goo blog サービス終了のお知らせ 

万世六兵太の乾坤一擲!

阪神と競馬を愛し、歴史を実学として学ぶ万世六兵太による単勝・複勝の競馬の展望・予想・勝負ブログ、日々のつぶやきも少々

ツイッター

沖縄旅行1日目

2019年02月07日 01時43分02秒 | その他
1月29~31日まで友人である局長氏と沖縄に旅行に行ってきました。
戦跡巡りの旅行ですが、色々回ってきたのを写真(タブレットにて撮影)を撮ってきました。

1月29日(火)
羽田空港にて局長氏と0750に待ち合わせ

局長「間違って成田に行っていないか気になりましたよ」

※実は自分が出発時に某新小岩で電車待ちの時成田方面に並んで途中で気づいたことは公然の秘密

ちゃっちゃと搭乗手続きを取って羽田から一路沖縄那覇空港に
3時間ほどで那覇空港に到着


出発時は気温が15度~18度と聞いていたので寒いかと思ったらかなり過ごしやすい
その後空港にてレンタカー会社への直通バスに乗りOTS(?)とかいうレンタカー会社へ

今回の旅行、局長が車を運転してくれました(自分は免許は持っているけど以下略なので)。
改めて局長には感謝。

そのあと昼食をとるために色々回っていると
局長「今日のお昼、沖縄のマックみたいなとこでいいです?」
万世「?。いいけど」

で昼食は某ショッピングモールのA&Wレストランのハンバーガー



このA&Wレストランというのは日本では沖縄県にしか存在しないらしい。
昔は近畿や東京、福岡にもあったらしいが撤退。再進出の計画もあったが撤退している。

クリームソーダとかA&Wブランドの飲料は輸入業者を通して発売。(日本国内では製造されていない)

局長「ここではA&Wのことを「エンダー」と言われているらしいですね」
万世「エンダアアアアアアアアア」
局長「(無視して)A&Wは「日本初のファストフードレストラン」で1号店である屋宜原店は1963年にオープンですし、マック(1971年)・ケンチキ(1970年)の日本進出より早いですね」
万世「沖縄県復帰をカウントするとドムドムハンバーガー(1970年)という見方もできるけどね。そうすると鎌倉幕府成立何年説みたいな感じになるのでまあどっちもありということでw」

(参考:A&Wの公式サイト)

昼食をとった後に海沿いをドライブしつつ海岸



海を眺めていると空港に近いせいか飛行機がビュンビュン飛んでくるという


ドライブ終わった後は最初の目的地である沖縄陸軍病院の南風原壕群20号と南風原文化センターに。



万世「南風原を見て一発で読める人っているのかな」
局長「まあいないでしょうね。これでどうやれば「はえばる」と読めるのでしょうね」
万世「原を「ばる」と読むくらいしかとっかかりがない。それにしても沖縄は難読地名が多い気はする」

(沖縄の難読地名の一部)
北谷(ちゃたん)喜屋武(きゃん)豊見城(とみぐすく)
保栄茂(びん)奥武山(おうのやま)西原(いりばる)西武門(にしんじょう)美作(ちゅらさく)今帰仁(なきじん)
東風平(こちんだ)東山(あがりやま)

万世「西原と西武門とか西を「いり」と読ませるのか「にし」と読ませるのかはっきりして欲しいと言いたくはなる」
局長「豊見城にお城あったら「とみぐすくぐすく」とかになるんでしょうかね」
万世「保栄茂とか昔の自民党の幹事長や官房長官にいそうな名前だし」
局長「それは保利茂(ほりしげる)です」

南風原町の由来は「南風が吹く豊かな土地」という意味で、南国ムードを感じさせるロマンチックな町と南風原町観光協会の公式サイトには書かれております。この南風原は沖縄戦に於いての戦争の傷跡をかなり残す場所というもう一つの顔があったりします

