ぴよママの直腸がん日誌

2006年、40歳で直腸癌3bと診断、開腹手術。大動脈周囲リンパ節腫大の為、抗癌剤で延命しているぴよママの身辺雑記です。

2006年9月 直腸癌手術

2008-08-30 15:51:04 | Weblog

手術室に入室し、台に乗った。大きな蜂の巣状のライトが私を見つめる。点滴針を刺した腕を乗せる台もある。が、ン!?腕を乗せる台が、反対側にあって、床から固定されてつながっている。
看護師さん達も気づき、針を刺した看護師さんを、笑いながら責め始めた
そして「もう一度やろうか~!?でも、かわいそうだから麻酔がきいた後で、院長先生に刺し直してもらおう!」という事になった。また痛い思いをせずに済むのはいいのだが、今頃気付いたのかふざけるな!と思うと共に、私は途端に不安になり、「看護師さんも新人ではなさそうだし、もしかして、ここの病院ではめったに手術が行われていず、慣れていないのではないか。」と思った。胃腸科の権威とはいえ、個人病院で、院長も70歳台と高齢である。どう見ても町医者、という感じで、病院自体、とても老朽化しており、手術室も暗くて不潔な感じである。患者層を見ても、悪いが、ガラの悪そーなおじさん達が多く、比較的元気そうな人達が多かった。
本当は、大学病院等、設備の整った病院で手術を受けたかった。
が、私の願いは聞き入れられず、姑の「近いから自分が来易い。」との理由と、院長がやる気マンマンで準備を進めていて、断れなかったという事で、そこの病院で手術する事になってしまった。
麻酔が始まった。チューブが口に差し込まれ、私の意識はすぐに遠のいていった。


2006年9月 手術前に

2008-08-30 15:28:59 | Weblog
手術は午後から始まる予定だったが、午前中から母と姉と夫が病院へ来てくれた。
私はとてもおびえていた。もしかして、人工肛門になってしまったらどうしよう、とも思った。
看護師さん(美人)が、陰毛をハサミでカットしてくれたが、引っ掛って痛い思いをした。そして手術用の服に着替えた。やる事は沢山あった。
もうこれで、まな板にのった鯉だ、と思ったら、病室にA先生と、先程の美人ナースが入ってきた。A先生は一見、40歳前半位で、診療部長という肩書きだが、大学病院から派遣されているらしく、いつも大学病院の名札を付けている。ついでに、ポストペットのモモちゃんのペンも、いつもポケットに挿している。なお、この先生は私の大腸内視鏡検査をして下さった人で、この後、手術をし、主治医となる事になる。
 何かと思ったら、A先生曰く、「○○さん、手術前の検査で、太い動脈から採血をしなくてはならないんだよ。それで、脚の内側の付け根から採らなくてはならないんだけど・・。」とすまなそうに言う。驚いた。手術前には必ずやる事らしいのだが、そんな拷問のような検査があるなんて、知らなかった。「もしかして、この看護師さんがやるのかしら。痛そう!」と思ったが、私はあきらめ、「はい。わかりました。」と言って、右脚をそうっと開いた。「ごめんね。」採血針を刺したのは、先生だった。痛かったが、一度ですぐに済んだ。
手術室に入る前に、点滴をした。私は血管が細いため、すぐに腕が腫れてしまう
何人もの看護師さんが代わり、やっと私の腕に点滴針がおさまった。

