第A0015号
(制作終了)
『ちび猫のつぶやき』(営業)。
新着の紹介
A14.ちび猫の目指す『知識世界のお話』の公開(2)。
A16.ちび猫の目指す『知識世界のお話』の公開(4)。
・令和1年度版
*何をするにも、営業スマイルが大切となるのです。【6月16日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
差別されているハズの側が{実際によく観て、客観的に考えるほど}恵まれていて、差別しているハズの側(自分・自分たち)が
{『連なり』という{最善最良である事に無理をしてでも{みんなして}《自分を合わせ》るコトを{この世界の理(コトワリ)に則した事だからとして}理想とする}過酷な中での{自己スーパーマン的組体操思考(前後が反転した時間認識(先細りしていく未来)による、ブロック積みの世界観(破綻へと至る世界)での、自分を削る{無自覚に人世界を“消耗”させてしまう}処世術)に追われる}反動による}
不満
(道徳本や思想書などだけではなく、大衆情報誌(週刊誌など)やテレビ番組(ワイドショーなど)や、男性誌(エロ本など)や女性誌(少女漫画など)までもが教則本となってスリ込まれた差別意識による、優越感など無い{羨望と憎悪が入り混じった}嫉妬)
をつのらせてしまっている為に、
{ユダヤ人差別やイスラム教差別や、難民キャンプ非難や移民非難や、男性によるセクハラや女性による痴漢捏造(ネツゾウ)などの}
『憂さ晴らし』が人間の必然であるかのようになってしまっていて。
人世界に於いては、
「自分の趣向や能力やその可能性(修正された時間認識による、開かれた未来観で、みんなが進む道を横切って行ってしまえるコト)を{各個が個別に趣向や能力を発揮させられるように}踏まえ、そんな【自分に合わせ】て{自分が進みたい道を自分のペースでゆっくり走るように}ゆるく取り組む事が行われ、そして{ゆっくり走るのに、{歯車世界で『受け』に甘んじてしまわずに}真ん中を避けて、{歯車世界での『送り』が出来ても笑いとばして}先を譲るように}ゆるく休む事の大切さを、何時も「忘れていないか」と“自問”するコト」
の大切さが、{人世界を無自覚なまま縮小させ、無為に“消耗”させてしまいながら}隠蔽されていて。
《小更新》が{自然世界の部分で}循環を担うような{人による《小全体》での}場合の、その{人為的な『連なり』が形成されている}環境に於ける《小更新》の種類の{必要となる}数が、{【大全体】で【多様性】を形成している、【大更新】の【構成員】である場合の}【小更新】の種類に比べて{乱立しているだけで}ただ多いだけだというのに、
【更新する無限に多様な大全体】のシンプルな構造を{【大更新】に於ける【多様性】の多重構成(【大全体】の本質)を理解せずに}ただ見習い、
{前後が反転した時間認識(先細りしていく未来)の、ブロック積みの世界観(破綻へと至る世界)による、悲観的な危機感ばかりをつのらせて}
『連なり』の回復を大義名分にしての、{人の側からの偏見でしかない}腐食や腐敗の{その物の}排除・{その事の}除去(『悪の自然誌』に於いて人為的でありながら自然とされていた切り崩(クズ)しや、その末の{縛りの交換を繰り返す}『パラダイム変換』)を{自然の理(コトワリ)に則しているとし、進歩の理想形として}断行する(暴走させる)ものだから、
自然世界の破綻が{切り崩しをしては、『パラダイム変換』に至る、そんな{コトの}繰り返しの人世界の暴走に、自然世界がかき回され、《部分化》されてしまって、その歪みが修正されないまま}進んで、自然世界が{人の手によりながら、それが{『神の見えざる手』による}この世界の必然であるかのように言われて}消耗してしまっていて。
自然世界に於いては
「自然に対して{【大全体】の概念(『連なり』に捉われず、【大更新】に於ける【多様性】の多重構成)を根幹にして、各個に於いて個別でゆるく}個々に科学を{《自分に合わさせ》させずに、【自分にあわせ】て}するコト
(集団での方向性が重視(『パラダイム論』にノーベル賞を受賞させた、ノーベル財団の{唯一神教である『キリスト教』の世界観に基づいた}巧妙な{『縛りの交換』を理想の進歩としてしまうような、反面教師の面を削ぎ落す}真意)
された『神の見えざる手』とは似て非なる、{『神』の実在に基づいた超神秘主義の}個人主義である『アリ的お一人様』)
の重要性を「見落としていないか」と“自問”するコト」
の重要性が、
{ノーベル賞により{科学者が個々に展開できるハズの}科学の可能性が先細りし、{自然世界での【大更新】に於ける【多様性】の多重構成が、{『神の見えざる手』を御旗にしての}人為的な《部分解禁》の中で{手当たり次第に}切り崩され、自然世界が《部分化》されて、ドンドン追い詰められてしまって}自然世界の未来が“消耗”されてしまいながら、その{反面教師の面が削ぎ落される}受賞に称賛が集まって}
否定されていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
自然世界での、【更新する無限に多様な大全体】のシンプルな構造の、【大更新】に於ける【多様性】の多重構成(【大全体】の本質)を理解しての、【大更新】の【構成員】としての【小更新】の{自然世界から《小更新》を切り崩していた《部分解禁》とは違う}多様化が、自然世界で{科学として}目指され。
それに伴って、人世界でも、宗教や思想や勢力の乱立を危機と認識しての、{秩序回復や理想の実現を大義名分にした}その{人間そのものを対象にした}排除(『テロ』や『虐殺』などの{広域に於いて『脅迫』となる}武力行使)や{思考を対象にした}除去(『スリ込み』や『誘惑』やなどの{宗教が人類を野性生活(アリ的お一人様)から檻生活(枠組(ワクグミ)に縛られた『パラダイム変換』・人為的な実験装置内を自然としてしまった『悪の自然誌』)に無自覚に移行させてしまった事(ノーベル賞の真の意図)による}精神操作)が、{人世界の多様性を{無為に}減少させて、人間の可能性を{無駄に}閉ざし、{結論として}人の未来を“消耗”させるだけなので}問題であると認知され始めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
『時間認識に於ける前後の反転』が修正され、『ノーベル賞の反面教師としての意義』が評価されて、『エロ本』や『少女漫画』までも{自己スーパーマン的組体操思考に陥(オチイ)り、過酷な試練を自分に課す}教則本としてしまう『スリ込み』が{重大問題として}検証されていて。
それに伴い、{人世界を“消耗”させて来た}『社会経済の発展』や{自然世界を“消耗”させて来た}『科学技術の進歩』の、個々による{『パラダイム』が全体論である事を不思議に思い、『連なり』を世界の理としてしまっている事に疑問を持って、『受け』に甘んじず、『送り』に拘(コダワ)らず、集団としての問題だと{「個人としては免責される」という唯一神教の宗教的な誘惑(無自覚な責任転嫁)にマインドコントロールされて}してしまわずに、“自問”する}自己反省が行われているのです。
しかしそんな今であっても。
1000年“後ろ”の時代と同じで。
趣向の可能性が無限であるハズの『お金』を、経済活動の名の下に一律に使用してしまえば、人の未来を{誰も気付かぬまま}“消耗”させてしまい。
代表的な経済活動とされていた株式市場が再現されれば、{胴元に{高い手数料として}テラセンが集まり、誰かが得をした分だけ別の誰かが損を負う、投機である為に}個々の人間による趣向の発揮の為として使われるハズの『お金』を、無駄に“消耗”させてしまって。
経済効果と称される金額で試算される経済活動が再開されれば、個々の人間の趣向の可能性(人の未来)を、経済効果と称される金額の分だけ、無為に“消耗”させてしまうのですが。
{「個人としては免責される」という{唯一神教の}誘惑に唆(ソソノカ)されて{問題を前にして“自問”をする}自己責任を放棄してしまい、各個に個別な{趣向の可能性を持った}人間である事(趣向の発揮)までも放棄してしまうコトが、無自覚で行われてしまっていると、問題視し}
大切な『お金』を経済活動によって一律に“消耗”させてしまっている事が{人の未来(人類の可能性)を“消耗”させてしまう、最優先されるべき}重大な問題なのだと言って、責任がある『宗教』や責任を負わない『他者』を非難し、{自分の方こそ}自己反省も無く攻撃をしてしまうのでは、{それこそが“消耗”であり}その方が問題でありますから。
とりあえずは、{道路をゆっくり走るのに、避けて、譲って、横切って行ってしまう・・・等々}何をするにも、{“自問”をする為の}営業スマイルが{色々な意味での緩衝行為や時間稼ぎともなって}大切となるのです。
≪補足1≫
『パラダイム』とは「集団に形成された枠組み」でありますから、『パラダイム』を変換させるに至る決定的な『研究・発見』をしたのがたとえ個人であったとしても、特定の『パラダイム』を越える『研究・発見』を個人がした事は『パラダイム変換』ではなくて。個人によるその『パラダイム』を越える『研究・発見』が{『枠組』が古くて閉塞していた事によって}その集団に受け入れられて、その集団に於いて『パラダイム』が変換されるに至った事が、『パラダイム変換』と言える事(状況)なのです。と定義されている。
≪補足2≫
『ノーベル賞』は、『枠組』が古くて閉塞していた事(集団の窮状)を打開するに至る個人の『研究・発見』を、拾い上げて表彰して、『パラダイム変換』へと至らせている訳であり。どんなに凄い『研究・発見』であっても、『枠組』が古くて閉塞していた事(集団の窮状)を打開する為のモノでなければ、『ノーベル賞』は受賞できない訳であるが。これは、個人にとっては、個々が自由に『研究・発見』をする行為が「個人としては免責される」というモノ(人の罪を背負った『神』が作り出した世界)となってしまう訳でして。これにより、{『枠組』ありきのスリ込みがノーベル財団の意図によって生じて}人々は特定の指示命令系統(新しい『枠組』の成熟・古くなった『枠組』の変換)に従事していればよくなって、誰もが個々の自由な『研究・発見』を自己規制(『枠組』の成熟への従事をしたり、『枠組』の変換への従事をしたりするだけで、各個による個別な自由の発揮などはまったく無いのだが、人にとってはとても楽で、それは中毒症状と言えるモノ)するにいたった訳なのです。
≪補足3≫
『悪の自然誌』では、その{人為的な}実験装置で特定の『パラダイム』を形成させていて、それを{人の集団行為は『神の見えざる手』による自然なモノであるからとして}自然な現象と言っている。とされている。
≪補足4≫
『悪の自然誌』は、『神の見えざる手』への問題提起(集団に於ける『神の見えざる手』の在り様を分析し、「個人としては免責される」とされる研究・発見を断行して、枠組に囲われた『パラダイム』の{必ず破綻に至る}不自然さを暴いた)をしていたハズなのですが、{宗教的意図を持った}『ノーベル財団』からの『ノーベル賞』の受賞により、『パラダイム』が{破綻が必然である事により}変換を必要としている事(今の組体操の効果が薄まった時に、新しい組体操を{みんなで}始めれば、{『パラダイム変換』となり}大きな効果が期待できるが。効果の薄まった組体操を止めて、{一人で}何かを始めても、{『パラダイム』で起こっている破綻からは逃れられず}何の効果も得られない)を証明するモノとされてしまったのです。
≪補足5≫
死ぬような思いで{組体操時に勉強や仕事や安全衛生に取り組む事による『自分を合わせ』るコトで命を削って}頑張るコトによる、{ブロック積みの世界観の、破綻へと連なる『連なり』に、逃げずに立ち向かって}土台の上にちゃんと立っているという{誰にも文句など言わせないという、自己陶酔の}安心感によって、人は{下心を実践させていても}得をしたのだという事に{身勝手ながらも、その不安を押し殺して}安心して浸れて、{それが投機によるものであったとしても}『お金』を集めて貯めるコトが{仮初めの安心によるものではありながらも、ようやく}出来るようになれるのですが。そういった『お金』の安心というのは、『お金』の価値の安定(国家が行う物価操作によるもの)の為の前提条件となるものであり、{火事が多かった為に宵越しの銭を持たなかった江戸っ子とは違って}『お金』を集めて貯めるコトが{不安なく}出来る安心の事でありまして、それが{『連なり』という人為的なモノ(『パラダイム論』の枠組)に縛られた人世界の}人が{『アリ的お一人様』で在る}獣と決定的に{何かを忘れて来ている事によるものであり、問題が在るという意味で}違う事の最たるものなのです。
≪補足6≫
『お金』が集まったり貯まったりした事に{命を削って土台形成した土台の上なのだから、そこは何をしても{邪魔などされない}安心できるトコロなのだとして}価値を感じられてしまい、『お金』で得をしている事にも{先細りするブロック積みの世界観の土台の上から逃げないで頑張っているコトへの、{文句など言われない}適正な報酬だとして、不安を払拭して}価値を感じられてしまうが故に。
『お金』を{各個が個別に趣向を発揮させられる可能性を無限に持ったモノとして}使って{道路をゆっくり走るのに、避けて、譲って、横切って行ってしまうというように}自由を発揮させるコトを{道路をゆっくり走るのだと、真ん中を譲らず、渋滞が随所で慢性的に起こっていて}誰も彼もが忘れていて、{循環する連なったモノとして}『お金』に{『パラダイム』を形成する枠組のように}みんなを巻き込んだ制限(集金して配分する{株式などの各種金融市場での}組織的投機行為や、人を雇っての{起業の為に会社設立された企業での}会社の運営など)が掛かってしまうという問題が生じてしまうのです。
≪補足7≫
営業スマイルというのは。『神の見えざる手』に{『神』と受動的に繋がっていて}導かれる{自由で在るコトが「個人としては免責される」事による}一様な構成員で構成される『小全体』で、みんなを統率する立場のリーダーの強制的な指示命令を戒める為のものではないが、リーダーの指示命令に{《自分が合わせ》て}従う立場の一般構成員の無分別な反抗を戒める為のものでもなくて。みんなが『アリ的お一人様』であり、{【自分に合わせ】て}個々に行動する者ばかりでありながら、誰にも{【大更新】の構成員として調和を構築する者として}協調性を失わない為の{『神』と能動的に繋がる、御呪(オマジナ)いや護符のような}ものであります。
*先手先手で【自分に合わせ】る・・・(ゆるく休む)。【6月1日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。
「やる時はやり、休む時は休み、休日はエンジョイする(絵に描いたような超人生活)。そんなメリハリのある生活が最善最良(誰もが見習うべきもの)なのです」といった一律なスリ込みによる思い込み(一様な妄想)が、人を{疲れが抜けない}悪循環
(やる時は難しい課題を掲げて{研究で}やり、休む時はどんな時でも上手に休めるようになろうと{研究で}休み、休日は遊びに{研究で}手を抜かない(誰もが実現させたい超人生活)が、そんなのをアドバイスされ、出来るようにならなくてはならないと{自分でも}思ってしまっても、簡単に挫折してしまって、{人はすぐに}ぐうたらに見える状態に陥ってしまうのです。
ぐうたらに見える状態に陥ってしまい、頑張れない事で自己嫌悪に陥ってしまって、{超人生活の}最善最良を{それが善意であろうと}一律にアドバイスされる事を嫌悪する様になり、ついには{少なくはない人々が}ドロップアウト(自殺や犯罪)へと追いやられてしまうのです。
{頑張れと言われていると思いながらも}みんなからぐうたらと思われていると感じ、{頑張らなくてはならないと思いつつも}自分で自分をぐうたらだと感じてしまい、それでも{超人生活の}最善最良に{妄想に導かれて}しがみつくが、現実には{まったく}出来なくて、結局は{誰もが}憂さ晴らしに追い立てられてしまうのです。
より高いレベルに《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないと{超人生活の}最善最良に頑張り、一律に取れる休みに《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないと画一的に休むコトに“自問”をせず、漫画や映画の場面のような休日の過ごし方にも《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないとエンジョイし過ぎて。【自分の趣向や可能性に合わせ】た何かに取り組んだり、【自分の趣向や可能性に合わせ】た休みの取り方を模索したり、【自分の趣向や可能性に合わせ】た何かを考えて休日を過ごすコトが出来ずにいるのです)
に陥らせていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
「出来うる限り{時間を掛けて歩てもいいからとするマラソン的心得で}ゆるく取り組み(自分の趣向や可能性を引き出す)、
{誰かの為になどではなく}自分を心配してゆるく休み(休みに《自分を合わせ》るのではなく、【自分に合わせ】て休みを調整する)、