この南風原だけでなく、今観光地となってる箇所~例えば首里城など~も中世の琉球王国の歴史という部分もありますが、沖縄戦の激戦区となった場所という部分もあります。

何回か沖縄に訪問しておりますが、この南風原の陸軍病院に訪問するのは初めてです
南風原文化センターでまず歴史を見てから、実際合った沖縄陸軍病院の南風原壕群20号を廻ることに(因みに南風原の病院壕見学は予約が必要です)

DVDの個所以外は撮影可能ということなので撮影しつつ内部へ進むことに



樽を二人で担ぎつつ、炊事場から『飯上げの道』を通った女学生です。
炊事場で作られた握り飯を500m近くある病院壕まで『飯上げの道』を通って運びました。(飯上げの道に関しては後述)



病院壕で使われた日用品の一部です。




病院壕の寝台です。狭い壕の中の2段ベッド。湿度が高く、内部は暗く、臭い等が充満する手掘りの病院壕は当然ながら衛生環境としては最悪の部類でその中に負傷兵が押し込まれた形になります。

食事として先ほどの女学生が炊事場から運んできたおにぎりも配られますが、1食1個ではなく1日1個です。最初はテニスボールくらいの大きさだったのに、最後の方はピンポン玉の大きさになったと。


病院壕も最初は内科・外科・精神科などに分かれていたのですが、余りにも重傷者が多いため第1外科・第2外科・第3外科(全部外科じゃないか!)に編成替えをしたとのこと。



病院壕の中の手術室の様子です。医療品も不足しているので満足な治療はできず、麻酔なしの手術とか、あとは負傷箇所を鋸等で切り落とすというそれを手術と呼んでいいのか?というようなこともしていたとのこと。
軍医の人形のある背後の光は当時は蝋燭の火でした。資料館の為やや明るいですが、当時はかなり暗かった(というか見えない?)と推測されます。





戦況が悪化すると首里方面から南部(糸満市方面…ひめゆりの塔がある方)への撤退ということで自力歩行の患者を連れて撤退することになるのですが、その時連れていけない患者を「生きて虜囚の辱めを受けず」ということあるいは「捕虜になって情報が漏れるのを恐れる(?)」こともあってミルク入りの青酸カリで自決(自殺させること)に追い込んだということも。

病院ってある意味命を救える可能性のある場所なのに、命を奪う場所に…。

これに関しては第32軍がとか日本軍がということではなく、戦争という切羽詰まって窮地になったときに人はかくも残酷になれるのかということ、「大を生かすために小を殺す」(沖縄戦自体がある意味本土(大)から見たら沖縄は(小)ということになるが)の観点からこうするしかなかったのかということ、こういう状況に陥ったときに他国はどのような対応をするかなどの比較をしてみないとどう判断すればいいかわからないなど色々意見があるかもかわかりませんが、戦争に於いてはこういう事実もあるということです。
戦争は悲惨(当たり前だが)と簡単に片づけられない問題です。




奉安殿とその様子です。奉安殿には天皇陛下の御真影が収められています。


戦時中に行われた国民貯蓄運動。戦時における国民貯蓄というのは、戦争目的を遂行するために国家が必要とする国債の消化や生産力の拡充に充てるべき資金を蓄積。つまり貯蓄させてその資金を軍備に回そうということです。(顧客の預金を他に融資する形とみればわかりやすいでしょうか?)
国債なども買うことを奨励(半分強制)させました。なお戦争に負けて紙くずになった模様。



南風原における戦争の遺品です。




戦前・戦時に於ける学校や教育などの写真です。戦時中は小学甲は国民学校と言われてました



学童疎開についても。沖縄に於いては「対馬丸の悲劇」が有名でしょうか。(実は沖縄からの疎開船で沈められたのは『対馬丸』だけというのはあまり知られていないかもしれませんが)
ヤーサン ヒーサン シカラーサンとは「ひもじい 寒い(?) 寂しい」ですね。(記憶違いかもしれませんが)






