況が、自然なモノ(必然的な悪)として認知されていて。そして、そんな{縛られたまま『ガレキの山』を築き続ける}繰り返しの事が、{『ノーベル財団』により人類に貢献するものとして表彰されて}人類の希望(『パンドラの箱』に残っているとされる、信じる者にだけ見えるモノ)に至る唯一の活動として、恣意的に喧伝(ケンデン)されていたのです。
そしてさらには、『庶民を扇動する知識人の側』の者達により、{宇宙戦艦ヤマトで宇宙人から提供された波動エンジンのように、[この世界]に無かったモノが付与(新発見)されて、それが在る事によって[この世界]に新たな負担が強いられる}『パンドラの箱』の{無いかもしれない}希望をエサにして、人類に尊厳を失った悪足掻き(無様(ブザマ)な人の世)がゴリ押しされていると、近代文明の進歩や、それによる人の営みの繁栄が指摘(責任追及)され。人々は、{無くても済んでいた、無くてもいいモノを、無理して持とうとはしない}誇りを取り戻すべきだとスリ込まれ、破綻を受け入れる風流{無いかもしれないモノをアテにしたりしない潔(イサギヨ)さ}をなんの疑問も抱かずに口にしていて。さらには、デモなどで主張するコトでは飽き足らなくなると、簡単にテロなどに及んでしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『後出しジャンケンは卑怯である』と『後手に回るのは不利である』の矛盾への注目が始まり、『時間に於ける前後認識の逆転:ブロック積みの世界観』による人間の思考の縛り(閉塞した未来観)の事が{無自覚な隠蔽工作が露呈して}露見し、{拒絶する者たちによる反射的な抵抗を無視するコトで}ついに広く公開されて。人々は、『後出しジャンケン』への抵抗を{一般的には}持たなくなり、『後手に回る事』による不利益を{縛りから解放されて}被(コウム)らなくなって。さらには、『パラダイム変換』の繰り返しに至るコトもなくなり、『悪の自然誌』の結果(破綻)の先へも進み始めて。『権力者を支える科学者の側』の可笑しさを笑い、『庶民を扇動する知識人の側』による『権力者を支える科学者の側』のオカシサへの責任追及の可笑しさを笑うようになったのです。
そして、1000年“先”の今では。『後出しジャンケンは卑怯である』と『後手に回るのは不利である』の矛盾への多角的なアプローチが深まり、{『お金』を分配する為の権力を肯定(必要と)する共産主義とは意味の違う}『お金の使用方法』としての『お金の配分』の概念が形成され、より有効な『お金の配分』の為(補填目的)の経済活動に於けるインサイダーの解禁が{その利益が社会に有用な『お金の配分』に使われるのを大前提として}実現していて。そして、商売の才能がより簡単に社会の為に発揮され、お金持ちの浪費がより直接的に社会の為に使われているのです。
*『パラダイム論』から見えてくる『御伽噺』の時代(概要)。【2月2日・木】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『パラダイム論』が適用されている世界の、不思議な『御伽噺』≫
1000年“後ろ”の時代に於いては、「物事を一旦壊さないと、次の進歩のステージに進めない」という『“盤ゲーム”の世界観』から生じた『パラダイム論』が、{『ノーベル賞』などの権威から認められる事によって}人間の進歩に適用されていて。〔人間世界〕では、時間に於ける前後認識が、通常空間に於ける前後認識と、{誰もが権威に従順である為に}逆転していて。人間の精神に於いては、{『古典的な倫理』と『近代的な道徳』の}正義の強迫観念に縛られ、《自分の為の『幸せの“想い”』》を自己否定して、『試練を転嫁する狂気の集団暴力』と『個人を萎縮させて均一化する経済』が、{誰もが安易に『虎の威を借る狐』と見られる無個性を保身の為の隠れ蓑にしてしまう為に}罷(マカ)り通っていて。人間の必然として、《『縄張りの確保』を目指す“攻撃”衝動》が重宝され、『完全理論的思考の世界観』か『特殊理論的思考の世界』かという二者択一のフリをした争いによる排他的行為が罷り通って、{権威に逆らわないコトが上手に利用されていて}【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返しの状況に誰も疑念を抱かないのです。
しかし、1000年“先”の今では、{『“ロール紙”の世界観』や『一般理論的思考の世界観』や《【“大”全体】の概念》などが隠蔽された}そんな〔世界〕事も、不思議な時代の『御伽噺(オトギバナシ)』になってしまっているのですがね。
・平成28年度版
*反面教師であるハズの『パラダイム変換』の転末(概要)。【10月9日・日】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪人間世界の問題点を論じたハズの『パラダイム論』の顛末≫
『パラダイム論』とは、「人に『幸せの想い(想い合い)』を《悪意に取り憑かれる元凶》として拒絶させ、人々を『試練の想い(想い合い)』の強迫観念に陥らせて、人心の{仮初(カリソメ)の}掌握(ショウアク)を目指している、{現代的な}道徳や{{古典的な}倫理」に付き物の『排除の論理(感情・行為)』を正当化してくれる《古いパラダイムの排除》と、「【“大”全体】を形成している【無限の多様性】の、構成員である『個』の【更新機能】を【部分解禁】している、切り崩しの進歩」に付き物の『破綻と進歩の繰り返し』を正当化してくれる《パラダイム変換による革進的な進歩》の二つの柱から成り立っていて、反面教師として論じられるベキモノであるのですが。
1000年も前になるのですが、【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』によって登場して直ぐに、{【ダーウィン】の『進化論』から【“大”全体】の概念が削除されたのと同じように、『完全理論的世界観』の維持を目指していた『唯一神教』によるものなのか}『パラダイム変換』が理想の進歩として持て囃(ハヤ)されてしまい。さらには、人間の{変化を嫌う}グウタラな本性とも相まって、{100年間単位での}しばらくの期間は、人間世界に於ける長年の問題行為を{繰り返して}踏襲(トウシュウ)するコトを正当化するモノとして、『パラダイム論』が認識されてしまったのです。
*『パラダイム論』を誤解していた人々。【9月11日・日】
これは 1000年前としてのお話しです。
≪《多様性のベース》の“切り崩し”がされていた時期≫
ある時期から、《パラダイム変換の反面教師》は、広く一般に認知されていたのですが。それ以前には、「『パラダイム変換』は理想の進歩である」と決めつけての、『敵対者』や『邪魔モノ』を対象にした《『古いパラダイム』の排除》が、{『幸せな想い』を否定したまま}『試練の想い』の執行として感情的に行われていて。その当時の人々は、その精神に《多様性のベース》の“切り崩し”を無制限に起こすに至ってしまい、《排除を前提にした正義》を{『強迫観念』に縛られて}盲信しての『テロ』や『イジメ』を頻発させていたのです。
《パラダイム変換の反面教師》が一般化し、人の歴史の{忌(イ)まわしき}悪循環が断(タ)ち切られ、そして『幸せな想い』により《『試練の想い』による縛り》から人々の精神が解放されるまでは、人間というのは《正義の衣をかぶった狂気》でしかなくて。人間社会というのは、『狂気』が正義の名の下に横行する{《多様性のベース》の“切り崩し”をするだけの}モノでしかなくなっていたのです。
〔人間の精神世界〕に於ける《多様性のベース》の“拡大”に於いては、《パラダイム変換の反面教師》による《論理的縛り》からの解放だけではなく、『幸せな想い』による《『試練の想い』による縛り》からの解放というのも重要で。科学の分野に於いて、《パラダイム変換の反面教師》という考え方が周知されて、〔科学世界〕での《多様性のベース》の“拡大”が進行した後に、その経験(考え方)を踏まえて《『試練の想い』による縛り》の『強迫観念』を暴(アバ)き出し、正義に縛られない『幸せな想い』の実践によって精神の解放を手に入れて、ようやく〔人間の精神世界〕に於ける《多様性のベース》の“拡大”が実現するのですが。その道のりは、長く険しいモノであった様なのです。
*“善”と『パラダム変換』と悲観的な未来観。【7月8日・金】
これは 1000年前としてのお話しです。
『唯一神教』が主導する人間世界(隠蔽された【“大”全体】から【部分解禁】してくるだけの人の営み)であった為、“善”という{【多様性】が無く【更新】もされない}一律で一様な概念を基にした{自由を自主制限し、それを他者にも当然のように要求する}『試練の想い・想い合い』が人々によって広く実施され、多くの人間が{【部分解禁】に伴(トモナ)い【“大”全体】による恩恵を失って}相対的な能力低下による負担増に陥り、当人の知らないトコロで{古いパラダイムのように}“排除”の対象にされてしまいまして。その結果、“善”を建て前(大義名分)に頑張ってしまう{志の高い}人によって、当人には何の落ち度も無い者たちが、『神』への{露骨な}点数稼ぎの為に“強制排除”される破目(ハメ)に陥っていたのです。