{後手後手になるような休日の過ごし方をするのではなく}先手先手が考えられるようなゆとりを生み出す休日の過ごし方をする(理想的な休日の過ごし方などは、躊躇(チュウチョ)なく避けて、とっとと誰かに譲ってしまう)」
というコトの大切さ(有用性)に気付き始め。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
「試験勉強などに於いては、その出題範囲に{後手後手で頑張って}《自分を合わせ》るような{無理を積み上げる}勉強をするのではなく、
【自分の能力や都合に合わせ】て{先手先手でゆるく}要点だけに絞り、範囲も絞って{リスクを背負い込まない}勉強をする。
職場などに於いては、{『連なり』に連なる}合わせる事を最善最良として職人気質(カタギ)で部下にそれを求めると{マスゲームや組体操をやりたがる専制君主のような}パワハラになるのでそれは止めて、
物事の趣向(個々の個別な多様性)や人の趣向の可能性(前後が適正な時間認識)が見落とされていないか{自然世界や人世界を“消耗”してしまっていないか}を誰もが“自問”していて、そして{そんな}みんなによって【自分に合わせ】て{個々にとっての}仕事の在り方を変えていけるような職場にする」
という事が周知されているのです。
しかしそんな今であっても。
「自分の『能力』も『趣向』も『可能性』も分からないまま、何の“自問”もせずに周囲の人の価値観を{スリ込まれて}受け売りし、『一人前の大人』というモノに《自分を合わせ》ようとして、飲酒や喫煙を始めてしまい、飲酒や喫煙が{無自覚なまま}習慣化してしまうと、{危険性をいくら指摘されても}肝硬変や肺癌で死ぬまで止められなくなる危険がある」という恐ろしさと同じで。
試験の成績に追われて無理を積み上げている事に無自覚なまま、「学校に行っている子供であれば、勉強を頑張るのが普通で、決められた休み時間で休めるようにならなくてはならなくて、休日であってもダラダラ(手抜き)しないのが理想」だとスリ込まれて、{程度の差こそあれ{本意とは違って}グウタラ(手抜き)に陥り、不本意ながらグウタラ(手抜き)と思われているのではないかと意識し}少しでもグウタラ(手抜き)でないコトに《自分を合わせ》ようと{無理をしてでも}頑張って、{【自分に合わせ】て{先手先手で}要点だけに絞り、範囲も絞ればいいハズの}勉強の仕方を{試験の範囲に対して一律に《自分を合わせ》ようと、{後手後手で無駄に}一様な無理をするばかりで}間違えてしまうと(教師が“自問”をせず、子供にも“自問”を教えられないと)、勉強の場であるハズの学校が勉強嫌いの子供を増やす機関になってしまいますし。
業績に追われて無理が積み重なっている事に無自覚なまま、「仕事をする大人であれば、頑張るのが普通で、メリハリのある休みを取るのが最善最良で、休日はエンジョイするのが理想」だと妄信して、そういった自分に安易にトライしてしまい、そんな生活が“当たり前”となって{無理を長年続けて}しまうと、末期の成人病になったり、鬱(ウツ)になって自殺志願したりする事態に{誰でも突然}陥ってしまいますから。
先手先手で【自分に合わせ】たコトを{選び出して}して、《自分を合わせよう》としないでゆるく休んで、{無駄に}エンジョイなどせずに“自問”するゆとりを作って休日を過ごす事は、{誰にとっても}すごく大切なのです。
*誰もが『正論・常識』に捉われずに“自問”を続ける事の意義。【5月29日・水】
1000年“後ろ”の時代までは。
ワイドショーなどでの有名人(芸能人など)への{出演拒否(ドタキャン)や不満発言(暴言)などの}ワガママ批判(つけあがってイイ気になっている、落ち目になっても自業自得だと言われる)を聞かされ続けて(スリ込まれて)、{自分から}誰もが『見栄っ張りで、自分を高く評価させようと駄々をこねているだけなのを、決して許してはならない』と思う(ワガママ批判をする)ようになってしまい。
学生は先生による『エコヒイキや一方的な締め付け』や生徒間での『イジメ』が横行する学校で{何も言えずに自分で自分を縛って}縛られ、サラリーマンは『各種ハラスメント』(パワハラやセクハラなど)が横行する職場で{何も言えずに自分で自分を縛って}縛られて、自分を“消耗”させ続けていながら、{自分に対して“自問”が出来ないまま}それを必然的破綻(縛られない為には辞めなければならない)だと勘違いさせられていて。
さらには、≪『エコヒイキや一方的な締め付け』や『イジメ』や『各種のハラスメント』などが起こるのは、自分で自分を縛って何も言わない事(幼稚な虚栄心)による自業自得(みんなからの叱咤激励:戒め)だし、『エコヒイキや一方的な締め付け』や『イジメ』や『各種のハラスメント』を訴える(すぐに不満を口にし、安易に辞めたいと言い出す)のはつけあがっているだけだ(反省しないでイイ気になっている{つけあがっている事の}証拠だ)≫という話しも{正論として}氾濫していて、{それが人世界の常識なのかと絶望し}自殺者が絶えなかったのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
≪『スリ込み』とは“自問”を拒絶(時間認識に於いては、前後が反転していて正解だと決められていて、誰も疑えない:午後・午前など)しているものであり、その入り口{服従の始まり}が『正論』(人世界に於ける、先細りの論理である、ブロック積みの世界観:誰もがそう在れば、自分もそう在って当然:近代に於いて『社会経済の発展』はそれを土台にして行われる)でありまして、完全にカンヌキを掛けてしまう{盲目的に後戻りできない}のが『常識』(自然世界に於ける、“消耗”(破綻・腐敗・腐食)を必然とする、『連なり』の『理(コトワリ)』:自然が{“消耗”しながら}連なっているのだから、人類も{“消耗”により繰り返しが必要になり}連ならないではいられない:有史以来『科学技術の進歩』はそれを根幹にして繰り返されて来た)である≫
という『スリ込み』と『正論・常識』と『発展・進歩』の{“自問”が出来ないコトによる}負の連鎖を自覚し始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
≪特定の誰かが{人類を}ケン引し(発展進歩した小更新:送り手による送り:対価交換を誤魔化して生み出された“価値”を得る:ノーベル賞受賞)、誰もが{みんな}ケン引してもらい(画一的な小更新:受け手による受け:大勢で誤魔化されて“価値”の代償の支払いを分け合う:ノーベル賞称賛)、そんな『連なり』(枠組の構築)により『社会経済の発展・科学技術の進歩』が形成され、{特定の誰かによる《発展進歩した小更新》によるのではなく}みんなによる《画一的な小更新》の為に人世界・自然世界の全てが“消耗”してしまう(破綻してしまう)ので、{『連なり』を『理』とする1000年“後ろ”の時代までは}パラダイム変換(みんなで一斉に特定の枠組を交換する集団行為)がどうしても必要になってしまっていて。
その必要を満たす特定の研究(枠組の再構築)に対してノーベル賞が贈られ、その研究(交換された特定の枠組)から積み上がる事に{それが対価交換の誤魔化しであり、先細りが必然な事であったとしても、ノーベル賞が後ろ盾となって}“価値”が付けられ、みんなが大勢で“価値”の代償の支払いを{何時までも、繰り返し}分け合っていた≫
という事の反省から、ノーベル賞(過去の研究)の『反面教師』としての再評価(再分析・再活用)が行われているのです(人世界と自然世界とが【大全体】を構築し、『大更新』の形成による問題の解決を目指す)。
しかしそんな今であっても。
『お金』で測れる“価値”とは対価交換を誤魔化せた分(『小全体』な人世界で《発展進歩した小更新》に対して{みんなの負担の上に}負荷されるもの)であり、誤魔化すのを止めて対価を誠実に提供(ノーベル賞など決してもらえない【大全体】での『大更新』の研究とその実践)してしまってはその意味(パラダイス変換の必要を満たすモノであり、ノーベル賞が後ろ盾となってくれるモノである)が無くなってしまうものでありまして。
“価値”という『お金』が目前にチラついて、{【大全体】での『大更新』である}誠実な研究を『社会経済の発展・科学技術の進歩』(『小全体』での《発展進歩した小更新》)へと変えてしまう研究者が現れると。
{そんな『お金』を利用して『社会経済の発展』が追求(人世界で人類が“消耗”)されて来たとする}人類史に{『反面教師』とすべき事にノーベル賞が贈られて来たようにして}目を瞑(ツム)るような『正論・常識』の{盲目的に服従すべきものとする:“自問”を拒絶してしまう}スリ込みも{1000年“後ろ”の時代までと同じく}すぐに始まってしまうでしょうから(特定の誰かによる《発展進歩した小更新》によるのではなく、みんなによる《画一的な小更新》の為に、人世界・自然世界の全てが“消耗”を再開してしまう)。
特定の研究者も重要なのですが、一般市民と言われる人(みんな)の誰もが{『正論・常識』に捉われず}“自問”を続ける事にも、{本当はこちらの方が重要かもしれないのですが}大切な意義があるのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(未来の“消耗”を“自問”する)。【5月26日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
多くの宗教(特に唯一神教)に於いて《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持っているとする神秘主義》が{宗教組織・団体への権威の集中(秩序の構築)の邪魔になるからと}拒絶されて『倫理道徳』が作られ(人に於ける『憂さ晴らし』の必然化)、
その信仰に於いて人間が{その『正論・常識』に基づいて}人為的に思い描いた『連なり』を{分かったつもりになって“自問”をせず}大自然の『理(コトワリ)』として{認識して}考えていた為に(未来の“消耗”が“自問”されずに)、
{「全ての男性は男性として在れば良く、全ての女性も女性として在る事が『理』であるので、誰もそれ以外には在るべきではない」などのように言って}
人の自由が長年に渡って当然の様に奪われ続け
(前後の反転した時間認識(ブロック積みのように先細りしていく未来観)がスリ込まれ、{【更新する無限に多様な大全体】の構成員として多様であっていい}個々の人間から個別な趣向の余地(“神”との関わり方)が削(ソ)ぎ落された世界観が作られて、《社会経済の発展》の名の下に人間の可能性(人世界の未来)が『連なり』として“消耗”される)、
{「畜産施設(消毒殺菌の徹底)や医療施設(薬品開発)などで耐性病原体によるパンデミック(『小更新:一様な小全体による一律な更新』の暴走)が繰り返され、{強力な消毒殺菌としての}抗生物質などの薬品が次々と開発されて{『小更新』を人為的に暴走させる}【部分解禁:大全体の構成員の単独利用】が繰り返されるが、それは《それを止めれば人類が滅亡するという『理』》に適っている」などのように言って}
自然世界での【大全体】の破綻(『大更新:無限に多様な大全体によるその時その場所ゴトの個別な更新』の機能不全)が長い年月繰り返され続けていて
(先細りするブロック積のように物事は起こる(時間が進む)とスリ込まれ、{【大全体】の構成員として多様な『アリ的お一人様』であるハズの}個々の物事の個別な趣向(“神”との関係)が削ぎ落された世界観が作られて、《科学技術の進歩》の名の下に自然の可能性(地球の未来)が『連なり』として“消耗”される)。
そんな{『受け(受け手)』と『送り(送り手)』が連なるコトで、可能性(未来)を“消耗”していく}『連なり』の中で、
{女性は女性らしく我慢する『受け手』として在り、男性はそれを雄々しく監督する『送り手』として在る
(イスラムの地では、女性が{不自由でも}ヒジャブを身に付けているが、{そこに輪を掛けるように}男性が学問をする女性を時々襲撃するなどして緊張が増し、{危険回避の為に}有能な女性ほど有力男性のハーレムへ逃げ込む)し、
医療施設(薬品開発)は病原体の耐性獲得の度に薬品開発を繰り返す『受け手』として在り、病原体は時々耐性獲得をして医療施設(薬品開発)を慌(アワ)てさせる事を繰り返す『送り手』として在る
(畜産施設では、消毒殺菌が{良い細菌を犠牲にしてまで}徹底されているが、{そこに輪を掛けるように}耐性病原体が時々感染拡大を起こして大量広範囲の消毒殺菌が緊急実施され、{危険回避の為に}家畜の大量殺処分も行われる)が、
それらが必然(大自然の『理』に適った事)であるとされてしまっていて}
『受け手』は自分を{“消耗”させて}壊してまで『受け』をして{“神”との個別な関係を見失ってしまった}自分の居場所の確保を図っていて
(無意識に「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」という思いに追い込まれてしまって、人々は無自覚なまま「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」というのを{自分による未来の“消耗”でありながら“自問”が出来ずに}行動規範としていた)、
『送り手』は{『受け手』が“神”との関係を個別に取り戻す事がないよう}恐怖の『送り』をばら撒いていたのです
(活躍していた有名人(スポーツ選手や俳優など)が{スランプに陥るなどして}落ち目になると、「つけあがってイイ気になっていたからだ」と{一方的に}叩かれて、人々の深層心理に「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」という{自分による未来の“消耗”を“自問”できなくする}スリ込みがされていた)。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
1000年“後ろ”の時代までの事を、
≪道路をゆっくり走るのに、ワザワザ道の真ん中を走って、巻き添えを増やし。
その{迷惑をこうむってしまった}後ろの車も、その憂さ晴らしに、わざとゆっくり道の真ん中を走ってしまうという『連なり』が出来てしまい。
そういった{後ろに位置する車の}運転手の多くがフラストレーションを抱えてしまって、前の車に対して乱暴な運転をしてしまうものだから。
{そんな『連なり』の中で}前に位置する車の運転手の多くのは、{急いでいなくても、急いでいて先は譲れないと見せる必要に迫られて}端に避けずにゆっくり道の真ん中を走り続ける事になって。
解消が困難な大渋滞(停滞)が発生してしまう≫
というのと同質の事と理解し始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持つとする神秘主義》が{『神は死んだ』と言って宗教(唯一神教:キリスト教)を揶揄した【ニーチェ】の想いが適って}回復し、
前後の反転した時間認識が
{『科学革命の構造』の【トーマス・クーン】や『攻撃』の【コンラート・ローレンツ】などの先人たちが警告しながら『ノーベル賞』の受賞により有耶無耶(ウヤムヤ)にされて{埋もれて}いたサル山的人世界の問題点
(人に『憂さ晴らし』を必然とさせた『倫理道徳』や、人に『スリ込み』を“自問”させなかった『正論・常識』や、人の未来から個々の『趣向の余地』が削ぎ落された結果の『社会経済の発展』や、《【大全体】が失われたサル山的人世界》に於いて自然から個別な『趣向』が削ぎ落された結果の『科学技術の進歩』)
が{掘り起こされ}日の目を見て}
修正され。
「ゆっくり走るにしても、端に避けて(『受け』を避けて)、先を譲り(『送り』を譲り)、渋滞があっても{『連なり』に捉われずに}横切って行ってしまう」
という姿勢(サル山的である事により人世界に構築されてしまう{『連なり』を形成する}『枠組』など、『パラダイム変換』など待たずに、一人でさっさと越えてしまう)が重要視されて。
「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」といった{雑多な}スリ込みからも、多くの人々が{なかなか答えが見つからなくても“自問”を繰り返した末に}解放されていて。
人世界や自然世界の未来の“消耗”が、回避されているのです。
しかしそんな今であっても。
『悪の自然誌』の実験例(警告)と同じ様に、{みんながみんなして}『枠組』などに{無自覚でも・意識だけでも}閉じ込められて{『連なり』を形成して}しまうと、人世界は{簡単に}サル山的となり、《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持つとする神秘主義》が{安易に}否定され、前後の反転した時間認識が{誰も“自問”をせずに}常識として周知されて、{すぐにでも}1000年“後ろ”の時代に戻ってしまい、人世界や自然世界の未来の“消耗”が{簡単に}始まってしまうので。
