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朝日記210406 (続き 7)翻訳 マイノング 5.4  非実在対象―Russell 対 Meinong

2021-04-06 17:24:32 | 絵画と哲学

朝日記210406 (続き 7)翻訳 マイノング 5.4  非実在対象―Russell 対 Meinong

 

5.4  非実在対象―Russell 対 Meinong

5.4.1  Russellの批判

5.4.2 Meinongの答え

5.4.3  核的/特別核的区分とモーダルモーメント

5.4.4 Meinongの近代論理と意味論でのインパクト

~~~本文 ~~~~

 

5.4  非実在対象―Russell 対 Meinong

Beingless Objects — Russell versus Meinong

 

5.4.1  Russellの批判

Russell’s Criticism

 

Russell (特に 1905a;  1905b および1907も見よ)は、Meinongの理論にもっぱら反対して次の二つをinconsistent(;不整合性)の原因とした。 

  • 不可能な対象についての提案が矛盾を起こしたこと(例、“丸い四角は丸くそして丸くない”)
  • existent present(;現在存在する)フランス王/丸い四角はnot exist(;存在しない)にかかわらず、ひとはまた、(キャラクター化原理[1]を使って;本論Section 5.1 )、彼/それが存在すると結論しなければならなくなる。

 

Russellは、Meinongのinconsistencies(;不一致性)を救いだすために、Russellのtheory of descriptions(;記述理論)を適用することができると考えた。この理論は、確定した(そして非確定した)記述を不完全シンボルとして扱うことであった。このシンボルそれ自体は、存在性定量化と述語化を救うことを狙って、除去されるべきものとして導入するものであった。 

 

Russellによれば、問題自体は言語の文法形式として常にその論理形式を示している、そしてもしある表現があるものを意味するなら、それが意味するあるものは常に実在しなければならないという誤った見解の筋を含むものである。

しかし “そのようなもの”[2]と表現して、それが見えるような表現になっている文節に記したとすれば、それらの表現は、事実としては、そのようなものを意味するものとはならない。

それは、ある表現をするに、そのための参照表現を使うことによって、その意味するものが、彼の理論によって論理的違反にいたらしめることになり、結果としてMeinongは悪しき仮定をしたことになるというものであった。

 

5.4.2 Meinongの答え

Meinong’s Answers

Meinongは 反対(1)に答えるに、実在しない対象が非矛盾則に従うべきであるということを否定する―それが適用されるのは実際的および可能的な対象に限られるとしたのであった。

これに反して、不可能的なものについて考えることは、非矛盾則のsuspension;保留‘宙づ

り’)を必要不可欠にする。

Meinongは、後に上記で述べた区分をアッピールする、これは広義と狭義での否定との区分(5.2.1)であるが、彼の意味するところは、伝統的な、存在論的な意味での非矛盾則のみを意味していたのであり、一方、それの論理的、提案的な形式においては非矛盾則は適用外であろいことを証明したのである(1907, §3: 16)。

 

Meinongのキャラクター化原理によると丸い四角は丸い、そして非-丸いとして[3]両方ともis(;実在)である、しかしそれは次のことのケースではない;丸い四角は丸い、 そして(ii)丸い四角は丸くはない(それは、 丸い四角が丸いということのケースではない)

その三角形はgreen;緑でもなく、non-green;非-緑でもない、しかしそれにも関わらず、その三角形はgreen;緑か、not green;緑でない。

そのようなケースにおいては、Meinongは predicate negation(;述語での否定)

A is non-B”が、文章での否定“Not (A is B)”と等価であることを受け入れていない。

 

 丸い四角は丸いそしてその丸い四角は丸くないとなるのである(すなわち、丸い四角は丸いということのケースは実在でない)

“(~F)x ↔ ¬(Fx)”という二つの否定への等価性は。Impossibilia(;不可能的な対象)とincomplete(;不完全対象)には保持されないが、actual(;実際的)およびpossible(;可能的な対象[4]にのみに保持される、ここでは“possible”は可能性が完全性と関係することへのつよい感覚のなかで捉えられるように見えるのである。

