糖質の減少が糖尿病を招く
― 実験的検証 ―
日本で糖尿病が増えている。日本だけではない。東アジア、東南アジア、
南大平洋の島々に居住している人たちの間に糖尿病が増えている。
世界の糖尿病人口2億のうち1億2000万がアジア人である。
はじめに
方法
結果
考察
参考文献
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はじめに
なぜ近年、アジア人に糖尿病が多発しているのか。1963年、J. V. Neal
(ニール)は倹約遺伝子説という面白い仮説を提唱した。この仮説が最近
になって激増するアジア人の糖尿病に援用された。食事をすると血糖(血
中ブドウ糖)が上昇する。血糖の上昇につれてインスリン*が分泌される
。ニールは、倹約遺伝子(エネルギーを溜め込む遺伝子)を保有するもの
はインスリンを分泌する能力が大きく、腹いっぱい食える時期に多量のイ
ンスリンを分泌することによって脂肪を蓄え、次に襲いくる飢餓に備えた
と考えた。
*インスリン:膵臓のランゲルハンス氏島のb細胞が分泌するホルモン
で、筋肉や脂肪にブドウ糖を取り込み、余剰のブドウ糖を脂肪に変える
同化ホルモン
貧しいアジアでは頻発する飢饉に見舞われたために倹約遺伝子をもつ
ものが選択されて生きのびたというのであるが、アジアが豊かになって
口にするものが多くなると、かつては生存に有利に働いていた倹約遺伝
子がアジア人の腹部に脂肪を貯え、高インスリン血症を起こし、やがてイ
ンスリンが枯渇して糖尿病を招くというのだ。しかし、これは多分に、多く
のアジア・アフリカ諸国を植民地にしてきたヨーロッパ人の奢りの発想で
ある。アフリカはともかくアジアはもともと豊かであった。まず降雨量が多
い。地味が肥えている。果物・穀物・イモがふんだんに採れた。たしかに
気候の変動で凶作の年もあった。しかし、穀物生産に適さない寒冷地帯
のヨーロッパに比べたらずっと豊かであった。品種改良によって小麦生産
が増えるまでのヨーロッパではひょろひょろした弱々しい草をヒツジやウ
シに食わせ、その肉や乳・乳製品を食する以外に生きる術がなかったの
だ。倹約遺伝子仮説は欧米人の糖尿病を説明するには役立つが、アジ
ア人の糖尿病にはあてはまらない。
ひとが生きる上で最も重要な栄養素は糖質であることはすでに繰り返し
述べてきた。健康なひとがグルコース負荷試験の前日に糖質の少ない
食事を摂ると、耐糖能*が著しく悪化する(1,2)。特記すべきは、糖負荷
試験の前日の朝食と昼食には普通の食事(たんぱく質15%;脂肪25%;糖
質60%)を摂り、夕食だけ糖質の少ない食事(たんぱく質30%;脂肪60%;糖
質10%)を与えたところ、全例において耐糖能が悪化したことである。
被験者12名中4名が「耐糖能異常」と判定されてしまった(図1)(1)。
夕食に糖質の多い食事を摂ったときには被験者の耐糖能は正常であっ
たから、検査の15-16時間前の糖質摂取量が耐糖能に大きな影響をもた
らすのである。
*耐糖能:食事して血糖値が高くなると、インスリンが分泌されて血糖値
を140 mg/dl以下に抑える。この血糖上昇を抑える力を耐糖能という。
インスリンの分泌が悪かったり、分泌されたインスリンの働きが悪いと血
糖値が下がらない。通常、75 g糖負荷試験で負荷後120分の血糖値が
140 mg/dlを超えると耐糖能異常(障害)と判定される。
このことは私たちの新しい発見ではない。検査前の低糖質食が耐糖能
を悪化することは古くから知られていた。今から70年も前にロンドン大学
病院のヒムスワース(Himsworth)は正常(糖尿病ではない)の健康人に
糖質の少ない食事を1週間与えて糖負荷試験を行った(3)。高糖質食を
与えたときには耐糖能は正常であったのに、低糖質食にすると糖尿病と
判定されるほどに耐糖能が悪化した。しかも、糖質と脂肪の比率を一定
に保ちながら総エネルギーを増減させたり、総エネルギーを一定にして糖
質と脂肪の比率を変えたりして、耐糖能が検査前の糖質摂取量によって
変動することを確認した。この報告を契機にして、糖負荷試験の前少なく
とも3日間は1日300グラム以上の糖質摂取が必要であるといわれるよう
になった(4)。
それなのに最近の糖尿病の専門家といわれるお医者さんは糖尿病検査
(75 g糖負荷試験)前日の食事について一言も注意しない。「前の晩の9
時以降は水以外のものは何も食べず、検査日の朝食を抜いて病院に来