「ゆっくり走るにしても、端に避けて(『受け』を避けて)、先を譲り(『送り』を譲り)、渋滞があっても{『連なり』に捉われずに}横切って行ってしまう」という姿勢を守るだけではなく、{“自問”するゆとりを生み出す為にも}何をするにも【営業スマイル】を忘れないで、『受け手』や『送り手』になるのを上手く回避するコトが大切となるのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(分かったつもりになっている)。【5月20日・月】
1000年“後ろ”の時代までは。
この世の中にはお金(価値)では測れない{人間による趣向や自然の恵みなどの、大切な}意義が在るという事を人は{言葉で}分かってはいても、
「それには、各個の人間(自然の一つ一つ)による{個々に個別な}趣向(アリ的お一人様)の実践(大全体を構成する多様性の形成)である事が
{「マスゲームや組体操などのような全体(特定の小全体)を形成する{一律な小全体の構成員として一様なモノである}個々の『連なり』というものが自然の『理(コトワリ)』であるので、一人一人の人間が{個々に個別な}単独行動をするのには{害ばかりで}意義がなくて、パラダイム変換でも{個人が行うものではなく}みんなによって{全体として}行われるものだとしているのは、そういった『連なり』というものを自然の『理(コトワリ)』として尊重しているからである」というのは幻想であり}
必要でありまして、
{自分を含めた各個の人間や物事によって、{大全体を構成している}多様性を形成する一つの趣向(アリ的お一人様)が{個々に、個別に}実践されなければならないのですから}それが趣向の品(有効な小更新:大全体を構成する多様性の構成員の一つで、それが集まった大更新によって大全体が形成される)だからと言いって
{自然の『理』である物事の『連なり』の、重要な基礎にあたる『土台:『受け』と『送り』が連なる歯車連動世界の範囲』の拡張(前後が反転した時間認識のスリ込みから生じた{『土台』が大きく出来るものの、先すぼみが原則の}幻想)であり、《自分の未来》や《物事の可能性》の拡大(現実的な危機から{それが必然だと言って}目を逸(ソ)らした{閉塞や破綻を招く}甘い見通し)になるからと}
幾(イク)ら集めても{趣向の可能性が{唯一}無限なのは『お金』なのだと言って、ただ『お金』を集めたり、やたらと大金をつぎ込んだりするのもまったく同じで}まったく意味(意義)が無い」
という事までは分かっている人は{分かったつもりになっているだけで}稀であった為に、
{そういった趣向の実践(特定趣向のゴリ押し)をしている人の中にはテロリズム(知識人の一部)に傾倒してしまう人がいて、それを集めている人の中にはゴミ屋敷(新型耐性病原体を生み出す殺菌消毒を乱用する家畜施設(病院)と同種)を作ってしまう人がいるのですが}
そういった意義が他に何らかの{社会変化や環境変化などの}影響を及ぼすような場合でも、
人はそれが{正しいと思われる『受け』から導きだされた『送り』である}
正しい事{自然の『理』である連なりに適った事であり、それをしないコトによって世界(自然)に悪影響が出るので、自分がそれを単にするだけではなく、他にその意義を知らしめたり、他にもさせたりしなくてはならないと{それが幻想だとは気付かないまま}思ってしまう事}
だと思ってしまい、
人は{大全体からの小更新の部分解禁(切り崩し:その反作用として《政情不安》や《新型耐性病原体の発生》などが繰り返される)である}
それを{溜まった憂さを晴らす必要に迫られ、それが必然であるかのように}
しないではいられなかったのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
人間世界で起こる{人間社会や自然環境の}問題の多くが、
「道路をゆっくり走るのに、わざわざ真ん中を走っては、{憂さ晴らしをするように}後続を渋滞させて、『連なり』を作ったという安心に浸る」
というコト(前後が反転した時間認識のスリ込みから生じた幻想による、現実的な危機から{それが必然だと言って}目を逸(ソ)らした{閉塞や破綻を招く}甘い見通し)
と同じ構造(同質)のものだと気付き始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
「道路をゆっくり走るのに、{『受け』を受けずに避けるように}端に避け、{『送り』をしたくても他に譲るように}他の車に先を譲る」という事を想い、
{人間社会や自然科学の世界に於いて、他の『連なり』が前を塞いでいても}横切って先へ行くという事を想って、
{見えない枠組を一様に抱え込んで、みんなが一律に連なる、海洋牧場の様な}サル山的人間世界での『社会経済の発展と科学技術の進歩』や『倫理・道徳を踏まえて成り立つ正論・常識』の幻想に縛られないで、
各個の人間や、自然の一つ一つによる{個々に個別な}趣向(アリ的お一人様)の実践が周知され、尊重(大全体な世界観での、『連なり』に捉われない、{腐敗し、腐食し、破綻していく}自然との関わり方)されているのです。
しかしそんな今であっても。
{各個の人間や、自然の一つ一つの、{個々に個別な}趣向の実現や、『アリ的お一人様』の{大全体を構成する構成員としての}形成が見失われて}『受け』と『送り』の『連なり』に{自分の居場所を作ろうと、自分を破壊してまで}奔走し、
{渋滞の先頭で道路の真ん中をゆっくり走り、渋滞をワザワザ作っている様にしていて}営業スマイルでかわさずに{反動・憂さ晴らしに身をゆだね、他を破壊するコトを厭(イト)わず}趣向や『小更新』のゴリ押しや収集(乱用)をしてしまえば、
{元の木阿弥となり、『大全体』を破綻させてしまって}人間社会や物事の腐敗や腐食を{対処不能なほど}加速的に進行させてしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(横切って行ってしまう)。【5月12日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
前後の反転した時間認識から生じた{土台を積み上げていくブロック積みの世界観でもある}歯車動作の連動連鎖の『連なり(受け送り)』を物事の理(コトワリ)とするスリ込みにより、
人間は{自分の居場所の確保の為にと}“自分(自分たち)を破壊”して『受け』とし、{憂さ晴らしの必要に迫られて}“相手(物事)を破壊”しようとして『送り』としてしまい、
{人対人だけではなく、人対物事にまで範囲を広げながら}それによる『連なり(受け送り)』と『連なり(受け送り)』とが{破壊し合って}関係し合える{破壊というエサに群がって来て、そこに居付いてしまうサル山的構造の}特定の範疇(ハンチュウ)(破壊できる『受け』の限界)が『パラダイム』を形成していたので。
その特定の範疇が{人や物事からの『送り』に対して、人が『受け』を行うための【部分解禁】の切り崩しを限界までしてしまい}破壊しつくされてしまうと、
人類は{人は【部分解禁】の切り崩しの可能性を広げる}『パラダイム変換』を{必然のように}必要としてしまっていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
前後が反転した時間認識の修正にとりかかり始め、『連なり(受け送り)』という自然の理の幻想が疑問視され始めて、
{土台の積み上げや、受け送りの歯車であった、{反動・憂さ晴らしが必要となり、破綻が必然で}先細りしていく『倫理道徳』や『正論常識』や『発展進歩』などの}志が訂正されるに至り。
人々は、『連なり(受け送り)』と『連なり(受け送り)』とが{人対人、人対物事で、破壊し合って}関係を持っている特定の範疇に対し、横切って行ってしまうのに、
{特定の『連なり(受け送り)』に関係してしまって}自分を破壊してしまうコトがないように『受け』を{そこに自分の居場所を作らずに}避け、他を破壊する必要性があっても『送り』を{反動・憂さ晴らしを放棄して}譲って。
なにものとも『連なり(受け送り)』を持たず、限界のゆっくりよりもちょっとゆっくりと、{試練や訓練などにしてしまわず、何処へでも}走れるように努めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
{自然の理であると{前後反転の時間認識のスリ込みによって}思い込んでしまっている『連なり(受け送り)』に逆らえずに}人対人・人対物事が、{どうしても}連なっていなくてはならないのだと、{盲目的に欲求して}切望する{近代では一般的であった}人々が、
『お金』の遣り取りで『連なり(受け送り)』を一様に構築し、そこで一律に安心(誰かに損をさせて、自分が得をする事(投機的経済活動)の正当性)を手に入れていて、それにより『小全体』を形成・活性させていたのが、{近代での}社会経済の発展であり、
土台の積み上げ(歯車動作の『受け』・『送り』の連鎖)で『連なり(受け送り)』を一様に構築し、そこで一律に安心(自分を壊し相手を壊しながら、土台の積み上げを先細りさせて行く事(『小更新』を積み上げていって連ねていく部分解禁的科学技術)の正当性)を手に入れていて、それにより『小更新』を形成・活性させていたのが、{近代での}科学技術の進歩であったので。
個々の人々が個別に、『お金』を個々の《趣向の品》として個別に配分(みんなに様々な有効利用をしてもらう:投機とは違う投資の本質)して、{今の時代の}【配分経済】の構成が作られていて、
【大全体】の色々な構成員が様々に配分(様々なモノの様々な【小更新】を様々に有効利用してもらう:【部分解禁】されている『抗生物質』などとは違う【大全体】の構成員である『生きた水』の本質)された多様性によって、{今の時代の}【大更新】の構成が作られているのです。
しかしそんな今であっても。
『幸せな想い』や『「口と水着の部分を守る」というような視点の自由化』や『生きた水』などによって『連なり』を横切って行ってしまうのに、それに拘り過ぎて、それを{相手や物事を破壊する、反動・憂さ晴らしのような}『送り』としてしまったり、
誰かが『受け』として受け取って、自分(自分たち)を破壊してしまっては、意味(その意義)を失うので。
どうしても{自分(自分たち)が{無理な『送り』をする}反動・憂さ晴らしに至らず、相手(物事)が自分(自分たち)を破壊してしまう{無理に『受け』として受け取ってしまう}事態に至らないように}営業スマイル(『連なり(受け送り)』への拘りを捨てて、『受け』を避けて『送り』を譲り、ゆっくり走って、横切って行ってしまう時に欠かせない、みんなに意識して心掛けてほしいコト)をするというのは必要でありまして、
営業スマイルを忘れて横切って行ってしまっては、それが{自分(自分たち)と相手(物事)との}次の『連なり(受け送り)』となってしまうだけなのです。
・平成31年度版
*道路をゆっくり走るのに、・・・(【波動エンジン】の認識変更)。【4月21日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。個々の物事や人間が{各個で}個別に在るというコト
(物事が一般化されていなくて、周知されないで在るコトで。人が物事に於いて{よく考えないで}端に避けてしまって、{無責任に}先を譲ってしまうコト:『歯車動作の連動連鎖』が機能していないコトで。人々が『受け』を受けなくて、『受け』にならない『送り』を送っているコト:『時間認識に於ける前後の反転』が機能していないコトで。人間が『ブロック積みの世界観』を見失い、土台形成が行われなくて、『パラダイム』が作られず、『悪の自然誌』の実験が行えないコト)
が、{暴走しやすい}“魔法”世界での{“魔法”を使わない人間にとっての}危機的状態
(『宇宙戦艦ヤマト』に於いての、{宇宙人から提供された}【波動エンジン】から『波動エネルギー』が{『受け』が無いのに『送り』の動作(動力)が無尽蔵に作り出される“魔法”のように}作り出されていて、人間の科学体系(歯車世界)に属していないのに、人間が{一般化して、周知される}技術としての利用を{“魔法”使いが、“魔法”を駆使しているように}見切り発車してしまうコトによる、{『宇宙戦艦ヤマト』では幸運であっただけの}可能性以上の危険性)
とされていて。
{“魔法”を使わない人間の、“魔法”世界での不自由な状態での}不自由さによる『反動』や『憂さ晴らし』が必然で必要だからと、その危機の{『“魔女”裁判』や『“魔女”狩り』によるような}過激な手段での解消がことさらに肯定され、各種の『ハラスメント』や『テロ』や『迫害』が{無自覚な正義漢たちによって}頻発していたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。自分としては、『動物園』や『水族館』や『植物園』へ観賞に来ているのであり、食料品市場や食堂・レストランなどへ来ている訳ではなく、『エサ』にするつもりのないモノの観賞が目的なのであれば、
「目の前のモノが食べられないからといって、腹を立ててどうするのです。撫でたりするコトや、香りを楽しむコトだけで満足していても、別に可笑しくないハズですよね」
とか、考えたりするようになり。
『エサ(その引換券であるお金)』が配られる『サル山』や『海洋牧場』のような人社会(小全体:魔法を使わない人の集まり)で、得られる『エサ(お金)』の量や質をめぐる{その向上の為の}順番争いをみんながしていても、自分としては『エサ(お金)』以外のモノの観賞(撫でたり、香りを楽しんだりするコト)をする“おバカ(アホウ)”なコトが目的であれば、
「自分が端へ避けて、先を譲っているからといって、それを自慢してどうするのです。誰かを誘うコトもなく、一人で楽しんでいても、別に可笑しくないハズですよね」
とか、考えたりするようになったのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。【波動エンジン】の個々のバリエーションのような《社会経済の発展観》や、《科学技術の進歩観》を{各個が個別に}持っていて、誰も一般化など求めず、周知される事など望んではいなくて。
{一般化され、周知されている}最大公約数的な『社会経済の発展や科学技術の進歩』を用いた産業から生み出される既製品が、みんなで独自にアレンジされ、各自の様々な用途に用いられながら。
色々な【波動エンジン】が{各個が個別に}作られていくような、【個々の文明】の構築が、{広がりながら}進んでいるのです。
しかしそんな今であっても。『エサ(お金)』以外のモノの観賞(撫でたり、香りを楽しんだりするコト)をする“おバカ(アホウ)”で、【個々の文明】が特徴的な構成員によって形成される【更新する無限に多様な大全体:魔法世界の魔法の本質】の概念が拒絶されてしまい、
{厳選された『エサ(お金)』が、順番から選ばれた『エサ配り』により順番で配られて、{同じ様に魔法を使わない}人が集まった事により、そこに壁が在って囲われているかのようになった、みんなが一様に行う一律なモノとしての特定のパラダイムである}
『サル山』や『海洋牧場』と同じ{魔法が拒絶された}構造の人社会が復活してしまえば、1000年“後ろ”の時代まで逆行してしまうので。
{『受け』を必要なものとして、そんな『受け』となるように『送り』をする}『歯車動作の連動連鎖』や{土台の上への積み上げをパラダイムでの進歩として、その交換をパラダイム変換とする}『ブロック積みの世界観』や{人間にパラダイム論(枠の中に閉じこもって、破綻へと至る)をスリ込ませた}『時間認識に於ける前後の反転』や{人間や物事を『悪の自然誌』の実験台にしてしまっての、身勝手な成果を、魔法世界での魔法を使わない人間にとっての切り札として表彰している}『ノーベル賞(ノーベル財団)』を危険のチェックシートにして、注意を怠らないのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(3)。【4月13日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。人の世が、『海洋牧場』や『サル山』の様な
{複数のエサ撒き係(神官や僧侶・王侯貴族・資本家・革命指導者など)が{参加者たちの妥協の産物として成り立っていて、様々な機会に入れ替わりながら}機能するエサ場に出来た、{エサ場が神聖化されたり、私物化されたり、自由競争化されたり、共有化されたり、共産化されたりする事(【更新する無限に多様な大全体】に対しての、《単独の構成員の更新機能を切り崩す【部分解禁】》を破綻させては繰り返すコト)による}様々な『争い』や『不正行為』を繰り返しながらも{壁に阻まれたかのようにノロノロしていて、『社会経済の発展や科学技術の進歩』を不自然に駆使して人間に{無理やり}付けた順位を{強引に}入れ替える事しか出来ず、『反動』や『憂さ晴らし』を必要としながら}誰もエサ場から離れない、同じ様な{特定の}欲求(スリ込まれた正義観:無自覚な欲望)で集まったモノたちの{『ブロック積み』や『歯車動作の連動連鎖』を形成していて、時間認識に於ける前後が反転した先細りの世界観(未来観)に違和感を抱かず、誰もが無自覚に『悪の自然誌』の実験を形成して、パラダイム変換が必要になる破綻へと突き進んでいる}特定の群れの}
形態をなしていて。
