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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

8/26(水)夜に更新: ブログ(108)『イエス-道』:(4)『マインドを停止する』

2015年08月27日 23時13分00秒 | イエス-道

このブログ(108)は、ブログ(107)からの続きです。



前回のブログ(107)イエス-道』(3では、井の中』という狭い情報の世界から飛び出して、『大海』という膨大な情報の世界に触れていく必要性について書きました。


今回のブロブ(108)イエス-道』(4)においては、これとはまた違った視点から観てみましょう。


たとえ現在、井の中に居たとしても、あるいは、大海』に触れる機会があったとしても、どちらであったとしても、とても大事なポイントがあるのです。このポイントをしっかり押さえておかないとせっかくのチャンスを生かせなくなってしまい、井の中』にそのまま留まってしまうか、たとえ大海』に触れる機会があったとしても、これまで長く住んでいた井の中』に逆戻りしてしまうことになるかも知れないのです。


そうならないための大事なポイント(=コツ・秘訣)というものを、今回のブログで扱ってみたいと想った次第です。



イエス-道』:(4)“マインド(mind)”を停止すること

 

 

イエス-道』の生き方の特徴は、“さばくな”というイエスの教えを基調にしている。

実は、“マインド(mind)”の働きを停止するということが、“さばかない”ということなのです。

逆に言うと、人が何かを“さばいている”時というのは、その人の“マインド”が働いている時なのです。

従って、このマインド(mind)”の働きを意図的に停止する術(すべ)を身につけることが出来た時に初めて、その人は“さばかないで生きる”という人生を送っていけるようになるというわけです。この時に、人はイエス-道』を生きていると言えるのです。


さらに言うと、人が自分のマインド(mind)”の働きを停止することができた時に、人々をゆるすことが可能になってくるのです。

逆に、その人の“マインド(mind)”が働き続けている間は、人々をゆるすということはとても難しいものなのです。


イエス山上の説教の中でいわゆる『主の祈り』を語った直後に、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイによる福音書6章14節~15節)と説いたのでした。


人は、ゆるそうと努力することで人々をゆるせるようになれるわけではないのです。「ゆるしなさい」と聖書に書いてあるし、そうすべきことをよく頭でもわかっているので、“ゆるすという行為を私は実行しよう”・・・と、その人が想ったとしても、現実にはそんなに簡単ではないのです。


これまで自分の生涯を通じて働き続けてきた“マインド(mind)”の働きを停止させるノウハウを学習し、そのコツを身につけていけるかどうかに全てがかかっている・・・と言っても過言ではないと私は想うのです。



ところで、イエスご自身が語った『主の祈り』の核心部分というのも、実は、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイによる福音書6章12節)にあると、私は観ているのです。この箇所が、『主の祈り』を祈る人によって実践されていないとするならば、その人が祈っている『主の祈り』は空虚なものになってしまうのであり、また、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように・・・」と祈っているのも、単に口先だけのものなってしまうのではないか・・・。


イエスも、実は、イザヤ書から引用して、次のように語ったことがあるのです。この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイによる福音書15章8節)と。



ところで、マインド(mind)”が働いている状態、あるいは逆に、マインド(mind)”の働きが停止している状態とは、一体、どのようなことを意味しているのでしょうか?   

8月22日 土曜日 更新


ではここで、フル回転で働いている人の頭のマインド(mind)”を停止させるというのは、どういう意味なのかを説明しましょう。


さばく人』というのは、自分の中で“過去からずーっと蓄積されてきた記憶情報のデータベース”だけに照らし合わせて、物事や状況、現実、現象、出来事、対人間関係など、諸々のことについて価値判断したり、好きか嫌いかを判別したり、善か悪かのいずれかに決めつけたりしてしまうのです。自分にとって未知な情報、出会ったことのない情報、もっとアンテナを大きく、高くすれば得られるであろう情報、何か月後か、数年後、数十年後になれば知ることになるであろう情報に照らしてみたらどうだろうか・・・と、考えようとしないものです。


現に自分の目の前にある問題や課題などの情報分析をしようとして、“過去から現在に至るまで自分の中に蓄積されてきた様々な記憶情報”から検索して、最終的な結論や答えを導き出そうとしたり、ジャッジを下そうとして、頭を忙しく働かせているのが、すなわち、マインド(mind)”が働いている状態なのです。


