このブログ(108)は、ブログ(107)からの続きです。
前回のブログ(107)『イエス-道』(3)では、『井の中』という狭い情報の世界から飛び出して、『大海』という膨大な情報の世界に触れていく必要性について書きました。
今回のブロブ(108)『イエス-道』(4)においては、これとはまた違った視点から観てみましょう。
たとえ現在、『井の中』に居たとしても、あるいは、『大海』に触れる機会があったとしても、どちらであったとしても、とても大事なポイントがあるのです。このポイントをしっかり押さえておかないとせっかくのチャンスを生かせなくなってしまい、『井の中』にそのまま留まってしまうか、たとえ『大海』に触れる機会があったとしても、これまで長く住んでいた『井の中』に逆戻りしてしまうことになるかも知れないのです。
そうならないための大事なポイント(=コツ・秘訣)というものを、今回のブログで扱ってみたいと想った次第です。
『イエス-道』:(4)“マインド(mind)”を停止すること
『イエス-道』の生き方の特徴は、“さばくな”というイエスの教えを基調にしている。
実は、“マインド(mind)”の働きを停止するということが、“さばかない”ということなのです。
逆に言うと、人が何かを“さばいている”時というのは、その人の“マインド”が働いている時なのです。
従って、この“マインド(mind)”の働きを意図的に停止する術(すべ)を身につけることが出来た時に初めて、その人は“さばかないで生きる”という人生を送っていけるようになるというわけです。この時に、人は『イエス-道』を生きていると言えるのです。
さらに言うと、人が自分の“マインド(mind)”の働きを停止することができた時に、人々をゆるすことが可能になってくるのです。
逆に、その人の“マインド(mind)”が働き続けている間は、人々をゆるすということはとても難しいものなのです。
イエスが山上の説教の中でいわゆる『主の祈り』を語った直後に、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイによる福音書6章14節~15節)と説いたのでした。
人は、ゆるそうと努力することで人々をゆるせるようになれるわけではないのです。「ゆるしなさい」と聖書に書いてあるし、そうすべきことをよく頭でもわかっているので、“ゆるすという行為を私は実行しよう”・・・と、その人が想ったとしても、現実にはそんなに簡単ではないのです。
これまで自分の生涯を通じて働き続けてきた“マインド(mind)”の働きを停止させるノウハウを学習し、そのコツを身につけていけるかどうかに全てがかかっている・・・と言っても過言ではないと私は想うのです。
ところで、イエスご自身が語った『主の祈り』の核心部分というのも、実は、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイによる福音書6章12節)にあると、私は観ているのです。この箇所が、『主の祈り』を祈る人によって実践されていないとするならば、その人が祈っている『主の祈り』は空虚なものになってしまうのであり、また、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように・・・」と祈っているのも、単に口先だけのものなってしまうのではないか・・・。
イエスも、実は、イザヤ書から引用して、次のように語ったことがあるのです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイによる福音書15章8節)と。
ところで、“マインド(mind)”が働いている状態、あるいは逆に、“マインド(mind)”の働きが停止している状態とは、一体、どのようなことを意味しているのでしょうか?
