聖なる書物を読んで

現役JW29年目

集会に出席するのはどんな人ですか

2019-04-06 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

記念式だけではなく、毎週の集会にも出席するようにと圧力をかける記事です。

謙遜で学ぶ意欲のある人は集会に行く、勇気がある人はどんなことがあっても集会に行く、神とみ子と兄弟姉妹を愛している人はそれを表すために集会に行く、とのこと。

つまり集会に出席しない人は、謙遜さがなく、勇気もなく、愛もない人間だ、と思わせることで、そういう人に見られたくなかったら、ちゃんと集会に出席しろと言ってるわけです。(いわゆる世の人たちは、集会に出席していないから、そういう人たちなんだ、という刷り込みにもなってる)

ま、いつもの脅し記事ですね。

集会の内容に魅力があれば、来るなって言われても行くと思うよ。

以前(1~2年前)よく一緒に奉仕してた開拓者の姉妹も、特に最近は集会に行ってもちっとも励まされることがない、行くのが習慣になってるから行ってるけど・・・とぼやいていた。

こんな記事を毎回研究させられるんじゃ、行きたくもなくなるよね。純粋に聖書だけを学ぶ集会にすればいいのに・・・・いや、そんなことしたら、組織の教理が矛盾だらけだってバレちゃうかw。


さてツッコミです。

3節。「集会に出席する主な理由は、それが崇拝の一部だからです」。

組織はこう規定してるけど、こんな風に規則化して、それを守ることが義であるとするやり方を、イエスは非としたんだよね。規則を守ることではなく、日々の生き方で神と隣人を愛していることを示していくように、と。
組織が信者を集会に出席させたい理由は、信者を組織に縛り付けて洗脳し、組織に依存しなければ生きていけない精神状態にすることだと思うよ。 

6節。「できるだけ多くの人がイエスの死の記念式に出席するよう、招待活動に励んでいます」。

イエスは、ご自分に信仰を持っている近しい弟子たちだけと、最後の晩餐を祝われた。裏切り者のユダを去らせた後に。・・・だから、信仰を持たない一般人を招待するのはちょっと違うんじゃないかと。
この組織は、記念式の意義を大切にするよりも、一般人が組織に入る(集会に出席する)きっかけを作るために記念式を利用しているように思える。

7節。「イエスが謙遜にも、贖いとして命をささげてくださった」。

なんか変。イエスが謙遜な方だったことは分かるけど・・・ん~~この違和感の正体はなんだろう。

9節。「病気になるかもしれません。・・・そのような中、勇気を示して集会に出席している兄弟姉妹がいます」。

病気になったら休むのが基本でしょ。こんな風に書くから、インフルエンザでも出席する迷惑な信者が出てきちゃうんだよ。これは、出席可能な慢性病の場合だよね。
パウロの例を出したのも、集会に出席することが「神に忠実に仕えていること」だ、と刷り込みたいだけでしょ。

10節。「エホバの過分のご親切の恩恵を受けてほしいと願っている」。

そう願うなら、記念式よりもまずは聖書研究(今は聖書レッスンw)でしょ。記念式に出れば、その恩恵を受けられるってわけじゃないんだから。なんか考え方が本末転倒だよねぇ・・・まぁ、組織に引き入れること=過分のご親切の恩恵を受けること、になっちゃってるからしょうがないのかぁ。

12節。「エホバを賛美する1つの方法は、集会で心をこめてコメントすることです」。

コメントw。「注解」なんて言葉を使ったら、組織と歩調を合わせなさい、って叱られちゃうかしらw。
これも組織が決めた規則。コメントして、これでエホバを賛美できた、と思うも良し。コメントしなくたって、エホバを賛美できなかった、なんて落ち込む必要もない。
この組織は、エホバを賛美する方法を決めようとする(奉仕だの集会だのコメントだの)けど、神への賛美の仕方は人それぞれで良いと思う。

15節。「不活発になっている仲間を助けたい」。

大きなお世話だと思います。放っときましょう。戻るにしても離れるにしても、自身で行動を起こすまでは。
少なくとも自分は今のまま放っといて欲しいです。まだまだ考えたいことがいっぱいあるので・・・(ちなみにまだ奉仕報告は出してるので、現役です)


集会出席は、信者にとっての重荷になってること、組織は分かってるんだと思います。変化に富んだ内容にしようと、ビデオを多用して頑張ってるようだけど、質はドンドン落ちてく一方で。
週中の集会は、家でビデオ見てるのと変わらない感じだし・・・まぁ、近いうちに週一になるんじゃないかと。
そうすれば王国会館ももっと少なくてすむし、群れの奉仕の集会があれば、奉仕の訓練はできるしね。