これが、実力行使されてテロ行為となり、{主に男性から女性に対してですが}性的に行使されて{DVやストーカーやセクハラなどの}性犯罪となり、科学技術を使って{間接的に}行使されてテクノ失業となっていたのです。
『幸せの想い・想い合い』が解禁されて、【更新する無限に多様な“大”全体】の真理や『一般理論的思想の世界観』が掘り起こされる、1000年後の今に至るまでは、{“善”以外の多様な事が“悪”として神罰の対象とされていた事によって}上記の事が広く認知(周知)されるコトは無かったのです。
1000年後の今の人間世界(多様な『幸せの想い・想い合い』が生み出す自由な精神世界)では、『進化論』が【更新する無限に多様な“大”全体】を取り戻し、『E=mc²』に『一般理論的思想の世界観』が取り戻され、『パラダイム変換』が『反面教師』として再認識されていて。
そして、{お金の}一方向な流れによる{大がかりな試行錯誤が繰り返されるだけの}経済の破綻は、{お金の}個別な循環による{更新する多様な}経済によって回復し。アルコール類の利用による{生物世界や精神世界での}破綻は、『活性はちみつ』の利用によって復元し。テクノ失業やテロ行為による人間世界の破綻は、≪外見上での経済成長がもたらされる{画一的な}善意の発動と、{パラダイムが変換されていく}科学技術の進歩によって、『劣化はちみつ』の類が産出され、【“大”全体】の恵みである『活性はちみつ』が{古いパラダイムとして}“排除”されて、{昔ながらの人の営みである}アルコール類を用いての{アル中がその場しのぎの効果をアル中の論理で求めるような}追究が止まらない≫という{人の世界が閉塞する事の}道理の周知によって修復されているのです。
すなわち、{画一的に“善”が求められた1000年前の}悲観的な未来観が主流の{人間が古いパラダイムのように“排除”されていく}人間世界にはあり得なかったのが、この{個別に“悪”が許された1000年後の}楽観的な世界観の{パラダイム変換が反面教師とされる}人間世界なのであります。
*『パラダイム論』を歪める『理性の働き』。【2月12日・金】
【トーマス・クーン】の『パラダイム論』の核心である『反面教師』の部分が抜け落ちて、{利用できるストレスに対する『“個”の反発作用』を増やす為の【部分解禁】の範囲の拡張である}『パラダイム変換』が理想の進歩として位置付けられてしまっている為に、人間の思索に於ける『進歩の枷(カセ)』が人間をつなぎ止めて{“大”全体へとは}放さないという事は、人間にとっての大きなマイナスでありますが。
さらに言えば、そんな『パラダイム論』を歪める間違いに人間が至ってしまっているのには、宗教が起因した{両立(尊重)やバランス(調和)を言い訳にして『臭い物にフタ』をしてしまうような}『理性の働き』の問題というのが{別にまだ}あって。{唯一神教を代表に}世界中の多くの宗教が、そんな『理性の働き』を人々に奨めて信者を確保し、『進化論』や『E=mc²』や『神は死んだ』を歪める間違いを{世界中の}人間に惹き起こさせていて、人間にとっての最大のマイナスとなっているのです。
・平成27年度版
*『パラダイム論』の誘惑に打ち勝った先にある最幸。【10月12日・月】
昔ながらの人生哲学(中国思想)などで言う、人間が守り伝えて行くべき“伝統”というのは、上の者が安心して生きていける〔世界〕の構築とその維持でありまして。
自分が上から施(ホドコ)されてきた事が絶対であり、それを自分も同じ様に下へと施しをして行き、下の者も同じ様にさらに下へと施しをして行って、それが“連なり”となって何時までも繋がって行く事が、とても重要でありまして。そしてそれが守られている間だけ、人間は、何時になっても、何時までも、安心して生きて行けるものなのです。
そしてその核心部分というのは、『唯一神教』を基にした『近代科学』に於ける『リセットの大原則』とも共通する、【完全世界的思考】でありますが。その抵抗勢力というのも、ただ【特殊理論的思考】を使っているというだけでありまして、自分の“連なり”を作りたくて仕方が無い訳でありますから、決して“連なり”というモノが否定される事は無いのです。
なので、{“伝統”を守るにしろ、新しい道を模索するにしろ}“連なり”というモノがなくなるという事はなく、その1つ1つの“連なり”というのが、結局は『パラダイム』であり、その“連なり”の交換が、『パラダイム変換』でありますから。『パラダイム論』が反面教師とならないと、人間も、人の営みも、ただ単に“連なり”という人間の『枷(カセ)』が取り替えられるだけで、基本的には何も変わる事が出来ないのです。
しかし、【更新する無限に多様な“大”全体】というモノは、人間の参加(復帰)を何時までも気長に待ってくれているものなので、人間は何時でもいいので{不安というよりも腹立たしくて悔しく、焦燥感に駆り立てられて我慢がならないかもしれませんが、それでも}{“伝統”という}安心の“連なり”の中から何とか抜け出し、{新しい道を模索しての}新しい安心の“連なり”も如何(ドウ)にかして作らずに、『パラダイム論』の誘惑に打ち勝って、{【部分解禁】を利用する頑張りや、統制を目指す意志などによらない}自分という【“大”部分】による【“大”更新】の発動を支えにした【一般理論的思考】で物事に向かい合っていけたなら、人間の生涯としては最幸(サイコウ)なモノになる事でしょう。
まさにそれこそが、職人仕事や研究活動などで、{才能が無くて徒労に終る事の方が多いのかもしれないが、だからこそ}巨匠とか達人とか呼ばれて、それなりの実績が残せるようになる、{【更新する無限に多様な“大”全体】に参加(復帰)しての}最幸の歩みだからです。
*予告【9月24日・木】
〔この世界〕の基本構造である【更新する無限に多様な“大”全体】を扱う【一般理論】を聴き取って、〔パラダイム世界〕のつぶやきを紹介したいと思います
~~~第0094号先頭へ~~~
*****(制作進行中)*****
『ちび猫のつぶやき』(営業)はこちらから。
『ちび猫のつぶやき』(主張)はこちらから。
『ちび猫のつぶやき』(記録)はこちらから。
新着の紹介はこちらから
68.ちび猫が見付けた『パラダイム』の自由議論(2)を参照して下さい。
令和6年度版
科学に心を足そうとしたパラダイム論。【4月23日・火】
科学に心が無いから近代科学文明は人が生きづらいのだと言われているが、
本当はそんな近代科学を何とかしようとして、
科学に人の心(『前後が反転した時間認識』での『特定の土台の上』や『歯車のシステム』の『閉塞した世界観』)を足そうとしてパラダイム論を膨らませた(ノーベル賞で盛って、理想のものだとスリ変えた)事が、
人の世を生きづらいものに決定付けたのである。
令和5年度版
*パラダイム論の裏主旨(補足)。【5月26日・金】
{特定の活動組で}役立ちたいのに役立っていなくてうなだれる(理想の納豆食をするが自由(歯車のフリー)にならず納豆嫌いになってしまってうなだれる)のではなく、
勝手(勝手な納豆食)を楽しんでいる人(待機組)で在ってほしい。
活動組(待機組の排除)で頑張ったのに{大きなお金を{ヒエラルキーに相対して}動かした割りには}成果を上げられなくてうなだれる人とか、
待機組(活動組の非難)で努力したのに{大そうな危機管理を唱えた割りには}評価を得られなくてうなだれる人とかではなく、
{大全体の構成員としての}勝手(自分の好みや都合の優先)が出来ている{納豆嫌いでうなだれていないで、勝手な納豆食をする:ヒエラルキーに相対したお金の流れ(配分)の末端だとうなだれていないで、買ったら高額の【生きた水】の活用品で生活を豊かにする}人で在ってほしいし、
勝手(理想(自由(歯車のフリー)になる事)とは違うコト)を楽しんでいる{自分とは違う納豆食の排除や非難などしない:アリの巣のシステムでの待機組の為だと言って(危機管理だとして)歯車システムでの特定の活動組(現存世界で頑張っているモノたち)を否定したりしない}人で在ってほしい。
*パラダイム論の裏主旨。【5月26日・金】
安心安全の為にヒエラルキーに相対する事を目指しか結果が『理想形追求』であり、
閉塞世界の打開の為に神への奉納を目指した結果が『貢ぎ過ぎ』であり、
危機管理の為に淘汰を目指した結果が『待機組不足』である。
三段論法の家畜の安心や手垢塗れの中のペットの安全の為だとする、
{神の預言に基づく}ヒエラルキーに相対する事を理想形として追求する事を、