“完全対象のみが可能であるについては、”Meingongは1910 (1978: 228)以来の講義ノートでのべている。

 

(ひとつの問題がいまも残されている、上の 5.2.1 をみよ;、たとえば、Swanson 2011は、Meinongの狭い否定と広い否定との区分を批判していて、Russellの考えの方に傾き、(Neo-)Meinongian viewを展開している)。

 

Meinongの反対(2)への答えは次のような区分で構成される、so-being(;斯く実在)を決定するものとして“being existing” [Existierend-Sein](;存在化しつつあるもの)を上げ、一方これと対する being(;実在)を決定するものとして “existence” (“to exist” [Existieren])(;存在性)を上げ、双方の違いを強調したのであった。

 

Meinongの区分である so-being(;斯く実在)の判断とbeing(;実在)との判断との間の区分は、非差異原理と結びついていている、これは、being(;実在)はobject’s nature(;対象の自然性)としての(so-being;斯く実在)に属さないというものであり、カントの教えるところのbeing(;実在)はnot a real predicate (;現実を示す述語ではない)[5]ということを思い起させるものである。 

Meinongはその意味でontological argument(;存在論的論議)には同意しなかった、そして“being existing”(;存在化しつつある)とは so-being(;斯く実在する)を決定するis (;実在)のであることを主張した。[6]

さらに、あるしかるべき感覚において、対象としての“existing golden mountain”(;存在化しつつある黄金の山)を、適正として受け入れられることができること、そして、あえていえば、対象としての“existing round square,”(;存在化しつつある丸い四角)さえも、ここでは“existence”(;存在性)として、つまりbeing(;実在)の決定としてではあるが、その単一のものに帰属する[7]のではなく、他のものに帰属するものであると主張したのであった(1907, §3; 1910, §20: 141 [105])。

 

言い換えれば、キャラクター化原理[8]によると、existing(;存在化している)丸い四角および存在化している黄金の山(これをRussell1907は“existent”(;存在化されたもの)と表現した)。existing (existent)(;存在化しつつある)と表現されたのであるが、しかしそれにもかかわらず、それらはexist(;存在)しないのである。 

Russell (1907, 439)は、“being existent” (;実在化する存在性)ということと “to exist”(;存在する)ことにいかなる異なりを見ることができなかったのである、 従って  “no more to say on this head.”;テーマとしてこれ以上語るべきものはならないとしたのであった。これをもって、nonentities;非実体性の公開議論は終わりに至ったのであった。

 

5.4.3  核的/特別核的区分とモーダルモーメント

The Nuclear/Extra-nuclear Distinction and the Modal Moment

“being existing (existent)”;存在化しつつあるもの と“to exist”;存在するとの間に実に、違いがあるということは、MeinongがMayからの参考としてその区別をあきらかにしたのである、その区分とは二つのproperties(determinations)(;物性(決定))との間の区分である;nuclear properties(;核的物性)に対するextra-nuclear properties(;特別核的物性) [9](1915, §25)である。

 

ある対象のnuclear properties(;核的物性)とは、いま与えれている対象が自然性をキャラクター化(特性化)するときのその物性である―われわれはこれを“ordinary”通常物性とよぶが、対象についてのconstitutive(;構成的)およびconsecutive(;帰着的)な物性である―、一方、対象のextra-nuclear properties(;特別核的物性)はその自然性からくる構成的でもなく、帰着的でもない物性である。 

 

特別核的物性のあるものはその対象の自然性の上にsupervene(;;到来させる)こともあるし、しないこともある。

