ぴよママの直腸がん日誌

2006年、40歳で直腸癌3bと診断、開腹手術。大動脈周囲リンパ節腫大の為、抗癌剤で延命しているぴよママの身辺雑記です。

抜糸

2008-09-18 11:42:57 | Weblog
翌朝早く、ナースセンターの中にある、傷の手当てをするベッドのある場所に呼ばれた。イキナリ、手術に立ち会ったA先生が「半分抜糸します。」と言う。トホホ、やっぱりやるのか。A先生は冷静沈着な若い先生で(3人の医師の中では)、大学病院から派遣されているという事と、外見から、何となく煙たい感じがしていた。
傷を見せて、両手をベッドのふちにしっかりとかけて、ぎゅっと強く握る。痛い!痛すぎる!!涙がにじむ。脂汗が噴き出す。
「構えないで!」と、ちょっと怒り気味の先生。構えるから痛いんだよ、と言いたげ。
が、こちらとしては構えようとなかろうと、どちらにしても痛いのだ。
「あと○本!」とか言いながら非情にも抜糸していく先生。「ま、まだ○本もあるの~!?」と思いながら、必死に痛みに耐えた。
やっと終わった。「・・ありがとうございました。」涙ながらに言ってその場を去った。

翌日、今度は副院長に半分残った糸を抜かれた。やはり同じように痛かったが、優しい先生という印象のせいか、少し痛みが和らいだような気がする。
それにしても、手術後約一週間で、パックリと切ったお腹がふさがり、糸を抜いても大丈夫なんて、不思議だと思った。

手術後一週間目

2008-09-18 11:25:09 | Weblog

それからは、お腹の傷が痛む度に、背中から繋がっている管から痛み止めを注入してもらった。これなしではかなり痛むらしい。医療の進歩に感謝、である。だが、姑はそれを見て私をせせら笑っていた。この人は本当に私を憎いらしいし、事態を理解していないらしい。さすがにナース(ここには珍しく、優しくて良い人)が、キッと姑をにらみ、「帰らないんですか!?」と言ってくれた。(帰れと言わんばかりに)

先生からはよく歩くか、ナースに体位をかえてもらうかするように、と言われたが、ドレーン袋と一緒の移動は、トイレへ行くのだけで精一杯だった。
そしてナース達は皆、忙しそうで、体位を変えてもらったのはただの一度だけであった。それなのに後で「どうして歩かないんですか!?」と担当のナースに責められ、嫌な気持ちになった。あまり良い病院ではないな、と思った。
手術して一週間後の夜、用事があってナースセンターへ行った。
すると、ナースが私の事を副院長に言っているのが聞こえた。「ねえ、今日抜糸って書いてあるよ。抜糸したら?」「ねえ!」なぜこのナースが副院長に友達のような口をきくのかわからなかったが、何もこんな時間に抜糸しなくてもいいし、本人の居る前で言わなくてもいいのではないかと思った。
「バシッ!」と何かファイルのようなものを乱暴に閉じるような音がして、「今日は抜糸しない!」と断言する、副院長の声が聞こえた。
副院長はおとなしそうで優しい先生である。
「良かった、こんな夜中に抜糸なんて、痛そうだし。」と私は内心ほっとした。


手術終わる

2008-09-01 21:27:25 | Weblog

「○○さん!」A先生の大きな声で、眼が覚めた。
うっすらと眼を開けると、ベッドの周りに母と姉と夫が居た。浴衣を着せられていた。
「今、鼻に管が入っていますが、それを取ってあげます。」と先生。そうなんだ、と思い、こっくりと、かすかにうなづいてみた。長い管が、私の鼻から取り去られた。
お腹に火が付いたような、熱い、ヒリヒリとした感覚。やはりお腹を切っただけある、と思った。
「喉からタンを出してもらいます。ゴホンゴホン、して下さい。」と、先生。
タンなんて出そうになかったので、軽くコホンコホンとセキをした。
「もっと強く!」とA先生が強い口調で言うので、ゴホン、という感じでセキをした途端、ズキンとお腹に激痛が走り、私は体をくの字にして、苦しんだ。
「もういいです。」と先生。そんな、痛かったよ、先生!と思った。
お腹から管が出ていて、その先が袋になっている。それはドレーンだったのだが、無知な私は、それが人工肛門ではないかと疑った。「これ、何ですか!?」と、私。
「お腹の中の、汚いものを出す管です。」との説明。
ドレーンが外される日までずっと、私はそれを人工肛門かも、と思い、それを覚悟していた。
その夜、高熱が出た。母と姉が付き添ってくれて、母に何度も保冷剤を交換してもらった。看護師さんが注射を打っても打っても、熱が上がってくる。つらい夜だった。