ぴよママの直腸がん日誌

2006年、40歳で直腸癌3bと診断、開腹手術。大動脈周囲リンパ節腫大の為、抗癌剤で延命しているぴよママの身辺雑記です。

よう、姉ちゃん

2008-11-02 21:47:41 | Weblog
体力と免疫力をつける為、毎日、肝炎の注射後に洗濯と散歩をした。
この病院には広い屋上があり、ベンチと物干しがある。病院は市内の県庁のある大通りに面しており、屋上から沢山の車の流れと、通勤する人々を眺める事が出来る。私もつい最近まで、バスでこの道を通勤していた。まさかこの病院の屋上からこの道を見下ろす事になるとは、思いもよらなかった。涙を浮かべ、時には流しながら、小声で歌を歌い、私は散歩をしたり、下を覗き込み道路を眺めたりした。「これからどうなっていくんだろう。」不安でたまらなかった。子供たちに会いたかった。家が恋しかった。
 病院には元気な患者さんが多く、私は「よう、姉ちゃん、元気そうだけど、どこ悪いの?」と訊かれたりした。この年齢になると、「姉ちゃん」と言われても絶対サービスか馬鹿にされてるかと思う。サービスだな、とは思ったものの、事実を言ってしまえば相手が引くと思うし、たちまち院内に「あの人、癌だって。」と広まってしまうので、私は「お腹です。」と言った。が、「お腹なのはわかるけどさ、お腹のどこ悪いの?」と重ねて訊いてくる。数人に、気軽に「どこ悪いの?」と訊かれた。私はつくづく、元気な患者の多いこの病院が嫌になった。

術後の説明

2008-11-02 20:47:57 | Weblog

院長から、手術後の説明と、今後の治療方針の事で話がある、と言われた。
手術後すぐに、切除した腫瘍を前に院長から母と姉と夫が話を聞いてはいた。夫から聞いた話では、「腸の悪い所は全部取ったが、腫瘍の大きさから言って(五センチもあったそうだ)リンパ節に入り込んだ可能性が高く、周辺のリンパも取ったが、命に関わる部分にかかっている所は取れなかった。他の臓器には転移していなかったのは、幸いだった。でも一度癌にかかった人は、みんな五年間は再発の可能性があると言われている。そのために早く体力をつけて、抗がん剤を使用するのが再発を防ぐ一番の方法だ。その人によって、生存率何パーセントかなんて、わからないんだよ。薬も大切だけど、免疫力も大切なんだ。」という事だった。
が、母と姉からは「あなたの場合、五年様子を見るというのはないんだよ。それは早期だった場合の話だ。」という事も聞いていた。だから、今後の方針というのは、抗がん剤の話だな、と思った。
それから時々、院長が私の病室に来て、「飲み薬と点滴の療法があるけれど、多分飲み薬になると思うから。点滴は・・・あまりにも危険だ。」と言ったり、「飲み薬と点滴と交互にやっていくかもしれない。」と言ったり、「やっぱり飲み薬になると思うから安心して。」と言ったりしてきた。先生同士で話し合って、方針が決まらないのかもしれない。


 


母との入浴

2008-10-24 22:17:09 | Weblog

手術後初めて、オプサイトを貼ったままの入浴が許された。
母が一緒に入って、髪と体を洗ってくれた。
この年齢で母に介護されるなんて、思ってもみなかった。
数年前、母が膝の手術で一時的に入院した時に、入浴介助を頼まれてやったことがある。
その時に母の年齢と、介護の必要性を感じたものだったが、今回は反対になってしまった。仕事を休んで遠い母の病院に行っていたので、あの時はとても迷惑でいやいややっていて、母にもつんけんしてしまっていたのだが、逆の立場になってしまった今、それはしてはいけない事だったと思う。
誰にでも、迷惑を掛けてしまう時はあるんだ、と痛感した。
母は私の背中を流しながら言った。「○○、病気になった事は、あきらめな。お母さんはね、事故じゃなくて良かったと思っている。事故だったらもう会えなかっただろう。気力だけは負けるな。」と。
オプサイト、A先生は入浴前に貼りなおすようにとナースに言っていたのに、あるナースの「入浴後に貼ったほうがいいんじゃない?」とのひと言で風呂上りに貼りなおす事に。後日、CTを撮った時に腹水ではない水が腹部に溜まっていた。先生は首を傾げていたが、私はその時のナースの不手際だったと思う。防水の為に先生は貼り直せと言っていたと思うのに、それをしなかったナースに不信感を覚えてしまった。