コリント人への第一の手紙8,9章

2019-04-04 | 聖書
8章。(聖句は新世界訳より)

偶像にささげられた肉についての、コリント信者からの質問に答えるパウロ。

たぶん前書簡で、そういう肉は食べるな、と主張していたのだろう。でもコリント信者から、偶像は無きに等しいものなのだから、そういう肉を食べたところで汚れるわけじゃないだろう、なぜ食べたらだめなのか? と質問してきたと思われる。(市場で売られている肉は、ほぼそういう肉だった)

パウロは答える前にまず、「知識は人を思い上がらせる。知識を習得したと考える人はまだ、知るべきほどにも知っていない。知識より愛だ」と言う。(やなかんじ。問題をはぐらかしてる上に、相手を下に見てるよね。お前らはオレから知識を受けたんだぞ、オレを批判できる立場じゃねーだろ、みたいなw)

コリント信者の知識は正しい(パウロも分かってる。自分が教えたんだから。4節)から、実際はそういう肉を食べたところで問題はないのだけど、パウロとしてはなんとかして、そういう肉を食べるのは良くないことだという主張を通したい(ユダヤ教的精神が残ってる)から、良心の弱い人に配慮しなさい(愛を示しなさい)という話に持っていく。(コスイね)

弱い人の良心が築き上げられてそういう肉を食べるようになったとしても、実際は一向に構わないわけで。(偶像の神殿で食事の席に着いて食事したって構わないってこと)
その人は知識を得て強くなるわけだし、その知識は正しいのだから破滅することもないしね。(つまりパウロは、自分の言ってることが論理的に破たんしてることに気付いてないw)

パウロが言うように、知識より愛を示して兄弟姉妹をつまづかせないように、っていうのは良いことなのかもしれないけど・・・なんかこう・・・すっきりしないんだよね。
まぁ、パウロはカッコつけて言ってるだけなんだろうけど。(説教がお上手~)


9章。(聖句は新世界訳より)

口調が変わって、パウロは自分が使徒であることの弁明に入る。8章の続きは10章に飛ぶ。

コリント信者にエルサレム会衆への多額の献金を募ったこと、それに対してコリント信者が疑問を持ってること、などもパウロの念頭にあったんだろうな。

パウロは宣教者として、当然受けるべき報酬(金銭的援助)を自分は受けなかったんだと、くどくどくどくどくどくど。

あまりにそのことに拘っちゃってるもんだから、「そうする(報酬を受ける)くらいなら死んだ方がましだ、これが自分の誇りなんだ、良いたよりの宣明は必要が課せられている(義務)のであって誇りではない、宣明しないのは災いなんだ、自分から進んでやってるんじゃなくて神の家令の仕事が託されてるんじゃい、報酬受け取らないのが報酬じゃい」、みたいな話になっていくという。

で、自分がどれほど頑張ってきたかを自慢する。「より多くの人を勝ち得るためにすべての人の奴隷になったのだ、良いたよりのために何でもするんだ」と。そしてそれは、自分が福音の側の存在になる(新世界訳は「分かち合う」となってるけど、この動詞は「そちらの側に加わる」の意)ためだと。

でもって、コリント信者を励まそうと思ったんだろうけど、「ただ一人だけが賞を受ける」競争に例えてしまうという失敗をする。(あるいはパウロは、自分一人だけが賞を得ているんだとでも言いたいとか・・・?まさかね)

最後の部分だけ比較。

26,27節。新世界訳「わたしの走り方は目標の不確かなものではありません。わたしの打撃の仕方は空を打つようなものではありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」

口語訳「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」
新共同訳「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」
田川訳「私は曖昧ではない仕方で走る。空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる。他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである」

「失格者」と訳されてる語は、「本物であることが検証され証明された者(合格者)」という語に否定の接頭語をつけた形容詞。パウロがこの語を用いて、お前は合格者(11:19)だのなんだのと言うもんだから、パウロの語っているキリストが本物かどうか証明してくれ、とコリント信者から言われることになる。

新世界訳がいかに原文のイメージと異なってるかが分かるんじゃないかと。
パウロは結局、自分の事しか考えていないんだよね・・・コリント信者のこと気遣ってるようで。


以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙7章(追記あり)

2019-04-01 | 聖書
パウロが男尊女卑で、極端に性的禁欲主義者だったことが特によく分かる章。
でも、聖なる書物にこんなこと書いてある訳がない、聖人パウロ様がこんなこと言う訳ない、という前提のもとに様々な解釈や改ざんが過去にも行なわれてきたようだ。
でもって、新世界訳ではもとのパウロの言葉とは全く意味が異なる訳になってしまっている。