イエスが“さばくな”という場合、それは“今、起きている問題や課題、事件、事象、現実など”というものを“過去から現在に至るまでカバーしている自分のうちにあるデータベース”からの情報から切り離して今この瞬間をあるがまま認め、受け留めていくこと。そして、今の自分ならこんなふうに想うけれども、でも実際はそうでないかも知れないと考える“心のアイドリングや余裕”を残して置くということ・・・。今すぐ、最終判断をしたりせず、決めつけたりせずに、もっともっと幅広い情報収集に勤しみ、自らを進化成長させていくことに精力を注ぐことに集中し、やがてまた、ゆっくりと考えてみることにしよう・・・これが、マインド(mind)”を停止させておくということなのです。


このような頭の処理の仕方を身につけることができるようになると、“人をゆるす”ということは難しいことではなくなるのです。相手に関する“自分の中にある過去のデータや情報”に対してこだわっていない、執着していない、囚われていないので(これが、マインド(mind)が停止している状態)、もはや相手を“ゆるさない理由”などというものはどこにもないわけです。


これが、イエス山上の説教の中で「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さるであろう」(マタイによる福音書6章14節)と言われたように、まさに“人々のあやまちをゆるすということなのです。


世の中には、もちろん、いろんな人がいる。キリスト教の信仰を告白している、告白していないにかかわらず、“私は、他の人はゆるせても、あの人だけは絶対ゆるすことはできない。ゆるしたいとも思わない。ゆるすんだったら私は死んだ方がましだ。私は、自分が墓に入るまで、あの人をゆるさないし、ずーっと恨み続けてやる”なとと言って憚らない人もいるのです。このようなタイプの人の“マインド(mind)”というのは、“その人の目の前にある現実”と“その人の中で過去から蓄積されてきた情報”との間を行ったり来たり、忙しく駆けずり回っているわけです。だからこそ、自分の目の前にいる人をゆるすような心の余裕すらないのです。


ところで、“忙しい”という漢字は、心を亡くすと書きます。つまり、マインド(mind)”が『』と『過去』との間をあまりにも忙しく往来していると、人をゆるすという心の余裕を亡くしてしまうもの。


たとえ、人が“あの人をゆるそう”と想ったところで、“あの人をゆるさないといけない”と自分に言い聞かせたとしても、そんなに簡単に相手をゆるせるものではない。おそらく、“ゆるす努力”そのものは失敗に終わることでしょう。


もし人をゆるすことが可能になる道があるとすれば、それは“さばかないこと”です。言い換えれば、』と『過去』との間を行ったり来たりして忙しく働いているマインド(mind)”の働きを停止してしまうことなのです。そして、マインド(mind)”の働きを停止するためのスイッチを押せるのは、他の誰でもない、私自身であり、あなた自身なのです。人には、そのスイッチを押す自由も、押さない自由も与えられているのです。誰も、その自由を邪魔をすることは出来ないです。


もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ人への手紙3章13節


人をゆるせる人、マインド(mind)”の働きを停止することが出来た人というのは、ある意味において、“過去という時間”を超越した人でもあるのです。“今というこの瞬間、瞬間という唯一リアルな時”に自分の軸足をしっかりと置いて、自分の人生を確かに生きている人と言えるのです。さらに言うと、過去に囚われ、過去にこだわり、過去に執着し、過去に縛られて生きている人というのは "井の中の蛙"なのであり、過去から解き放たれて自由を得た人というのは "大海を知って『今というこの瞬間』という時を生きている蛙"なのです。


・・・・・・続く・・・・・・ (8月27日 木曜日 23:16 補足して更新 

 

  *       *       *       * 

 

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8/22(土)午後に更新: ブログ(107)『イエス-道』:(3)『井の中の蛙、大海を知らず』になるな!

2015年08月22日 16時05分11秒 | イエス-道

このブログ(107)は、ブログ(106)からの続きです


イエス-道』: (3). 『井の中の蛙、大海を知らず』になるな

 

イエス-道』における核心的な教えというのは、さばくな”にあると申し上げました。


この“さばくな”とは、言い換えれば、『井の中の蛙、大海を知らず』になるな ということを意味します。人は、往々にして自分のうちにある“微々たる情報や知識”や“これまでの経験を通して知り得たこと”があたかもパーフェクトであるかのように思い違いをしまうものです。その時に、人は“さばき始める”ようになるのです。また、他人をさばくことによって自分こそが“正義”であり、“善”であることを確認したくなるもの。