この辺りは是非とも沖縄旅行で南風原に来た際に皆さんにじっくり見ていただきたいものです



移民開拓団。沖縄県からも満州や南洋諸島、戦争前は南米やアメリカにも多数の方が移民したとのこと


じっくり見て回っていたら「もう壕の見学のご予約のお時間ですが」という係員の方の声
まだ沖縄戦のところも69.75%くらいしか見ていないのに…。
「すみません。30分ほど遅れてよろしいですか」と

いうことで沖縄戦コーナーだけは全部見て、戦後は次回来た時にじっくり見るということにして
戦後の沖縄コーナーはざっとみて(おい)。壕へ。

30分あれば全部見られるだろうという人もいると思うのですが、壕へ移動するのにこの道を通るから
30分で見ることができないのです。この道というのが「飯上げの道」です




麓にある炊事場から病院壕のある個所に片道500mくらいの山道を1日に何回か(朝昼晩?)この道を通って女学生たちが樽に握り飯を詰めて砲弾(航空機による機銃掃射も含む)のさなかが飛び交う中、病院壕に輸送しました。

今でこそこのように整備されていますが、当時はこんなに舗装されておりませんし(そもそも当時そんな工業力あれば以下略)、移動しにくい道ですし、雨期になるときっとぬかるんで移動するだけでもかなり困難であったでしょう。その道を重さにして17キロ~20キロの飯入りの樽を運んだわけで、さらに砲弾や機銃掃射の中なわけですから。

17キロというのが想像しにくい方はコンビニ等で売っているペットボトル飲料。段ボールで24本入りの500mlペットボトルが12キロです。それより重いのを山道を女性が運んでいたわけです。





南風原の陸軍病院壕の碑です。
この南風原に陸軍病院壕を置いた理由としては、首里の後方ということもあるのでしょうが沖縄県で唯一海に面しない自治体というのもあるのでしょう(海に面しないということは艦砲射撃【戦艦などによる砲撃】が届く確率が減る)
なお、制空権はとられていたため航空機はバンバン飛んでくる模様






下2枚の下り道が当時の道を再現(それでも十分整備されているとは思いますが)していると言えるでしょう。
樽を担いで体験することもできるそうです


南風原の壕付近の碑です。軍医さんの読んだ詩とのことです。

いよいよ南風原の陸軍病院壕なのですが、じっくり見ていて写真を撮るのを忘れてしまいました。
ガイドの人がじっくり説明してくれて話を聞き入っていたというのもありますが、次回行ったときはこの内部写真をとってきます(おい)

詳しくは「南風原 陸軍病院」を検索してください。結構訪問されている方もいらっしゃり、記事や内容もここよりは遥かにいいです。

沖縄に何回か訪問させていただき、沖縄戦に於いては定番のひめゆりの塔、平和祈念公園などがありますが、どちらかというと自分の場合は激戦区であった嘉数高地、シュガーローフ、首里の32軍地下壕といったいわゆる軍事的なもの向けのほうに興味があってそっちに目移りしてしまいます。

一般の人が中高での平和学習等で戦争と平和の「平和」の部分について多くを学んでいくのに対し、自分はその時期にどうも「戦争」「軍事」という部分に重点をおいていたせいか「平和」に関する部分に関して希薄というかやや醒めた感じもあるのは否めません。
軍事的な視点でこうであるとか、戦争において非情で冷酷な部分についても。

ただ30を超えてから「歴史を学び軍事を学ぶのは何のためか」ということを考えるようになりそういう視点とともに改めて「平和」とは何ぞやというのも考えるようになって、軍事的や歴史的な視点とは違った視点や考えも必要であると。

そういうことにおいて自分にとって沖縄であるとか広島、長崎(まだ行ったことはないけど)は今まで自分にとって欠けていたものの再学習の場所になるのであろうかと。自分なりに沖縄などに訪問して戦跡や慰霊碑を廻るというのは

最後に南風原を廻った後に名護方面に行き桜を見てきました。
例年と比べると遅咲きとのことです




2日目に続く(のか?)