ガン告知

2008-08-28 22:17:51 | Weblog
一週間後、私は一人でS胃腸病院へ検査結果を聞きに行った。
院長先生は険しい顔をして言った。「大腸に大きな潰瘍が出来て、大きくなり過ぎてガン化している。腸閉塞になっている状態のところを無理に便が通過して、出血しているんだ。これはもう、手術して、その部分を切るしかない。手術自体は簡単な手術になる。明日から入院して下さい。手術日は9月7日です。」
「病名は何ですか?」「直腸癌です。」その瞬間、頭が真っ白になった。
泣きながら帰宅し、まず、明日から入院する事を夫の両親に伝えた。二人とも最初、テレビに夢中で私の話をまともに聞いてくれず、かなりしばらくしてからやっと話を聞いてくれたが、軽いものだと思ったらしい。「手術すればそれで終わりなんでしょう?」とか言って、かなり面倒くさそうだった。この態度は、手術後もずっと続く。
夫の両親とは別居しているものの、私はずっと、夫と、子供たちの為に、夫の少ない収入のやりくりをしたり、働いたりしてきて、家庭を支えて頑張ってきたのに・・・、と思うと悔しかった。
自分の実家にも電話で報告したが、母は祖母の介護で疲れ果てており、力なく「そうか。」と言ったきりだった。
自宅へ戻ると税務署からの郵便物が。開封すると、一応受けておいた非常勤職員の面接の採用通知書だった。採用が三年限度だという噂は嘘だったんだ・・・。けれど携帯にメールが沢山入っていて、他の、三年になる人達は採用にならなかったそうだ。
私が再雇用になったのは、真面目に仕事をしてきた結果だろうと思うが、ガンになってしまっては仕方がない。総務に電話して、採用を辞退した。「体調を崩してしまい、明日から入院する事になった。予後がわからないので今回は辞退させてもらいます。また機会がありましたら、その時はまたお願いします。」と。仕事は好きだったが、またの機会は、もうないと思われた。手術の事も言わなかった。
こうして、私は三年間勤めた職場を去った。

2006年8月 大腸内視鏡検査

2008-08-28 21:15:38 | Weblog
どこの病院へ行けばいいか迷ったが、「胃腸科の権威」と言われている先生の開業している個人病院へ行った。院長は70歳をとうに超えている白髪のおじいさんで、変な話、おじいさん先生だしベテランだから肛門診察されてもいいや、と思った。症状を言うと、先生の顔色が変わった。
痔は大したことないようだね。」肛門診察の後、院長は言った。女なので、横向きのシムス体位でやってくれた。
大腸内視鏡検査を明日、やりましょう。」内視鏡の予約は一杯だったのに、次の日に無理に入れてくれた。
 翌日、大腸内視鏡検査をやった。下剤はレモン味で少し冷やしてあって、意外と飲みやすかった。腸をキレイにした後、後ろがパックリ割れたパンツをはき、台に乗る。
 始まった。途中でお腹がつかえたようになり、痛くてたまらなくなった。あまりの痛さに体をひいてしまい、叱られる。「危ないからねー、体引かないでね。」と医師の声。看護師さんが手を握ってくれる。「頑張って。」その声に、痛さをこらえる事が出来た。
どの位時間が経ったろう。「ホラ!」医師の声が、モニターを私の方へ向け、見るように促す。そこにはものすごく大きなきのこ雲のような物体が映っていた。他に小さなものも、無数にある。

ポリープですか!?」無知な私は尋ねた。「細胞です。」と医師の声。同時に内視鏡からワイヤーが伸び、大きなものだけを切り、血しぶきがモニター上に飛び散った。終わった。検査結果は一週間後に出るという。
ポリープ切除後は一日入院のはずだが、何故か私は入院にならなかった。「おかしいな。」と思った。「あんなに大きなものがあったのに、なんで!?」と。
 夫や夫の家族は、大きなポリープがあった話をしても、入院しないので相変わらず「やっぱり大した事なかったんだろう。」という反応であった。
今思うと、病院の方では、どうせ入院・手術になるから身辺整理の為に帰宅させたようだ。

血性粘液

2008-08-27 21:49:26 | Weblog

それは忘れもしない、16年目の結婚記念日の事である。
家族で買い物に行った時にガスがこみ上げて来て、出してしまった。いわゆる「すかしっ屁」というやつである。が、なんと水様便のような物が出てしまったような感覚。「しまった!」と思い、WCに走った。
こんな経験は初めてである。WCでパンツを見たら、真っ赤な粘液が大量に付着していた。「病院にいかなくては。」そう思った。
夫に相談した。が、「痔だろう。鮮血なら、痔だよ。」というばかりで、取り合ってくれない。
夫も夫の母も痔で、よく便潜血検査で引っかかり、大腸内視鏡検査をして結局ポリープなし、という結果になるので、それと同じく考えていたのだろう。何度相談しても、取り合ってくれない。夫は新しい部署に移って、仕事で頭が一杯だったという事もある。
 
私自身、どこの病院へ行っていいのかわからず、また、診察する場所が場所だけに、「肛門診察」というのがとても嫌で、(シムス体位というのを知らず、仰向けに診察されるのだと思っていた。)行くのをためらった。