キャラクター化原理によると、丸い四角は、たとえば、それは丸でありそして四角である;それは核的物性が丸いbeing(;実在)であり、そして四角いbeing(;実在)であるという物性によって決定されるのである。

 

一方、誰かによってBeing thought of(;考えられうるもの)は、丸い四角は特別核的物性としてみることができる。ここでの丸い四角はそのうえ[10]にsupervene(;到来させる)ものではない。

 

にもかかわらず、丸い四角はsupervene(;到来された)決定として次の物性を持つ;

(核的)物性;丸によって決定され、

二つの(核的)物性によって決定され、

物性;赤によって非決定とされ、

不完全性とされ」、

矛盾的に決定される、

そして

非実在性を所有するということ。

同様に、その対象  a red (thing) [ein Rotes](;ある赤い(もの))は まさに赤というis(;実在)であるが、これはnuclear determination(;核的決定)として赤をもつ、そして その対象を、なるがゆえに、“simple object”(;単純対象)とぶが、その単純性とはits supervening extra-nuclear determinations(;特別核的決定のsupervening到来)によっての一つのbeing(;実在)である(その他は another is being-incomplete(;非完全実在)のものである) 

 

もし、特別核的物性、ここでは単純性であるが、これをさらに“ordinary”(:通常)として扱うなら、ひとは矛盾性のなかに捕らわれるであろう;対象 赤いものは ひとつの単純な対象であるので、その対象は二つの物性をもつ、つまり赤色性と単純性である、そして、なるがゆえに単純実在ではなく、複雑実在となる。

この核的/特別核的区分の導入はこの矛盾を避けることを我々に許す。

 

それを伴わないのであれば、Meinongもまたその原理が所有するつぎの問題を持ってしまうであろう:いずれの三角形もすべてが(不完全)対象である the triangle in the abstract;抽象での三角形)に所属し、all the properties;その物性をすべて所有しているというものである。 

特定の三角形は三角形を実在し(;であり)、三つの辺を所有し、など、そしてそれらは完全であるが、しかしその述べた原理によれば、それらもまた不完全である。

 

さらに、Meinongが述べるのは、ひとはextra-nuclear determination(;特別核的決定)として、しかしnuclear one(;核的決定)としても、両様に完全に似た決定[11]をすること[12]ができるというものである。

もし、ひとがある対象を完全、褐色、そして四角形の三つを核的決定とし考えるなら、そのひとは、その対象に自分が完全性としての特別核的決定にするかどうか、設問未決定の状態にあるといえる。

しかし、ひとはこれを単純にdetermination complete完全決定 の特別核的決定版に帰することで単純におこなうことができる。   

Meinongはdetermination complete(;完全決定) の特別核的function(;機能)を信用している。これが完全対象を意図することを確かにする、そして、かれは核的決定にするか特別核的決定するか(の選択する)の理由についてのみ迷っていたのであった。 

 

我々のこころの力は人間のこころとしての限度があり、それは完全対象の決定の無限性のなかで取ることはできない。

ごの限度にかかわらず、我々は世界について考えそして語ることができ。存在化しつつあるものをfunctionとして当てることができるそして、なるがゆえに、完全対象を捉えることができるのである、なぜなら我々は不完全状態にある対象を、特別核的版での完全状態として映すことができるからである。

 

不完全対象がこころのなかで与えられていて(それは “auxiliary object”;補助対象としての機能として)その不完全対象によって、その対象がヒットしたとしよう、この対象をthe “target object”;目標対象と呼んでいる(より詳細には以下の節6をみよ)。

それにもかかわらず、我々が世界のものを考えるに、補助対象と特別核的決定の助けを借りるのであるが、失敗に帰しやすいものである。

 

もし諸君らが “the golden mountain”を考えるに、この道筋では存在する対応目標対象が何ら存在しない場合;存在しない不完全対象をのみが実在する(ある)(cf. 1915: 740)。

諸君もまた、この方法で、不完全対象を当てることは記録し注目にあたいするのものである。

 

諸君は 不完全三角形対象に対して成功している、この対象はこうである;単純な対象 三角形であり、 これに非完全性をもつ特別核的決定をもつもので考えたのであった。1915, §26: 191–2).