そして1000年“後ろ”の時代からは。『海洋牧場』や『サル山』に出来た特定の群れの様な人の世で、{同じ様にノロノロする誰もが『反動』や『憂さ晴らし』を必要としていて、先細りする世界観に於いてパラダイム変換が必要になっている事の異常さに気付き}人が自ら進んで{道路をゆっくり走る“アホウ”な者となって}エサ場の端に避け始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。『海洋牧場』や『サル山』に出来た特定の群れの様であった人の世に{道路をゆっくり走る“アホウ”な者のように}背を向け、{エサ撒き係の特典にも誘惑されず}エサ(エサ場)を他に譲って、人々が様々な欲求で{大海や野山に向かうように}個別に{『社会経済の発展や科学技術の進歩』が同じモノを作る{不自然な}産業の為ではなく、個々が様々なコトをする上で{【更新する無限に多様な大全体】に適(カナ)って}各個に利用されて}生きているのです。
しかしそんな今であっても。たんにエサ場からハミ出して『アブレ』てしまった
{既存の群れから警戒されているのを「真理の側に在る者は迫害される」と言って、エサ撒き係やエサ場を奪還するスキを窺(ウカガ)い、それが無理だとなれば『海洋牧場』や『サル山』そのものの破壊も辞さない}
アブレ者と、『アブレ』ているだけの
{『海洋牧場』や『サル山』を離れて大海や野山に向かう為の様に、個別な『社会経済の発展や科学技術の進歩』の活用をしているだけであり。道路をゆっくり走るのに端へ避けているだけで、順位など気にせずに先を譲っているだけである}
“アホウ”な者との区別が付かず、庶民への強制(特定の群れへの恭順)を正当化した{『海洋牧場』や『サル山』を『生け簀』や『檻』の様に考えて、人類の完全管理を理想とする、ナチズムの様な}社会思想が{広く人々に受け入れられてしまって}台頭してくれば、簡単に1000年“後ろ”の時代へと戻ってしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2-3)。【3月31日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。「道路をゆっくり走るにしても、自分が先頭に居なくてはならない。そうでないなら、そんな世界などいらない」とさえ思っていた。それは「自分が{普遍的なモノを『受け』として受けて、普遍的なモノを『送り』として送っている}普通の人間の代表で、《自分がダメだ》となると、他の人間たちも《みんなダメだ》となってしまうから」と思っていた為。その思いは《歯車動作の連動連鎖》の世界観の上に成り立っていた。
そして1000年“後ろ”の時代からは。『受け』は受け取らずに、『送り』の動作だけが出来て、{一人で避けて}ゆっくりと走れればそれで良い(大満足で、何の不満もない)と想うようになれた。
そしてその1000年“前(先)”の今では。{自分が『受け』を受け取らないだけで}他で『受け』が連鎖していても邪魔をせず、そんな『他のモノ』たちや人たちに{感謝を込め、敬意を示して}先を譲っている。
しかしそんな今であっても。「“大義”があって『ゆっくり走る』のであれば、その“大義”は相手の『受け』となるように『送る』べきでありまして、『ゆっくり走る』のに一人で避けたり、先を譲ったりして良い訳がないのです」と思ってしまうならば、1000年“後ろ”の時代までに逆戻りである。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2-2)。【3月30日・土】
1000年後ろの時代までは。誰かの得が誰かの損で賄(マカナ)えられてしまうという{限定された小全体で、アブレ者まで大量に生み出されてしまった}状況下で、投機的社会が巨大構築され、誰もが自分(自分たち)こそが得を手にするのだとして盲目的に《特定の『受け』を受けて、その連動連鎖としての『送り』を歯車動作する事》に{自分の中の『神』を見失い、それが我と我々の存在意義なのだとして}狂奔してしまい、世界の進行(【更新する無限に多様な大全体】での多様な更新)の道を塞ぐように世界中で幾(イク)つもの《歯車動作の連動連鎖》どうしでスクラム(幾つもの指示命令系統(宗教や国家や民族)のぶつかり合い)が組まれ、道を塞がれた事による世界の渋滞(【部分解禁】:個々の消耗による【非多様な更新】:破綻がセットになった近代的な『発展と進歩』)に対して{『他のモノ(大全体の構成員)』たちや人類(誰もが大全体の構成員)などの}様々なトコロから『反動』や『憂さ晴らし』が{悪の自然誌での実験と同じように}噴出し、それを押さえる戦いが『社会経済の発展と科学技術の進歩』の名目で行われていたのだが、{特定のパラダイムが限界にきている}その状況に対して暴走している(道を間違えている)と言って{反核運動やテロなどのように}足を引っ張るコトが{パラダイム変換への『誘爆』だとして}持て囃されてしまって、人の世は大混乱に陥(オチイ)ってしまっていたのです。
そして1000年後ろの時代からは。『社会経済の発展と科学技術の進歩』は暴走しているように見えて(思えて)、《歯車動作の連動連鎖》どうしでスクラムを組んでしまう人類というのは思った以上に《道路をゆっくり走っている》もの(道を塞いでいるもの)なので、もっと安心して《道路をゆっくり走る》為に、人類はもっともっと道の端に避(ヨ)けて走るベキなのだと想い始めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。{『他のモノ(大全体の構成員)』たちや人類(誰もが大全体の構成員)などの}様々なモノたちに先を譲ってから、自分(自分たち)は《道路をゆっくり走ればいい》と想っているのです。
しかしそんな今であっても。1000年後ろの時代までが特別であったという訳ではないものですから、世界の進行(【更新する無限に多様な大全体】での多様な更新)の道を{人社会が}塞いでいながら、『社会経済の発展と科学技術の進歩』を{人社会が}暴走させていると思って{避けもせず譲りもせずに、人社会をゆっくり走らせようと、大義のゴリ押しをして}しまえば、人の世は直ぐにでも{世界の進行を阻(ハバ)むように}大混乱となり、世界は{道を塞がれて}大渋滞に陥ってしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2)。【3月25日・月】
1000年後ろまでは。「自分・社会・人間・人類を無駄にロスさせたくないから」と人は言って、「『受け』となるのに有効な『送り』と、その繰り返し」という《歯車動作の連動連鎖》に一生懸命になり、みんなで{進行がゆっくりでハタ迷惑な上に、邪魔モノには{粛清(シュクセイ)をするなど}容赦の無い}スクラム(パラダイム論で形成された文明社会)を組んでいたのだが。それが進行の足止めとなって【大全体】が渋滞を起こし、その煽りを食って先行できなかった『他のモノ』たちが『反動』や『憂さ晴らし』に走ってしまい、そんな『他のモノ』たちとの団体戦に於いて人は{人類が勝ち残る為の、『発展や進歩』が駆使された}殲滅作戦(センメツサクセン)を仕掛け、そしてその戦果(悪の自然誌での実験結果のような醜態)に対し『発展や進歩』という{一方的な}評価をして『ノーベル賞』が贈られていて、【大全体】世界の進行の{スクラムを先頭にした}大渋滞(文明の破綻)が{当然のように繰り返され、パラダイム変換を必要としながら}惹(ヒ)き起こされていたのです。
そして1000年後ろからは。そんな{殲滅作戦が火に油を注いだ}大渋滞(『他のモノ』たちによる『反動』や『憂さ晴らし』による文明の破綻)に目を向け、{進歩の暴走という正当化方便に惑わされずに}よく考え、そして{道路をゆっくり走るにしても、道の真ん中を占領したりしないで}避(ヨ)けるコトが始まって、スクラムの形成(その維持)の為の{先行する女性や異教徒や外国などへの}粛清(イジメやハラスメントや、迫害やテロなど)への自己反省が始まったのです。
そしてその1000年先の今では。{道路をゆっくり走る時でも}誰かの足止めをしないように{道の真ん中を占領したりせず}避けていて、そして『他のモノ』たちの先行について行ける{粛清の対象であった}人たち(女性や異教徒や外国など)に先を譲っているのです。
しかしそんな今でも。{進歩の暴走という正当化方便に惑わされて}文明を突っ走らせてはダメだと考えてしまい、先行する{女性や異教徒や外国などの}人たちの足を引っ張って(粛清を始めて)、スクラムを形成してしまっては(道の真ん中を占領してしまっては)、【大全体】世界の進行の大渋滞の再発(再燃)は免(マヌガ)れないのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・。【3月23日・土】
1000年後ろまでは。『神』とは、誰に対しても一律に{加護をもたらして}接する普遍的存在(普遍に対して何の疑問も持てない縛られた状況下での認識)であり、誰もが一様に{怖れ敬って}接するべき普遍的存在でありまして、人(社会)であれば歯車のように『受け』と『送り』を繰り返す(繰り返されていく)のは{普遍的に}当然であるという事から、そんな《歯車動作の連動連鎖》の人(社会)での形成が教義の主要テーマとなっている事に
{『有用性』や『効率性』や『発展と進歩』や『平和と繁栄』などの為とする{指示命令系統でしかなくて、宇宙戦艦ヤマトの{宇宙人から提供された}波動エンジンを例えに{地球上の鉱物を人間が利用する}核エネルギーを語るように不自然な}『倫理道徳』や『常識・正論』や『先人の知恵』や『申し合わせされた世界基準』などからの『受け』に対して『送り』が“誠実”に行われるものと決め付け、『反動』や『憂さ晴らし』などの『送り』の歪みを『悪魔の誘惑』で片づけてしまいながら}
何の問題(疑問)が在るのかと譲らない、{そんな『神』を普遍的に信仰する}普遍的宗教が世界(人間の未来)を限定的(小全体:土台の上への積み上げ:後(アト)へと制限が増え続ける時間認識)に閉ざして{限られた分を奪い合う者たちとそこからのアブレ者を生み出す投機的社会経済が極まって}しまっていたのです。
1000年後ろからは。『神』とは、誰にとっても個別に{期待をして}接してもらえる{個々の}存在(自由な立場で生じる認識)であり、誰もが個別に{その期待に応(コタ)えて}接すればいい{個々の}存在でありまして、人(社会)に於いて{人為的に生じる『受け』を無視して}『送り』が自発的(『神』の個別な期待に対して個々に応える)に行われるのは当然であるという事から、人(社会)が自分(個人)を《特別なモノ》だと譲らず、{普遍的宗教による『神』の独占を《『神』は死んだ》と表現した【ニーチェ】に通じる}神秘主義的宗教という世界の一部分(ジプシーやアメリカインディアンなど)からのスタートでありながらも、時間の進行方向を前と認識したコトにより物事の可能性を
{人為的な実験が繰り返される『悪の自然誌』での破綻から{積み上げの為の土台を交換して}回復する『パラダイム変換』というようなモノを必要としないで}
広げて、人(社会)が【更新する無限に多様な大全体】を自覚しての『他のモノ』たちへの
{限られた『お金』や『資源』や『土地』をやり取りするだけの{『儲ける者』と『負担する者』と『アブレる者』を生み出してしまう}投機的社会経済では起こり得なかった}
投資が自主的に始まったのです。
1000年先の今では。普遍的宗教と神秘主義的宗教とには、『道路をゆっくり走るのに、渋滞を作ってしまいながらも、{それが普遍だからと}それで“満足”してゆっくり走る』のと、『道路をゆっくり走るのに、後続車に先を譲りながらも、{それが自分らしいと}それで“安心”してゆっくり走る』のとの違いが在ると、世界中で周知されるに至っているのです。
しかしそれでも。≪『ゆっくり走る』という事に“大義”があるなら、渋滞に遠慮する必要はないし、渋滞に文句をつけてくる者があるならその排除は必要不可欠であるので、後続車に先を譲るという“妥協”は問題の先送り(自己満足)でしかない≫という論理を振りかざして、《他者の“安心”を妨害していながら「みんなに“満足”を振り分けているのだ」と主張する》というゴリ押しをする者が根絶される事はないのです。
*『神は死んだ』などと言われない為に。【3月4日・月】
1000年“前(先)”の、「キレイな所に戻って来たキレイな人間」のお話しです。
≪歯車の様な“作用”の受け送りによる消耗を少なくする為に≫
1000年“後ろ(後方)”の時代からは。{長らく勘違いしていた為に、これまでのこのブログに於いて、核心部分での明瞭さがどうしても欠けてしまっていましたが、先日より新な境地に至り、ここより大きく修正する事になった為もあり}哲学者の【ニーチェ】が『神は死んだ』と言った事から始まって
「長年のキリスト教会(唯一神教の原則であるハズの「偶像崇拝の禁止」は守らず)による『神秘主義』の廃絶活動(唯一神教の原則を理由にした過剰反応をよく起こす)により、
人々の精神世界に於いて{個々の人間が『送り出す“作用”』を個別に{効率や理性を乗り越えてしまう“パニック”の後ろ盾(ウシロダテ)に神様がなってくれて}享受させてもらえる《人間が各個に、秘かに“作用”を受ける存在》として}現在進行形で活動する存在としての『神』が死んでしまい、
{教会や聖書に{以前のモノである}『神』の“作用”の{以後のモノである}痕跡(コンセキ)が残されているとして}『神』の“作用”の痕跡(以後のモノ)を見本に『神』の“作用”の人間世界での復元(人々が受ける“作用(以前のモノ)”の人為的送り出し)がなされ、
{それ以前の“作用”を受けて、それ以後へとその“作用”が送り出され、それが“作用”を消費して連鎖する}『効率的に理性的に“作用”の受け送りをする歯車が効果的に合理的に連なって回るコトで“作用”を上手に消費させる事を優先する為に{歯車の多様な動きからの様々な送り出しである}物事がどうしても{“作用”の効率の為に内容が一律になり、働きも一様になってしまって、さらには“作用”の進行が先細りになってしまう“土台(枠組・扉)”が形成されて}限定的であって消耗もしていってしまう世界』が人為的に生み出されて、
人々はその世界(世界観の範疇)で手に入れられて役立てられるアイテムのように{受け送りされる“作用”である}『社会や経済の発展』や『科学技術の進歩』や『倫理道徳』や『常識・正論』を{『お利口さ』や『甘え』が理性的に用いられ、合理的に運用されて}上手に利用しているという事で{誰も何も疑わず}創造的活動をしている気になってしまっているものだから、
{「未来は自由の新天地」とは言いつつも誰も自分からは{リスクを自ら背負う事になる}状況対応(自分自身に於ける効率性や理性を無視し、周囲を巻き込んだ効果や合理性も無視して、その場その時の各個に個別な“作用”を様々に送り出すコト)などはしないものだから}人の世は{『悪の自然誌』にある『人為的な実験・観察』のように}いつも破綻に向かい、
{科学に於いて{特殊論(『偶然の産物』か『宇宙人からの贈り物』であるかのような、“扉(枠組・土台)”を一時的に解放する科学観)で考えてしまって}「使うか使わないかや、どう使うかの判断は人間の手にあり、効率の良いように使えば良い」などと{科学を一般論(【更新する無限に多様な大全体】として認識された、“枠組(扉・土台)”を人間の精神世界内での幻想だと判断する科学観)で考える事(神様が後ろ盾(ウシロダテ)となる神秘主義の一種)の深い意義(「冷静な判断よりも“パニック”で判断されたコトの方が多種多様であり{多重構造の形成となる}状況対応として相応(フサワ)しい」という考え方に、自分の理性や周囲との合理性を無視するリスクに左右されない為の“パニック”の後ろ盾に神様がなってくれている神秘主義から至る事)を無視して}理性を働かせ、科学でも「実験(作用)の始めを前と言われ、実験(作用)の先を後と{“作用”を消耗させるだけの{破綻が必然の}歯車社会と同じように}言われている」というように{主体性が無い為に一律に状況対応をせず、見た目の効果ばかりが一様に追求される}合理性の重視が行われるものだから}人の営みは{『パラダイム論』にある『パラダイム変換』のように}いつまでも破綻を繰り返していて、
{人為的に“作用”が受け送りされていて、その繰り返しによって“作用”が消耗されていく、{『神』が死んだ}歯車的世界である事により}限られた上に先細りする社会や経済の中では《権益者が減り、利権の負担者も減り、溢れ者ばかりが増えていく》という現象が{『パラダイム論』の『パラダイム変換』を待望する、『悪の自然誌』の『人為的な実験・観察』と同様に}必然的に進行してしまう。」
という人間世界の真相究明に人々がようやく迫り。
それから、1000年“前(先)”となった今では。誰もが、 理性に打ち勝つ為の“パニック”の後ろ盾を『神』になってもらって、{多重構造の形成となる}状況対応としての “作用”の送り出しを{多種多様に}自分からするコトで、様々な破綻の原因となる{歯車の様な“作用”の受け送りによる}消耗を少なくした【更新する無限に多様な大全体】な人間社会が、 “土台(枠組・扉)”など作らずに築かれているのです。
