二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

昭和の青春(3)安楽死問題

2008-05-19 10:22:29 | Weblog
世間の常識というものは、時間の変化と共に急速に変わる場合がある。
私の経験した最も極端なのは、太平洋戦争敗戦に伴う日本民衆の戦争観の大逆転である。
が、それほどでなくても、思い出す事例が幾つもある。

Y君が国立大學在職時に「産学協同」を主張していた時には、その種の行動は非常識で学問の神聖を汚すもののように非難されていて、文部省も何度かそれを禁じる通達指導を行なっていた。
それから20年も経たないのに、現在では産学協同は極めて望ましいこととして奨励されていて、寧ろそれに消極的なのが非難される。
世論も政府も、全く逆転したのです。

「地球温暖化の問題」も同様な経過を辿った。

近頃では葬儀は「家族葬」が一般化してきて 葬祭場もそれに対応する形態のものが多くなっている。
私自身の心情として、その様にしたいということを10年くらい前に言うと、かなり非常識として反発・非難されたものだったが、現在では、新聞に現われる著名人の死亡記事も、葬儀も親族だけで済ませた、などというのが多くなっている。

世間の常識というものは、変化し出すと非常に急速だと思う。

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これと同様に、最近の医療では
「過剰な延命措置はやめて自然死を待つというスタイル」
が、かなり広く行なわれるようになり、今では病院等でも家族や本人の意向を聞いて、それに対応する所が増えてきている。

病気が進行して本人の意思の確認が難しくならない内に、「リビングウイル」の書面を作って、延命措置について本人自身の意思を明確にしておくことが、かなり広範囲に世間の常識となりつつある。

実は、私等の仲間たちは40年くらい昔に、当時存在した「日本安楽死協会」という団体に所属して活動していた。
しかし、当時の一般社会は、この運動に好意的でなかったし、厚生省は非常に冷淡・反発的であって、その団体の法人格を認めないので、任意団体のままで行動せざるを得なかった。

それで、やむを得ず、志を同じくjする人達の一部は、主張する行動範囲から、積極的安楽死を取り除いて、
  消極的安楽死だけを謳った「日本尊厳死協会」
を発足させて、法人認可を獲得し、そこの事業として、「リビングウイル」をキチンとした形で残すことをするようになった。

私等の友人グループは、積極的安楽死の除外には同意できないので、この運動から手を引いた。

現在では少なくとも「尊厳死」の主張そのものは、非常識とは見られなくなって、立派な主義・主張の一つ、として扱われるようになっている。

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処で、近頃は高齢化が進むのに伴って、認知症の患者を抱える家庭の家族の生活の困難が多く見られる。

自分自身も60歳を越す孝行息子が数十年に亘り認知症の母親を抱えて看護の生活を続け、挙句の果ては、職を失って経済的にも行き詰まり、体力的にも限界を超して、最後は母親を殺して自分も自殺する

などという事件が時々ニュースで報じられる。
私の人生経験によると、新聞報道で一つの事件が報じられる蔭には、同様な出来事が数百件報じられないままに存在する。
孝行息子の老人が母親と無理心中するところまでは行かないが、その一歩手前の状態にある風景は、日本中に非常に多くあるのだろう。

それらの家庭でも、自分らで全てをカバーしているのではなく、公的な援助をかなり受けているから、公共予算のかなり多額な部分が、そうした方面に支出されている。

その上、一部の病院では、その種の老人や回復不能な末期患者をを抱えることにより経営的利益を図り、また、それら老人を病院の間をたらい回しして公的資金の受取を合法的に上手に稼ぐ事をしているのも、一般に周知の事実である。

更にまた一部不心得な患者が、救急車をタクシー代わりに利用していたり、公的介護援助を利用してヘルパーが来宅して炊事・掃除などの家事をこなすのを女中代わりにして、本人はカラオケに行って遊び耽っているなどの事例も、良く話題になる。

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一連のこうした事態は、公的資金が雨のように空から降って湧いてくるものならば、敢えて問題にしたくない。

しかし、ことは道義の問題だけでない。

現実に現在の国家財政が破綻に瀕していて、大問題になっている。
老人の年金をサポートしている現役の若者は自分等の時には年金は貰えないかも知れない、と言われている。
我々は国費の支出を減らさなければ、間も無く国は破産するのだ。


そうしたことを本当に冷静に判断した場合、
回復不能な認知症末期患者を延命を長引かせるのでなく、安楽に生を終わらせてあげる事が本人のためだけでなく、社会の破滅を防止するためにも良い事ではないだろうか。

孝行息子に親殺しの切ない選択をさせるのでなく、徘徊する痴呆症の老母を積極的に安楽死させて上げる方が、本人や家族達の為にも、社会の維持のためにも賢明な選択なのではないか。


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この様なことを書くと、格好良い人権屋に大目玉を食らう事はミエミエである。

しかし、我々の感覚は、キャズ君が
 「米国だより ②」
に書いた通りである。

今までに、「産学協同」でも、「地球温暖化」でも、「家族葬」でも、大して永くはない時間(10年か20年)で我々の主張が世間の常識となった
その時には、当時我々を非難した連中は今口を拭っている。
「消極的安楽死」は未だ議論の段階だが、随分と評価が変わった。

今ここで、積極的安楽死を認めよ、と言うと非難されることは明白であっても、
誰かが最初に言わなければ事態は動かないので、敢えて発言する。


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