{お金の使い方がヒエラルキーに相対する指示命令系統の範疇(お金が流れて(配分されて)特定の指示に効力が発生する)に限られているように}誰もがそれを当然の事として{無自覚に無条件で、反省転嫁までして}受け入れてしまっているものだから、
理想形の追求(特定のパラダイムの形成)には{理想の納豆食で納豆嫌いが生み出されるように:向き不向きが明確に出る世界(パラダイム)を科学が作るように:経済活動の末端にはお金の流れ(配分)が少ししか来ないように}格差が生じてしまう。
前後が反転した時間認識に基づいた特定の土台の上に物事が積み上がる閉塞世界観を打開する為だとする、
{「個人の自由(歯車のフリー)」や「社会の歯車のシステム(特定の活動組)」への妨害(邪魔モノ)となる『世界の理』の創造主であり、不条理を生み出す悪魔かもしれない存在であって、理性的には信仰は難しくても、信仰しているという事(自分の姿)に利が生じる}神への奉納を目指して{大きな下心で、やり過ぎるぐらいに}貢(ミツ)ぐ事を、
{独善であろうと偽善であろうと、募金がされて社会福祉の充実に貢献するのであれば、それ(募金)は善であると認知されるのと同じように信仰を認識して}誰もがそれを当然の事として受け入れてしまっているものだから、
神への奉納での{過ぎた}貢ぎには{打算に付きものの}過度な欲求(見返りが少ない時(閉塞した事態)の過剰な不満や怒り:『世界の理』に邪魔(人の世の閉塞:砂上の楼閣の人の営み)される:不条理(特定の土台の上で積み上げた物事(特定のパラダイム)が破綻する)な事態)が生じてしまう。
禍根を残さない事で不満を噴き出させないようにする危機管理の為だとする、
{歯車のシステムでの交換・廃棄を駆使しながの}淘汰の上手な乗り切りを目指す事を、
{自由(歯車のフリー)にならない{特定の活動組での、自分が下手クソな}事にうなだれて、上手く行く遣り方を{待機組から}探さずに我慢して}誰もがそれを当然の事として受け入れてしまっているものだから、
『待機組不足』による{世界の理を無視した}不自然な肥大化(パラダイムでの進歩:破綻する時は一気に破綻する:何度でも破綻する)が色々な分野で生じてしまう(パラダイム論の裏主旨)。
端的に結論を言えば、
「後進する時間認識での特定の土台の上の閉塞世界観の事を言っているのがパラダイム論(理想の追求:ヒエラルキーに相対する事)だと分かれば、人の世が世界の理を無視するモノ(理想の納豆食:ヒエラルキーに相対したお金の使い方)であるという事が分かり、{そして}それが人の世に不条理(納豆嫌い:貧富の格差)が多発する理由だという事も分かるのです」
という事になる。
*パラダイム論とアンチパラダイムと個別パラダイム。【5月15日・月】
危機管理の名の下に{歯車のシステムでの}現状(閉塞の先送り)の安心安全(三段論法の家畜や手垢塗れの中のペットにとっての{神への奉納によって得られている;強迫観念で形成・維持されている}自由と幸せ)を脅かす(危機感を煽る)のは、テロであり、本末転倒だ。
{前進する時間認識での}アリの巣のシステム(和解(一本化)も両立(一元化)も{反省転嫁はしないで}求めない)の主旨はダメダメで、KY(空気を読まない)で、ブレて{危機管理の担い手予備軍として}待機しつつ、{大全体を構成する}多様性の中の一つとして、現状(閉塞の先送り)を補佐するコトだ。
「閉塞の先送り」も「危機管理の担い手予備軍としての待機」もアリの巣のシステムに於いては、{大全体を構成する:更新していく}多様性の構成員としては同じだ。
{神への奉納に異を唱える}アンチパラダイム(進歩(科学観)が一律で、発展(経済活動)がヒエラルキーに相対している事(強迫観念の、お披露目であるコト)への反感)が個別パラダイム(人が「名もない花」で在る事により、人の世の営みがアリの巣のシステムになる)の原動力であるのは確かだ。
パラダイム論(一律に縛られる事や、その縛りが繰り返される事の正当化)を危機管理の下で否定し、ノーベル賞(ノーベル財団を含めて)を非難(タネを隠したマジックショーへの不満)するのは、個別パラダイムが交換・廃棄の対象として{自制心(理性:ケダモノ以下な事が出来る)によって}邪魔モノ扱いされ、アンチパラダイムが{自由(歯車のフリー)に対しての勝手として}テロ指定されるのと同じだ。
*『パラダイム論』はタネを隠した{手品の}ショーである。【4月14日・金】
『パラダイム論:パラダイムのシフトチェンジは理想の進歩である』はタネを隠した{手品の}ショーであり、
そのタネが『パラダイムの呪縛:パラダイムのシフトチェンジは物事を積み上げる特定の土台を{みんなで一様に}交換するだけの{一律に行われる}事で、{積み上げに於いて閉塞するのは必然で}人間(人の世の営み)は閉塞からは逃れられない』である為、
その事(タネ)は公然の秘密とされていて、
『パラダイムシフト』が{可能性の広がりとして}肯定的に扱われる事はあっても、『パラダイムシフト』が{人間が枷で縛り続けられる}否定的な意味で使われる事はない。
人類学者は『パラダイムの呪縛』の公表を先のゴールに{設定}して、
{権威に従順な善良な市民との不要な諍いを避けて、穏便にノーベル賞を目指す為にも}それに向けた方向を示唆(シサ)する研究・開発(「可能性は各個の先に在るもので、みんなの一律な行いの先に在るだけのものではない」の提起:「各個の可能性が一律にされる事による人の世の営みの閉塞」や「各個の可能性の広がりによる人の世の営みの可能性の更なる広がり」を提言する)をするのが良いと思うのです。
*エントロピーの復原の普遍化。【4月11日・火】
内部から末端へと向かう作用の働き掛け(「外部から掛かる力」だとされている)が無ければエントロピー(乱雑化)は復原しないハズだとされ、
内部から末端へと向かう作用の働き掛けの継続でエントロピーを{効率よく}遅延させる事(復元の必要を無くす)も出来るハズだとされていて、
内部から末端へと向かう作用の働き掛けをノーベル財団は{ノーベル賞を授与する危機対応(画策)で}推奨しているように見えるが、
{それに倣って}内部から末端へと向かう作用の働き掛けの研究や活動をしても{ノーベル財団による危機対応である}ノーベル賞が授与される事はない。
{勝手には起こらないハズの}エントロピーの復原の普遍化(内部から末端へと向かう作用の働き掛けでは困難)でノーベル財団に{ノーベル賞を授与する}危機感を抱かせる事が出来るハズなので、
{勝手には起こらないように常識化されている}前後が反転した時間認識の修正(時間認識の前進)の普遍化や、
{勝手には起こらないように画策されている}パラダイムの多重化(パラダイムの個別形成)の普遍化の為に、
{歯車のシステムに於いて交換・廃棄の対象にされるので通常は忌避されている}内部へと向かう末端からの作用の働き掛け(「時間認識の前進」や「パラダイムの個別形成」に欠かせないアリの巣のシステムで、本来の「外部から掛かる力」である)に取り組めば、
ノーベル財団にノーベル賞の授与を考えさせる事にはなると思う。
*内部へと向かう末端からの作用の働き掛けの普遍化。【4月10日・月】
エントロピー(乱雑化)には否定的で、
パラダイム(特定の土台の上:閉塞(破綻)の先送り:エントロピーの先延ばし)には肯定的なのがノーベル財団で、
その為の画策がノーベル賞の授与である。
「エントロピーが至り切った大全体の肯定」を仄(ホノ)めかす事がノーベル賞への近道になるように、
「破綻に縛られた人の世の営み(否定的な認識)としてのパラダイムの認識」というパラダイム論の修正を仄めかす事もノーベル賞への近道になる。
パラダイム(特定の土台の上:閉塞(破綻)の先送り:エントロピーの先延ばし)を破綻させているモノがエントロピー(乱雑化)で、
「パラダイムのシフトチェンジ」は「エントロピーの復原」である。
エントロピーの復原には外部からの作用が必要であり、
パラダイムを形成している人の世の営みでは{内部から向かって}末端へと作用の働き掛けをしている(パラダイムの持続:エントロピーの放置)だけなので、
エントロピーの遅延(至り切りの先延ばし)は起こっても、
エントロピーの復原(パラダイムのシフトチェンジ:{内部へ向かって}末端から作用の働き掛けをする)は{勝手には}起こらない。
ノーベル賞を目指すというのであれば、
ノーベル財団がエントロピーの遅延の継続(放置)を
{安寧(閉塞(破綻)の先送りによる歯車のシステムの持続:神の預言に従うコトによる神の加護の享受)の為だとして}
推奨している事(それに倣ってもノーベル賞は授与されない)を理解した上で、
{勝手には起こらないハズの}内部へと向かう末端からの作用の働き掛けの普遍化
(パラダイムの理想認識やエントロピーの否定認識を{前後が反転した時間認識を前進に変更するように}修正する)
の研究・活動