てください」としか言わない。事実、日本医師会雑誌・特別号「糖尿病診
療マニュアル」(2003年10月)は検査前日の食事について一言も触れて
いない。
このような背景から「糖質摂取量の減少がアジア人の糖尿病激増の最
大の要因である」という仮説の実証を動物実験で試みた。この動物実験
の結果を概説する。詳しくは私たちの論文(5)を参照されたい。
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方法
( 実験内容に興味の無い方は考察にお進みください )
40匹の8週齢のラット(Wistar Imamaichi)をステンレス製の網敷きケージ
内で単独飼育した。最初の1週間は市販の固形食と水で馴化飼育した。
9週齢でラットをランダムに2群に分けた。一方を普通食群と名付け普通
食(糖質60%、蛋白質25%、脂肪15%)を、他方を低糖質食群と呼び低糖
質食(糖質10%、蛋白質25%、脂肪65%)を与えた。普通食=低脂肪食
で
あり、低糖質食=高脂肪食である。それぞれの食餌の60 kcalを計りとり、
毎日午後4時に新しい水とともに与えた。ラットはそれぞれの餌を翌日の
午前10時には食べ尽くしていた。このような給餌方法で16ヵ月飼育した。
新しい給餌方法に入る前に1回と給餌中2ヵ月に1度の間隔で(8回)腹
腔内糖負荷試験を行った。この試験は、午後4時にラットの腹腔内に2 g
/kgのグルコース(ブドウ糖)を注入して、注入前と注入してから20分後、
60分後、120分後に尾静脈から採血して血糖値を測定するものである。
グルコース注入前と注入20分後にはインスリン濃度も測定した。グルコ
ース注入前の血糖値を基準としてその後の血糖値の上昇を血糖曲線下
面積(AUC)で表わした。インスリン分泌指数(insulinogenic index)は[20
分インスリン濃度( U/mL)空腹時インスリン濃度( U/mL)]/[20分血糖
値(mmol/L)空腹時血糖値(mmol/L)]で表わした(単位はmU/mmol)。
インスリン抵抗性*指数(HOMA IR、homeostasis model assessment of
insulin resistance)は[空腹時インスリン濃度( U/mL)x空腹時血糖値
(mmol/L)]/22.5で計算される(6)。
16ヵ月の飼育後、ラットを午後4時に断頭でし、血清中の中性脂肪
(TG)、総コレステロール(T-Chol)、高密度リポプロテインコレステロール
(HDL-Chol)の測定を行った。測定方法などの詳細は省略する。
*インスリン抵抗性:筋肉などの末梢組織の細胞がインスリンに対して
正常に反応できない状態で2型糖尿病の基本的病態。細胞膜上に存
在するインスリン受容体数の減少やグルコース輸送機能の障害で起こ
る。
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結果
ラットの寿命は2年(24月)ほどであるから、人間の男性の平均寿命を80
年(960月)としてラットの月齢を人間の年齢に換算して( )に記した。
体重
普通食群ラットの体重は最初の6ヵ月(この時のラットの月齢は9月、ヒト
の年齢でいうと30歳)は上昇を続けた(図2)。低糖質食群ラットの体重は
12ヵ月後まで増え続けた。全実験期間を通じて、体重は常に低糖質食群
>普通食群であった。同じ摂取カロリーであっても、糖質の少ない食餌
(脂肪の多い食餌)の方が肥るのである。ところが、低糖質食群の体重は
14ヵ月(53歳)を過ぎるころから急激に減少しはじめた。この頃に低糖質
食の影響が顕在化した。
血糖値
空腹時血糖値
普通食群の空腹時血糖値は全実験期間を通じて変化しなかった(図3)
。しかし、低糖質食群では6ヵ月(30歳)頃から血糖値が上昇し始めた。
この頃から、低糖質食群の空腹時血糖値が普通食群の血糖値を有意
に上回るようになった。低糖質食群の14ヵ月後(53歳)と16ヵ月後(60歳)
の空腹時血糖値の平均はともに7.9 mM(142 mg/dL)で糖尿病状態とい
える。 負荷120分後の血糖値と血糖曲線下面積
普通食群のグルコース負荷120分後の血糖値は6ヵ月(30歳)でわずか
に上昇した(耐糖能が少し悪くなったことを示す)が、その後実験終了時
の16ヵ月後(60歳)まで大きな変化は見られなかった(図4)。ところが、
低糖質食群の120分血糖値はこの食餌を与えてから非常に高くなり、常
に普通食群の血糖値をはるかに上回っていた。因に低糖質食群の16ヵ
