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朝日記210406(続き 5)翻訳マイノング  4.3 こころの共有場

2021-04-06 16:58:49 | 絵画と哲学

朝日記210406(続き 5)翻訳マイノング  4.3 こころの共有場

 

 

~~~本文~~~

4.3 こころの共有場

4.3.1  こころの要素的な経験およびそれらの対象

4.3.2 空想的経験とまじめ経験

4.3.3  表現描写の制作

 

~~~本文 ~~~

4.3 こころの共有場

The Manifoldness of Mind

 

 

MeinongはBrentanoが、intentional inexistence of an object (;対象の意図的な非存在性)の対象にかんする案件について関心があったのにもかかわらず、彼は intentionality.(;意図性)のようななにかあるものという意味でこのことばを使うことを避けた。

Meinongは“being directed to something(;他のなにかあるものに向かっている実在するもの)が経験のすべてに共通であるかどうかについては、完全に確信をしていたわけではない。

 

しかし、Meinongを次の点について、つぎのような経験である主張した;representations, judgements, feelings and desires(;表現描写、判断、感性、そして願望)は、通常、an object(;ある対象)へと向かう(1904b, §1; 1899, §2: 185 [141])。そしてかれは、その経験をintentionality of such mental occurrences(;こころのて起承からの意図性)として、副詞的というよりもrelational manner(;関係的様相)においてのものであるとしたのである。

Twardskiも認めるように、Meinongは、対象として表現された対象のなかで、あるものは存在しないかもしれないようなもの、そしてあるものは可能であるとさえいえないような、例えば 丸い四角や ことの事態(”objective”)のような(;a biangle exists(;二重性にある))ような対象があることを指摘しようとしていた。

 

Meinongの哲学的心理学は、Brentanoの記述心理学による影響であったが、彼はそれをいくつかの筋で変容させたのである。

それらは、少なくもBrentanoのview of mental phenomena(;こころの現象の視点)を含むものある。かれはBrentanoの、phenomena into representations, judgements, and phenomena of love and hate(;表現描写、判断、および愛と憎しみの現象)(あるいはemotions [Gemütsbewegungen](; 感情)の三つのクラス区分のものであったが Meinongのはつぎの四つの変容のものである。

(1)  Meinongの最初の変異は feelings [Gefühle](;感情的)のクラスをfeelings (;感覚的なもの)とdesires [Begehrungen(;願望的なもの]の二つからのものである。

 

  • かれの第二の変容は、serious[ernstartige] (;現実の真面目なもの)経験)そして fantasy [phantasieartige]‘;空想的なもの)経験の二つである。こうしゃには、“assumptions”(;仮想)を含む。

 

 

 

  • かれは、the act(;行為)の間での区別として、(psychological) content,(;心理学的内容)、とobjectof a mental phenomenon(;こころの現象の対象)として二つの行為を採用した。

 

  • 彼はBrentanoの課題であるちつぎのものを放棄した;我々は意図的に、単一かつ同じ対象であっても異なる筋道で方向づけすることができる。たとえば、異なるこころの行為、そして、自分の好み、判断、感覚、そして願望に沿った非理想的(理想的)対象にそって議論することができる(ふたりの哲学者の間の親和性と相違性はさらなる調査がある;Rollinger 2005 and Marek 2017をみよ)。

 

4.3.1  こころの要素的な経験およびそれらの対象

Mental Elementary Experiences and Their Objects

 

 

Meinongは異なる種類の行為が、presented objects [präsentierte Gegenstände](;異なる種類の表現対象)として整理されている状態を想定したのであるが、彼のmental elementary experiences [psychische Elementarerlebnisse](;こころの要素的経験)のクラス分類は intentionalistic point of view(;意図主義的観点)からの対象すべてへのカテゴリー表[1]を許するものである。

 

 

経験Experience [Erlebnis]

知的intellectual

感情的emotional

記述描写Representation
[Vorstellung]
まじめなまたは空想的serious or fantasy

思考Thought
[Gedanke]
まじめな判断serious(=judgement [Urteil]) または
空想仮定fantasy (=assumption [Annahme])

感覚的Feeling
[Gefühl]
まじめな又は空想的

serious or fantasy

願望Desire
[Begehren]