(生きた水(エントロピーが至り切った水)の意義の探究(向上)を自分の好みや都合で優先させるような個別な研究:「ダメダメで良い、KYで良い、ブレても良い」を唱えながら秩序の追求より真実の探求を優先して行うような勝手な活動)
をして(普通はしない事やみんなはしていないコトをする)、
{神の預言から逸脱する:歯車のシステムに支障をきたす}危機感を{ノーベル財団に}抱かせれば良いのです。
*意図的な科学で作られる歯車システムの弊害。【2月19日・日】
{後進する時間認識での:軍隊型の}歯車システムどうしは{《作用》が送り側に働いていて反発し合うので}ぶつかり合うし、
{物事が積み上がる土台の上の:指示命令型の}特定の歯車システムに於いては{《作用》が受け側に働いてしまうと反発し合ってしまうので}メンテナンス(交換・廃棄)が必要だし、
{自制心という理性に侵された}各歯車に於いては{勝手が禁じられて}ケダモノ以下な行為が自由(フリー)によって行われるように《作用》が働くものでして、
{各自にとっての}面白い事が自由(フリー)の名の下に{有用性や効率や、正しさや安定が優先されて:自堕落とされて}制限されてしまい、
{向いた人だけが上位になるような}人為的な科学(発展や進歩:理想の納豆食)が蔓延(ハビコ)って大多数の者が底辺(倫理道徳で憂さ晴らしに追われる:向上に追われて大切なモノを失う:納豆嫌い)に追い立てられ、
{誰もが自分の好みや都合を優先できずに:みんながさまよい続けて:理想の納豆食の枷(カセ)に縛られて}パラダイムが{文明に於いて}形成されて来たのです。
令和4年度版
*更新が続く世界で、繁栄と殺戮が繰り返される1000年の魔法。【12月11日・日】
{自由は勝手とは違うを基軸にした}歯車システム(『攻撃 悪の自然誌』の実験水槽と同じ不自然なモノ)の{パラダイム変換(シフトチェンジ)を目指す事が大前提(縛りとなっている)の}パラダイム(科学進歩や経済発展という名の土台:その上で閉塞が進行する)の構成員としての人間の{歯車としての:自由(フリー)が大事とされる}有様(在るべき姿とされるもの)が『倫理道徳』によって{魔法が人々に掛けられて}示されていて、
闇呪文(ダメで良い、KY(空気を読まない)で良い、ブレても良い。など)が唱えられずに{予備軍にも持ち駒にもなれず}更新を続ける世界に{パラダイム変換(シフトチェンジ)を何度も繰り返しつつ}人々が(人の営みが}取り残されてしまい、
人の世に繁栄と殺戮が繰り返されて来たのだが、
それがまだ1000年は続きそうなのである。
*悪循環が{一律な進歩が続いて}断続し、破綻が次々と起こる。【9月11日・日】
「進歩(発展や繁栄:正しい事)の追求の邪魔になるモノを交換・廃棄する(追求をゴリ押しする)恐怖政策(恐権体制)である事により、誰にとっても好きではない事(次々とする効率性や有用性の追究の結果)の追求を{一律に}させられている」という{不自然さの極みである}人の世である事によって、
理想の納豆食が普及する事により納豆嫌悪が増加してしまうわけであり。
{納豆嫌悪が増加するように}人々の活動が機能不全に陥って(みんなが{一律に}破綻に陥って)しまうと、
{納豆に代わる}次の何かの効率性や有用性の追究が{進歩が続くように次々と}行われて、
その{追究された事の}追求が{パラダイム変換が起こるのと同じように}みんなに{次々と一律に}提供(交換・廃棄のゴリ押し)される事になって、
人々が自主的に{一律に}追求する事による{みんなが納豆嫌いになるような}事態(破綻:交換・廃棄が必要になり(ゴリ押しされ)、その{ゴリ押しされる}交換・廃棄によって陥る:パラダイム変換が必要になる原因であり、パラダイムが形成されている事によって必然的に起こってしまう)が次々と{悪循環が{一律な進歩が続いて}断続し}起こるわけでありますが。
{それは}バラバラな進歩を{みんなの}誰もがするようになる{前後が反転した時間認識に基づく閉塞した世界観が修正されて、大全体(更新する多様性による無限性)を構成する予備軍が充実する1000年先}まで続くのです。
*老朽化認識による予備軍の否定により人の世は閉塞している。【8月6日・土】
人間の存在の仕方を
{人間社会を{歯車の}システム(特定の土台の上:パラダイム)とした上での}
歯車
(閉塞した世界(回転軸)に縛られた{大事なのはフリー(自由)に回転できる事である}存在)
だと思っていて(魔法が掛けられている)、
{当然のように「自由(フリー)は勝手(歯車がこれである事(老朽化が原因:パラダイムが破綻する原因)によってシステムに支障を来(キタ)す)と違う」と言って}
大全体を構成する予備軍
(様々なシステムの再構築(多様性の更新)を行う事を可能にする多種多様な歯車)
を否定
(問題の原因となる{歯車やシステムの}老朽化(土台の上が閉塞して行く特定の土台の{魔法の根幹をなす}間違った認識:パラダイム変換(シフトチェンジ)が必要な古いパラダイムの{魔法の根幹をなす}間違った認識)したモノ(歯車としての功労者やシステムとしての責任者)を交換・廃棄(人為的に出来る最高の進歩)の対象にする)
していて(魔法世界の在り様)、
何か不都合が起こったときに
「老朽化した歯車やシステムを交換・廃棄したりパラダイム変換(シフトチェンジ)したりすればいいんだ」
と{無意識に}考えてしまって(魔法の問題点)、
{予備軍の不足によるシステムの硬直を歯車やシステムの老朽化と{無自覚に}決めつけて}
頑張って{支えて}きていた人や物事を{理不尽に}交換・廃棄してしまい
(魔法世界である人の世の{繰り返される歴史の}実態)、
パラダイム変換(シフトチェンジ)に期待してしまい
(人の世(魔法世界)の{現代人に{ノーベル賞によって}上掛けされた魔法による}新たな問題解決の先延ばし)、
{『動物愛護』を理由に野良猫の虐待が推奨(野良猫などについての相談をすれば、たいていの獣医は「迷い猫や捨て猫には餌をやるな!」・「野良の子猫は水をかけて追い払え!」と言い、{懐いた野良猫を}保護して{家で屋内飼いにしたいと}連れて行けば「犯罪行為だ!!」と{禁鳥を捕まえて持って来たかのように}言う)されるのと同じで、『SDGs』を理由に{先進国の発展の持続を目標にして}発展途上国の低所得者たちへの差別の持続が推奨される事が懸念されるというのに}
最近は『SDGs』で問題(老朽化認識による予備軍の否定により、人の世は{予備軍の少なさによりシステムが硬直したものになっていって}閉塞している)から{国も企業も研究者も若者も}目を逸らしている
(人の世の未来を悲観する発言は{利口ぶって}するが、{システムから得られる既得権益の持続を目指し、これまでの人の世を支えてきた功労者や責任者や産業や文化に老朽化のレッテルを貼って、交換・廃棄を{理不尽に}断行する愚かさの}具体的な話し(「前後が反転した時間認識による、閉塞した土台の上である、パラダイムの形成(繰り返し)への疑問」や「『倫理道徳』を反省転嫁してしまう理不尽さを無くす為の{「ダメで良い・ダメと思われて良い・誰がダメでも良い(みんながダメでも良い)」や「ダメな老後で良い・ダメな死に方で良い・死後評価がダメでも良い」を日常的に唱える}闇魔法の呪文」や「『自由は勝手と違う』と言うときの自由は歯車の自由(フリー)であるという指摘」)を言うと、反社会的だとして拒絶する)。
*通勤通学の風景を観る、今はそれで良いのです。【6月17日・金】
人は所属している集団の為に{自由(フリー)に}動く歯車のようなモノ(パラダイムを構成する者たち)でしかなく、
物事は歯車で動く時計(所属している集団の集合場所に向かう通勤通学の{交差点や駅や電車内などの、同じ事が毎日繰り返される、殺伐とした}風景観)のようなモノ(パラダイム論によって暴(アバ)かれるハズだった愚行や蛮行)でしかなくて、
人の世は{まだ1000年間は}ただ観ている事しか出来ないのですが、
今はそれで良いのです。
*出来る事が無くても、それで良いのです。【6月16日・木】
パラダイム変換(思考の枷)による縛りからの人類の解放には1000年を要しますから、
今の時点で{社会に対して}出来る事(大全体を構成する予備軍としてする{一択にならないで付加になるだけの}個人的な闇処世術以外の事)は本当に無い(無理を通そうとして一択に祭り上げられれば、ノーベル賞を受賞した『トーマス・クーン』の『パラダイム論』の二の舞である)のです。
闇魔法の呪文(「ダメで良い・ダメと思われて良い・誰がダメでも良い」や「ダメな老後で良い・ダメな死に方で良い・死んでからダメと評価されても良い」)を広めようとしても{旧来の倫理道徳が邪魔になって}誰からもまともな話しだとは思ってもらえませんし、
自由(フリー)を自由(個人の好みや都合の優先)に改正しようとしても{自由の番人を気取って「自由は勝手とは違う」と言う人たちに{交換・廃棄の対象にされる}レッテルを貼られて}誰もまともに取り合ってくれませんし、