しかし、今がどうであろうとも。『神は死んだ』などとは、もう誰からも言われたくないので、各個が個別に“作用”の送り出しがいつまでも出来るように、『神』の後ろ盾をみんなで守ってもらいたいのです。
第A0015号先頭へ
(制作終了)
『ちび猫のつぶやき』(営業)。
新着の紹介
A14.ちび猫の目指す『知識世界のお話』の公開(2)。
A16.ちび猫の目指す『知識世界のお話』の公開(4)。
・令和1年度版
*何をするにも、営業スマイルが大切となるのです。【6月16日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
差別されているハズの側が{実際によく観て、客観的に考えるほど}恵まれていて、差別しているハズの側(自分・自分たち)が
{『連なり』という{最善最良である事に無理をしてでも{みんなして}《自分を合わせ》るコトを{この世界の理(コトワリ)に則した事だからとして}理想とする}過酷な中での{自己スーパーマン的組体操思考(前後が反転した時間認識(先細りしていく未来)による、ブロック積みの世界観(破綻へと至る世界)での、自分を削る{無自覚に人世界を“消耗”させてしまう}処世術)に追われる}反動による}
不満
(道徳本や思想書などだけではなく、大衆情報誌(週刊誌など)やテレビ番組(ワイドショーなど)や、男性誌(エロ本など)や女性誌(少女漫画など)までもが教則本となってスリ込まれた差別意識による、優越感など無い{羨望と憎悪が入り混じった}嫉妬)
をつのらせてしまっている為に、
{ユダヤ人差別やイスラム教差別や、難民キャンプ非難や移民非難や、男性によるセクハラや女性による痴漢捏造(ネツゾウ)などの}
『憂さ晴らし』が人間の必然であるかのようになってしまっていて。
人世界に於いては、
「自分の趣向や能力やその可能性(修正された時間認識による、開かれた未来観で、みんなが進む道を横切って行ってしまえるコト)を{各個が個別に趣向や能力を発揮させられるように}踏まえ、そんな【自分に合わせ】て{自分が進みたい道を自分のペースでゆっくり走るように}ゆるく取り組む事が行われ、そして{ゆっくり走るのに、{歯車世界で『受け』に甘んじてしまわずに}真ん中を避けて、{歯車世界での『送り』が出来ても笑いとばして}先を譲るように}ゆるく休む事の大切さを、何時も「忘れていないか」と“自問”するコト」
の大切さが、{人世界を無自覚なまま縮小させ、無為に“消耗”させてしまいながら}隠蔽されていて。
《小更新》が{自然世界の部分で}循環を担うような{人による《小全体》での}場合の、その{人為的な『連なり』が形成されている}環境に於ける《小更新》の種類の{必要となる}数が、{【大全体】で【多様性】を形成している、【大更新】の【構成員】である場合の}【小更新】の種類に比べて{乱立しているだけで}ただ多いだけだというのに、
【更新する無限に多様な大全体】のシンプルな構造を{【大更新】に於ける【多様性】の多重構成(【大全体】の本質)を理解せずに}ただ見習い、
{前後が反転した時間認識(先細りしていく未来)の、ブロック積みの世界観(破綻へと至る世界)による、悲観的な危機感ばかりをつのらせて}
『連なり』の回復を大義名分にしての、{人の側からの偏見でしかない}腐食や腐敗の{その物の}排除・{その事の}除去(『悪の自然誌』に於いて人為的でありながら自然とされていた切り崩(クズ)しや、その末の{縛りの交換を繰り返す}『パラダイム変換』)を{自然の理(コトワリ)に則しているとし、進歩の理想形として}断行する(暴走させる)ものだから、
自然世界の破綻が{切り崩しをしては、『パラダイム変換』に至る、そんな{コトの}繰り返しの人世界の暴走に、自然世界がかき回され、《部分化》されてしまって、その歪みが修正されないまま}進んで、自然世界が{人の手によりながら、それが{『神の見えざる手』による}この世界の必然であるかのように言われて}消耗してしまっていて。
自然世界に於いては
「自然に対して{【大全体】の概念(『連なり』に捉われず、【大更新】に於ける【多様性】の多重構成)を根幹にして、各個に於いて個別でゆるく}個々に科学を{《自分に合わさせ》させずに、【自分にあわせ】て}するコト
(集団での方向性が重視(『パラダイム論』にノーベル賞を受賞させた、ノーベル財団の{唯一神教である『キリスト教』の世界観に基づいた}巧妙な{『縛りの交換』を理想の進歩としてしまうような、反面教師の面を削ぎ落す}真意)
された『神の見えざる手』とは似て非なる、{『神』の実在に基づいた超神秘主義の}個人主義である『アリ的お一人様』)
の重要性を「見落としていないか」と“自問”するコト」
の重要性が、
{ノーベル賞により{科学者が個々に展開できるハズの}科学の可能性が先細りし、{自然世界での【大更新】に於ける【多様性】の多重構成が、{『神の見えざる手』を御旗にしての}人為的な《部分解禁》の中で{手当たり次第に}切り崩され、自然世界が《部分化》されて、ドンドン追い詰められてしまって}自然世界の未来が“消耗”されてしまいながら、その{反面教師の面が削ぎ落される}受賞に称賛が集まって}
否定されていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
自然世界での、【更新する無限に多様な大全体】のシンプルな構造の、【大更新】に於ける【多様性】の多重構成(【大全体】の本質)を理解しての、【大更新】の【構成員】としての【小更新】の{自然世界から《小更新》を切り崩していた《部分解禁》とは違う}多様化が、自然世界で{科学として}目指され。
それに伴って、人世界でも、宗教や思想や勢力の乱立を危機と認識しての、{秩序回復や理想の実現を大義名分にした}その{人間そのものを対象にした}排除(『テロ』や『虐殺』などの{広域に於いて『脅迫』となる}武力行使)や{思考を対象にした}除去(『スリ込み』や『誘惑』やなどの{宗教が人類を野性生活(アリ的お一人様)から檻生活(枠組(ワクグミ)に縛られた『パラダイム変換』・人為的な実験装置内を自然としてしまった『悪の自然誌』)に無自覚に移行させてしまった事(ノーベル賞の真の意図)による}精神操作)が、{人世界の多様性を{無為に}減少させて、人間の可能性を{無駄に}閉ざし、{結論として}人の未来を“消耗”させるだけなので}問題であると認知され始めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
『時間認識に於ける前後の反転』が修正され、『ノーベル賞の反面教師としての意義』が評価されて、『エロ本』や『少女漫画』までも{自己スーパーマン的組体操思考に陥(オチイ)り、過酷な試練を自分に課す}教則本としてしまう『スリ込み』が{重大問題として}検証されていて。
それに伴い、{人世界を“消耗”させて来た}『社会経済の発展』や{自然世界を“消耗”させて来た}『科学技術の進歩』の、個々による{『パラダイム』が全体論である事を不思議に思い、『連なり』を世界の理としてしまっている事に疑問を持って、『受け』に甘んじず、『送り』に拘(コダワ)らず、集団としての問題だと{「個人としては免責される」という唯一神教の宗教的な誘惑(無自覚な責任転嫁)にマインドコントロールされて}してしまわずに、“自問”する}自己反省が行われているのです。
しかしそんな今であっても。
1000年“後ろ”の時代と同じで。
趣向の可能性が無限であるハズの『お金』を、経済活動の名の下に一律に使用してしまえば、人の未来を{誰も気付かぬまま}“消耗”させてしまい。
代表的な経済活動とされていた株式市場が再現されれば、{胴元に{高い手数料として}テラセンが集まり、誰かが得をした分だけ別の誰かが損を負う、投機である為に}個々の人間による趣向の発揮の為として使われるハズの『お金』を、無駄に“消耗”させてしまって。
経済効果と称される金額で試算される経済活動が再開されれば、個々の人間の趣向の可能性(人の未来)を、経済効果と称される金額の分だけ、無為に“消耗”させてしまうのですが。
{「個人としては免責される」という{唯一神教の}誘惑に唆(ソソノカ)されて{問題を前にして“自問”をする}自己責任を放棄してしまい、各個に個別な{趣向の可能性を持った}人間である事(趣向の発揮)までも放棄してしまうコトが、無自覚で行われてしまっていると、問題視し}
大切な『お金』を経済活動によって一律に“消耗”させてしまっている事が{人の未来(人類の可能性)を“消耗”させてしまう、最優先されるべき}重大な問題なのだと言って、責任がある『宗教』や責任を負わない『他者』を非難し、{自分の方こそ}自己反省も無く攻撃をしてしまうのでは、{それこそが“消耗”であり}その方が問題でありますから。
とりあえずは、{道路をゆっくり走るのに、避けて、譲って、横切って行ってしまう・・・等々}何をするにも、{“自問”をする為の}営業スマイルが{色々な意味での緩衝行為や時間稼ぎともなって}大切となるのです。
≪補足1≫
『パラダイム』とは「集団に形成された枠組み」でありますから、『パラダイム』を変換させるに至る決定的な『研究・発見』をしたのがたとえ個人であったとしても、特定の『パラダイム』を越える『研究・発見』を個人がした事は『パラダイム変換』ではなくて。個人によるその『パラダイム』を越える『研究・発見』が{『枠組』が古くて閉塞していた事によって}その集団に受け入れられて、その集団に於いて『パラダイム』が変換されるに至った事が、『パラダイム変換』と言える事(状況)なのです。と定義されている。
≪補足2≫
『ノーベル賞』は、『枠組』が古くて閉塞していた事(集団の窮状)を打開するに至る個人の『研究・発見』を、拾い上げて表彰して、『パラダイム変換』へと至らせている訳であり。どんなに凄い『研究・発見』であっても、『枠組』が古くて閉塞していた事(集団の窮状)を打開する為のモノでなければ、『ノーベル賞』は受賞できない訳であるが。これは、個人にとっては、個々が自由に『研究・発見』をする行為が「個人としては免責される」というモノ(人の罪を背負った『神』が作り出した世界)となってしまう訳でして。これにより、{『枠組』ありきのスリ込みがノーベル財団の意図によって生じて}人々は特定の指示命令系統(新しい『枠組』の成熟・古くなった『枠組』の変換)に従事していればよくなって、誰もが個々の自由な『研究・発見』を自己規制(『枠組』の成熟への従事をしたり、『枠組』の変換への従事をしたりするだけで、各個による個別な自由の発揮などはまったく無いのだが、人にとってはとても楽で、それは中毒症状と言えるモノ)するにいたった訳なのです。
≪補足3≫
『悪の自然誌』では、その{人為的な}実験装置で特定の『パラダイム』を形成させていて、それを{人の集団行為は『神の見えざる手』による自然なモノであるからとして}自然な現象と言っている。とされている。
≪補足4≫
『悪の自然誌』は、『神の見えざる手』への問題提起(集団に於ける『神の見えざる手』の在り様を分析し、「個人としては免責される」とされる研究・発見を断行して、枠組に囲われた『パラダイム』の{必ず破綻に至る}不自然さを暴いた)をしていたハズなのですが、{宗教的意図を持った}『ノーベル財団』からの『ノーベル賞』の受賞により、『パラダイム』が{破綻が必然である事により}変換を必要としている事(今の組体操の効果が薄まった時に、新しい組体操を{みんなで}始めれば、{『パラダイム変換』となり}大きな効果が期待できるが。効果の薄まった組体操を止めて、{一人で}何かを始めても、{『パラダイム』で起こっている破綻からは逃れられず}何の効果も得られない)を証明するモノとされてしまったのです。
≪補足5≫
死ぬような思いで{組体操時に勉強や仕事や安全衛生に取り組む事による『自分を合わせ』るコトで命を削って}頑張るコトによる、{ブロック積みの世界観の、破綻へと連なる『連なり』に、逃げずに立ち向かって}土台の上にちゃんと立っているという{誰にも文句など言わせないという、自己陶酔の}安心感によって、人は{下心を実践させていても}得をしたのだという事に{身勝手ながらも、その不安を押し殺して}安心して浸れて、{それが投機によるものであったとしても}『お金』を集めて貯めるコトが{仮初めの安心によるものではありながらも、ようやく}出来るようになれるのですが。そういった『お金』の安心というのは、『お金』の価値の安定(国家が行う物価操作によるもの)の為の前提条件となるものであり、{火事が多かった為に宵越しの銭を持たなかった江戸っ子とは違って}『お金』を集めて貯めるコトが{不安なく}出来る安心の事でありまして、それが{『連なり』という人為的なモノ(『パラダイム論』の枠組)に縛られた人世界の}人が{『アリ的お一人様』で在る}獣と決定的に{何かを忘れて来ている事によるものであり、問題が在るという意味で}違う事の最たるものなのです。
≪補足6≫
『お金』が集まったり貯まったりした事に{命を削って土台形成した土台の上なのだから、そこは何をしても{邪魔などされない}安心できるトコロなのだとして}価値を感じられてしまい、『お金』で得をしている事にも{先細りするブロック積みの世界観の土台の上から逃げないで頑張っているコトへの、{文句など言われない}適正な報酬だとして、不安を払拭して}価値を感じられてしまうが故に。
『お金』を{各個が個別に趣向を発揮させられる可能性を無限に持ったモノとして}使って{道路をゆっくり走るのに、避けて、譲って、横切って行ってしまうというように}自由を発揮させるコトを{道路をゆっくり走るのだと、真ん中を譲らず、渋滞が随所で慢性的に起こっていて}誰も彼もが忘れていて、{循環する連なったモノとして}『お金』に{『パラダイム』を形成する枠組のように}みんなを巻き込んだ制限(集金して配分する{株式などの各種金融市場での}組織的投機行為や、人を雇っての{起業の為に会社設立された企業での}会社の運営など)が掛かってしまうという問題が生じてしまうのです。
≪補足7≫
営業スマイルというのは。『神の見えざる手』に{『神』と受動的に繋がっていて}導かれる{自由で在るコトが「個人としては免責される」事による}一様な構成員で構成される『小全体』で、みんなを統率する立場のリーダーの強制的な指示命令を戒める為のものではないが、リーダーの指示命令に{《自分が合わせ》て}従う立場の一般構成員の無分別な反抗を戒める為のものでもなくて。みんなが『アリ的お一人様』であり、{【自分に合わせ】て}個々に行動する者ばかりでありながら、誰にも{【大更新】の構成員として調和を構築する者として}協調性を失わない為の{『神』と能動的に繋がる、御呪(オマジナ)いや護符のような}ものであります。
*先手先手で【自分に合わせ】る・・・(ゆるく休む)。【6月1日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。
「やる時はやり、休む時は休み、休日はエンジョイする(絵に描いたような超人生活)。そんなメリハリのある生活が最善最良(誰もが見習うべきもの)なのです」といった一律なスリ込みによる思い込み(一様な妄想)が、人を{疲れが抜けない}悪循環
(やる時は難しい課題を掲げて{研究で}やり、休む時はどんな時でも上手に休めるようになろうと{研究で}休み、休日は遊びに{研究で}手を抜かない(誰もが実現させたい超人生活)が、そんなのをアドバイスされ、出来るようにならなくてはならないと{自分でも}思ってしまっても、簡単に挫折してしまって、{人はすぐに}ぐうたらに見える状態に陥ってしまうのです。
ぐうたらに見える状態に陥ってしまい、頑張れない事で自己嫌悪に陥ってしまって、{超人生活の}最善最良を{それが善意であろうと}一律にアドバイスされる事を嫌悪する様になり、ついには{少なくはない人々が}ドロップアウト(自殺や犯罪)へと追いやられてしまうのです。
{頑張れと言われていると思いながらも}みんなからぐうたらと思われていると感じ、{頑張らなくてはならないと思いつつも}自分で自分をぐうたらだと感じてしまい、それでも{超人生活の}最善最良に{妄想に導かれて}しがみつくが、現実には{まったく}出来なくて、結局は{誰もが}憂さ晴らしに追い立てられてしまうのです。
より高いレベルに《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないと{超人生活の}最善最良に頑張り、一律に取れる休みに《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないと画一的に休むコトに“自問”をせず、漫画や映画の場面のような休日の過ごし方にも《自分を合わせ》られるようにならなくてはならないとエンジョイし過ぎて。【自分の趣向や可能性に合わせ】た何かに取り組んだり、【自分の趣向や可能性に合わせ】た休みの取り方を模索したり、【自分の趣向や可能性に合わせ】た何かを考えて休日を過ごすコトが出来ずにいるのです)
に陥らせていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
「出来うる限り{時間を掛けて歩てもいいからとするマラソン的心得で}ゆるく取り組み(自分の趣向や可能性を引き出す)、
