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朝日記210406 (続き 2)翻訳 Alexius Meinong アレクセイ・マイノング

2021-04-06 16:03:38 | 絵画と哲学

 

朝日記210406 (続き 2)翻訳 Alexius Meinong アレクセイ・マイノング

  1. 生涯と業績

出典:  スタフォード哲学百科 Alexius Meinong

First published Mon Dec 8, 2008; substantive revision Tue Feb 26, 2019

Translator; Yasumasa Arai 2021-4-5

 

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1.生涯と業績 Life and Work

1.1 年譜 Chronology

1.2 Meinongの生涯と業績  Meinong’s Life and Work

~~~~(本文)~~~

1.1 年譜 Chronology

(1853)

Born July 17 in Lemberg, former capital of the Austrian crown land Galicia (before and after the Habsburg period Lwów, Poland; today Lviv, Ukraine). Youngest of the six children of Anton Meinong von Handschuchsheim (1799–1870), and Wilhelmine, née Sófalví (1817–1909).

(1862)

Meinong comes to Vienna; first as a private student, then as a public student for his high school education at the Academic Gymnasium in Vienna (1868–1870).

(1874)

Meinong receives D.Phil. in History as major and German Philology as minor at the University of Vienna. His doctoral dissertation is on the history of Arnold of Brescia [Zur Geschichte Arnold’s von Brescia]. Franz Brentano is one of Meinong’s examiners in his philosophical doctoral examination (“Philosophicum”).

(1875)

Meinong attends philosophical courses held by Brentano for four semesters; before this, for two semesters, he also attended courses on economics held by Carl Menger.

(1878)

Meinong earns a Habilitation in Philosophy at the University of Vienna with the thesis, supervised by F. Brentano, Hume-Studien I. Zur Geschichte und Kritik des modernen Nominalismus, and becomes Privatdozent there.

(1882)

Meinong becomes Professor Extraordinarius at the University of Graz.

(1889)

Meinong is appointed Professor Ordinarius at the University of Graz; stays in this position until his death.
Marriage to Doris Buchholz (1865–1940).

(1892)

Son Ernst born November 15 (deceased 1940).

(1894)

Meinong founds Austria’s first psychological laboratory.

(1897)

Meinong establishes the Philosophical Seminar at the University of Graz.

(1898)

Meinong gets an offer from the University of Kiel, but he rejects it and remains in Graz.

(1904)

Meinong edits Untersuchungen zur Gegenstandstheorie und Psychologie, a composite publication of the so-called Graz School of experimental psychology (Gestalt psychology) and theory of objects.

(1906)

Meinong becomes Corresponding Member of the Austrian Academy of Science.

(1914)

Meinong rejects the offer to become professor at the University of Vienna.
Elected as Real Member of the Austrian Academy of Science.

(1916)

Appointment as Hofrat [Councilor].

(1920)

Meinong dies November 27 in Graz.

(1933)