前後が反転した時間認識を修正しようとしても{閉塞した世界観の問題をパラダイム変換への近道として認識している人たちから{特定の土台(パラダイム)とは違う土台を個別に持つ事を}パラダイムからの逸脱(通常進歩を鈍らせ、パラダイム変換を遅らせる)として警戒されてしまって}誰も見向きもしませんが、
今はそれで良いのです。
*パンドラの箱の災いを排除し、希望の実現に狂喜する人間への問題提起であったパラダイム論。【3月10日・木】
パンドラの箱から出た災い(抵抗)を拡散(累積)させない為に、
人々は{前後が反転した時間認識の}歯車システムを{みんなで見張って}意識して、
歯車のメンテナンス(交換廃棄:パラダイムの形成)に勤しみ。
パンドラの箱に残っていた希望(パラダイム変換)に期待し、
誰もが
{土台の上に積み上げる物事を{累積する抵抗になりそうなモノの徹底排除(歯車の交換廃棄:魔女狩り)をして}破綻させないようにしながら}
待ち焦がれていて、
{問題提起であったハズのパラダイム論の神聖視が妄信される中で}パラダイム変換に{理想の進歩が実現できたと}狂喜乱舞する。
令和1年度版
*生存競争の為に、データが回収されると、実験を進歩させていた。【11月8日・金】
1000年“後ろ”の時代までは。
ノーベル賞などに踊らされた様々な分野の
{【大全体】に於ける{アリ的集団な関係にある}多様性(多くは予備軍である)の意義(世界の更新の可能性)の事を隠蔽し、生存競争の厳しさを誇張して示した『進化の図:意図的欠陥品』から、非情さをスリ込まれた}
研究者たちが色々な努力を積み上げ、
そして{それが究極の進歩と信じて}目指して来たパラダイム変換
(自然に由来していて自然から派生する【根幹土台(【生きた水】の水槽:水替えをしてしまうと積み上げられた有用性(世界の更新履歴)が失われてしまう)】が無い為に必然的に破綻(自然との不適合)に至ってしまう、枠組と名付けられた『張り出し土台(『悪の自然誌』に於ける実験水槽(特定のパラダイム):魚が入れてあれば水替えが必要になるし、その魚は損傷し病気に至るし、データの回収と伴にその実験水槽(特定のパラダイム)も必要性を失う)』が
{全員による全員の為のものだという大義名分で、土台を{不良コピーである{人間の}個々による多くの{実験的}積み上げを{良いモノ(実験データ)だけを収穫して他は捨ててしまう淘汰(実験水槽(特定のパラダイム)の水(文化)を魚(人)ごと廃棄してしまう)を目指して}ただ均(ナラ)すだけではなく}直面している破綻の連鎖から逃れる為に{全てを無に帰すように}掘り起こしてしまう行為(実験水槽(特定のパラダイム)の交換)を、波動エンジン(宇宙人から提供された宇宙戦艦ヤマトの機関部:人類にとっての『お金』)のようなモノを{監視者である神などから}危機的状況に於いて{超越的に}提供されているかのように{優越感に浸って}認識してしまって}
その時々で{画期的に}差し替えられて来たのだと{破綻からの打開策(実験水槽(特定のパラダイム)の超越的作り直し)を全員に受け入れられた事(共有された事)が正当性の証しになると{妄信し}縋(スガ)って}思い込んでいる(実験データを回収してからの実験水槽の作り直し・交換を、飛躍的な進歩の繰り返しだと錯覚している)だけの{ノーベル賞などによってスリ込まれた}楽観的妄想)
を迎えるに至るその度(タビ)に、
{必然的に}破綻(実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し・交換の必要性)が極まってしまい。
近代文明は、
{それ以上の}破綻の連鎖
(まずは実験水槽(特定のパラダイム)の水(文化)が悪化する・次に魚(人)の損傷や病気が深刻化する・最終的にはデータの回収により実験水槽(特定のパラダイム)が不要になる)
を止める為に、
全ての淘汰
(破綻に至った{実験データの回収の済んだ}全てのモノの廃棄:次の{段階の}為の実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し:水(文化)や魚(人)を含む実験水槽の交換)
を
{パラダイム変換と呼ばれる現象
(人間が実験水槽(特定のパラダイム)を使った試験(文明化や経済発展などへの「自然からの拒絶反応の強さ」や「自然の拒絶反応への対抗策の効果」などのデータの回収)を担わされ、それが済むと『枠組の交換』の名目によって個々が担って来た積み上げが全廃棄(実験水槽(特定のパラダイム)の廃棄)され、最終的には実験水槽(特定のパラダイム)の作り直し・交換へと{全員の共有を原則としてパラダイム論が定義されていて、それによって異を唱える事を{それによって自己の安全を得る為の人間世界への貢献(献身の証)として}自分で否定してしまって}至る事の{スリ込みの}連鎖)
として}
繰り返していたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
{実験水槽であった為に自然との不適合(そこからのデータの回収が目的)に陥る事(次の実験水槽(自然の拒絶反応への対策を進めたモノ)を作る為のデータが集められた)の繰り返しであった}
近代文明(生存競争の勝者(『進化の図:アリ的集団な関係や多くが予備軍である事の意義が無視されている』の幹(ミキ)の先端)であり続けようとした事)から離脱し、
{データの回収が済んでから、全ての淘汰として}廃棄されて来た実験水槽の水(文化:古くなった文明や非効率な経済)や魚(人:生存競争の足手纏(マト)い)が再度集められて(集まって)積み上げが{試験的に}行われて、
自然との適合を可能とする【根幹土台】の発見を{『張り出し土台:実験水槽(特定のパラダイム)』とは違う所へ行って}目指していたが、
{それぞれの文明や経済がそれぞれに人間世界への貢献の跡を{認められる形で}未来に残したいと思って、それぞれがそれぞれに共存関係をゴリ押しして}
まとまり(アリ的集団な関係:多くが予備軍である事:世界を更新させる{未来への}可能性)を欠いてしまっていて、
{過去のデータが示すように}成果の上がらない日々に{やはり}甘んじるしかなかったのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
アリ的集団な関係にあるまとまりであり、
多くが予備軍であって、
{それによって}世界を更新させる{未来への}可能性が高まってこそ、
{この世界に於ける、人間も含(フク)んだ}本当の意味での{永く続く}強い自然が【大全体】として成り立つ事から。
自然に於ける【大全体】の概念に基づいた、
人間の誰もがアリ的お一人様な予備軍が、
コツコツと{個々の自由な個別性を最優先で尊重して}育成されているのです。
しかし、そんな今であっても。
それ自体が自然に於ける{それが特別である}とっておきの『スーパーサブ』のような{予備軍を逸脱した}モノ(生存競争の勝者)の追求
(自然を相手(試験対象)にした{人間主体の}実験:さらなるデータの回収を目的に実験を進歩させる事)
をしてはならないのです。
*次のお知らせ。【10月13日・日】
これからは、当ブログ第0092号の【『ちび猫のつぶやき』の(主張)のこれから先の概要】をメイン用例とさせてもらいます。
*誰かの真似はもったいないダケの事。【8月18日・日】
1000年後ろの時代までは、『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』の事を、『共有』される『枠組』(パラダイム論によって示された、人間が背負いこむ『枠組』と『共有』の二重の縛り)によって起こせる、人間だけの特徴として、{誰もが妄信のように}過信していて。
{利権が手に出来る}『共有』される『枠組』の{誰かの真似でもかまわない}一番手の{称号の}争奪戦や、{『枠組』が誰かの真似でもかまわないから、『共有』そのものを利己的に操作しようとする}策略が凄まじく、人の世界に戦争や犯罪が絶えなかったのですが。
しかし1000年後ろの時代からは、『共有』された『枠組』の上に積み上げられる事によって起こるとされていた『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』が{人間を縛って作り出される不自然なモノとして}放棄されてしまい。
それによって、『枠組』とともに『共有』までもが、{人間にとっては過酷なモノだとして}断念されてしまったのです。
そして1000年先の今では、誰もが個々に、{時間に於ける前後認識が正常化された世界観での、【大更新】を起こす無限の多様性のような}様々に広がった可能性から始まる『社会経済の発展』や『科学技術の進歩』を、個別に追求していて。