7章。

1節。直訳は「人間にとっては、女に触れない方がよい」。
パウロの中では人間=男(新世界訳も「男」と訳している)。無意識に性差別的言葉遣いが出てしまっている。

2節。新世界訳「淫行がはびこっていますから」。
他の訳では「不品行に陥ることのないために」「みだらな行いを避けるために」「淫行を避けるために」など。
(「はびこってる」って・・・・なんじゃそれ)

3節。新世界訳「当然受けるべきものを与えなさい」。
他の訳では「その分を果たすべきである」「その務めを果たしなさい」「義務を果たすがよい」など。
パウロは性行為を夫婦間の義務とみなしているだけ。

5節。新世界訳「互いにそれを奪うことがないようにしなさい」。
他の訳では「互いに拒んではいけない」「互いに相手を拒んではならない」など。

5~7節。本当はみんながパウロのように一生独身で性的禁欲を貫くのが望ましいけど、神からの賜物がそれぞれなので、パウロのような禁欲能力の賜物を持っていない人は、無理に禁欲するとかえってサタンに誘惑されるので、結婚して夫婦の性生活を保ちなさいよ、それでも時々は中断して祈りに専念しなさいよ、というパウロの意見。

10,12節。「わたしの指示」と「主の指示」にこだわっている。
コリントの信者が、パウロの自分勝手な主張をイエスの命令だとすることに疑問を持って質問してきた、ということが分かる部分。パウロは、わたしの指示と主の指示を区別することで、切り抜けようとしている。

12,13節。新世界訳「ある兄弟に信者でない妻がいて・・・信者でない夫のいる女・・・」。
男の信者を「兄弟」、女の信者は姉妹ではなく「女」。15節では兄弟姉妹とあるのに、ちょっとしたところで男尊女卑が出ちゃうパウロ。
(でもまぁ、そうした考え方を克服しようと努力してたのかな、なんて良い方に捉えてみたり)

16,17節。たとえ夫婦であっても自分が相手(配偶者)を救えるわけはない。もしも他を救うなどという、おこがましいことができないのであれば、おとなしく自分の分を守っていなさい、ということ。相手を改宗させようと強引に引き留めて、平和を失うようなことをせずに。
(あらら・・救える=信者になるかもしれないから離婚しないで頑張りなさい~ってことだと思ってた。そんな風に教えられたよね)

21節。新世界訳「自由になることもできるなら、むしろその機会をとらえなさい」。
他の訳「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」「たとえ自由になりえても、奴隷状態を利用なさい」など。

パウロが奴隷制を擁護しているとして有名な箇所。聖人パウロがそれでは困るので、反対の意味に訳す動きもあった。口語訳「自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」。新世界訳もこちら。でもここは「たとえ・・・であっても、そうするな」の逆接文(「もし・・・であったら」ではない)。さらに「むしろ」と念押ししている。加えて17節以降パウロは「自分が神によって招かれた時の状態にとどまれ」と言い続けている。ここだけ反対の意味ではありえない。
(パウロはきっと22、23節「奴隷の時に召された人は主の自由民、自由な人の時に召された人はキリストの奴隷、代価をもって買われた、人間の奴隷になるな」新世界訳より)をかっこよく決めたかったから、こんなこと言っちゃったのかもしれないなぁ、なんて思ったりも)


(以下追記です)

25節。新世界訳「忠実であるよう主から憐みを示された者として」。
他の訳「主のあわれみにより信任を受けている者として」「主に恵まれて信実であるようにされた者として」など。

パウロは、自分はキリストの代行者という神からの特別の恵みを受けている、自分は神と同等の特質(信実)を持っているのだから、私の意見は神の意見だと思え、と言っている。
(これは私の意見だよ、って言えばいいだけの事なのに、上から目線で命令したいんだね)

26節。新世界訳「現状による必要性を考慮して・・・今あるままでいるのがよい」。
他の訳「今危機が迫っている状態にあるので・・・現状にとどまっているのがよい」「現在の逼迫した状態の故に・・・そのようにあるのはよい」など。

パウロは終末のことを考えている。その重要な審判の時を目前にしているのだから、童貞であるのは良いことだ、と言っている。でも新世界訳だと、コリント会衆の現在の必要を考慮して、と受け取れる上に、童貞であるのは良いことだと2回も繰り返されてるのが、今あるままでいる(童貞なら童貞で、結婚してるなら結婚したままで、みたいな)のがよいこと、の意味に受け取れるようになっちゃってる。ダメじゃん。

27節。新世界訳「妻につながれている・・・妻から解かれている・・」。
他の訳「妻に結ばれている・・・妻と結ばれていない・・」「女に縛られている・・・女から解放されている・・」

ヨーロッパの諸語は「妻」と「女」(「夫」と「男」)を区別しない。ここは実質的には妻の意味。パウロにとって、結婚しているとは「女に縛られている」ことであり、結婚していないとは「女に煩わされず解放されている」ということ。
(パウロ、屈折してるなぁ・・・)。

28節。たぶん前書簡で、信者は結婚しないのがよい、結婚なんて誘惑に負けて罪を犯すも同然だ、とでも主張したのかも。で、コリント信者からの反撃にあって、ここでは少し譲歩して、結婚そのものが罪だとは言ってない、みたいに言い訳してるw?