まじめな又は空想的
serious or fantasy

表現描写の対象

object of representation
[Vorstellungsgegenstand]:
対象
objectum
[Objekt]

思考の対象

object of thought
[Denkgegenstand]:
オブジェクティブ
objective
[Objektiv]

感覚対象

object of feeling
[Fühlgegenstand]:
品位性
dignitative
[Dignitativ]

願望の対象

object of desire
[Begehrungsgegenstand]:
妥当性
desiderative
[Desiderativ]

Red

赤は色彩であるRed is a color

赤の魅力性

The attractiveness of red

果物は赤くあるべき

The fruit should be red

 

表現描写は孤立の状態では起き得ないのであり―それは常に更なる、より複雑なこころの行為[2]の文脈においてmind(;こころ)に至るのである。それはpsychological presupposition(;心理的先入観)として、まさしく、表現描写を含む、すなわち表現描写はつねにpsychological presupposition(;提案的態度)のなかに包含されているのである。

 

我々は、対象red としては表現記述できないのであり、我々はつぎのこととして判断として、たとえば redであるあるものが実在しているとして、または、redはあるものであるとして、これを判断しているのである(1910, §§38, 45; 1915, §33; 1917, §§1, 8)

 

その判断;redは色彩であるということは、例えば、redと色彩の表現描写を先考しているのである。

表現描写された対象の共通の言語的表現は、名詞もしくは形容詞である。Objecta(;オブジェクタ)は連続的ではあるが生起的でもあり、そしてそれらは、real(;現実的)でもあり、またideal(;理想的)でもある。

 

オブジェクティブは常に理想的に実在(;であり)、それらはstates of affairs(;事の事態)のようなもの、またはpropositions(;提案)のようなものである。

そして次のように表現されうる;

  • 判断されるか仮定されるなら、“Redは色彩である”のような独立の文章にとして、
  • 判断されるか仮定されるなら、“that”-clause (;“こと”という語句)たとえば(“that red is a color”(;あの赤はひとつの色彩である))もしくは、非名称的語句(“the colorfulness of red”(;赤の色彩性)としてである(1910, §10)。

 

judged [geurteilt](;判断される)それは、常にオブジェクティブであり、そこで、判断されるものはしばしば、an objectum(;オブジェクタ)についてであるが、それにかぎらず、objective(;オブジェクティブ)、dignitative(;品性)、およびdesiderative(;願望)であってもよいのである。

あるオブジェクティブはあるひとつのオブジェクタであることはありえない。一方、オブジェクティブが、更なるオブジェクティブ;たとえば“Meinongはその丸い四角は丸いと信じている”といった主観的案件もありうるのである。

 

彼の学生であるRudolf Ameseder (1904: 54–5)は同意して、Meinongはオブジェクティブはつぎのような対象によってもキャラクター化されるとことを強調した、これはhave being but can also be being(;実在性を所有する、さらに 実在性が可能である)である。

この言明はつぎのような言語的事実の根拠がある;“that”はつぎの語句を意味しているのである、つまり“that (object) o is”(; “対象はo であるということ) そして “that (object) o is F”(;あの対象は oが Fであるというであること” )とそれぞれなるが、しばしば、“the being of o” and “the being F of o”は名称的に“the being of o” および“the being F of o”とう語句として使われる。

 

 

Meinongは、こころの行為のクラス化とその対応するオブジェクトのキャラクター化(intentionalistically(;意図主義的に採用している)は完全であるかについては言及していない。

他のカテゴリ化の候補はまだ表れていない。

なにかを知るための特定の願望のようななにかに還元していく設問は実在するか、Meinongは、それらはそもそも還元できないものとしてかんがえていた。

そして、それらは“quaesitives[3]” もしくは “rogatives[4]” (cf. Kreibig 1914)として鋳なおすような、独自の特性対象をもっているのか?

 

もしかしたら、別の候補が結論をもたらすかもしれないが、推測が複雑な判断をして単純でへと理解できるかどうかの懸念が払しょくできないからである。

Meinongはこれが可能であるとは考えなかった;彼はまさしく特殊(ある具体的な動機のある)判断へのまとめとしての推測をしたのであった。ここでの判断はここでの仮定についてや、ここでの判断についての判断を意味している(1910, §§27–32)。

 

4.3.2 空想的経験とまじめ経験

Fantasy Experiences and Serious Experiences

fantasy (imaginary) experiences(;空想的(幻想的)な経験)とserious experiences(;まじめな経験)との間の区別はact component(;行為成分)に関するものである。

この区別は彼が On Assumptions (1902)において紹介したものであるが、thoughts(;思考)をassumption(;仮定)とjudgements(;判断)のふたつの部門にわけるのは。Meinongの思考分割の一般化である。

彼はsubclass of thoughts(;思考の下位クラス)としてassumptions(;仮定)を考え、それを“representation(;表現描写)とjudgements(;判断)”の間に置いたのである[5]。それはassumptions(;仮定)が、一方でaffirmative or negative(;肯定や否定)というjudgements(;判断)のようなものとして;そして 他方でbelief(;信仰)を伴わないrepresentations,(;表現描描写)のようなものであったことによる(1910; §§1, 59)。

 

判断はobjectives(;オブジェクティブ)に向かいそしてconviction(;確信)を含んいる、一方、assumptions(;仮定)は確信を含まない―assumptions(;仮定)は唯単にそれが向かうobjectives(;オブジェクティブ)を楽しむentertaining(;娯楽)を含んでいる(1910: 376 [268])。

Meinongがrealized(;了解)したことは、そのようなobjectives(;オブジェクティブ)の享受には、conviction(;確信)を伴わない、もっぱら我々のintellectual(;知性的)な、そしてemotional(;感情的)なlives(;生)に対して中核的な役割を担っているというものであった。

 

Asking questions, denying, reasoning, desiring, playing games, performing or producing artistic work(;質問すること、否定すること、理由を述べること、期待すること、遊ぶこと、演ずることや芸術作品を創ること)は、assuming(;仮定する)ことなしには可能ではあり得ない。

 A か Bか 、たとえば、ひとはA および Bを それぞれ個別には判断しない―ひとはそれらをのみ、仮定する。 Fantasy(;空想)とserious(;まじめ)のケースもまた、別種の経験であることを見出すことができる。

 

もしredのepresentation(;表現描写)がperceptual look;感知できる外見)を持つなら、たとえば赤い毛並みの鶉が、群れの中にいたような場合を思い浮かべてほしい、これはserious character(;まじめなキャラクター)ということになる、そして もしred‐epresentation(;表現描写)が単なるreproductive(;再生可能)なものであれば、それはかき集めか幻想的なもの[6]であり、それはfantasy(;空想的)な経験であり、そしてimaginary(;幻想的)なキャラクターのものである。

 

Meinongの空想/まじめの区分では、人間すべてのこころの行為(魅力的および共感的な次元)[7]への応用は、恣意的かつ論争的[8]であるようにみえる、しかし、ひとをして、芸術のように現象へ、そして文学的虚構のなかで感情の役割へ顕著なinsights(;内省)に導くのである。これらは感情移入的な経験と芸術感受とが我々をして、空想的表現描写、空想的思考、そし-殊に-空想的感覚のparadigmatic cases(;時代典型的領域)[9]を提供してくれるのである。

 

これらは単に感情の表現描写でもなく、まじめな感情でもなく、しかし表現描写とまじめな感情の間にあるsomething(;何か)なのである。

一般に、fantasy experiences(;空想経験)は、それらがrepresentations of experiences(;経験の表現描写)でないように、imagined experiences(;幻想的な経験)でもない。

 

Mally (1912: 61–2, fn.)のいう差異を適用して、Meinongは後につぎの経験の差異をも区別することになる;(1) serious-like (;まじめっぽい)経験、そして、(2) shadowy fantasy(;陰影のある空想)経験である[10]

空想経験(つまり、仮定)はつぎのいずれかであると理解できよう;

(1) まじめに経験する振りをする[11]ものとして(つまり、判断をなげかけるもの)もしくは (2)対象への単なる娯楽[12]として(つまり、pretence of judgin(;判断の振り)を伴わないobjective(;オブジェクティブとして)である(1917, §6: 47–53 [42–47]) (1917, §6: 47–53 [42–47])

 

 

Assumptions(;仮定)はconviction(;確信)を含まない。したがって、どんな仮定も別の仮定のうえに証拠となる有利さを提供しないのであり、またその仮定がevidential grounds(;証拠の基盤)として立ち現れることもできないのである。