{一番手の座を奪(ウバ)い取ったり、陰謀をめぐらしたりして}誰かの真似をしてしまえば、それはとても窮屈(キュウクツ)で、{無限に広がる可能性を自ら閉ざしてしまう}もったいないダケの事なのだと{誰もが}思っていて。
【KY:空気読まない:【大全体】の構成員としてアリ的集団を形成する【アリ的お一人様】の特性:【営業スマイル】の使い道】な言動というものを、{各個に自由である為の羅針盤として}誰もが心掛けてはいるのですが。
しかしそれでも、その【KY】が、誰かと『枠組』として『共有』されるベキだとは、もう誰も思ってはいないのです。
・平成31年度版
*お知らせ。【3月23日・土】
これからは、当ブログ第A0015号の【道路をゆっくり走るのに、・・・】~【道路をゆっくり走るのに、・・・(~~~)】をメイン用例としていくつもりなので、参照していただけたら幸いです。
*お詫び。【3月4日・月】
【ニーチェ】の『神は死んだ』の発言に於けるこれまでの{人類への賛歌としていた}解釈を反転させる自己修正をする事に致しました。修正内容については当ブログ第A0015号の【『神は死んだ』などと言われない為に】を参照していただけたら幸いです。
・平成30年度版
*失敗例から学んで修正の更新を随時行う、修正のパッチワーク。【12月23日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪パラダイム変換がみんなの自己否定となり破綻回避が遅れた、成功の積み上げ≫
1000年“後ろ”の時代までは。{修正が無いまま破綻に至る}人の営みの成果(積み上げの為の成功)にノーベル賞が毎年次々と贈られていて、そんな『成功の積み上げ』そのものでしかないノーベル賞によって表彰されてしまったものの、『成功の積み上げ』である人の世を{反面教師的に}言い表していたのが『パラダイム論』であり、「長年続いて来た『成功の積み上げ』である人の世では、『パラダイム変換』にみんなの《自己の否定》が伴ってしまい、《破綻の回避》の為の修正が{みんなの合意が『パラダイム変換』の条件だと誤解された上に、『パラダイム変換』が究極の進歩だと勘違いされる原因となってしまうように}土壇場まで遅れてしまって、人の営みが{何時までも修正されなくて}必然のように破綻に至ってしまう」という事を{ノーベル財団を巧妙に欺(アザム)いて}言い表していたのですが。しかし、その{反面教師としての}真の意義が広く認知されるコトは、しばらくの期間{ノーベル賞に絶大な権威が集中した為に}無かったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。ノーベル賞に代表される『成功の積み上げ』を野放図に行って来た{これまでの}人の世の傲慢さに羞恥心が働き始め、人の営みの{みんなの失敗例からも学び、更新が随時行われて、個々にパッチワークをするように行う}個別な修正(ノーベル賞の呪いからの解放)に意欲を抱き始めて。
そして、1000年“前(先)”の今では。ノーベル賞が贈られていた《積み上げの為の成功》などに浮かれるコトも無く、人の営みに於ける『修正のパッチワーク』が{他人の失敗例からも学ぶ}謙虚な心で{個々に随時}心掛けられ、{傲慢さによる必然の破綻が付きまとっていた}人の世が本当の意味での成功(争う『小全体』の勝者ではなく、協力し合う【大全体】から必要とされる)に至っていて。人類の栄華(『他のモノ』たちとの協力関係の構築による様々な恩恵の享受)が、ようやく始まったのです。
*『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』を解説した『パラダイム論』。【7月1日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪ノーベル賞により『パラダイム論』が進歩の道標となって産業化や自由市場経済が続いた≫
1000年“後ろ”の時代までは。唯一神教の教義による『人間は不完全で間違いを犯す』という危機感に基づいた「滅私奉公の『組み体操的思考』での、捧げものとしての『バベルの塔作り』により、人間の精神と社会は安定が図られる」という大義名分の下で、『唯一神教社会の組織』は作られていて。
{人間が神から解放された{歓迎すべき}事への【ニーチェ】の{教会などの『唯一神教社会の組織』からの報復(粛清)を恐れての}苦渋の表現であった『神は死んだ』の歴史的発言が、信仰が薄れた社会(未来)への恐怖により発狂した末(スエ)の狂言にスリ替えられたように}
人間が特定の土台(枠組)の上だけに{【多様性】を構築する個々別の個別な取り組みの事(【更新】する【大全体】:『アスキーアート的』に環境対応をする『生きた水』:個々別に貪(ムサボ)り群(ムラ)がっているだけでありながら変幻自在な対応能力を発揮するアリ社会)が削ぎ落されて}物事(科学的な事)を構築してしまう呪縛(『バベルの塔作り』としての産業化)の構造を解説した【トーマス・クーン】の{反面教師として利用されるべき}『パラダイム論』が、{ノーベル財団が【トーマス・クーン】にノーベル賞を授与したコトにより}人間にとっての進歩の道標(個人が個別に取り組んでいる事(権利を持った自由な者として個々別に取り組むコト)には意味が無く、みんなの周知の上に産業化するコトが出来た事が人間の進歩として承認される)として祭り上げられてしまうなどしていて。
{「個々別に利用されて{間違いを犯す}人間を{悪い意味で}強くしてしまうようなものではなく、『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』としての産業化(特定の土台の上だけへの物事の構築:人間を呪縛する)がなされるものが{正しい}科学技術なのだ」というような『唯一神教社会の組織』の{歪(イビツ)な}考え方が、{地球上の}人間社会(人の営み)の様々な方面でも浸透してしまっている事により}
{【多様性】によって物事がなされる}【大全体での更新機能】の代替えである{【大全体】の構成員が【多様性】を構成する時の【単体での更新機能】を切り崩していく}【部分解禁】への過剰な依存(英知という名の下での意図的な乱用)によって人の営みが{それが当然であるかのように}破綻してしまう事や、『倫理道徳の試練』の自己規制に憂さ晴らしが必要である事によって人間(精神、組織、社会)が{それが人間の本性であるかのように}病的化してしまう事や、『時間に於ける前後認識の逆転』が周知徹底されている事によって「『組み体操的思考』での『バベルの塔作り』を解説した『パラダイム論』が、人間にとっての進歩の道標となってしまっている事」への疑問の発生が{そこに限界点があるかのように}抑止されてしまう事が、人の世に起こり続けてしまったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。ノーベル財団に代表される『唯一神教社会の組織』の弊害が{善良であろうとした訳ではない善良な人々が、その報復(粛清)を恐れずに立ち上がり、人間が善良である自覚を回復させて}認知されて、『パラダイム論』の{反面教師としての}真価が再認識され。
そして、1000年“先”の今では。自由市場経済によって人間性が呪縛される事(配分を受ける個々別の権利の放棄)の危険性(人間からの多様性の消失:【部分解禁】されるコトにより人間(精神、組織、社会)が次々と切り崩されていく)が露呈して、{ノーベル賞の授与による「『パラダイム論』に於ける『個人が個別に取り組むコト』の意義の反転」によって軽視されていた}個々人の自由(個々別な経済活動)が重要視(確保)される配分経済が復活しているのです。
*『パラダイム論』で“連綿性”と“共通性”が重要視されている問題。【6月3日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『パラダイム論』に於ける枠組(その変換)の肯定と並ぶ弊害≫