月後(60歳)の血糖値の平均は14.1 mM(254 mg/dL)で耐糖能の悪化が
糖尿病の段階に達している。血糖曲線下面積で見ても低糖質食によっ
て耐糖能が著しく悪化していることが分る(図5)。
WoleverとJenkins(7)は最大血糖値が16.8 mM(303 mg/dL)を超えるかあ
るいはグルコース負荷後の120分値が11.2 mM(202 mg/dL)をラット糖尿
病の判定基準としている。この判定基準に従うと、16ヵ月後(60歳)には
普通食群では17匹中4匹(23.5%)が糖尿病と判定されたに過ぎないが、
低糖質食群18匹中の15匹(83.3%)が糖尿病になったということになる。
インスリン濃度、インスリン分泌指数、インスリン抵抗性指数(HOMA)
空腹時インスリン濃度
普通食群では空腹時インスリン濃度は16ヵ月(ヒトでは60年間に相当する
)にわたって有意の変化は見られなかった(図6)。しかし、低糖質食群の
インスリン濃度は上昇し続け10ヵ月後(40歳)にピークに達した(49 U/mL
→65 U/mL)。ところが、低糖質食群の空腹時インスリン濃度は12 ヵ月を
過ぎるころ(47歳)から低下し始め、16ヵ月後(60歳)には34 mU/mLにま
で低下した。また、低糖質食群の空腹時インスリン濃度は12ヵ月(47歳)
までは常に普通食群の濃度を上回っていたが、16ヵ月後(60歳)になると
普通食群のインスリン値よりも低くなってしまった。14-16ヵ月後に、ラット
のインスリン分泌が低糖質食によって枯渇し始めたのだ。
負荷後20分のインスリン濃度
糖負荷20分後に血糖値は最も高くなる。この時のインスリン値はどうなる
か。普通食群のインスリン値は実験期間中ほとんど変化しない(図7)。
ただし、16ヵ月後(60歳)のインスリン値はやや低くなった。これは、向老
期に入って膵臓のインスリン分泌能力が多少衰えたからであろう。低糖
質食群でも10ヵ月まではインスリン値に変化はなかったが、12ヵ月頃(47
歳頃)からインスリン濃度が急激に低下し始めた。16ヵ月後(60歳)には
49 U/mLにまで低下してしまった(低糖質食を与える前の値は76 U/mL)
。
この時期のインスリン値は普通食群では66 mU/mLであるから、明らか
に普通食群>低糖質食群である(p < 0.05)。すなわち、老齢期に低糖
質食を摂っていると、インスリンの分泌が不十分になってしまうのである。
インスリン分泌指数
低糖質食群のインスリン分泌指数(糖質負荷による血糖値の上昇に伴う
インスリン分泌の度合い)は、低糖質食を与えた2ヵ月後から普通食群に
比べて著しく小さくなった(図8)。低糖質食群のインスリンの分泌指数は
投与前の4.1 U/mmolからわずか2ヵ月後には1.5 U/mmolに落ちてしまっ
た(p < 0.05)。低糖質食を与えると、血糖値の上昇に見合うインスリン分
泌が起こらなくなってしまうのだ。もちろん、普通食群でも飼育期間が長
くなると加齢に伴ってインスリンの分泌は悪くなる。16ヵ月後(60歳)には
、最初の4.1 U/mmolから3.0 U/mmolに低下した(p < 0.05)。これは加齢
に伴う生理的なインスリン分泌能の低下である。
インスリン抵抗性指数
図9はインスリン抵抗性指数(HOMA IR)の経過を示している。普通食群
では14ヵ月(53歳)まではインスリン抵抗性に変化は見られない。16ヵ月
(60歳)になると、インスリン抵抗性が有意に大きくなる。ある程度の年齢
になるとインスリンの効力が悪くなるのは自然の経過である。ところが、
低糖質食群ではこの食餌の摂取期間が長くなるにつれてインスリン抵抗
性が増大する。最も大きくなるのは10ヵ月の投与後(40歳)である。
この頃にインスリンの効力は最も落ちる。低糖質食は膵臓のインスリン分
泌を搾れるだけ搾りだすが、そのインスリンが血糖上昇を抑えるだけの効
力を持ち得ないためにやがて破綻(はたん)が訪れる。16ヵ月(60歳)には
低糖質食群のラットはインスリン分泌の枯渇によって糖尿病へと進展して
しまう。
血漿脂質
16ヵ月後(60歳)にラットをして血漿脂質(中性脂肪、総コレステロー
ル、遊離脂肪酸、HDL-コレステロール)を測定した(表1)。低糖質群の
中性脂肪、総コレステロール、遊離脂肪酸が普通食群に比べて有意に
高かった。一方、低糖質群のHDL-コレステロール(善玉コレステロール)
は普通食群に比べて有意に低かった。