Meinongはthe nuclear/extra-nuclear;核的/特別核的の区分をthe being existent/to exist case;存在化しつつある/ケースとして存在する区分へ、明示的に適用してはいない。

これはMeinongの対象理論への或る論理的再構築においてなされる。彼の対象理論が双対特性的アプローチへと相性がよいので目下進行過程にある(Parsons 1980; Routley 1980; Jacquette 1996;  本論 5.4.4  および nonexistent objects 序論を見よ)。

 Meinongは、かれの見解を説明する目的で the modal moment  (:モーダルモーメント)とwatered-down factuality [depotenzierte Tatsächlichkeit]  :流し落し事実性)(1915, §§37–38)の注意事項を提供した。

Objectives(;オブジェクティブ)は、それ自身が付属的存在しない(非事実的である)にもかかわらず、従属的(存在)(事実的である)を仮定することができる。

たとえば、我々は、四角は丸いというある事実が実在すると想像することができる。

 

この仮定はその対象は、四角は丸い実在であるという the fact事実を所有する、それにもかかわらず、この仮定は、ある非⁻従属的(存在)(非事実性)なobjectiveに向かわしめる。

一方、(characterization principle;キャラクター化原理によると、)そのobjectiveは 四角は丸いはa factひとつの事実である。

他方、(課題のもとにあるobjectiveは従属的(存在)にはなりえず、)それは、not a fact;事実ではない。

Meinongは事実のふたつの読みを導入してその乖離を説明したのであった。

 

第二の読み筋は “full-strength” senseでの事実性に関心を示すものである、一方、第一の読み筋は“watered-down” sense;洗い落し的感覚の事実性についてのものである。これはFindlay (1963: 103–4) が指摘したものである。

The watered-down versionは、その容姿特色を持ちえず、full-strength” versionは,

それを有する:Meinongはそれを“the modal moment”;モーダルモーメントと呼んだのである。

 

純粋に、事実に抗する想像をすることでは、事実性のthe watered-down versionを正しく仮定するこは可能である。しかし事実のfull-strength versionは正しく仮定することはできないー 仮定の自由(度)の欠落のようにみえるとMeinongは考えた(1915, §37: 282)。

Meinongは考えたのは、人はthe sphere of being;実在の領域内に分析的文章を無制限に適用することはできないというものであった。

分析的に真なるつぎの文章 “A (The) BA is B“ は、含まれている対象の実在の十分な事実性[13]を含んでいない。

 

 あるBの実在性、あるA の実在性 , そして あるBA の実在性、それぞれは そのような文章のなかで“watered down”される-それにはmodal momentが欠けている。

この見解によると、 “その太陽はその太陽を実在(;である)” または、“その楕円の太陽は楕円を実在する(;である)”は、その文章のone reading(;そのままの読み)よりも多くを含むのである[14]

純粋に分析的なものとしてのこれらの文章の通訳について、その太陽や楕円の対象の存在性について何ら要求がなされない。

しかしながら、ひとつでも存在性要求が含まれるなら、その文章は誤りとなりうる:それらはもはや純粋に分析的でなくなるのである。

 

術語“the sun” (;太陽)と“the eclipsed sun”(;楕円の太陽)は純粋対象を表している(なんら存在性関与をしていない)、または、それらはexists(;存在)するactual(;実際)の(楕円化された)太陽を表現している。

しかし、existence claim(;存在性要求)は、extra claim(;特性的要求)であり、そしてこれは分析的定式を通じて得られるものはない。

これゆえに、“The existent B is existent”(;存在性Bは存在性である)のみが、分析的である、ここではなんら存在性要求はなされないのである。

 

“The existent B is existent”(;存在性 B は存在性である)を考えるに、ひとはthe existence of B (;Bのその存在性)を分かることができるが、ひとはB’s existence(;Bの存在性)の本来的な事実性をつかむことはできない。

そうするためには、ひとは事実的に存在する対象に遭遇しなければならないであろうし、そして これによってthis fact of being(;実在の事実)(= the objective of being with the modal moment)(;モーダルモーメントを伴う実在のobjective)を学ぶのである。

ひとは、“The B which exists exists“(;存在するそのBは存在する) を主張する、しかしもしこの文が分析的として理解されるべきなら、それは“The existent B is existent”(;その存在性B は存在性を実在する)の変形として翻訳されるにすぎない。

早い話としては、どんなobjectives がthe modal momentを持つかを、objectivelyに決定するために、mental power(;こころのパワー)のなかにその道筋は実在していないのである。

仮定の無制限自由の原理はかくしてmodal moment(;モーダルモーメント)に関しては限度のあることを見出す。

文“The existent round square exists” (;その存在している丸い四角)は存在する、に関して、Meinongは考えた、その文は分析的には真であり(そして なんらexistential claim(;存在的な要求)はされていない、もしくはその文は証拠的には誤まった判断表現の実在である、なぜなら丸い四角はexists(;存在)しないからである。

 