1000年“後ろ”の時代までは。{『パラダイム論』に於いて}パラダイム変換とは、“連綿”と続く人間集団(小全体)に於ける“共通”した認識(概念)のステップアップ(差別化ではなく底上げとしての有効性の発動:全体としての共通認識となったモノだけが未来と繋(ツナ)がっているので{神と共鳴できたものとされて}評価の対象となり、個人が認識しただけのモノでは未来に影響が残らないので{悪魔が個人を唆(ソソノカ)したものとされて}評価に当たらないとされる)だと定義され、その“連綿性”と“共通性”が重要なのだと{無神論者を含む}誰からも疑われずにいて、{『指示命令系統』の下に入らない“個々別さ”と砂糖の利用に縛られない“自由さ”が欠かせない}『大全体』の構成員の資格としての『アリ的お一人様』での『幸せな想い』や『独立独歩の為の科学技術』など非人間的な蛮行だと決めつけられて{初めから拒絶されて}しまい。『倫理道徳の試練』による憂さ晴らしが無くならない{八つ当たりなガス抜きの正当化の為に制度が作られるような}人間社会や、不自然な人の営みである為に必然的に破綻するモノが作られる{神への捧げ物としての行為であった『バベルの塔作り』と同じ}科学技術産業が、{“連綿”と“共通”されたモノである}当然の事とされて、暴力が{必要悪として}蔓延(ハビコ)り、世紀末思想による『市民運動』や『テロリズム』の促進が活性化してしまったのですが。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。自由な価値認識を個々別に{特定の善悪に縛られずに}持ち、{多次元的で多重構造の}『アスキーアートの世界観』で多角的に過去を{隠していた汚点を掘り起こしてきて}想い、そんな過去をピース(材料)に縒(ヨ)り合わせて{『アリ的お一人様』が織り上げる一点物として}紡(ツム)ぎ、未来を{可変的な}『大全体』として{神への捧げ物とする安心感にみんなして騙されるコトなく}構築していくという事の意義に気付き、『パラダイム論』の下に切り捨てられてしまうハズであった個々人の自由な{過去に生きた者から現在に生きる者までの}想いを大切にするコトが人々に広まって。
そして、1000年“先”の今では。『パラダイム論』に於ける“連綿性”と“共通性”の重要視が、{「人間の思考が縛られる事の繰り返し」への疑問の消失を招いた}枠組(その変換)を肯定したコトと並んで、『パラダイム論』の{二大}弊害と周知され、{隠蔽されるコトなく}人間世界の未来を紡ぐピース(材料)とされているのです。
・平成29年度版
*オカシイものがオカシイと責任追及されてきた時代~5~(概要)。【8月6日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪可笑しいモノを可笑しいと笑える時代へ=パラダイム編=≫
1000年“後ろ”の時代までは。『権力者を支える科学者の側』の者達により、『パラダイム』に縛られた進歩を段階的に繰り返すコト(必要に迫られて枷(未来の為の土台)が繰り返し交換されていて、人の営みの可能性(人の未来観)が『ブロック積みの世界観』によって縛られている状況にある事)が、究極の進歩のように認識され。人間が破綻に至った中途半端なトコロでリセットしてしまって、その先への可能性を潰してしまっている{何回でも繰り返し『ガレキの山:破綻のまま放置されたモノ』が築かれ、破綻が[この世界]の必然であるとしか思えない}状況が、自然なモノ(必然的な悪)として認知されていて。そして、そんな{縛られたまま『ガレキの山』を築き続ける}繰り返しの事が、{『ノーベル財団』により人類に貢献するものとして表彰されて}人類の希望(『パンドラの箱』に残っているとされる、信じる者にだけ見えるモノ)に至る唯一の活動として、恣意的に喧伝(ケンデン)されていたのです。
そしてさらには、『庶民を扇動する知識人の側』の者達により、{宇宙戦艦ヤマトで宇宙人から提供された波動エンジンのように、[この世界]に無かったモノが付与(新発見)されて、それが在る事によって[この世界]に新たな負担が強いられる}『パンドラの箱』の{無いかもしれない}希望をエサにして、人類に尊厳を失った悪足掻き(無様(ブザマ)な人の世)がゴリ押しされていると、近代文明の進歩や、それによる人の営みの繁栄が指摘(責任追及)され。人々は、{無くても済んでいた、無くてもいいモノを、無理して持とうとはしない}誇りを取り戻すべきだとスリ込まれ、破綻を受け入れる風流{無いかもしれないモノをアテにしたりしない潔(イサギヨ)さ}をなんの疑問も抱かずに口にしていて。さらには、デモなどで主張するコトでは飽き足らなくなると、簡単にテロなどに及んでしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『後出しジャンケンは卑怯である』と『後手に回るのは不利である』の矛盾への注目が始まり、『時間に於ける前後認識の逆転:ブロック積みの世界観』による人間の思考の縛り(閉塞した未来観)の事が{無自覚な隠蔽工作が露呈して}露見し、{拒絶する者たちによる反射的な抵抗を無視するコトで}ついに広く公開されて。人々は、『後出しジャンケン』への抵抗を{一般的には}持たなくなり、『後手に回る事』による不利益を{縛りから解放されて}被(コウム)らなくなって。さらには、『パラダイム変換』の繰り返しに至るコトもなくなり、『悪の自然誌』の結果(破綻)の先へも進み始めて。『権力者を支える科学者の側』の可笑しさを笑い、『庶民を扇動する知識人の側』による『権力者を支える科学者の側』のオカシサへの責任追及の可笑しさを笑うようになったのです。
そして、1000年“先”の今では。『後出しジャンケンは卑怯である』と『後手に回るのは不利である』の矛盾への多角的なアプローチが深まり、{『お金』を分配する為の権力を肯定(必要と)する共産主義とは意味の違う}『お金の使用方法』としての『お金の配分』の概念が形成され、より有効な『お金の配分』の為(補填目的)の経済活動に於けるインサイダーの解禁が{その利益が社会に有用な『お金の配分』に使われるのを大前提として}実現していて。そして、商売の才能がより簡単に社会の為に発揮され、お金持ちの浪費がより直接的に社会の為に使われているのです。
*『パラダイム論』から見えてくる『御伽噺』の時代(概要)。【2月2日・木】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『パラダイム論』が適用されている世界の、不思議な『御伽噺』≫
1000年“後ろ”の時代に於いては、「物事を一旦壊さないと、次の進歩のステージに進めない」という『“盤ゲーム”の世界観』から生じた『パラダイム論』が、{『ノーベル賞』などの権威から認められる事によって}人間の進歩に適用されていて。〔人間世界〕では、時間に於ける前後認識が、通常空間に於ける前後認識と、{誰もが権威に従順である為に}逆転していて。人間の精神に於いては、{『古典的な倫理』と『近代的な道徳』の}正義の強迫観念に縛られ、《自分の為の『幸せの“想い”』》を自己否定して、『試練を転嫁する狂気の集団暴力』と『個人を萎縮させて均一化する経済』が、{誰もが安易に『虎の威を借る狐』と見られる無個性を保身の為の隠れ蓑にしてしまう為に}罷(マカ)り通っていて。人間の必然として、《『縄張りの確保』を目指す“攻撃”衝動》が重宝され、『完全理論的思考の世界観』か『特殊理論的思考の世界』かという二者択一のフリをした争いによる排他的行為が罷り通って、{権威に逆らわないコトが上手に利用されていて}【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返しの状況に誰も疑念を抱かないのです。
しかし、1000年“先”の今では、{『“ロール紙”の世界観』や『一般理論的思考の世界観』や《【“大”全体】の概念》などが隠蔽された}そんな〔世界〕事も、不思議な時代の『御伽噺(オトギバナシ)』になってしまっているのですがね。
・平成28年度版
*反面教師であるハズの『パラダイム変換』の転末(概要)。【10月9日・日】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪人間世界の問題点を論じたハズの『パラダイム論』の顛末≫
『パラダイム論』とは、「人に『幸せの想い(想い合い)』を《悪意に取り憑かれる元凶》として拒絶させ、人々を『試練の想い(想い合い)』の強迫観念に陥らせて、人心の{仮初(カリソメ)の}掌握(ショウアク)を目指している、{現代的な}道徳や{{古典的な}倫理」に付き物の『排除の論理(感情・行為)』を正当化してくれる《古いパラダイムの排除》と、「【“大”全体】を形成している【無限の多様性】の、構成員である『個』の【更新機能】を【部分解禁】している、切り崩しの進歩」に付き物の『破綻と進歩の繰り返し』を正当化してくれる《パラダイム変換による革進的な進歩》の二つの柱から成り立っていて、反面教師として論じられるベキモノであるのですが。
1000年も前になるのですが、【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』によって登場して直ぐに、{【ダーウィン】の『進化論』から【“大”全体】の概念が削除されたのと同じように、『完全理論的世界観』の維持を目指していた『唯一神教』によるものなのか}『パラダイム変換』が理想の進歩として持て囃(ハヤ)されてしまい。さらには、人間の{変化を嫌う}グウタラな本性とも相まって、{100年間単位での}しばらくの期間は、人間世界に於ける長年の問題行為を{繰り返して}踏襲(トウシュウ)するコトを正当化するモノとして、『パラダイム論』が認識されてしまったのです。
*『パラダイム論』を誤解していた人々。【9月11日・日】