Sさんとの再会・そしてお別れ

2008-10-24 21:54:29 | Weblog
ナースセンターからの帰り、税務署のアルバイトをしていた時にお隣の席に居た、とっても意地悪で辛辣なSさんをある病室で見掛けた。元気そうで何か飲み物を飲んでいた。でもあの人は確か、大学病院に通っていた筈。何気にナースに訊いてみたところ、A先生が担当していた患者さんで、四月にA先生が大学病院から移ってきた時に、先生についてきたらしい。一ヶ月の内に、時々一週間とか十日職場に居ないなあ、と思っていたが、こうして、入院しているんだなあ、と思った。
それから数日後、またナースセンターからの帰り、Sさんを見掛けた。震える手で何かを飲んでいた。検査かな、と思った。向こうは私を見ていない筈だが、私がナースセンターから呼ばれる声は聞こえていたかもしれない。
その数日後、また病室の中にSさんを見掛けた。奥さんが付いていて、Sさんの苦しげな息遣いが聞こえてきた。かなり具合が悪そうで、奥さんが「わかる?わかる?」と話しかけているのが聞こえた。
その晩、ナース達がバタバタと忙しそうで、夜に誰も来なかった。誰か亡くなったのかもしれない、と思った。
そして翌日、Sさんの病室は空っぽになっていた。その翌日、外来の新聞の死亡広告欄にSさんの名前が載っていた。私はそっと冥福を祈った。と同時に同じ病気なので私も死を恐れながら、覚悟した。

ドレーン抜ける

2008-10-24 21:26:44 | Weblog
ドレーンを抜く日が来た。担当はA先生。抜くときは抜糸なので、また痛い思いをするのかと思ったら、意外に痛くなく、するっと抜けてくれた。が、まだ汚物がお腹に入っているようで、それを染みこませる為にかなり長い長いガーゼをまたお腹に入れられ、何の説明もなく一晩そのままにしておかれた。
やはりA先生は怖い。無言で仕事を進めていく。夜、ガーゼが血で染みていたので、取らなくても良いのかナースに訊いてもわからない様子で、先生も帰宅しておりそのままに。不安な一夜だった。
翌朝、またナースセンター内の処置室に呼ばれた。A先生が表面に貼ってたガーゼをとり、ドレーンの跡から少し出たガーゼをピンセットで取り、引っ張る。しゅるしゅると長い長いガーゼが血に染まって出てきて、それに国旗でも付いていたら、手品のようだった。A先生いわく、「このガーゼ、取り忘れたと思っていたでしょう。」と、何やら意地悪な言い方。私はムカッとして「はい!」と正直に答えた。先生は無言だった。後になってから実は良い先生だとわかったのだが、このころは私にとってこの先生は苦手な存在だった。ドレーンを抜いた後は、、「オプサイト」という透明なシールを貼ってくれた。
この時やっと、「これは人工肛門ではなかったんだ」とはっきりわかった。

妊婦に間違えられる

2008-10-24 21:11:59 | Weblog
院長先生の回診で、「手術日から10日間迄は、腸が腹圧で切れる可能性があったのだが、今日で10日め。だから、今日から腹圧をかけてOK」と言われた。
まだお腹にはドレーンが刺さり、先端から5cm以上飛び出ている。
そしてお腹周りには妊婦のようにさらしを巻いているので、お腹がカエルのように膨らんでいて、恥ずかしい。
ナースセンターからの帰りに、「あの人、妊婦なんだが!?」と私の事をナースにきいている男性患者がいた。失礼な・・・!
そして2日後、部屋替えがあり、私は手術後の患者の入る部屋から、3階の元気な患者さん達のいる特別室に移った。

抜糸

2008-09-18 11:42:57 | Weblog
翌朝早く、ナースセンターの中にある、傷の手当てをするベッドのある場所に呼ばれた。イキナリ、手術に立ち会ったA先生が「半分抜糸します。」と言う。トホホ、やっぱりやるのか。A先生は冷静沈着な若い先生で(3人の医師の中では)、大学病院から派遣されているという事と、外見から、何となく煙たい感じがしていた。
傷を見せて、両手をベッドのふちにしっかりとかけて、ぎゅっと強く握る。痛い!痛すぎる!!涙がにじむ。脂汗が噴き出す。
「構えないで!」と、ちょっと怒り気味の先生。構えるから痛いんだよ、と言いたげ。
が、こちらとしては構えようとなかろうと、どちらにしても痛いのだ。
「あと○本!」とか言いながら非情にも抜糸していく先生。「ま、まだ○本もあるの~!?」と思いながら、必死に痛みに耐えた。
やっと終わった。「・・ありがとうございました。」涙ながらに言ってその場を去った。

翌日、今度は副院長に半分残った糸を抜かれた。やはり同じように痛かったが、優しい先生という印象のせいか、少し痛みが和らいだような気がする。
それにしても、手術後約一週間で、パックリと切ったお腹がふさがり、糸を抜いても大丈夫なんて、不思議だと思った。