従って、“さばかない”ようになるためには、これまでの『井の中』という狭い情報の世界から飛び出して、『大海』という膨大な情報の世界を知る必要があるのです。私の人生においては、先ほども述べたSさんとの出会いが、『井の中』にいた私がやがて『大海』へと移行していった大きな“きっかけ”になったと想うのです。


ここで皆さんに、聖書に出てくる2人の人物を紹介してみたいと想います。それは、旧約聖書に登場するヨブアブラハムです。



の怒りが燃えなかったヨブ


ヨブという人物については、当ブログで何度も書きました。このヨブという人も、実は、井の中』という狭小な情報の世界から大海』という“広大な情報の世界”へと移行していった一人なのです。井の中』にいる間、ヨブは自分が長い間信じて、忠実に従ってきたはずのをも誤解し、また、自分の人生の中に割り込んできた“試練”の意義もなかなか解明することが出来なかったのでした。


このヨブがこれまで住んでいた井の中』を飛び出して、大海』を知る“きっかけ”を作ったのが、神ご自身だったのです。このことを描写しているのが、ヨブ記38章~41章なのです。地球上の生き物、自然界、天体などにおける神の創造の数々のわざをヨブの心鏡に映し出していったのでした。かくして、このような膨大な情報(=大海に触れることになったヨブの目からはこれまで長い間にわたって視界を遮っていた“”(=心の覆い)は完全に取り除かれていったのでした。


この時に告白したヨブの次の言葉がきめ手です。


わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ記42章5節~6節


ヨブが持っていたに関する知識や情報というのは、人から伝え聞いたもので、それをもとにを信じ、忠誠を尽くしてきたようですが(そのために善悪の固定観念という“井の中の狭い世界”の中で生きていた)、と論じている間にヨブの目が“大海”へと大きく開かれ、が実際にはどのようなお方なのかについても正しく、あるがまま観ることができるようになっていったというわけです。その時に、試練という課題もおのずと解けていったのです。だから、ヨブの人生から試練は役目を終えて消え去っていかざるを得なかったのでした。


ここでヨブ記42章7節には、面白いことが書いてあります。それは、主なる神がテマンびとエリパズに言われた言葉です。


わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。


が語ったこの言葉には、どのような深い意味があると、皆さんは想いますか


ここでの怒りは、エリパズを含む3人の友に向かって燃えると言われていますが、ヨブに対してはどういうわけか燃えていないというのです。その理由は、エリパズを含む3人の友について正しいことを語らなかったからだと。一方、ヨブは、について正しいことを語ったからだと。誤った固定観念で人の心ががんじがらめに縛られていると、のことを語っていながらも、それは“真実”とかけ離れた内容、似ても似つかぬものとなってしまっているのです。


ヨブ自身も耳から聞いたわずかな情報をもとにについて3人の友人たちと論争している間は、ヨブですらについて正しいことを語っていなかったのです。でも、ある時点でヨブの目が『情報の大海』に開かれていった時に、についての真実が観え、自分の試練という課題答えも観えてきたのでした。


寛容な愛の方ですから、その時、を誤解していたヨブの“過去と、をあるがまま観て、認めて、受け入れているヨブの“をリンクさせずに、むしろ切り離して、過去をゆるし、過去のことはなかったかのように“今、この瞬間ヨブ”をは受け入れているということなのです。だから、ヨブに対しては怒りは全く燃えていなかったのです。これが、なのです。これが、寛容という愛なのです、これを、の“罪のゆるし”とも呼ぶのです。罪のゆるしとは、“過去のことはすでに過ぎ去ったもの”として、囚われず、こだわらないこと。さらにもっと重要なことは、その人の過去のデータをきれいに浄化し、清めて、デリートしていく(=取り除いていく)処理も含まれているのです。これが“さばかない愛”なのであり、これこそゆるしのと言えるのです。 


このことを悟った人というのは、次に聖句のありがたみを身に染みて実感できるのです。


不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。

ローマ人への手紙4章7~8節


・・・キリストは、・・・ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。

ヘブル人への手紙9章25節~26節


だからこそ、自分が神にゆるされたありがたみを心に抱きながら、人をもゆるしていけるのです。


もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、を加えなさい。は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ人への手紙3章13節~14節



信仰によって義と認められたアブラハム


さてヨブの次に、アブラハムという人物について、観てみましょう。聖書の中にある福音における核心部分というのは、やはり、『信仰によって神に義と認められる』という教えです。そして、使徒パウロは、アブラハムという人物をその代表例としてあげているのです(ローマ人への手紙4章1節~25節を参照)。


では、義と認められる信仰”というのは、一体、どのような“信仰”なのでしょうか?


使徒パウロによると、アブラハムの“信仰”について、次のような説明が・・・。


アブラハムは、・・・この、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される信じたのである。は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお信仰は弱らなかった。は、の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光をに帰し、はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、義と認められたのである。」(ローマ人への手紙4章16節~22節


それでは、自分の老いた体、妻サラの不妊症の体という現実・現状をよく知っていながら、アブラハム信仰は、なぜ弱らなかったのでしょうか? 不信仰に陥らなかったのでしょうか? 


アブラハムが闇雲に信じたのでも、あるいは、がむしゃらに信じたのでも、信じるという努力を積み重ねていったせいでもない・・・と、私は想っているのです。


アブラハム信仰が強められ、確信へと変わっていったのは、さばくことをしなかったからだ・・・というのが、実は、私の観かたなのです。人がさばいてしまうのは、『この世の常識、既成概念、固定観念などの情報』に心が囚われてしまった時なのです。そして、そのような『井の中の蛙』という狭小な情報の世界観のみで物事をあ~だ、こうだと思い込んだり、決めつけてしまうことが、“さばく”ということなのです。義と認められたアブラハムの“信仰”をよくよく観ていった時に、アブラハム信仰というのは“さばかない信仰”だったところに注目すべきです。


さばかない信仰”ということは、“現状否定や現実否定”とは違います。つまり、目の前の現状や現実を見て見ぬふりをすることでもないのです。「彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらもなお信仰は弱らなかった」と、アブラハムのことを使徒パウロは書いているのです。言い換えると、さばかない”ということは、この世の常識、既成概念、固定観念などの情報』を全く無視するということではなく、それはそれとしてしっかりと認めつつも、それが全てだ、唯一のものだ・・・というふうには考えないということ。


さばかないという視点からアブラハム信仰というものを観ていった場合、私が特に注目している聖書の箇所というのは、創世記15章1節~6節のあたりです。特に、以下の箇所です。


そして、(=アブラハム)を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。またに言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。アブラム(=アブラハムの前の名前)を信じた。はこれを義と認められた」(創世記15章5節~6節


アブラハム信仰義と認める前に、を外に連れ出して、の想いを天にある無数の星に向けさせたのは、ヨブのケース(ヨブ記38章~41章を参照)とそっくりです。つまり、はこのことによってアブラハム心の目井の中の蛙』という狭小な情報の世界から連れ出して、“既成概念や常識を超越した無数の情報”が溢れている『大海』へと開かれたということなのです。このように、心の目の視野が『大海』へと広く開かれていく時に、実に、“信仰”は瞬く間に強められ、“確信”へと変わっていくものなのです。そして、そのような“信仰”が義と認められるというわけです。


どうか、わたしたちの主イエス・キリストの栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたがたに賜わってを認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように・・。」(エペソ人への手紙1章17節~18節


まず自分の目から取りのけるがよい。そうすれば、はっきりと見えるようになって・・・。」(マタイによる福音書7章5節


信仰義と認められる人というのは、心の目が開かれた人でもあるのです。すなわち、『井の中の蛙』という“この世の常識・既成概念・固定観念などといった狭小な情報”に照らしてさばくことをしない人、膨大な情報が溢れている『大海』へと目が開かれて、その結果、自分の心鏡に映し出されてくる“既成概念という枠組みの外側にある目に見えない事実”をあるがまま認め、受け入れた人なのです。を偏見や先入観で誤ってさばくことをせずに、むしろ、自分の心の目の視界を妨げていた“”が取り除かれていった結果、にある真実・輝かしい栄光ハッキリと見えるようになって、それをそのまま認めて受け入れていった人こそが、義と認められる人なのです。


信仰による義認の教えというのは、実は、イエス山上の説教でも説いている「さばくな」という教えが大前提になっているんだ・・・・ということを私はこのブログを通じて申し上げたいのです。


・・・・・・ブログ(108)へと続く・・・・・・ 8月22日 土曜日 16:05 更新

    

 

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8/17夜に更新: ブログ(106)『イエス-道』とは?

2015年08月19日 21時40分38秒 | イエス-道

イエス-道』とは?


 

私は長い間、医療分野の仕事を生業とし、さらに、エネルギー分野の治療家として臨床にも実際に携わっている者です。それとは別に、私はこれまでの生涯を通して、個人的に、独自の飽くなき真理探求もやってきたのでした。あたかも、それが私のライフワークでもあるかのように・・・。


聖書を含めて、他にも様々な他のスピリチュアルな分野の情報にも触れてきました。また、私に“気づき”をもたらしてくれた特殊な能力を持った貴重な人(Sさん)との出会いというのは、私にとって大きな転機となりましたそのSさん口から語られる数々のことを聴いた私は強いカルチャーショックを感じたのでした。後から振り返ってみると、その出会いというものは偶然とは想われない。もしかしたら、私のためにわざわざグットタイミングで初めからセッティングされていたものではなかったのか・・・と想えてならないのです。Sさんとの出会いがきっかけとなって、また、これまで私の中で蓄積されてきた情報と、その後に(つまり、Sさんが去って行った後に)さらに積極的に収集していった様々な情報も加わり、それらが私の中で徐々に整理されてきて『普遍的で共通した教え、あるいは、盲点とも言える教え』というものが自ずと見えてきたのでした。しかも、その重要な教えは、イエス山上の説教の中でもしっかりと語られていたのです。 そのような教えを、『従来のキリスト教』と一線を画するために、あえて『イエス-道』と私は名づけたというわけです。従って、イエス-道』においては、イエスが語った“山上での説教”を最も重視し、注目しているのです。


それを皆さんとシェアしたいと想いつつ、機会がある毎にブログを書いているというわけです。


このブログは、『既成のキリスト教、伝統的なキリスト教』における宗教的な教えを皆さんにお伝えしようとして書いているのでは全くありません。もしそのような“従来の視点から捉えた教え”について知りたければ、ネット検索をして、それらのサイトを見つけて個人的に学んで頂ければいいと想うのです。


私は、イエスが語った“最も重要な教え”そのものに照準を当てて、その教えの神髄を皆さんとぜひ共有したいと想って当ブログを書き続けているというわけです。


すでにイエス・キリストを信じている人々はもちろんのこと、さらにキリスト教と特に全く関わりを持っていない人々も同様に当ブログを気軽に読んで頂きたいと想うのです。


また、皆さんが現在 何を信仰の対象にしていようと、私はそれを否定しようとは想っていません。また、皆さんを特定の宗教に導こうとも想ってはいないのです。むしろ、宗教という枠組みを超越して行ってもらいたと考えているわけです。数多くある宗派や教派といったそれぞれの枠組みというものを越えた普遍的な教え核心的な教えというものをイエス山上の説教の中に見い出していただきたいと想うのです。


さて、イエスの重要な教えのキーワードは、重要性から観た時に、“信じる”とか“祈る”とかではなくて、むしろ、“さばくな”ではないか・・・と私は想っているのです。 この“さばくな”というイエスの教えは、“盲点”と言うべき教え。 もちろん、教会で語られる説教で“さばくな”というイエスの教えが語られることは、もちろん、時々はあると想う。でも、それはキリスト教会の重要な教理や教義とはなりにくいもの。つまり、周辺的な数々の教えの一つとはみなされてしまうのです。聖書の多くの読者にとっても、さらっと軽く素通りされてしまうイエスが語られた単なるアドバイスの一つと考えられてしまうおそれがあるのです。


イエス-道』においては、この“さばくな”というイエスの教えこそがまさに中心的な教え、核心的な教え、最も重要な教えではないか・・・と観ているわけなのです。


今回のブログでは、このイエス-道』を、さらにいろいろな角度から詳しく観ていきたいと想っているのです。

8月16日 日曜日 22:52 更新8月19日 水曜日 21:03 補足更新



イエス-道』: (1). 無くてならぬものは一つだけ


かつて、イエスがある村に入られた時に、マルタという女性の家に迎えられたことがありました。ところが、マルタの妹であるマリヤは接待の手伝いを一切せずに、イエスの足元にすわって、ただじーっと御言葉に聞き入っていました。接待のことで忙し過ぎて心を取り乱していたマルタは、その時に、イエスに進言したのでした、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」と(ルカによる福音書10章40節)。


それに対するイエスの答えは、「・・・しかし、無くてならなぬものは多くはない。いや一つだけであるマリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」(ルカによる福音書10章42節)でした。


私たちが、イエスが語った山上での説教に耳を傾けていくと、神の御旨が沢山あるように想えてしまい、あれもしないと・・・これもしないと・・・実行しなければならないことが山ほどある・・・と想ってしまい、それらをまじめに実行しようとして、自らを忙しくさせ、心を取り乱してしまうことになってしまうかも知れません。


でも、イエス山上の説教で語られた数々のメッセージをふるいにかけていった時に、最後に残る大事なメッセージは多くはない・・・と私は想うのです。いや、一つだけに絞り込めるのではないか・・・。それが、「人をさばくな」ということ(マタイによる福音書7章1節)。ここに、神の御旨が凝縮されているのでは・・・と、私は観ているわけです。つまり、「人をさばかないということ」を実践していくことが、すなわち、神に御旨を行なうこと・・・と言えるのではないか。


従って、どんなに聖書に精通していたとしても、長年にわたってキリスト教を信じていると自ら想っていたとしても、何十年もキリスト教会に在籍し、かつ、まじめに教会に通い、聖書を学び、多額の献金を捧げてきたとしても、あるいは、聖書に書いてある戒めや善なる行為や義なる行為にどんなに励んだとしても、もし“無くてはならない一つだけ”を見落とし、見失い、実践していなかったとしたら、これまでの長年の努力が水の泡になってしまうのではないか・・・。砂の上に建てられた家に似ているのではないか・・・(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。


さて、ここでマルタイエスに進言した言葉を分析してみると、面白いことがわかります。マルタは、実に、イエス妹のマリヤの二人を“さばいていた”のです。マルタだけが接待のことで忙しくしているのに、妹のマリヤは無神経にも何も手伝おうともせず、イエスの口から語られる言葉に聞き入っているだけ・・・。さらにマリヤに接待の手伝うように促すこともしないイエスもまた、なんて無神経な・・・とマルタは想っていたことでしょう。姉のマルタは、自分の行動を妹のマリヤの行動を比べた上で、不公平感を感じ、不満が心の中にジワジワと鬱積していって、イエスにそのように進言したのでした。このような思考のプロセスも、“さばいている”人の特徴と言えるのです。

 

もし、イエスが説くさばくな」を実践していくという普遍的、かつ、重要なメッセージを山上の説教から消し去り、また、聖書全体からも消し去ってしまったとしたら、キリスト教という教えは形式化し、空虚なものになり、空洞化し、崩壊してしまうのではないか・・・と、私は想っているのです。


まさに、聖書の教えの中で、“無くてならぬ教え”というものがあるとすれば、それはさばくな」というイエスの教えではないか・・・と、私は考えるのです。

8月19日 水曜日 21:28 補足更新



イエス-道』: (2). 信仰を確立するもの

 

ところで、使徒パウロは、ローマ人への手紙3章21節~31節の中で、“イエス・キリストを信じる信仰による神の義”の教えを論じている。ここで、神の義、罪、神の栄光、神の恵み、イエスを信じる者を義とされる、行いの法則、信仰の法則・・・といった言葉を使って、いわゆる『信仰による義認』の教えを説明しようとしているわけです。


そして、最後の方でパウロは『律法主義者』に誤解を招かないためにも、次のように述べているのです。


すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それ(=信仰)によって律法を確立するのである。」(ローマ人への手紙3章31節


ところが、イエス-道』における観かたは、この使徒パウロの観かたとは異なっているのです。つまり、イエス-道』は、“信仰至上主義”や“信仰優位論”というような立場ではないのです。イエス-道』の核心部分、コアの部分、神髄というのは、「信仰」ではなくて、あくまでも「さばくな」というイエスの教えなのです。


そこで、私も、『信仰主義者』に誤解を招かないためにも、あえて、次のように言わなければならないのです。


すると、“さばくな”という教えのゆえに、わたしたちは信仰を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それさばくな”という教え)によって信仰を確立するのである。」(イエス-道)


つまり、イエスの「さばくな」という教えは、信仰そのものを無効にしたり、無視したり、軽視したり、破壊したりするものではなく、むしろ、信仰自体を確立するもの信仰の法則を正常に働くようにさせるものなのです。信仰というのは“肉眼では見えない事実・真実・真相・真理”を観て、認めて、捉えていく“心の目”と言えます。そして、イエスの「さばくな」という教えは、その心の目”の視界を遮っている“”(=覆い)を取り除くことによって、はっきりと見えるようにすることなのです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。・・・・・


・・・・・・ブログ(107)に続いています・・・・・・ 8月19日 水曜日 21:40 改訂更新

 

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