John Niemeyer Findlay receives his D.Phil. at the University of Graz with his book Meinong’s Theory of Objects as a doctoral dissertation — supervisor and first examiner: Ernst Mally, a former disciple of Meinong and Meinong’s successor in Graz.

(1968–1978)

Publication of the Complete Edition of Meinong’s works in seven volumes and one supplement.

 

 

1.2 Meinongの生涯と業績  Meinong’s Life and Work

Meinongの父はオーストリア陸軍大尉であった。その家系は南西ドイツからのものである。Meinongは彼がドイツ人であることにこだわりをもっていてドイツ民族主義の政治団体に加わった。一方、彼はオーストリアにたいして忠実でありGeorg von Schönererの極右の汎ドイツ主義グループには一定の距離をおくことを旨としていた。

Meingongは音楽の関わり合いに理論的にも、演奏的にもつよい性向を示した。彼自身の演奏としてピアノとバイオリンはプロフェッショナルのレベルであり、室内楽を演奏した。また作曲は特に歌曲に長じており、さらに音楽理論に深い関心をもって関わったのであった。たとえばGuido Adler、 Christian von Ehrenfels、Stephan Witasek、そしてJoseph Marxととの接触があった。また彼はCarl Stumpfの音楽心理学Tonpsychologie, Vol. I and II)に書評を書いている。

 

 

Meinongは生まれつき半盲目のあってそのための困難を若いころからうけいれていたのであったが、その度合いは徐々に悪化し最後は完全な盲目に耐えることになった。事実、彼の妻のようなひとたちが彼に読み助けることになった。したがってその時代の文献類を熟知するのは困難を極めた。このような彼にとって不利な状況にあって、彼は社会、政治および文化において自身を公共での講演や学会への参加などに晒すのを避けたにもかかわらず、依然として、同時代での学術社会において然るべき影響を発揮していたのであった。

 

 

Meinongの偉大なる業績はかれの志の高さと忍耐力、それに加えて勤勉であることと研究に対する集中力によるものであった。彼の家庭生活はよくまとまっていて、妻Dorisは家事を立派に守り、このことが彼の業績に資しているものであった。Meinongは時代が大きく展開する世紀の変わり目にあって、典型的なブルジョワ階級の学者であった。生涯を通じての友人はウィーンを中心にあって、音楽学者Guido Adler、Christian von Ehrenfels, Alois Höfler, そしてAnton von Oelzelt-Newinであった。Grazでの教授職にあって多くの弟子を育てたがそのなかで Eduard Martinak,  Stephan Witasek,  Rudolf Ameseder,  Vittorio Benussi,  Ernst Mally,  Joseph Marx, Franz Weber,  Ferdinand Weinhandl, そしてFritz Heiderを上げることができる。

 

 

彼はローマカトリックであったので、かれの初期の研究にカトリック教会への批判と距離を置いていることをみることができる。

Arnold of Bresciaと同じく、Meinongは、階級廃止による政治的平等性の理念と、これとおなじく宗教と世俗問題の分離を主張している。

さらにMeinongはオーストリアでの高校過程での宗教教育が、言論の自由を制限すべき内容のものであったのでこれを不適切であることを批判したのであった。Meinongは、宗教を僧侶が教えるのではなく歴史家がかわりに、その発展の歴史と宗教的必要性を満たす道筋を教えるべきであると提案したのであった。

 

 

かれの初期でのエッセイである“Hume Studies”, I (1877) and II (1882)“ 「ヒューム研究」は彼としての歴史的志向の調査研究であるが、副題に 写像foreshadowとしてあるが実質は批判とシステム的取り扱いについてであった。これはウィーンでの彼の指導教授であるFranz Brentanoの影響のもとで書かれているがかれの傾向をよく表すものであった。つまり彼は、英国の経験主義を志向しており(それはカント主義やドイツ観念主義よりも強いものであった)、そのことはその後のかれのobject theory「対象理論」の展開を十分に予見できるものであった・

 

 

Meinongの最初の著述であるOn Philosophical Science and its Propaedeutics (1885)はかれの教鞭活動とおなじくかれの研究を理解する中心的な役割をもつものであった。

この本の目的は政府の文化教育省が高校での哲学(心理学、倫理学、そして哲学)[1]の時間を削減する指針に対する批判するものであった。

しかし、かれのこの著作は、彼の哲学および心理学のみずからの見解に関する演習課題的なエッセイであるとみることができる。

心理学および哲学は既存の知識や適用理論への適用では成り立ちえないのであり;実験を行う事や議論にかかわることによってなされるべきものであるとした。

 

 

知識の領域での非確実性は、邪魔ものとして考えるべきではなく、むしろ挑戦への方向性をあたえるものであり進歩をもたらす好機であると考えるべきであるとした。この実用的思考の哲学と科学がMeinongをしてGraz大学の研究制度体制としての心理学研究所と哲学セミナーを提案せしめ確立にいたらしめたのであった。彼は哲学を専門とする大学人として学生や、友人および同僚とともに哲学案件を論ずる特別機会を設け、それを自らへの義務として科したのであった。

 彼の著述Psychological-Ethical Investigations in Value Theory (1894)「価値理論における心理学‐倫理的研究」では、主観派の経済学者Carl Menger およびFriedrich von Wieserとその価値理論と論をたたかわせたのであった。かれは基本的に主観論者の立場[2]をとり、余剰効用理論[3]を批判し、また然るべき方法によって修正を加えていった。

 

 

 