このことはつぎのようになろう;Meinongにとっては、characterization principle(;キャラクター化原理)を、次のケースへは適用できないのである、そのケースとは対象の存在性を前もって事実と想定している場合である。

 

5.4.4 Meinongの近代論理と意味論でのインパクト

Meinong’s Impact on Modern Logic and Semantics

Meinong’s conception of beingless objects (;Meinongの実在しない対象の概念)は、intentional contexts(;意図的文脈)において有用な応用を与えることが証明された、ここではRussellの記述理論の単純な応用は作動しない。

つぎのことを考えよう;

Meinongは その丸い四角は丸いと信じた。

これは真である、しかしRussell’s theory of definite descriptions (;Russellの確定記述理論)ではそれは誤りでることを意味した。

記述の視野として広義か狭義かに依るが、この文章は二つの可能な分析を許す;

まさしくそこに一つの丸い四角が存在する、およびMenongはそれが丸いと信じた。

 

その最初の分析は誤りである、なぜなら 丸い四角は存在しないからである。第二も誤りであった、なぜならMeinongは丸い四角の存在性を信じていなかったからである。(Routley 1980: 118–9; Simons 1992: 184–5; Priest 2005: 109–10; cf. Castañeda 1974: 6–10)

 

Russellの解釈が素朴であったのかあるいはRussellが正しく批判したMeinongがほんとうに素朴なのかいまでも論争がある。

事実、たくさんの近代論理-意味論的な(“re-constructions”;再構築)および哲学的解釈がMeinongの対象理論が素朴ではなく、tenable and fruitful(;存在意味および実りのあるもの)であることを証明している。

RussellのクレームはMeinongの理論のinternally inconsistent(;内的に非一貫性のもの)であり、このクレームは却下することができる。

 

上で指摘されてきた素朴性を克服するおもな手段はすくなくとも三つある(たとえば nonexistent objects、,本論の節 4 & 5、および on existence, section 2):

(1)  第一はMallyの nuclear/extra-nuclear distinction(;Mallyの核的/特別核的区別)。であり、Meinongはこれを採用した。

Routley および (特に) Parsons (さらに加えて、 Jacquetteのような著者) がこのdual-property approach (;双対物性法)の筋の上にある。

(2)別の戦略としてはdual-copula approach(;二重コープラ法)である。これはつぎの二つの間の相違から出発する;対象がひとつの物性によってbeing determined [determiniert sein](;決定されている実在)状況と 対象がひとつの物性をsatisfying [erfüllen](;満たしている)実在状況である。これはMally’s distinction (;Mallyの区別)に端を発する方法である(Mally 1912;  Ernst Mallyの序論をみよ)。

この方法についてであるが、Mallyの区分は、predication of properties(;物性の述語化)の二つのモードの間での区別を解釈するものである。Zaltaの術語でいえば“encoding” a property ;物性のコード化および、“exemplifying” a property.;物性の事例化である。

dual-copula approachへの共感をするひとたちとして、たとえば、Castañeda、 Rapaport、Zalta、Pasniczek, そして Reicherである。

(3)  paraconsistent logic(;並行一貫性論理)を採用すること、つまり、そのなかでは非一貫性がすべてのものに及んでいない論理をとりあげる、そしてその論理が基本的な論理原理を冒さないよう制限をさらに試みるものである(Routley, Priest)。

そのようなアプローチの版のひとつは、Berto と PriestのModal Meinongianism,(;モード的マイノング主義)とよばれるものである。なぜなら、“キャラクター化というもので実際の世界以外の世界を参照しこれを以って理解する”からである[15]。このなかでは不可能な世界を含んでいる。(Berto & Priest 2014: 184)

 

[1] characterization principle

[2] “The so-and-so

[3] the round square is both round and non-round

[4] actual and possible objects

[5] being is not a real predicate.

[6] かれは存在ありきから出発せず、どのようにそれを知るかという認識批判論から出発しているとみる、その意味でカントの態度をとっている。so-beingというのは観念であるとみるのである(荒井)

[7] no more belong to the one

[8] characterization principl

[9] nuclear versus extra-nuclear properties [konstitutorische versus außerkonstitutorische Bestimmungen]

[10] 核的物性 (荒井)

[11] determinations like complete 

[12] treat [behandeln]

[13] the full factuality of the being of

[14] more than one reading

[15]  “characterization is understood with reference to worlds other than the actual”

 


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