これは 1000年前としてのお話しです。
≪《多様性のベース》の“切り崩し”がされていた時期≫
ある時期から、《パラダイム変換の反面教師》は、広く一般に認知されていたのですが。それ以前には、「『パラダイム変換』は理想の進歩である」と決めつけての、『敵対者』や『邪魔モノ』を対象にした《『古いパラダイム』の排除》が、{『幸せな想い』を否定したまま}『試練の想い』の執行として感情的に行われていて。その当時の人々は、その精神に《多様性のベース》の“切り崩し”を無制限に起こすに至ってしまい、《排除を前提にした正義》を{『強迫観念』に縛られて}盲信しての『テロ』や『イジメ』を頻発させていたのです。
《パラダイム変換の反面教師》が一般化し、人の歴史の{忌(イ)まわしき}悪循環が断(タ)ち切られ、そして『幸せな想い』により《『試練の想い』による縛り》から人々の精神が解放されるまでは、人間というのは《正義の衣をかぶった狂気》でしかなくて。人間社会というのは、『狂気』が正義の名の下に横行する{《多様性のベース》の“切り崩し”をするだけの}モノでしかなくなっていたのです。
〔人間の精神世界〕に於ける《多様性のベース》の“拡大”に於いては、《パラダイム変換の反面教師》による《論理的縛り》からの解放だけではなく、『幸せな想い』による《『試練の想い』による縛り》からの解放というのも重要で。科学の分野に於いて、《パラダイム変換の反面教師》という考え方が周知されて、〔科学世界〕での《多様性のベース》の“拡大”が進行した後に、その経験(考え方)を踏まえて《『試練の想い』による縛り》の『強迫観念』を暴(アバ)き出し、正義に縛られない『幸せな想い』の実践によって精神の解放を手に入れて、ようやく〔人間の精神世界〕に於ける《多様性のベース》の“拡大”が実現するのですが。その道のりは、長く険しいモノであった様なのです。
*“善”と『パラダム変換』と悲観的な未来観。【7月8日・金】
これは 1000年前としてのお話しです。
『唯一神教』が主導する人間世界(隠蔽された【“大”全体】から【部分解禁】してくるだけの人の営み)であった為、“善”という{【多様性】が無く【更新】もされない}一律で一様な概念を基にした{自由を自主制限し、それを他者にも当然のように要求する}『試練の想い・想い合い』が人々によって広く実施され、多くの人間が{【部分解禁】に伴(トモナ)い【“大”全体】による恩恵を失って}相対的な能力低下による負担増に陥り、当人の知らないトコロで{古いパラダイムのように}“排除”の対象にされてしまいまして。その結果、“善”を建て前(大義名分)に頑張ってしまう{志の高い}人によって、当人には何の落ち度も無い者たちが、『神』への{露骨な}点数稼ぎの為に“強制排除”される破目(ハメ)に陥っていたのです。
これが、実力行使されてテロ行為となり、{主に男性から女性に対してですが}性的に行使されて{DVやストーカーやセクハラなどの}性犯罪となり、科学技術を使って{間接的に}行使されてテクノ失業となっていたのです。
『幸せの想い・想い合い』が解禁されて、【更新する無限に多様な“大”全体】の真理や『一般理論的思想の世界観』が掘り起こされる、1000年後の今に至るまでは、{“善”以外の多様な事が“悪”として神罰の対象とされていた事によって}上記の事が広く認知(周知)されるコトは無かったのです。
1000年後の今の人間世界(多様な『幸せの想い・想い合い』が生み出す自由な精神世界)では、『進化論』が【更新する無限に多様な“大”全体】を取り戻し、『E=mc²』に『一般理論的思想の世界観』が取り戻され、『パラダイム変換』が『反面教師』として再認識されていて。
そして、{お金の}一方向な流れによる{大がかりな試行錯誤が繰り返されるだけの}経済の破綻は、{お金の}個別な循環による{更新する多様な}経済によって回復し。アルコール類の利用による{生物世界や精神世界での}破綻は、『活性はちみつ』の利用によって復元し。テクノ失業やテロ行為による人間世界の破綻は、≪外見上での経済成長がもたらされる{画一的な}善意の発動と、{パラダイムが変換されていく}科学技術の進歩によって、『劣化はちみつ』の類が産出され、【“大”全体】の恵みである『活性はちみつ』が{古いパラダイムとして}“排除”されて、{昔ながらの人の営みである}アルコール類を用いての{アル中がその場しのぎの効果をアル中の論理で求めるような}追究が止まらない≫という{人の世界が閉塞する事の}道理の周知によって修復されているのです。
すなわち、{画一的に“善”が求められた1000年前の}悲観的な未来観が主流の{人間が古いパラダイムのように“排除”されていく}人間世界にはあり得なかったのが、この{個別に“悪”が許された1000年後の}楽観的な世界観の{パラダイム変換が反面教師とされる}人間世界なのであります。
*『パラダイム論』を歪める『理性の働き』。【2月12日・金】
【トーマス・クーン】の『パラダイム論』の核心である『反面教師』の部分が抜け落ちて、{利用できるストレスに対する『“個”の反発作用』を増やす為の【部分解禁】の範囲の拡張である}『パラダイム変換』が理想の進歩として位置付けられてしまっている為に、人間の思索に於ける『進歩の枷(カセ)』が人間をつなぎ止めて{“大”全体へとは}放さないという事は、人間にとっての大きなマイナスでありますが。
さらに言えば、そんな『パラダイム論』を歪める間違いに人間が至ってしまっているのには、宗教が起因した{両立(尊重)やバランス(調和)を言い訳にして『臭い物にフタ』をしてしまうような}『理性の働き』の問題というのが{別にまだ}あって。{唯一神教を代表に}世界中の多くの宗教が、そんな『理性の働き』を人々に奨めて信者を確保し、『進化論』や『E=mc²』や『神は死んだ』を歪める間違いを{世界中の}人間に惹き起こさせていて、人間にとっての最大のマイナスとなっているのです。
・平成27年度版
*『パラダイム論』の誘惑に打ち勝った先にある最幸。【10月12日・月】
昔ながらの人生哲学(中国思想)などで言う、人間が守り伝えて行くべき“伝統”というのは、上の者が安心して生きていける〔世界〕の構築とその維持でありまして。
自分が上から施(ホドコ)されてきた事が絶対であり、それを自分も同じ様に下へと施しをして行き、下の者も同じ様にさらに下へと施しをして行って、それが“連なり”となって何時までも繋がって行く事が、とても重要でありまして。そしてそれが守られている間だけ、人間は、何時になっても、何時までも、安心して生きて行けるものなのです。
そしてその核心部分というのは、『唯一神教』を基にした『近代科学』に於ける『リセットの大原則』とも共通する、【完全世界的思考】でありますが。その抵抗勢力というのも、ただ【特殊理論的思考】を使っているというだけでありまして、自分の“連なり”を作りたくて仕方が無い訳でありますから、決して“連なり”というモノが否定される事は無いのです。
なので、{“伝統”を守るにしろ、新しい道を模索するにしろ}“連なり”というモノがなくなるという事はなく、その1つ1つの“連なり”というのが、結局は『パラダイム』であり、その“連なり”の交換が、『パラダイム変換』でありますから。『パラダイム論』が反面教師とならないと、人間も、人の営みも、ただ単に“連なり”という人間の『枷(カセ)』が取り替えられるだけで、基本的には何も変わる事が出来ないのです。
しかし、【更新する無限に多様な“大”全体】というモノは、人間の参加(復帰)を何時までも気長に待ってくれているものなので、人間は何時でもいいので{不安というよりも腹立たしくて悔しく、焦燥感に駆り立てられて我慢がならないかもしれませんが、それでも}{“伝統”という}安心の“連なり”の中から何とか抜け出し、{新しい道を模索しての}新しい安心の“連なり”も如何(ドウ)にかして作らずに、『パラダイム論』の誘惑に打ち勝って、{【部分解禁】を利用する頑張りや、統制を目指す意志などによらない}自分という【“大”部分】による【“大”更新】の発動を支えにした【一般理論的思考】で物事に向かい合っていけたなら、人間の生涯としては最幸(サイコウ)なモノになる事でしょう。
まさにそれこそが、職人仕事や研究活動などで、{才能が無くて徒労に終る事の方が多いのかもしれないが、だからこそ}巨匠とか達人とか呼ばれて、それなりの実績が残せるようになる、{【更新する無限に多様な“大”全体】に参加(復帰)しての}最幸の歩みだからです。
*予告【9月24日・木】
〔この世界〕の基本構造である【更新する無限に多様な“大”全体】を扱う【一般理論】を聴き取って、〔パラダイム世界〕のつぶやきを紹介したいと思います
~~~第0094号先頭へ~~~
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます