Yassie Araiのメッセージ

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朝日記190123 アメリカ独立宣言とフランス人権宣言のコピーを送ってくださった敬愛する先輩KY氏への手紙と今日の絵

2019-01-23 11:24:09 | 絵画と哲学

 

 朝日記190123 アメリカ独立宣言とフランス人権宣言のコピーを送ってくださった敬愛する先輩KY氏への手紙と今日の絵

おやようございます。 徒然ことを二つを書きました;

徒然こと1 アメリカ独立宣言とフランス人権宣言からの連想を書く

徒然こと2 集合体責任 Collective Responsibilityということ

今日の絵は二つ (婦人1)と(婦人2)です。

(婦人1)

 

 

 

 徒然こと1 アメリカ独立宣言とフランス人権宣言からの連想を書く

東京は、あたたかい日差しの日ですね。一月も足早に過ぎていきます。

 Kさん、貴重な資料をお送りくださり、まずお礼をもうしあげます。

1.The Declaration of Independence

2.Déclaration des Droits de L’homme et du Citoyen.

 

ふたつとも、まだぼーっと眺めている状態ですが、

1.     はさすがに、徐々に目に入ってきて 字を追ってみました。

 “Endowed by their Creator with certain unalienable Rights.”

“Governments are instituted among Men,deriving their Powers from the Consent of the Governed,….”

 とすすんで、”unalienable Rights”と“(be) instituted”のところに目が留まり、これらの語がいまもって新鮮な響きに感じました。

 人間個人がもつ固有の権利ですかね。日米同盟での日本のもつ固有性についてもふと脳裏をよぎりました。

 “instituted” これも現代人にとって、Institution and Agencyの概念へと連想させ、この語自体が、あゝあの時代も使っていたんだと、あらためて思いをいたします。

 このことばが、「制度化」という訳でしょうが、日本では政府占有としての狭い語意に留まり、まだあまり消化されていないかなあという思いが走りました。

2.は、英語風に字をおっていくと、それなりにということですが、しばらく仏和辞典と仲良くすることかなあとおもいました。

PCのWORDで仏語のフォントを搭載していないことが、メンタルなバリアが高かくなっています。

de L’homme et du Citoyenで人(個人)と市民として併記しているところに興味を感じます。

 個人と社会との関係で、まず個人という啓蒙精神が前面にでているということでしょうか。

 

徒然こと2 集合体責任 Collective Responsibilityということ

いま、ネットで、スタンフォード哲学百科Stanford Encyclopedia of Philosophyというのに入っています。

ここで、ふたつの解説記事にどっぷり付き合ってしまっています。 

ひとつは、John Stuart Millで、もうひとつは、Collective Responsibilityの二つです。

それぞれがA4で50ページの構成ですので、最初は要約くらいにして先に進もうか思っていましたが、足をとられました。

目下は、後者の方に、作業の重心の覚悟をきめて、直訳書き下ろしにいったん取り組んでいます。

ところで、社会倫理や道徳に思いを致すときに、一体「責任」とは何であろうか

、誰が、何に、どうするのかということでありますが、この問題の当然根が深いですね。

このときに、いちばんの決め手になるのが、出発理念をそれこそ “unalienable “な個人におくことに意識がもどります。

近代国家での前提ですが、ほんとうはそう簡単ではない。

日本人は、そのながい固有の歴史のなかで、なじみやすいのは「世間」や「間人」といった 人とひととの間に融合した(準)主体(Subject)をそれとなく置くことで、内内で納得しています。では、ほんとにそうかという問いに、残念ながれ、答えに逡巡するとおもいます。

いざ外の国との論議の場では、言語概念への昇華が十分になされていないのではないかと感じています。

 山本七平さんの「空気の研究」や、さかのぼって和辻哲郎さんの「倫理学」あたりを思いおこしますが、どれも内内の納得レベルの水準で、たとえば「間人」とはなにかの基礎命題にまで到達していないようにみました。 

 先年、たまたま、Karl Jaspersの「責罪論」を古本で入手して、1946年ごろに、かれがドイツ人としての集団的な責罪guiltyを論じていることを知ります。彼の論が現在のドイツ基本法の精神の基礎になっているようです。

 彼は、刑法上、政治上、道徳上、そして形而上学上と4つの罪に区分けしています。

前の三つは、犯罪者、国家と、国民個人に責任を区分けできるが、最後の形而上学罪は、人として共通の罪であるとして、戦勝側および敗戦側も双方で無力であったことを訴えます。 文明社会共通の回復(贖罪)すべきもので、そのままであるべき未来はないと投げかけています。 (彼らの共通基盤は、超越者の創造への完成(;絶対精神)というところで、意識の根底に歴史主義があるとみます。)

この概念がどうも難解で、キリスト教徒ならともかく非キリスト教徒にはチンプンカンプンであったようです。(アングロ側では、これを、その社会での、精神的汚染 taint, もしくはdirtiedというとらえ方をしています)

ところで、ニュルンベルグ裁判や東京裁判を通じて、最近は戦勝側であるアメリカでも、罪の原点は、個人だけではないのではないかという問題意識が出てきていたようです。

その理念が「集合体責任」(Collective Responsibility)です。

そういう視点から改めて、日本人のもつ社会倫理観と対照してみたい誘惑に駆られます。

これは世界哲学の場で 日本人がみずからを理念明示化explicit discourseする歴史使命があるのではないかと、おもうものです。 力ある巨人のちかくで、気働きがよく、実直に働く者が、いつのまにか成長して大きくなっている、ときに、この巨人の世話のしなければならない、いやおなく一人前として言動が求められます。 芯にしっかりした理念つまり哲学がないと、自らの生き方もし得ず、やっぱりねとなりかねません。そんな悪夢があります。それでいいじゃないかという考えもありそうですが、きちんと抽象的な次元から実践次元への強靭な論理をふかめつつ、あるべき姿勢を形成していくことであります。 SNSで上述のスタンフォード哲学百科などをみて、あるいはWikipediaの中でも、彼らの本質を語るときの姿勢の強靭さを知ります。

 少し長くなりました。みずからの人生のろうそくは短くなっていることを知らねばなりませんが、絵画をもふくめて哲学への取組をしていると、これらが時間をやさしく埋めてくれる、錬(年)金もさらに細くなり、過ごしにくいですが、それをさわやかに克服する生活へのそういう実利もあります。Thanks,God。

Kさん、駄文をつらねて失礼しました。ご親切を感謝もうしあげます。

 

(おまけです)

アンナ・ベブロフコの エリーナ・ガーランサの競艶なる

ホフマン物語舟歌を添付します。以下の行をクリックください。

https://www.youtube.com/watch?v=0u0M4CMq7uI&feature=player_embedded

 

荒井康全 2019/01/23

 (婦人2)

荒井康全


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2 コメント

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蒲田さんから Response. Ability (あらいやすまさ)
2019-01-23 20:45:45
返信有り難う、2/25 13時に明学大の講堂で労働価値説の時代的背景と言う講演 大西教授良かったら来ませんか.

responsibilityは Response. Ability. の造語で、応える 能力ある。誰に対してかと言うところ 神様 創造者に 対して答えるとのようです。
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返信有り難う、2/25 13時に明学大の講堂で労働価値説の時代的背景と言う講演 大西教授良かったら来ませんか.


iPadから送信
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親愛なる総合知学会同志神出瑞穂からのコメント (あらいやすまさ)
2019-01-28 09:40:55
荒井康全様 2019・1・28

新年早々、大きなお年玉をいただいたような気がして拝読。

第1は、小生はそういえばアメリカ独立宣言もフランス人権宣言も
原文を精読したことはなかったな。いやしくも総合知を探求するなら
それぐらい一般教養として身につけておけ!ーとおしかりを受けた感じです。

第2は集合体責任( Collective Responsibility)。
原発問題を考えていて、過去60年間原発を推進してきてフクシマ事故が起き
てしまった。誰が、どのような責任をとるべきなのか?
今、裁判中の東電の経営者の責任の是非だけではないはず。
政府、行政、関連業界、関連学会や科学者、自治体、司法、
原発電力消費者などの責任は?
また今後数万年の放射性廃棄物の保存問題は誰がどのように責任をとるのか。

小生はこの分野の問題を新たに{責任の科学}領域問題と位置づけ探求すべきと
考えていますが、そこには集合体責任( Collective Responsibility)という
課題が大きく存在していることをご教授いただきました。
また、同事にこの問題は以前議論させていただいた「道徳革命」とも関連しますね。
一度、荒井さんに総合知学会で、この問題についてご発表していただくことを
期待します。
                       神出瑞穂
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