(8月22日 土曜日 更新)
ではここで、フル回転で働いている人の頭の“マインド(mind)”を停止させるというのは、どういう意味なのかを説明しましょう。
『さばく人』というのは、自分の中で“過去からずーっと蓄積されてきた記憶情報のデータベース”だけに照らし合わせて、物事や状況、現実、現象、出来事、対人間関係など、諸々のことについて価値判断したり、好きか嫌いかを判別したり、善か悪かのいずれかに決めつけたりしてしまうのです。自分にとって未知な情報、出会ったことのない情報、もっとアンテナを大きく、高くすれば得られるであろう情報、何か月後か、数年後、数十年後になれば知ることになるであろう情報に照らしてみたらどうだろうか・・・と、考えようとしないものです。
現に自分の目の前にある問題や課題などの情報分析をしようとして、“過去から現在に至るまで自分の中に蓄積されてきた様々な記憶情報”から検索して、最終的な結論や答えを導き出そうとしたり、ジャッジを下そうとして、頭を忙しく働かせているのが、すなわち、“マインド(mind)”が働いている状態なのです。
イエスが“さばくな”という場合、それは“今、起きている問題や課題、事件、事象、現実など”というものを“過去から現在に至るまでカバーしている自分のうちにあるデータベース”からの情報から切り離して、今この瞬間をあるがまま認め、受け留めていくこと。そして、今の自分ならこんなふうに想うけれども、でも実際はそうでないかも知れないと考える“心のアイドリングや余裕”を残して置くということ・・・。今すぐ、最終判断をしたりせず、決めつけたりせずに、もっともっと幅広い情報収集に勤しみ、自らを進化成長させていくことに精力を注ぐことに集中し、やがてまた、ゆっくりと考えてみることにしよう・・・これが、“マインド(mind)”を停止させておくということなのです。
このような頭の処理の仕方を身につけることができるようになると、“人をゆるす”ということは難しいことではなくなるのです。相手に関する“自分の中にある過去のデータや情報”に対してこだわっていない、執着していない、囚われていないので(これが、“マインド(mind)が停止している状態)、もはや相手を“ゆるさない理由”などというものはどこにもないわけです。
これが、イエスが山上の説教の中で「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さるであろう」(マタイによる福音書6章14節)と言われたように、まさに“人々のあやまちをゆるす”ということなのです。
世の中には、もちろん、いろんな人がいる。キリスト教の信仰を告白している、告白していないにかかわらず、“私は、他の人はゆるせても、あの人だけは絶対ゆるすことはできない。ゆるしたいとも思わない。ゆるすんだったら私は死んだ方がましだ。私は、自分が墓に入るまで、あの人をゆるさないし、ずーっと恨み続けてやる”なとと言って憚らない人もいるのです。このようなタイプの人の“マインド(mind)”というのは、“今その人の目の前にある現実”と“その人の中で過去から蓄積されてきた情報”との間を行ったり来たり、忙しく駆けずり回っているわけです。だからこそ、自分の目の前にいる人をゆるすような心の余裕すらないのです。
ところで、“忙しい”という漢字は、心を亡くすと書きます。つまり、“マインド(mind)”が『今』と『過去』との間をあまりにも忙しく往来していると、人をゆるすという心の余裕を亡くしてしまうもの。
たとえ、人が“あの人をゆるそう”と想ったところで、“あの人をゆるさないといけない”と自分に言い聞かせたとしても、そんなに簡単に相手をゆるせるものではない。おそらく、“ゆるす努力”そのものは失敗に終わることでしょう。
もし人をゆるすことが可能になる道があるとすれば、それは“さばかないこと”です。言い換えれば、『今』と『過去』との間を行ったり来たりして忙しく働いている“マインド(mind)”の働きを停止してしまうことなのです。そして、“マインド(mind)”の働きを停止するためのスイッチを押せるのは、他の誰でもない、私自身であり、あなた自身なのです。人には、そのスイッチを押す自由も、押さない自由も与えられているのです。誰も、その自由を邪魔をすることは出来ないです。
「もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ人への手紙3章13節)
人をゆるせる人、“マインド(mind)”の働きを停止することが出来た人というのは、ある意味において、“過去という時間”を超越した人でもあるのです。“今というこの瞬間、瞬間という唯一リアルな時”に自分の軸足をしっかりと置いて、自分の人生を確かに生きている人と言えるのです。さらに言うと、過去に囚われ、過去にこだわり、過去に執着し、過去に縛られて生きている人というのは "井の中の蛙"なのであり、過去から解き放たれて自由を得た人というのは "大海を知って『今というこの瞬間』という時を生きている蛙"なのです。
・・・・・・続く・・・・・・ (8月27日 木曜日 23:16 補足して更新)
* * * *
当ブログを閲覧して下さり、有難う御座居ます。 ランキングに参加中です。