{誰かの為になどではなく}自分を心配してゆるく休み(休みに《自分を合わせ》るのではなく、【自分に合わせ】て休みを調整する)、
{後手後手になるような休日の過ごし方をするのではなく}先手先手が考えられるようなゆとりを生み出す休日の過ごし方をする(理想的な休日の過ごし方などは、躊躇(チュウチョ)なく避けて、とっとと誰かに譲ってしまう)」
というコトの大切さ(有用性)に気付き始め。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
「試験勉強などに於いては、その出題範囲に{後手後手で頑張って}《自分を合わせ》るような{無理を積み上げる}勉強をするのではなく、
【自分の能力や都合に合わせ】て{先手先手でゆるく}要点だけに絞り、範囲も絞って{リスクを背負い込まない}勉強をする。
職場などに於いては、{『連なり』に連なる}合わせる事を最善最良として職人気質(カタギ)で部下にそれを求めると{マスゲームや組体操をやりたがる専制君主のような}パワハラになるのでそれは止めて、
物事の趣向(個々の個別な多様性)や人の趣向の可能性(前後が適正な時間認識)が見落とされていないか{自然世界や人世界を“消耗”してしまっていないか}を誰もが“自問”していて、そして{そんな}みんなによって【自分に合わせ】て{個々にとっての}仕事の在り方を変えていけるような職場にする」
という事が周知されているのです。
しかしそんな今であっても。
「自分の『能力』も『趣向』も『可能性』も分からないまま、何の“自問”もせずに周囲の人の価値観を{スリ込まれて}受け売りし、『一人前の大人』というモノに《自分を合わせ》ようとして、飲酒や喫煙を始めてしまい、飲酒や喫煙が{無自覚なまま}習慣化してしまうと、{危険性をいくら指摘されても}肝硬変や肺癌で死ぬまで止められなくなる危険がある」という恐ろしさと同じで。
試験の成績に追われて無理を積み上げている事に無自覚なまま、「学校に行っている子供であれば、勉強を頑張るのが普通で、決められた休み時間で休めるようにならなくてはならなくて、休日であってもダラダラ(手抜き)しないのが理想」だとスリ込まれて、{程度の差こそあれ{本意とは違って}グウタラ(手抜き)に陥り、不本意ながらグウタラ(手抜き)と思われているのではないかと意識し}少しでもグウタラ(手抜き)でないコトに《自分を合わせ》ようと{無理をしてでも}頑張って、{【自分に合わせ】て{先手先手で}要点だけに絞り、範囲も絞ればいいハズの}勉強の仕方を{試験の範囲に対して一律に《自分を合わせ》ようと、{後手後手で無駄に}一様な無理をするばかりで}間違えてしまうと(教師が“自問”をせず、子供にも“自問”を教えられないと)、勉強の場であるハズの学校が勉強嫌いの子供を増やす機関になってしまいますし。
業績に追われて無理が積み重なっている事に無自覚なまま、「仕事をする大人であれば、頑張るのが普通で、メリハリのある休みを取るのが最善最良で、休日はエンジョイするのが理想」だと妄信して、そういった自分に安易にトライしてしまい、そんな生活が“当たり前”となって{無理を長年続けて}しまうと、末期の成人病になったり、鬱(ウツ)になって自殺志願したりする事態に{誰でも突然}陥ってしまいますから。
先手先手で【自分に合わせ】たコトを{選び出して}して、《自分を合わせよう》としないでゆるく休んで、{無駄に}エンジョイなどせずに“自問”するゆとりを作って休日を過ごす事は、{誰にとっても}すごく大切なのです。
*誰もが『正論・常識』に捉われずに“自問”を続ける事の意義。【5月29日・水】
1000年“後ろ”の時代までは。
ワイドショーなどでの有名人(芸能人など)への{出演拒否(ドタキャン)や不満発言(暴言)などの}ワガママ批判(つけあがってイイ気になっている、落ち目になっても自業自得だと言われる)を聞かされ続けて(スリ込まれて)、{自分から}誰もが『見栄っ張りで、自分を高く評価させようと駄々をこねているだけなのを、決して許してはならない』と思う(ワガママ批判をする)ようになってしまい。
学生は先生による『エコヒイキや一方的な締め付け』や生徒間での『イジメ』が横行する学校で{何も言えずに自分で自分を縛って}縛られ、サラリーマンは『各種ハラスメント』(パワハラやセクハラなど)が横行する職場で{何も言えずに自分で自分を縛って}縛られて、自分を“消耗”させ続けていながら、{自分に対して“自問”が出来ないまま}それを必然的破綻(縛られない為には辞めなければならない)だと勘違いさせられていて。
さらには、≪『エコヒイキや一方的な締め付け』や『イジメ』や『各種のハラスメント』などが起こるのは、自分で自分を縛って何も言わない事(幼稚な虚栄心)による自業自得(みんなからの叱咤激励:戒め)だし、『エコヒイキや一方的な締め付け』や『イジメ』や『各種のハラスメント』を訴える(すぐに不満を口にし、安易に辞めたいと言い出す)のはつけあがっているだけだ(反省しないでイイ気になっている{つけあがっている事の}証拠だ)≫という話しも{正論として}氾濫していて、{それが人世界の常識なのかと絶望し}自殺者が絶えなかったのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
≪『スリ込み』とは“自問”を拒絶(時間認識に於いては、前後が反転していて正解だと決められていて、誰も疑えない:午後・午前など)しているものであり、その入り口{服従の始まり}が『正論』(人世界に於ける、先細りの論理である、ブロック積みの世界観:誰もがそう在れば、自分もそう在って当然:近代に於いて『社会経済の発展』はそれを土台にして行われる)でありまして、完全にカンヌキを掛けてしまう{盲目的に後戻りできない}のが『常識』(自然世界に於ける、“消耗”(破綻・腐敗・腐食)を必然とする、『連なり』の『理(コトワリ)』:自然が{“消耗”しながら}連なっているのだから、人類も{“消耗”により繰り返しが必要になり}連ならないではいられない:有史以来『科学技術の進歩』はそれを根幹にして繰り返されて来た)である≫
という『スリ込み』と『正論・常識』と『発展・進歩』の{“自問”が出来ないコトによる}負の連鎖を自覚し始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
≪特定の誰かが{人類を}ケン引し(発展進歩した小更新:送り手による送り:対価交換を誤魔化して生み出された“価値”を得る:ノーベル賞受賞)、誰もが{みんな}ケン引してもらい(画一的な小更新:受け手による受け:大勢で誤魔化されて“価値”の代償の支払いを分け合う:ノーベル賞称賛)、そんな『連なり』(枠組の構築)により『社会経済の発展・科学技術の進歩』が形成され、{特定の誰かによる《発展進歩した小更新》によるのではなく}みんなによる《画一的な小更新》の為に人世界・自然世界の全てが“消耗”してしまう(破綻してしまう)ので、{『連なり』を『理』とする1000年“後ろ”の時代までは}パラダイム変換(みんなで一斉に特定の枠組を交換する集団行為)がどうしても必要になってしまっていて。
その必要を満たす特定の研究(枠組の再構築)に対してノーベル賞が贈られ、その研究(交換された特定の枠組)から積み上がる事に{それが対価交換の誤魔化しであり、先細りが必然な事であったとしても、ノーベル賞が後ろ盾となって}“価値”が付けられ、みんなが大勢で“価値”の代償の支払いを{何時までも、繰り返し}分け合っていた≫
という事の反省から、ノーベル賞(過去の研究)の『反面教師』としての再評価(再分析・再活用)が行われているのです(人世界と自然世界とが【大全体】を構築し、『大更新』の形成による問題の解決を目指す)。
しかしそんな今であっても。
『お金』で測れる“価値”とは対価交換を誤魔化せた分(『小全体』な人世界で《発展進歩した小更新》に対して{みんなの負担の上に}負荷されるもの)であり、誤魔化すのを止めて対価を誠実に提供(ノーベル賞など決してもらえない【大全体】での『大更新』の研究とその実践)してしまってはその意味(パラダイス変換の必要を満たすモノであり、ノーベル賞が後ろ盾となってくれるモノである)が無くなってしまうものでありまして。
“価値”という『お金』が目前にチラついて、{【大全体】での『大更新』である}誠実な研究を『社会経済の発展・科学技術の進歩』(『小全体』での《発展進歩した小更新》)へと変えてしまう研究者が現れると。
{そんな『お金』を利用して『社会経済の発展』が追求(人世界で人類が“消耗”)されて来たとする}人類史に{『反面教師』とすべき事にノーベル賞が贈られて来たようにして}目を瞑(ツム)るような『正論・常識』の{盲目的に服従すべきものとする:“自問”を拒絶してしまう}スリ込みも{1000年“後ろ”の時代までと同じく}すぐに始まってしまうでしょうから(特定の誰かによる《発展進歩した小更新》によるのではなく、みんなによる《画一的な小更新》の為に、人世界・自然世界の全てが“消耗”を再開してしまう)。
特定の研究者も重要なのですが、一般市民と言われる人(みんな)の誰もが{『正論・常識』に捉われず}“自問”を続ける事にも、{本当はこちらの方が重要かもしれないのですが}大切な意義があるのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(未来の“消耗”を“自問”する)。【5月26日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
多くの宗教(特に唯一神教)に於いて《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持っているとする神秘主義》が{宗教組織・団体への権威の集中(秩序の構築)の邪魔になるからと}拒絶されて『倫理道徳』が作られ(人に於ける『憂さ晴らし』の必然化)、
その信仰に於いて人間が{その『正論・常識』に基づいて}人為的に思い描いた『連なり』を{分かったつもりになって“自問”をせず}大自然の『理(コトワリ)』として{認識して}考えていた為に(未来の“消耗”が“自問”されずに)、
{「全ての男性は男性として在れば良く、全ての女性も女性として在る事が『理』であるので、誰もそれ以外には在るべきではない」などのように言って}
人の自由が長年に渡って当然の様に奪われ続け
(前後の反転した時間認識(ブロック積みのように先細りしていく未来観)がスリ込まれ、{【更新する無限に多様な大全体】の構成員として多様であっていい}個々の人間から個別な趣向の余地(“神”との関わり方)が削(ソ)ぎ落された世界観が作られて、《社会経済の発展》の名の下に人間の可能性(人世界の未来)が『連なり』として“消耗”される)、
{「畜産施設(消毒殺菌の徹底)や医療施設(薬品開発)などで耐性病原体によるパンデミック(『小更新:一様な小全体による一律な更新』の暴走)が繰り返され、{強力な消毒殺菌としての}抗生物質などの薬品が次々と開発されて{『小更新』を人為的に暴走させる}【部分解禁:大全体の構成員の単独利用】が繰り返されるが、それは《それを止めれば人類が滅亡するという『理』》に適っている」などのように言って}
自然世界での【大全体】の破綻(『大更新:無限に多様な大全体によるその時その場所ゴトの個別な更新』の機能不全)が長い年月繰り返され続けていて
(先細りするブロック積のように物事は起こる(時間が進む)とスリ込まれ、{【大全体】の構成員として多様な『アリ的お一人様』であるハズの}個々の物事の個別な趣向(“神”との関係)が削ぎ落された世界観が作られて、《科学技術の進歩》の名の下に自然の可能性(地球の未来)が『連なり』として“消耗”される)。
そんな{『受け(受け手)』と『送り(送り手)』が連なるコトで、可能性(未来)を“消耗”していく}『連なり』の中で、
{女性は女性らしく我慢する『受け手』として在り、男性はそれを雄々しく監督する『送り手』として在る
(イスラムの地では、女性が{不自由でも}ヒジャブを身に付けているが、{そこに輪を掛けるように}男性が学問をする女性を時々襲撃するなどして緊張が増し、{危険回避の為に}有能な女性ほど有力男性のハーレムへ逃げ込む)し、
医療施設(薬品開発)は病原体の耐性獲得の度に薬品開発を繰り返す『受け手』として在り、病原体は時々耐性獲得をして医療施設(薬品開発)を慌(アワ)てさせる事を繰り返す『送り手』として在る
(畜産施設では、消毒殺菌が{良い細菌を犠牲にしてまで}徹底されているが、{そこに輪を掛けるように}耐性病原体が時々感染拡大を起こして大量広範囲の消毒殺菌が緊急実施され、{危険回避の為に}家畜の大量殺処分も行われる)が、
それらが必然(大自然の『理』に適った事)であるとされてしまっていて}
『受け手』は自分を{“消耗”させて}壊してまで『受け』をして{“神”との個別な関係を見失ってしまった}自分の居場所の確保を図っていて
(無意識に「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」という思いに追い込まれてしまって、人々は無自覚なまま「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」というのを{自分による未来の“消耗”でありながら“自問”が出来ずに}行動規範としていた)、
『送り手』は{『受け手』が“神”との関係を個別に取り戻す事がないよう}恐怖の『送り』をばら撒いていたのです
(活躍していた有名人(スポーツ選手や俳優など)が{スランプに陥るなどして}落ち目になると、「つけあがってイイ気になっていたからだ」と{一方的に}叩かれて、人々の深層心理に「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」という{自分による未来の“消耗”を“自問”できなくする}スリ込みがされていた)。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
1000年“後ろ”の時代までの事を、
≪道路をゆっくり走るのに、ワザワザ道の真ん中を走って、巻き添えを増やし。
その{迷惑をこうむってしまった}後ろの車も、その憂さ晴らしに、わざとゆっくり道の真ん中を走ってしまうという『連なり』が出来てしまい。
そういった{後ろに位置する車の}運転手の多くがフラストレーションを抱えてしまって、前の車に対して乱暴な運転をしてしまうものだから。
{そんな『連なり』の中で}前に位置する車の運転手の多くのは、{急いでいなくても、急いでいて先は譲れないと見せる必要に迫られて}端に避けずにゆっくり道の真ん中を走り続ける事になって。
解消が困難な大渋滞(停滞)が発生してしまう≫
というのと同質の事と理解し始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持つとする神秘主義》が{『神は死んだ』と言って宗教(唯一神教:キリスト教)を揶揄した【ニーチェ】の想いが適って}回復し、
前後の反転した時間認識が
{『科学革命の構造』の【トーマス・クーン】や『攻撃』の【コンラート・ローレンツ】などの先人たちが警告しながら『ノーベル賞』の受賞により有耶無耶(ウヤムヤ)にされて{埋もれて}いたサル山的人世界の問題点
(人に『憂さ晴らし』を必然とさせた『倫理道徳』や、人に『スリ込み』を“自問”させなかった『正論・常識』や、人の未来から個々の『趣向の余地』が削ぎ落された結果の『社会経済の発展』や、《【大全体】が失われたサル山的人世界》に於いて自然から個別な『趣向』が削ぎ落された結果の『科学技術の進歩』)
が{掘り起こされ}日の目を見て}
修正され。
「ゆっくり走るにしても、端に避けて(『受け』を避けて)、先を譲り(『送り』を譲り)、渋滞があっても{『連なり』に捉われずに}横切って行ってしまう」
という姿勢(サル山的である事により人世界に構築されてしまう{『連なり』を形成する}『枠組』など、『パラダイム変換』など待たずに、一人でさっさと越えてしまう)が重要視されて。
「つけあがってイイ気になっていると思われてはならない」といった{雑多な}スリ込みからも、多くの人々が{なかなか答えが見つからなくても“自問”を繰り返した末に}解放されていて。
人世界や自然世界の未来の“消耗”が、回避されているのです。
しかしそんな今であっても。
『悪の自然誌』の実験例(警告)と同じ様に、{みんながみんなして}『枠組』などに{無自覚でも・意識だけでも}閉じ込められて{『連なり』を形成して}しまうと、人世界は{簡単に}サル山的となり、《個々の人間や物事が個別に“神”と関係を持つとする神秘主義》が{安易に}否定され、前後の反転した時間認識が{誰も“自問”をせずに}常識として周知されて、{すぐにでも}1000年“後ろ”の時代に戻ってしまい、人世界や自然世界の未来の“消耗”が{簡単に}始まってしまうので。