証拠とすべくある要求の立場からは、ひとはすべてを信じることはできないのであるが、すべてを仮定することはできる、つまり、ひとはいかなるobjective(;オブジェクティブ)を仮定し得るし、そしていかなるobjectum(;ここでの対象)をも表現描写できるのである。

 

 

Meinongはこのinsight(;洞察)をthe principle of unrestricted freedom of assumption (;仮定の無制限自由の原理)と呼ぶ[13]。そしてそれをthe principle of relatively constrained assumptions(;相対的制約仮定の原理)と対比したのである。これは全く無誤謬の論理的制限を仮説として設けるが、このとき、人はひとつか、いくつかの仮定を、すでに与えられたものとして見なすのである、そして、さらなる仮定を論理的にそれらに関係づけるのである;“仮定が例外禁止ではないものとして、絶対的尊重されることは正しい;しかしそのすべてに対して、それらは相対的に制約することができるのである” (1910, §60: 346 [246–7])。

 

 

Meinongは数年間、彼の仮定の無制限自由の原理に限界があることを認めていた.

彼はmodal moment(;モーダルモーメント) (1915, §37: 282; see below 5.4.3)とのつながりで限界を明示的に語ったのである、そして なにか欠陥がある対象ではoutside-being(;外側実在)に失敗するか、したがって、対象として自由原理を制限するように解釈してくれるような忠実なるものはないことを語っている(Cf. 1917, §2; 1978: 377–8; see below 5.3.1.)

 

4.3.3  表現描写の制作

Production of Representations

対象を集めて、より複雑な対象にすることはこころの重要な活動であるが、しかしこれは、これから先に述べる四つの行為を越えての新たな経験の種の形成をするものではない。

 

Meinong (1902, §2; 1910, §2)によれば、二つ以上のobjecta(;オブジェクタ)の表現描写が一つの複雑なobjectum(;オブジェクタ)を形成するために使われる。

より単純な表現描写はその複雑な対象の基礎にして見え現れるのである。それは常に高次の対象superiusである。なぜならそれは、土台になる対象(inferiora)によって基礎付けられるからである(See below Section 5.5.)。

 

red and green は、多様性表現は、 red とgreen,をもつ、チェック模様では色違いの四角をもつ、そして赤い四角はinferioraとして red と square をもつ。

たとえば、メロディーはひとつのGestalt(;ゲシュタルト)であり、これは高次の対象の表現描写である、これを得ることを考えてみよう、諸君はより多くの要素の対象をつかって、複雑なrepresentations(;表現描写)を組み立てることになろう。

 

こころのこの種の操作を“production of representations” [“Vorstellungsproduktion”](;表現描写の産出)と呼んでいるが、それはこころが複雑な表現描写を産出するからであって、すでに用意され、対応する複雑対象ではないからである。

この概念はいまだに論議の多いにも関わらず、重要でかつ実りのあるものである。それは、ゲシュタルト心理学が教えるところのものであり、Meinong自身がこのelementary representations(;要素表現描写)の第一義性を尊重していたからである。

 

underlying elements of objects of higher order(;高次元の対象でのもとで埋もれている要素)は、たとえば、それは“only abstractly distinguishable parts”(;抽象のなかでのみ見分けられる部分)としては見られないものである。このような考え方はベルリン・ゲシュタルト学派の仮定のものである。(Cf. Smith 1994, Chapt. 8: 272.)

 

[1]categorization of all objects from an intentionalistic point of view:

[2] mental act

[3]  quaesitives 

               Cf.  quaere Literally, seek, inquire: an annonation inserted, as in law reports. [

[4] rogatives

Cf.  rogation  In ancient Rome, the submissionof a proposal law by the executive (counsul or tributo

[5] “between representations and judgements”

[6] recollective or imaginative one

[7] the affective and conative dimension

[8] schematic and controversial

[9] paradigmatic cases

[10] [ernstartige versus schattenhafte Phantasieerlebnisse]

[11] pretence of experiencing seriously

[12] mere entertaining of the object

[13] the principle of unrestricted freedom of assumption [Prinzip der unbeschränkten Annahmefreiheit] (1910, §60)

 

 


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