 また、予算の関係で仕事が7月一杯で契約打ち切りになるかも、との話もあったので、様子を見て、雇用契約が切られたら行こう、と思った。
そうしているうちに、便に毎日、筋の様に血性粘液が付着し、生理が来たりして、どっちの血か判らなくなったりした。が、その後も続いたので病院に行く事にした
夫と姑はまだ「病院に行く必要ない。」と言う。が、それを振り切って病院へ行った。


2006年6月 職場のトイレを紙で詰まらせる

2008-08-24 17:16:57 | Weblog
この頃、便通がおかしかった。
職場のWCで力み、便が途中まで出ている感覚があるのに出て来ず、用意していた紙だけ流していた。結構紙を流してしまったいたと思う。
数日後、総務課に非常勤職員全員が呼ばれ、「誰かWCを紙で詰まらせた人がいる。」
と言う。「業者に詰まりを直してもらったら大量の紙が出てきた。前にも一度、そういう事があったので、各自注意をするように。」という事だった。
その税務署は建物が古く、WCは管を継ぎ足して新設されたもので、詰まりやすかったようであるが、その後、長いバイトさんに「前にあなたと同じ課のSさんが大腸癌になった時にも、WCの管が詰まった事があるのよ。また病人が出なければいいけど。」という話を聞かされた。後で思うと、それはだった。
私と同じ課のSさんというのは、大腸癌でストーマを着けているという噂の50代の男性だった。意地悪で、毒舌で、辛辣な事ばかり言う人で、抗がん剤の治療の為か1ヶ月のうち、1~2週間も入院している職員さんだった。
しかも当時私の席のお隣で、私に意地悪ばかり言ってくるので私は大嫌いだった。
この人とは後々、同じ病院で再会してしまう事になる。

2006年4月 お腹が膨れてきた

2008-08-24 16:48:05 | Weblog
2月と3月に2つの資格を取得し、転職の準備が出来た事と、夫が単身赴任先から戻って来た事で、ストレスが軽くなり心に余裕を持つ毎日だった。
あの、2月の2度の腹痛からは、何事も無く、安堵していた。
が、4月頃、体重が変わらないのにお腹が膨れてきて、「中年太りかな?」と思いながら、ハードタイプのガードルをはいて出勤するようになった。
この頃、便通はあったが、ガスが出ると必ず異臭を感じるようになった。
今までは臭いときと臭くないときがあったのに、どうして・・・?と思った。

その頃

2008-08-24 16:27:42 | Weblog

その頃、私は資格取得の為の勉強をしていた。
税務署の非常勤職員は、ある時期を境に長く働くことは出来なくなった。
1~3ヶ月ごとの更新であったが、3年が限度だという噂も出ていた。
私は9月で3年に達するところだった。その間に雇用を打ち切られる人も
たくさん居た。理由は、わからない。
そのようないつ切られるかわからない職場に居た為、次を探す必要があり、
私は働きながら資格取得の為の教室に通った。
仕事を辞めて通えたらと、何度も思った。(その冬、何十年ぶりかの大雪と疲れの為)
しかし、夫が単身赴任していた為、生活費の一部を捻出する必要が有り仕事を辞める訳にはいかなかった。
そういう訳で、私は心に大きなストレスを抱えていた。深夜まで勉強していた為、常に睡眠不足で、免疫力もかなり落ちていたと思う。


2006年2月 それは悪夢の始まりだった

2008-08-23 21:36:07 | Weblog

予兆はあった。今思えばの話だが、それは、税務署の非常勤職員として働いていた頃、仕事中に2度、左腹部に激痛が走った。「何、これ!?痛~!」そんな痛みは初めてだった。腸の部分だった為、一瞬、「腸の・・もしかして癌だったりして!?」と思った。                         しかし、それ以後お腹の痛みは無くなった。「何だったんだろう。もしも癌であってもガン保険に入っているし、大丈夫だ。」と無理に自分を納得させて、月日が過ぎた。


ブログ始めました

2008-08-16 23:30:49 | Weblog
2年前の40歳の時に直腸癌3bと診断され、開腹手術。人工肛門は免れたものの、
その後大動脈周囲リンパ節腫大の為にずっと抗がん剤で延命している、ぴよママです。
2週間ごとの入院での点滴治療の為と、予後がわからないという事でなかなか思うようにいかないかもしれませんが、マイペースで続けられればと思っています。
みなさん、どうぞよろしくお願いします