「ゆっくり走るにしても、端に避けて(『受け』を避けて)、先を譲り(『送り』を譲り)、渋滞があっても{『連なり』に捉われずに}横切って行ってしまう」という姿勢を守るだけではなく、{“自問”するゆとりを生み出す為にも}何をするにも【営業スマイル】を忘れないで、『受け手』や『送り手』になるのを上手く回避するコトが大切となるのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(分かったつもりになっている)。【5月20日・月】
1000年“後ろ”の時代までは。
この世の中にはお金(価値)では測れない{人間による趣向や自然の恵みなどの、大切な}意義が在るという事を人は{言葉で}分かってはいても、
「それには、各個の人間(自然の一つ一つ)による{個々に個別な}趣向(アリ的お一人様)の実践(大全体を構成する多様性の形成)である事が
{「マスゲームや組体操などのような全体(特定の小全体)を形成する{一律な小全体の構成員として一様なモノである}個々の『連なり』というものが自然の『理(コトワリ)』であるので、一人一人の人間が{個々に個別な}単独行動をするのには{害ばかりで}意義がなくて、パラダイム変換でも{個人が行うものではなく}みんなによって{全体として}行われるものだとしているのは、そういった『連なり』というものを自然の『理(コトワリ)』として尊重しているからである」というのは幻想であり}
必要でありまして、
{自分を含めた各個の人間や物事によって、{大全体を構成している}多様性を形成する一つの趣向(アリ的お一人様)が{個々に、個別に}実践されなければならないのですから}それが趣向の品(有効な小更新:大全体を構成する多様性の構成員の一つで、それが集まった大更新によって大全体が形成される)だからと言いって
{自然の『理』である物事の『連なり』の、重要な基礎にあたる『土台:『受け』と『送り』が連なる歯車連動世界の範囲』の拡張(前後が反転した時間認識のスリ込みから生じた{『土台』が大きく出来るものの、先すぼみが原則の}幻想)であり、《自分の未来》や《物事の可能性》の拡大(現実的な危機から{それが必然だと言って}目を逸(ソ)らした{閉塞や破綻を招く}甘い見通し)になるからと}
幾(イク)ら集めても{趣向の可能性が{唯一}無限なのは『お金』なのだと言って、ただ『お金』を集めたり、やたらと大金をつぎ込んだりするのもまったく同じで}まったく意味(意義)が無い」
という事までは分かっている人は{分かったつもりになっているだけで}稀であった為に、
{そういった趣向の実践(特定趣向のゴリ押し)をしている人の中にはテロリズム(知識人の一部)に傾倒してしまう人がいて、それを集めている人の中にはゴミ屋敷(新型耐性病原体を生み出す殺菌消毒を乱用する家畜施設(病院)と同種)を作ってしまう人がいるのですが}
そういった意義が他に何らかの{社会変化や環境変化などの}影響を及ぼすような場合でも、
人はそれが{正しいと思われる『受け』から導きだされた『送り』である}
正しい事{自然の『理』である連なりに適った事であり、それをしないコトによって世界(自然)に悪影響が出るので、自分がそれを単にするだけではなく、他にその意義を知らしめたり、他にもさせたりしなくてはならないと{それが幻想だとは気付かないまま}思ってしまう事}
だと思ってしまい、
人は{大全体からの小更新の部分解禁(切り崩し:その反作用として《政情不安》や《新型耐性病原体の発生》などが繰り返される)である}
それを{溜まった憂さを晴らす必要に迫られ、それが必然であるかのように}
しないではいられなかったのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
人間世界で起こる{人間社会や自然環境の}問題の多くが、
「道路をゆっくり走るのに、わざわざ真ん中を走っては、{憂さ晴らしをするように}後続を渋滞させて、『連なり』を作ったという安心に浸る」
というコト(前後が反転した時間認識のスリ込みから生じた幻想による、現実的な危機から{それが必然だと言って}目を逸(ソ)らした{閉塞や破綻を招く}甘い見通し)
と同じ構造(同質)のものだと気付き始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
「道路をゆっくり走るのに、{『受け』を受けずに避けるように}端に避け、{『送り』をしたくても他に譲るように}他の車に先を譲る」という事を想い、
{人間社会や自然科学の世界に於いて、他の『連なり』が前を塞いでいても}横切って先へ行くという事を想って、
{見えない枠組を一様に抱え込んで、みんなが一律に連なる、海洋牧場の様な}サル山的人間世界での『社会経済の発展と科学技術の進歩』や『倫理・道徳を踏まえて成り立つ正論・常識』の幻想に縛られないで、
各個の人間や、自然の一つ一つによる{個々に個別な}趣向(アリ的お一人様)の実践が周知され、尊重(大全体な世界観での、『連なり』に捉われない、{腐敗し、腐食し、破綻していく}自然との関わり方)されているのです。
しかしそんな今であっても。
{各個の人間や、自然の一つ一つの、{個々に個別な}趣向の実現や、『アリ的お一人様』の{大全体を構成する構成員としての}形成が見失われて}『受け』と『送り』の『連なり』に{自分の居場所を作ろうと、自分を破壊してまで}奔走し、
{渋滞の先頭で道路の真ん中をゆっくり走り、渋滞をワザワザ作っている様にしていて}営業スマイルでかわさずに{反動・憂さ晴らしに身をゆだね、他を破壊するコトを厭(イト)わず}趣向や『小更新』のゴリ押しや収集(乱用)をしてしまえば、
{元の木阿弥となり、『大全体』を破綻させてしまって}人間社会や物事の腐敗や腐食を{対処不能なほど}加速的に進行させてしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(横切って行ってしまう)。【5月12日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。
前後の反転した時間認識から生じた{土台を積み上げていくブロック積みの世界観でもある}歯車動作の連動連鎖の『連なり(受け送り)』を物事の理(コトワリ)とするスリ込みにより、
人間は{自分の居場所の確保の為にと}“自分(自分たち)を破壊”して『受け』とし、{憂さ晴らしの必要に迫られて}“相手(物事)を破壊”しようとして『送り』としてしまい、
{人対人だけではなく、人対物事にまで範囲を広げながら}それによる『連なり(受け送り)』と『連なり(受け送り)』とが{破壊し合って}関係し合える{破壊というエサに群がって来て、そこに居付いてしまうサル山的構造の}特定の範疇(ハンチュウ)(破壊できる『受け』の限界)が『パラダイム』を形成していたので。
その特定の範疇が{人や物事からの『送り』に対して、人が『受け』を行うための【部分解禁】の切り崩しを限界までしてしまい}破壊しつくされてしまうと、
人類は{人は【部分解禁】の切り崩しの可能性を広げる}『パラダイム変換』を{必然のように}必要としてしまっていたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。
前後が反転した時間認識の修正にとりかかり始め、『連なり(受け送り)』という自然の理の幻想が疑問視され始めて、
{土台の積み上げや、受け送りの歯車であった、{反動・憂さ晴らしが必要となり、破綻が必然で}先細りしていく『倫理道徳』や『正論常識』や『発展進歩』などの}志が訂正されるに至り。
人々は、『連なり(受け送り)』と『連なり(受け送り)』とが{人対人、人対物事で、破壊し合って}関係を持っている特定の範疇に対し、横切って行ってしまうのに、
{特定の『連なり(受け送り)』に関係してしまって}自分を破壊してしまうコトがないように『受け』を{そこに自分の居場所を作らずに}避け、他を破壊する必要性があっても『送り』を{反動・憂さ晴らしを放棄して}譲って。
なにものとも『連なり(受け送り)』を持たず、限界のゆっくりよりもちょっとゆっくりと、{試練や訓練などにしてしまわず、何処へでも}走れるように努めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。
{自然の理であると{前後反転の時間認識のスリ込みによって}思い込んでしまっている『連なり(受け送り)』に逆らえずに}人対人・人対物事が、{どうしても}連なっていなくてはならないのだと、{盲目的に欲求して}切望する{近代では一般的であった}人々が、
『お金』の遣り取りで『連なり(受け送り)』を一様に構築し、そこで一律に安心(誰かに損をさせて、自分が得をする事(投機的経済活動)の正当性)を手に入れていて、それにより『小全体』を形成・活性させていたのが、{近代での}社会経済の発展であり、
土台の積み上げ(歯車動作の『受け』・『送り』の連鎖)で『連なり(受け送り)』を一様に構築し、そこで一律に安心(自分を壊し相手を壊しながら、土台の積み上げを先細りさせて行く事(『小更新』を積み上げていって連ねていく部分解禁的科学技術)の正当性)を手に入れていて、それにより『小更新』を形成・活性させていたのが、{近代での}科学技術の進歩であったので。
個々の人々が個別に、『お金』を個々の《趣向の品》として個別に配分(みんなに様々な有効利用をしてもらう:投機とは違う投資の本質)して、{今の時代の}【配分経済】の構成が作られていて、
【大全体】の色々な構成員が様々に配分(様々なモノの様々な【小更新】を様々に有効利用してもらう:【部分解禁】されている『抗生物質』などとは違う【大全体】の構成員である『生きた水』の本質)された多様性によって、{今の時代の}【大更新】の構成が作られているのです。
しかしそんな今であっても。
『幸せな想い』や『「口と水着の部分を守る」というような視点の自由化』や『生きた水』などによって『連なり』を横切って行ってしまうのに、それに拘り過ぎて、それを{相手や物事を破壊する、反動・憂さ晴らしのような}『送り』としてしまったり、
誰かが『受け』として受け取って、自分(自分たち)を破壊してしまっては、意味(その意義)を失うので。
どうしても{自分(自分たち)が{無理な『送り』をする}反動・憂さ晴らしに至らず、相手(物事)が自分(自分たち)を破壊してしまう{無理に『受け』として受け取ってしまう}事態に至らないように}営業スマイル(『連なり(受け送り)』への拘りを捨てて、『受け』を避けて『送り』を譲り、ゆっくり走って、横切って行ってしまう時に欠かせない、みんなに意識して心掛けてほしいコト)をするというのは必要でありまして、
営業スマイルを忘れて横切って行ってしまっては、それが{自分(自分たち)と相手(物事)との}次の『連なり(受け送り)』となってしまうだけなのです。
・平成31年度版
*道路をゆっくり走るのに、・・・(【波動エンジン】の認識変更)。【4月21日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。個々の物事や人間が{各個で}個別に在るというコト
(物事が一般化されていなくて、周知されないで在るコトで。人が物事に於いて{よく考えないで}端に避けてしまって、{無責任に}先を譲ってしまうコト:『歯車動作の連動連鎖』が機能していないコトで。人々が『受け』を受けなくて、『受け』にならない『送り』を送っているコト:『時間認識に於ける前後の反転』が機能していないコトで。人間が『ブロック積みの世界観』を見失い、土台形成が行われなくて、『パラダイム』が作られず、『悪の自然誌』の実験が行えないコト)
が、{暴走しやすい}“魔法”世界での{“魔法”を使わない人間にとっての}危機的状態
(『宇宙戦艦ヤマト』に於いての、{宇宙人から提供された}【波動エンジン】から『波動エネルギー』が{『受け』が無いのに『送り』の動作(動力)が無尽蔵に作り出される“魔法”のように}作り出されていて、人間の科学体系(歯車世界)に属していないのに、人間が{一般化して、周知される}技術としての利用を{“魔法”使いが、“魔法”を駆使しているように}見切り発車してしまうコトによる、{『宇宙戦艦ヤマト』では幸運であっただけの}可能性以上の危険性)
とされていて。
{“魔法”を使わない人間の、“魔法”世界での不自由な状態での}不自由さによる『反動』や『憂さ晴らし』が必然で必要だからと、その危機の{『“魔女”裁判』や『“魔女”狩り』によるような}過激な手段での解消がことさらに肯定され、各種の『ハラスメント』や『テロ』や『迫害』が{無自覚な正義漢たちによって}頻発していたのです。
そして1000年“後ろ”の時代からは。自分としては、『動物園』や『水族館』や『植物園』へ観賞に来ているのであり、食料品市場や食堂・レストランなどへ来ている訳ではなく、『エサ』にするつもりのないモノの観賞が目的なのであれば、
「目の前のモノが食べられないからといって、腹を立ててどうするのです。撫でたりするコトや、香りを楽しむコトだけで満足していても、別に可笑しくないハズですよね」
とか、考えたりするようになり。
『エサ(その引換券であるお金)』が配られる『サル山』や『海洋牧場』のような人社会(小全体:魔法を使わない人の集まり)で、得られる『エサ(お金)』の量や質をめぐる{その向上の為の}順番争いをみんながしていても、自分としては『エサ(お金)』以外のモノの観賞(撫でたり、香りを楽しんだりするコト)をする“おバカ(アホウ)”なコトが目的であれば、
「自分が端へ避けて、先を譲っているからといって、それを自慢してどうするのです。誰かを誘うコトもなく、一人で楽しんでいても、別に可笑しくないハズですよね」
とか、考えたりするようになったのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。【波動エンジン】の個々のバリエーションのような《社会経済の発展観》や、《科学技術の進歩観》を{各個が個別に}持っていて、誰も一般化など求めず、周知される事など望んではいなくて。
{一般化され、周知されている}最大公約数的な『社会経済の発展や科学技術の進歩』を用いた産業から生み出される既製品が、みんなで独自にアレンジされ、各自の様々な用途に用いられながら。
色々な【波動エンジン】が{各個が個別に}作られていくような、【個々の文明】の構築が、{広がりながら}進んでいるのです。
しかしそんな今であっても。『エサ(お金)』以外のモノの観賞(撫でたり、香りを楽しんだりするコト)をする“おバカ(アホウ)”で、【個々の文明】が特徴的な構成員によって形成される【更新する無限に多様な大全体:魔法世界の魔法の本質】の概念が拒絶されてしまい、
{厳選された『エサ(お金)』が、順番から選ばれた『エサ配り』により順番で配られて、{同じ様に魔法を使わない}人が集まった事により、そこに壁が在って囲われているかのようになった、みんなが一様に行う一律なモノとしての特定のパラダイムである}
『サル山』や『海洋牧場』と同じ{魔法が拒絶された}構造の人社会が復活してしまえば、1000年“後ろ”の時代まで逆行してしまうので。
{『受け』を必要なものとして、そんな『受け』となるように『送り』をする}『歯車動作の連動連鎖』や{土台の上への積み上げをパラダイムでの進歩として、その交換をパラダイム変換とする}『ブロック積みの世界観』や{人間にパラダイム論(枠の中に閉じこもって、破綻へと至る)をスリ込ませた}『時間認識に於ける前後の反転』や{人間や物事を『悪の自然誌』の実験台にしてしまっての、身勝手な成果を、魔法世界での魔法を使わない人間にとっての切り札として表彰している}『ノーベル賞(ノーベル財団)』を危険のチェックシートにして、注意を怠らないのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(3)。【4月13日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。人の世が、『海洋牧場』や『サル山』の様な
{複数のエサ撒き係(神官や僧侶・王侯貴族・資本家・革命指導者など)が{参加者たちの妥協の産物として成り立っていて、様々な機会に入れ替わりながら}機能するエサ場に出来た、{エサ場が神聖化されたり、私物化されたり、自由競争化されたり、共有化されたり、共産化されたりする事(【更新する無限に多様な大全体】に対しての、《単独の構成員の更新機能を切り崩す【部分解禁】》を破綻させては繰り返すコト)による}様々な『争い』や『不正行為』を繰り返しながらも{壁に阻まれたかのようにノロノロしていて、『社会経済の発展や科学技術の進歩』を不自然に駆使して人間に{無理やり}付けた順位を{強引に}入れ替える事しか出来ず、『反動』や『憂さ晴らし』を必要としながら}誰もエサ場から離れない、同じ様な{特定の}欲求(スリ込まれた正義観:無自覚な欲望)で集まったモノたちの{『ブロック積み』や『歯車動作の連動連鎖』を形成していて、時間認識に於ける前後が反転した先細りの世界観(未来観)に違和感を抱かず、誰もが無自覚に『悪の自然誌』の実験を形成して、パラダイム変換が必要になる破綻へと突き進んでいる}特定の群れの}
形態をなしていて。