2019年を迎えて

2019年01月01日 14時35分58秒 | その他
毎年の初めには『今年こそはブログも再開しよう』と意気込みをしつつ結果は「英国は必ず約束を守ると断言した(約束を守るということを履行するとは言っていない)」という結果になっては自己嫌悪に陥る。



ブログのヘッドにツイッターがあるからいいやと思いつつも、やはり文章を何か書こうということで最低でも競馬記事だけは何とかしようということでブログを再開できればと思っている。

いつもながらのことで、2019年に勝負するレースを去年のうちに選定してそれを絞るとこうなる


◎は現地観戦をする ○は馬券勝負濃厚 △は馬券勝負するか微妙

通年は3歳戦はよくわからないので原則は参戦しないという方針だが、今年は3歳の牡馬牝馬クラシックは全部勝負レースにしようかと思う。
というのは2008年からブログをやって以来、オークスとダービーは複勝すら的中なしという成績である(NHKマイルもそうだが)
だから的中させたいという想いはある。

勝負するのはGⅠだけだが、前哨戦やTR等もしっかりと注視しようとは思う(毎週レース終わった後にちゃんみおの競馬辞める!ネタを楽しむだけでは能がない)

あと去年からUMACAなるものがJRAでできたとのこと
詳細はリンク先から見ていただくとして大雑把に言うと

○現金チャージすることでキャッシュレスで馬券購入できる
○競馬場等でクーポンがもらえる
○UMACA使用でオッズ確認や投票履歴が見られる
○結果確定で即時に払い戻し精算
○払い戻し残高は5年間有効(馬券は60日以内)
WIN5や海外競馬(JRA指定)ができる

色々なものがあるが、海外競馬の馬券を買うことができるというのが一番のメリット。
これでドバイWCや香港国際競走、BC、凱旋門賞、メルボルンCなども勝負できるようになる
ただそれでも香港国際競走には毎年行くのだが

ちなみにこれがUMACAである


12月28日に銀座WINSまで足を運びUMACAを登録してきました。
注意が必要なのは今現在はUMACAで馬券購入(払い戻し)する場所が限られているということ。

今現在は競馬場だと東京、福島、中京、阪神のみ
WINSだと銀座、難波、神戸のみ

競馬場は
京都…4月6日
函館…6月1日
小倉…6月29日
札幌・新潟…7月13日
中山…8月17日

という流れになる。中山が一番遅いのか(困惑

あと一度入金したお金が払い戻しできないという点。
これは投票専用残高と精算可能残高というのがあって
投票専用残高…馬券購入専用の電子マネー
精算可能残高…馬券が的中して払い戻しされる払戻金、または発走除外取消などでの返還金

「JRA銀行に預金したけど払い戻しがない」と揶揄されたが、UMACAの導入でJRA銀行に預金して(的中馬券が)払い戻しになるというのが形作られたとみていいだろうし、競馬の為の貯金をUMACAにチャージすれば転用不可の競馬貯金にはなるということで自身の競馬特定財源を作ることができるとみてもいい。そういう意味ではUMACAは自身の競馬資金を管理するという点ではいいかもしれないというのが企画院総裁の見解である。

毎月○○円競馬貯金するがこういう形でできるのはいいことなのかw
因みにGⅠレースは全部で26レースあるので1レース5000円なら×26で年間13万円競馬に使うということになる。
(毎週やっている人は13万じゃ済まないだろうけどw)
競馬を楽しむ私のようなナウでヤングなライトなファンは月1万5千円貯金で年間13万弱くらいが妥当であろうなぁと考えてしまう。

こんな感じで2019年の新年のあいさつに代えさせていただくことにする

2016年秋競馬について

2016年10月01日 09時55分56秒 | その他
どうも皆様、大変お久しぶりです。万世です
最近はツイッターやニコ生といった発信手段が発達しまして、自分の発信手段はそちらにほとんど移ってしまいましたが、一定のアクセス数があるのを見てこちらもすこしではございますが更新することにしました。

近況としましては、深夜勤務に異動したことと、歴史ネタにはまっていること、大洗にちょくちょくと行くことなどしております。
まあ今年は競馬には旅行ついでに大きなレース位しか手を出しておりません。

今年の秋に関していうと

天皇賞(秋)
JC
香港国際競争
有馬記念

の4つしかやらなくても大丈夫じゃないかという気もしてきますw
ですので明日のスプリンターズSはレースのみの見物になりそうです。
3000円くらいの威力偵察はするかもしれませんが(どっちだ?)