新世界訳「自分の肉身に患難を招くでしょう」。田川訳「肉体に苦悩を持つことになろう」。

パウロがここで言っているのは、性行為など経験しなければ性的欲望はまだ我慢しやすいが、結婚してそういうことをしていると性的欲望の火が燃え盛って困ったことになるよ、ということ。性的欲望を持つことがパウロにとっては苦悩だったので、どうやってその苦悩から解放されるかが関心事であって、家計の心配とか口うるさい妻がいたら大変だとか言ってるわけじゃない。

新世界訳「あなた方がそれに遭わないですむようにしているのです」。田川訳「あなた方に遠慮してあげているのである」。

パウロはここの動詞を、人を表す語を属格に置いて「遠慮する」「相手に譲歩する」の趣旨で用いている。つまり、あなた方に遠慮して自説を主張しないでおく、と恩着せがましく言っている。

30節。新世界訳「買う者は所有していない者のように」。
常に貧しい者の方に眼が行くイエスと、こうした事柄を列挙するのに「買う者」にしか頭が行かないパウロ。

32~34節。新世界訳「是認を得る」×3。他の訳「喜ばれる」「喜んでもらう」×3など。
(是認を得るって・・・カタイなぁ・・・感情がないなぁ・・・)

36節。新世界訳「しかし、人が自分の童貞性にふさわしくない振る舞いをしていると考え、若さの盛りを過ぎており、しかもそれが当然の道であれば、その人は自分の望むことを行ないなさい」。

口語訳「もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい」
新共同訳「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を制御できないと思うなら、思いどおりにしなさい」。
田川訳「もしも誰かが自分の処女に対してさまにならないことをしていると思うのなら、彼女がすでに十分に成熟しており、かつそうするべきであるのならば、その欲することをなすがよい」。

訳によって全然違う。少なくとも、新世界訳のように、自分自身の童貞性のことを言ってるんじゃなさそう。
当時、自分の娘(もしくは婚約者の少女)が適齢期になったのに、結婚させない(しない)ぞと頑張るとしたら、それは正しくない(さまにならない)と世間から言われる、つまりここは、「彼女が十分に成熟しているのに結婚しないでいるのは正しくない、と思うなら結婚すればいい」と言っている。「正しくない」と言えば済むのに、「さまにならない」という屈折した語を用いたので、様々に解釈されてしまった。
十分に成熟している(単語の意味は「頂点に達している」)=結婚適齢期、ということだから、彼女だけでなく自分(男性)がとも考えられる。新世界訳のように、若さの盛りを過ぎており、なんてことは言ってない。

37節。新世界訳「童貞性を守ろう」。

口語訳「相手のおとめをそのままにしておこう」。
新共同訳「相手の娘をそのままにしておこう」。
田川訳「自分の処女を守っておこう」。

つまり結婚相手を処女のままに保つ、ということ。それをりっぱな行動だと言うパウロ・・・。

38節。新世界訳「結婚して自分の童貞性を離れる」。

口語訳「相手のおとめと結婚する」。
新共同訳「相手の娘と結婚する」。
田川訳「自分の処女と結婚する」。

36~38節の新世界訳は、ぜんぜん意味が違うんだけど・・・いいのか?これで。「自分の童貞性」っていう訳が間違った解釈を生んじゃったんだろうなぁ・・・しかもこれらの聖句に、若者信者たちは随分振り回されてるよねぇ・・・組織の罪は大きいぞ。

39節。こういう時に女の側だけ言うパウロ。男尊女卑が無意識に出てる。

新世界訳「ただし主にある者とだけです」。(「者と」は補足)

原語は「ただし主にあって」。ただし結婚相手はクリスチャンに限る、という解釈が多い。でもパウロの「主にあって」という表現は、クリスチャン的、キリスト教的、という広い意味なので、再婚する場合も彼女自身はクリスチャンとして振る舞いなさい、という解釈もできる。(この聖句にも、信者は振り回されてるよね。恋愛もできなかったり、特権はく奪されたり・・・)

40節。新世界訳「自分も神の霊を持っていると確かに考えている」。

イエスの教えではなく、自分の偏った意見を主張してるという自覚があったパウロが、言い訳してるw。


以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~