そして1000年“後ろ”の時代からは。『海洋牧場』や『サル山』に出来た特定の群れの様な人の世で、{同じ様にノロノロする誰もが『反動』や『憂さ晴らし』を必要としていて、先細りする世界観に於いてパラダイム変換が必要になっている事の異常さに気付き}人が自ら進んで{道路をゆっくり走る“アホウ”な者となって}エサ場の端に避け始めて。
そしてその1000年“前(先)”の今では。『海洋牧場』や『サル山』に出来た特定の群れの様であった人の世に{道路をゆっくり走る“アホウ”な者のように}背を向け、{エサ撒き係の特典にも誘惑されず}エサ(エサ場)を他に譲って、人々が様々な欲求で{大海や野山に向かうように}個別に{『社会経済の発展や科学技術の進歩』が同じモノを作る{不自然な}産業の為ではなく、個々が様々なコトをする上で{【更新する無限に多様な大全体】に適(カナ)って}各個に利用されて}生きているのです。
しかしそんな今であっても。たんにエサ場からハミ出して『アブレ』てしまった
{既存の群れから警戒されているのを「真理の側に在る者は迫害される」と言って、エサ撒き係やエサ場を奪還するスキを窺(ウカガ)い、それが無理だとなれば『海洋牧場』や『サル山』そのものの破壊も辞さない}
アブレ者と、『アブレ』ているだけの
{『海洋牧場』や『サル山』を離れて大海や野山に向かう為の様に、個別な『社会経済の発展や科学技術の進歩』の活用をしているだけであり。道路をゆっくり走るのに端へ避けているだけで、順位など気にせずに先を譲っているだけである}
“アホウ”な者との区別が付かず、庶民への強制(特定の群れへの恭順)を正当化した{『海洋牧場』や『サル山』を『生け簀』や『檻』の様に考えて、人類の完全管理を理想とする、ナチズムの様な}社会思想が{広く人々に受け入れられてしまって}台頭してくれば、簡単に1000年“後ろ”の時代へと戻ってしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2-3)。【3月31日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。「道路をゆっくり走るにしても、自分が先頭に居なくてはならない。そうでないなら、そんな世界などいらない」とさえ思っていた。それは「自分が{普遍的なモノを『受け』として受けて、普遍的なモノを『送り』として送っている}普通の人間の代表で、《自分がダメだ》となると、他の人間たちも《みんなダメだ》となってしまうから」と思っていた為。その思いは《歯車動作の連動連鎖》の世界観の上に成り立っていた。
そして1000年“後ろ”の時代からは。『受け』は受け取らずに、『送り』の動作だけが出来て、{一人で避けて}ゆっくりと走れればそれで良い(大満足で、何の不満もない)と想うようになれた。
そしてその1000年“前(先)”の今では。{自分が『受け』を受け取らないだけで}他で『受け』が連鎖していても邪魔をせず、そんな『他のモノ』たちや人たちに{感謝を込め、敬意を示して}先を譲っている。
しかしそんな今であっても。「“大義”があって『ゆっくり走る』のであれば、その“大義”は相手の『受け』となるように『送る』べきでありまして、『ゆっくり走る』のに一人で避けたり、先を譲ったりして良い訳がないのです」と思ってしまうならば、1000年“後ろ”の時代までに逆戻りである。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2-2)。【3月30日・土】
1000年後ろの時代までは。誰かの得が誰かの損で賄(マカナ)えられてしまうという{限定された小全体で、アブレ者まで大量に生み出されてしまった}状況下で、投機的社会が巨大構築され、誰もが自分(自分たち)こそが得を手にするのだとして盲目的に《特定の『受け』を受けて、その連動連鎖としての『送り』を歯車動作する事》に{自分の中の『神』を見失い、それが我と我々の存在意義なのだとして}狂奔してしまい、世界の進行(【更新する無限に多様な大全体】での多様な更新)の道を塞ぐように世界中で幾(イク)つもの《歯車動作の連動連鎖》どうしでスクラム(幾つもの指示命令系統(宗教や国家や民族)のぶつかり合い)が組まれ、道を塞がれた事による世界の渋滞(【部分解禁】:個々の消耗による【非多様な更新】:破綻がセットになった近代的な『発展と進歩』)に対して{『他のモノ(大全体の構成員)』たちや人類(誰もが大全体の構成員)などの}様々なトコロから『反動』や『憂さ晴らし』が{悪の自然誌での実験と同じように}噴出し、それを押さえる戦いが『社会経済の発展と科学技術の進歩』の名目で行われていたのだが、{特定のパラダイムが限界にきている}その状況に対して暴走している(道を間違えている)と言って{反核運動やテロなどのように}足を引っ張るコトが{パラダイム変換への『誘爆』だとして}持て囃されてしまって、人の世は大混乱に陥(オチイ)ってしまっていたのです。
そして1000年後ろの時代からは。『社会経済の発展と科学技術の進歩』は暴走しているように見えて(思えて)、《歯車動作の連動連鎖》どうしでスクラムを組んでしまう人類というのは思った以上に《道路をゆっくり走っている》もの(道を塞いでいるもの)なので、もっと安心して《道路をゆっくり走る》為に、人類はもっともっと道の端に避(ヨ)けて走るベキなのだと想い始めたのです。
そしてその1000年“前(先)”の今では。{『他のモノ(大全体の構成員)』たちや人類(誰もが大全体の構成員)などの}様々なモノたちに先を譲ってから、自分(自分たち)は《道路をゆっくり走ればいい》と想っているのです。
しかしそんな今であっても。1000年後ろの時代までが特別であったという訳ではないものですから、世界の進行(【更新する無限に多様な大全体】での多様な更新)の道を{人社会が}塞いでいながら、『社会経済の発展と科学技術の進歩』を{人社会が}暴走させていると思って{避けもせず譲りもせずに、人社会をゆっくり走らせようと、大義のゴリ押しをして}しまえば、人の世は直ぐにでも{世界の進行を阻(ハバ)むように}大混乱となり、世界は{道を塞がれて}大渋滞に陥ってしまうのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・(2)。【3月25日・月】
1000年後ろまでは。「自分・社会・人間・人類を無駄にロスさせたくないから」と人は言って、「『受け』となるのに有効な『送り』と、その繰り返し」という《歯車動作の連動連鎖》に一生懸命になり、みんなで{進行がゆっくりでハタ迷惑な上に、邪魔モノには{粛清(シュクセイ)をするなど}容赦の無い}スクラム(パラダイム論で形成された文明社会)を組んでいたのだが。それが進行の足止めとなって【大全体】が渋滞を起こし、その煽りを食って先行できなかった『他のモノ』たちが『反動』や『憂さ晴らし』に走ってしまい、そんな『他のモノ』たちとの団体戦に於いて人は{人類が勝ち残る為の、『発展や進歩』が駆使された}殲滅作戦(センメツサクセン)を仕掛け、そしてその戦果(悪の自然誌での実験結果のような醜態)に対し『発展や進歩』という{一方的な}評価をして『ノーベル賞』が贈られていて、【大全体】世界の進行の{スクラムを先頭にした}大渋滞(文明の破綻)が{当然のように繰り返され、パラダイム変換を必要としながら}惹(ヒ)き起こされていたのです。
そして1000年後ろからは。そんな{殲滅作戦が火に油を注いだ}大渋滞(『他のモノ』たちによる『反動』や『憂さ晴らし』による文明の破綻)に目を向け、{進歩の暴走という正当化方便に惑わされずに}よく考え、そして{道路をゆっくり走るにしても、道の真ん中を占領したりしないで}避(ヨ)けるコトが始まって、スクラムの形成(その維持)の為の{先行する女性や異教徒や外国などへの}粛清(イジメやハラスメントや、迫害やテロなど)への自己反省が始まったのです。
そしてその1000年先の今では。{道路をゆっくり走る時でも}誰かの足止めをしないように{道の真ん中を占領したりせず}避けていて、そして『他のモノ』たちの先行について行ける{粛清の対象であった}人たち(女性や異教徒や外国など)に先を譲っているのです。
しかしそんな今でも。{進歩の暴走という正当化方便に惑わされて}文明を突っ走らせてはダメだと考えてしまい、先行する{女性や異教徒や外国などの}人たちの足を引っ張って(粛清を始めて)、スクラムを形成してしまっては(道の真ん中を占領してしまっては)、【大全体】世界の進行の大渋滞の再発(再燃)は免(マヌガ)れないのです。
*道路をゆっくり走るのに、・・・。【3月23日・土】
1000年後ろまでは。『神』とは、誰に対しても一律に{加護をもたらして}接する普遍的存在(普遍に対して何の疑問も持てない縛られた状況下での認識)であり、誰もが一様に{怖れ敬って}接するべき普遍的存在でありまして、人(社会)であれば歯車のように『受け』と『送り』を繰り返す(繰り返されていく)のは{普遍的に}当然であるという事から、そんな《歯車動作の連動連鎖》の人(社会)での形成が教義の主要テーマとなっている事に
{『有用性』や『効率性』や『発展と進歩』や『平和と繁栄』などの為とする{指示命令系統でしかなくて、宇宙戦艦ヤマトの{宇宙人から提供された}波動エンジンを例えに{地球上の鉱物を人間が利用する}核エネルギーを語るように不自然な}『倫理道徳』や『常識・正論』や『先人の知恵』や『申し合わせされた世界基準』などからの『受け』に対して『送り』が“誠実”に行われるものと決め付け、『反動』や『憂さ晴らし』などの『送り』の歪みを『悪魔の誘惑』で片づけてしまいながら}
何の問題(疑問)が在るのかと譲らない、{そんな『神』を普遍的に信仰する}普遍的宗教が世界(人間の未来)を限定的(小全体:土台の上への積み上げ:後(アト)へと制限が増え続ける時間認識)に閉ざして{限られた分を奪い合う者たちとそこからのアブレ者を生み出す投機的社会経済が極まって}しまっていたのです。
1000年後ろからは。『神』とは、誰にとっても個別に{期待をして}接してもらえる{個々の}存在(自由な立場で生じる認識)であり、誰もが個別に{その期待に応(コタ)えて}接すればいい{個々の}存在でありまして、人(社会)に於いて{人為的に生じる『受け』を無視して}『送り』が自発的(『神』の個別な期待に対して個々に応える)に行われるのは当然であるという事から、人(社会)が自分(個人)を《特別なモノ》だと譲らず、{普遍的宗教による『神』の独占を《『神』は死んだ》と表現した【ニーチェ】に通じる}神秘主義的宗教という世界の一部分(ジプシーやアメリカインディアンなど)からのスタートでありながらも、時間の進行方向を前と認識したコトにより物事の可能性を
{人為的な実験が繰り返される『悪の自然誌』での破綻から{積み上げの為の土台を交換して}回復する『パラダイム変換』というようなモノを必要としないで}
広げて、人(社会)が【更新する無限に多様な大全体】を自覚しての『他のモノ』たちへの
{限られた『お金』や『資源』や『土地』をやり取りするだけの{『儲ける者』と『負担する者』と『アブレる者』を生み出してしまう}投機的社会経済では起こり得なかった}
投資が自主的に始まったのです。
1000年先の今では。普遍的宗教と神秘主義的宗教とには、『道路をゆっくり走るのに、渋滞を作ってしまいながらも、{それが普遍だからと}それで“満足”してゆっくり走る』のと、『道路をゆっくり走るのに、後続車に先を譲りながらも、{それが自分らしいと}それで“安心”してゆっくり走る』のとの違いが在ると、世界中で周知されるに至っているのです。
しかしそれでも。≪『ゆっくり走る』という事に“大義”があるなら、渋滞に遠慮する必要はないし、渋滞に文句をつけてくる者があるならその排除は必要不可欠であるので、後続車に先を譲るという“妥協”は問題の先送り(自己満足)でしかない≫という論理を振りかざして、《他者の“安心”を妨害していながら「みんなに“満足”を振り分けているのだ」と主張する》というゴリ押しをする者が根絶される事はないのです。
*『神は死んだ』などと言われない為に。【3月4日・月】
1000年“前(先)”の、「キレイな所に戻って来たキレイな人間」のお話しです。
≪歯車の様な“作用”の受け送りによる消耗を少なくする為に≫
1000年“後ろ(後方)”の時代からは。{長らく勘違いしていた為に、これまでのこのブログに於いて、核心部分での明瞭さがどうしても欠けてしまっていましたが、先日より新な境地に至り、ここより大きく修正する事になった為もあり}哲学者の【ニーチェ】が『神は死んだ』と言った事から始まって
「長年のキリスト教会(唯一神教の原則であるハズの「偶像崇拝の禁止」は守らず)による『神秘主義』の廃絶活動(唯一神教の原則を理由にした過剰反応をよく起こす)により、
人々の精神世界に於いて{個々の人間が『送り出す“作用”』を個別に{効率や理性を乗り越えてしまう“パニック”の後ろ盾(ウシロダテ)に神様がなってくれて}享受させてもらえる《人間が各個に、秘かに“作用”を受ける存在》として}現在進行形で活動する存在としての『神』が死んでしまい、
{教会や聖書に{以前のモノである}『神』の“作用”の{以後のモノである}痕跡(コンセキ)が残されているとして}『神』の“作用”の痕跡(以後のモノ)を見本に『神』の“作用”の人間世界での復元(人々が受ける“作用(以前のモノ)”の人為的送り出し)がなされ、
{それ以前の“作用”を受けて、それ以後へとその“作用”が送り出され、それが“作用”を消費して連鎖する}『効率的に理性的に“作用”の受け送りをする歯車が効果的に合理的に連なって回るコトで“作用”を上手に消費させる事を優先する為に{歯車の多様な動きからの様々な送り出しである}物事がどうしても{“作用”の効率の為に内容が一律になり、働きも一様になってしまって、さらには“作用”の進行が先細りになってしまう“土台(枠組・扉)”が形成されて}限定的であって消耗もしていってしまう世界』が人為的に生み出されて、
人々はその世界(世界観の範疇)で手に入れられて役立てられるアイテムのように{受け送りされる“作用”である}『社会や経済の発展』や『科学技術の進歩』や『倫理道徳』や『常識・正論』を{『お利口さ』や『甘え』が理性的に用いられ、合理的に運用されて}上手に利用しているという事で{誰も何も疑わず}創造的活動をしている気になってしまっているものだから、
{「未来は自由の新天地」とは言いつつも誰も自分からは{リスクを自ら背負う事になる}状況対応(自分自身に於ける効率性や理性を無視し、周囲を巻き込んだ効果や合理性も無視して、その場その時の各個に個別な“作用”を様々に送り出すコト)などはしないものだから}人の世は{『悪の自然誌』にある『人為的な実験・観察』のように}いつも破綻に向かい、
{科学に於いて{特殊論(『偶然の産物』か『宇宙人からの贈り物』であるかのような、“扉(枠組・土台)”を一時的に解放する科学観)で考えてしまって}「使うか使わないかや、どう使うかの判断は人間の手にあり、効率の良いように使えば良い」などと{科学を一般論(【更新する無限に多様な大全体】として認識された、“枠組(扉・土台)”を人間の精神世界内での幻想だと判断する科学観)で考える事(神様が後ろ盾(ウシロダテ)となる神秘主義の一種)の深い意義(「冷静な判断よりも“パニック”で判断されたコトの方が多種多様であり{多重構造の形成となる}状況対応として相応(フサワ)しい」という考え方に、自分の理性や周囲との合理性を無視するリスクに左右されない為の“パニック”の後ろ盾に神様がなってくれている神秘主義から至る事)を無視して}理性を働かせ、科学でも「実験(作用)の始めを前と言われ、実験(作用)の先を後と{“作用”を消耗させるだけの{破綻が必然の}歯車社会と同じように}言われている」というように{主体性が無い為に一律に状況対応をせず、見た目の効果ばかりが一様に追求される}合理性の重視が行われるものだから}人の営みは{『パラダイム論』にある『パラダイム変換』のように}いつまでも破綻を繰り返していて、
{人為的に“作用”が受け送りされていて、その繰り返しによって“作用”が消耗されていく、{『神』が死んだ}歯車的世界である事により}限られた上に先細りする社会や経済の中では《権益者が減り、利権の負担者も減り、溢れ者ばかりが増えていく》という現象が{『パラダイム論』の『パラダイム変換』を待望する、『悪の自然誌』の『人為的な実験・観察』と同様に}必然的に進行してしまう。」
という人間世界の真相究明に人々がようやく迫り。
それから、1000年“前(先)”となった今では。誰もが、 理性に打ち勝つ為の“パニック”の後ろ盾を『神』になってもらって、{多重構造の形成となる}状況対応としての “作用”の送り出しを{多種多様に}自分からするコトで、様々な破綻の原因となる{歯車の様な“作用”の受け送りによる}消耗を少なくした【更新する無限に多様な大全体】な人間社会が、 “土台(枠組・扉)”など作らずに築かれているのです。
しかし、今がどうであろうとも。『神は死んだ』などとは、もう誰からも言われたくないので、各個が個別に“作用”の送り出しがいつまでも出来るように、『神』の後ろ盾をみんなで守ってもらいたいのです。
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