手術後一週間目

2008-09-18 11:25:09 | Weblog

それからは、お腹の傷が痛む度に、背中から繋がっている管から痛み止めを注入してもらった。これなしではかなり痛むらしい。医療の進歩に感謝、である。だが、姑はそれを見て私をせせら笑っていた。この人は本当に私を憎いらしいし、事態を理解していないらしい。さすがにナース(ここには珍しく、優しくて良い人)が、キッと姑をにらみ、「帰らないんですか!?」と言ってくれた。(帰れと言わんばかりに)

先生からはよく歩くか、ナースに体位をかえてもらうかするように、と言われたが、ドレーン袋と一緒の移動は、トイレへ行くのだけで精一杯だった。
そしてナース達は皆、忙しそうで、体位を変えてもらったのはただの一度だけであった。それなのに後で「どうして歩かないんですか!?」と担当のナースに責められ、嫌な気持ちになった。あまり良い病院ではないな、と思った。
手術して一週間後の夜、用事があってナースセンターへ行った。
すると、ナースが私の事を副院長に言っているのが聞こえた。「ねえ、今日抜糸って書いてあるよ。抜糸したら?」「ねえ!」なぜこのナースが副院長に友達のような口をきくのかわからなかったが、何もこんな時間に抜糸しなくてもいいし、本人の居る前で言わなくてもいいのではないかと思った。
「バシッ!」と何かファイルのようなものを乱暴に閉じるような音がして、「今日は抜糸しない!」と断言する、副院長の声が聞こえた。
副院長はおとなしそうで優しい先生である。
「良かった、こんな夜中に抜糸なんて、痛そうだし。」と私は内心ほっとした。


手術終わる

2008-09-01 21:27:25 | Weblog

「○○さん!」A先生の大きな声で、眼が覚めた。
うっすらと眼を開けると、ベッドの周りに母と姉と夫が居た。浴衣を着せられていた。
「今、鼻に管が入っていますが、それを取ってあげます。」と先生。そうなんだ、と思い、こっくりと、かすかにうなづいてみた。長い管が、私の鼻から取り去られた。
お腹に火が付いたような、熱い、ヒリヒリとした感覚。やはりお腹を切っただけある、と思った。
「喉からタンを出してもらいます。ゴホンゴホン、して下さい。」と、先生。
タンなんて出そうになかったので、軽くコホンコホンとセキをした。
「もっと強く!」とA先生が強い口調で言うので、ゴホン、という感じでセキをした途端、ズキンとお腹に激痛が走り、私は体をくの字にして、苦しんだ。
「もういいです。」と先生。そんな、痛かったよ、先生!と思った。
お腹から管が出ていて、その先が袋になっている。それはドレーンだったのだが、無知な私は、それが人工肛門ではないかと疑った。「これ、何ですか!?」と、私。
「お腹の中の、汚いものを出す管です。」との説明。
ドレーンが外される日までずっと、私はそれを人工肛門かも、と思い、それを覚悟していた。
その夜、高熱が出た。母と姉が付き添ってくれて、母に何度も保冷剤を交換してもらった。看護師さんが注射を打っても打っても、熱が上がってくる。つらい夜だった。


2006年9月 直腸癌手術

2008-08-30 15:51:04 | Weblog

手術室に入室し、台に乗った。大きな蜂の巣状のライトが私を見つめる。点滴針を刺した腕を乗せる台もある。が、ン!?腕を乗せる台が、反対側にあって、床から固定されてつながっている。
看護師さん達も気づき、針を刺した看護師さんを、笑いながら責め始めた
そして「もう一度やろうか~!?でも、かわいそうだから麻酔がきいた後で、院長先生に刺し直してもらおう!」という事になった。また痛い思いをせずに済むのはいいのだが、今頃気付いたのかふざけるな!と思うと共に、私は途端に不安になり、「看護師さんも新人ではなさそうだし、もしかして、ここの病院ではめったに手術が行われていず、慣れていないのではないか。」と思った。胃腸科の権威とはいえ、個人病院で、院長も70歳台と高齢である。どう見ても町医者、という感じで、病院自体、とても老朽化しており、手術室も暗くて不潔な感じである。患者層を見ても、悪いが、ガラの悪そーなおじさん達が多く、比較的元気そうな人達が多かった。
本当は、大学病院等、設備の整った病院で手術を受けたかった。
が、私の願いは聞き入れられず、姑の「近いから自分が来易い。」との理由と、院長がやる気マンマンで準備を進めていて、断れなかったという事で、そこの病院で手術する事になってしまった。
麻酔が始まった。チューブが口に差し込まれ、私の意識はすぐに遠のいていった。