彼は、価値について、その範囲として経済的価値を越えて、一般化に向かい、他の公理的領域、とくに倫理学へと適用していったのである。彼はまた、倫理性が全体としての価値-非価値の区分[4]によって決定するという理念を詳細に展開したのであった。

 価値理論はOn Emotional Presentation (1917)(「感情的表現」)およびその後の研究で、Meinongは彼の対象の理論に価値の心理学的分析を結合して目的論的視点[5]をとるようになった。価値と規範norms (“oughts”, [Sollen])は特殊な対象とみるべきであること、そしてそれらは人称的価値であるのみでなく非人称的価値のものであるとしたのである。[6]

 

Meinongの心理学的研究は、心理学的方法論およびBrentanoが「記述的心理学」[7]と呼ぶものに多く関わるものであった。これは、人間内面を家と考えたときに、さまざまな家具に例え、その目録表[8]を表すようなものである。これに、対抗する「発生心理学」[9]が、人間内面(および生理学的)に起承するもの(たとえば Antonelli 2018: 3–100) を実験ベースで研究していくに比してより方法論的であるといえるものであった。

Twardowski (1894)のシミュレーションについては一定の批判的な距離をとってはいたが、Meinongは記述的-心理学的な案件を認識論ならびに存在論課題と結合してとらえたのであり、その結果が彼のエッセイ“On Objects of Higher Order and Their Relationship to Internal Perception” (1899)「より高次元対象とそれらの内的感知への関係性について」によって記述されたのであった。

 

彼の成熟した認識論的見識は、非懐疑的であり、また誤謬受容的なものであることが知られる( 1906, 1910, and 1915)。

彼は証拠理論をBrentanoの論である(直接‐間接)[10]および(先見的‐後見的)[11]の区分という点で)を判定の基礎として展開した。しかし、彼は1886年にすでに「仮想の証拠性」[12]という概念をBrentanoの「確定への証拠性」[13]に対して加えたのであった。これについては師のBrentanoは強く反対したものであった。

 

 

彼の後期での仕事(1902; 1904b; 1906; 1907; 1910; 1915; 1918)は種々の先言的[14]哲学教訓が織りなしており、それはとりあげる主題への強調の差異を見るものである。

専門書のトピックは狭い範囲に書かれてはいる;(On Assumptions (1902, 1910); On Possibility and Probability (1915); On Emotional Presentation (1917))が、彼自身は広い範囲に目を向けるものであり哲学の完全システムを目指すものであるといえる。

 

そのひとつの著作が“The Theory of Objects” (1904b),「対象の理論」であり、それは一種の態度表明でもあり、弁明的ではあるが実利的に綴られた著On the Place of the Theory of Objects in the System of Sciences (1907)「科学のシステムにおける対象の理論の位置について」であった。

 

Meinongは1918年に彼の最後の大作である―普遍的起因性の法則を証明する試みを出版した。それはすべての起因(状態、事態)は例外なく起こるべくして決定されたものであるという原理である。彼はこの原理に二つの付言をしている。

第一に、彼は論ずる;Hobbes と Brentanoの線に沿って、非原因的な事態というのは永久に結果としてあり得ないものであること。第二に彼は 彼自身の考えである先見的証明a priori proofを採用する、それはものごとが決定するのは、例外なく事の事態a state of affairsなくして起こりえないのであり、彼はそれを「含意」“implicans” (1918: 45–66; cf. Hartmann 1920)と呼んだのである。

 

Meinongは決定主義を支持したが同時に整合主義をも守ったのである。それは決定主義および非決定主義でないことが、我々に(責罪もしくは利益性など)の責任の帰着先の人称性personsを意味することになるからである(1894, §68; 1918: 92:「自由は非決定でないことであり、そして決定であることは強制や強要であってはならない。」 “Freedom is not indeterminacy, and determinacy is not compulsion or coercion”)

 

彼の生涯の終焉期に彼はまだ十分な知的な整理をしていない短い自伝“A. Meinong” (1921a)を書いている。さらなる伝記的な記述はDölling 1999が、そして最初のMeinong伝記としてDölling 2001, Eder 1995, Kindinger 1965, Lindenfeld 1980 (Chapt. III), Raspa 2016.が書いている。

 

 

 

[1] Philosophical Propaedeutics [philosophisch-propädeutischer Unterricht],

[2] subjectivist approach

[3] theory of marginal utility

[4]  value–disvalue [Wert–Unwert] distinction

[5] an objectivist point of view

[6] personal values but also impersonal ones

[7] “descriptive psychology”

[8] inventory of the mental furniture

[9]  “genetic psychology”

[10] “direct–indirect”

[11]a prioria posteriori

[12] “evidence for presumption” [Vermutungsevidenz]

[13] “evidence for certainty”,

[14] aforementioned

 


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