自分の1週間はこんな感じです

深夜と午前中が労働でいわゆる日中(9~17時)は仕事してません。

日中時間が空いていると休日という感覚がするので、あまり労働しているという感覚がありません。まあ労働している時間帯(深夜)は作業のみということもありますが。

あと日中時間が空いているので万が一病にかかった場合でも仕事終わった後病院にすぐに行けて仕事時間まで休めると利点もありますが、今のところ病らしい病をしていないというw

そんな感じで1週間を過ごしています。
歴史ネタを吐き出さないと死ぬ病気にかかっているのでしばらくは歴史ネタ>>競馬になりそうです。

ちょっと凱旋門賞に関して一言。
今年はダービー馬のマカヒキが凱旋門賞に出るということですが、正直ここを大敗したからと言って評価が落ちることはありません。
それに勝ったからと言って即日本最強というのも当てはまらないと思っております。

今までの日本馬は古馬になってからの凱旋門賞に挑戦という形でしたのでどうしても斤量(古馬は59.5に対して3歳馬は56キロ)の問題が立ちはだかってきました。

それに気づいたか最近は3歳での挑戦が増えてきましたので、10年もしないうちに日本馬が凱旋門賞を勝つであろうとは思います。

ただそうなると菊花賞が少し価値が落ちるのではないかという懸念もあります。じっさい英国三冠のセントレジャーSは英国ダービーの後に凱旋門賞に向かうとあって空洞化しているという問題もあります。

正直ここでマカヒキが勝ってしまうと、菊花賞の空洞化に拍車がかかるではないかという心配があります

まあ素直にマカヒキを応援したい一方で、日本競馬の空洞化・・猫も杓子も海外という風潮になるのはどうもなぁという想いです

ただ秋の競馬番組を見ると確かに冬は香港国際競争に押されるのも無理はないなというのも理解はできます。実際に見に行って香港国際競走は料理でいうとフルコース4連荘ですから楽しいですし、これの為にお金をためていきたいという気持ちがわいてきます。(その分うちの後輩が苦労するw)

秋の競馬番組をせめて、ジャパンカップに関していうなら今は賞金が一番多いレースというだけの現状は何とかしてほしいものです。

翻訳をやってみました

2016年03月06日 22時04分28秒 | その他
どうもお久しぶりです。万世です。

最近はスライダーが歴史(特に軍事)に振り切った状態で競馬をそっちのけでやっております(ちなみに次の勝負レースは高松宮杯)

と歴史にはまると同時に翻訳というものもやっております。
大学時代に知り合った先輩に独ソ戦ゲームのルールブックの翻訳をやってみないかという誘いを受けたのと、以前とある独ソ戦ゲームの翻訳をやっておりましたのでそれもあるのでしょう。

まあ日本だけでなく英文の軍事論文とか読めるなら、自分の持ちネタの幅も広がりそうですしやってみるのも悪くはないかと

で手始めに艦隊これくしょん(以下艦これ)の冬のイベントのラストステージのクリア報酬であったイタリアの重巡洋艦ザラを訳してみました

興味があるというのと日本版のwikiのザラの説明が英語のそれと比べると貧弱ではないかと感じました。

軍事関連でも日本、アメリカ、ドイツ、ソ連、イギリスくらいなら日本版wikiでも十分なのですが、イタリアになると資料が少ないので日本版wikiだと不十分なこともあるからです

ということでイタリアの重巡洋艦のザラについて訳してみました
(当然知識や英語能力が皆無なので訳が完全にあっているわけではありません)


Zara was an Italian Zara class heavy cruiser, which served in the Regia Marina during World War II. The cruiser was named after the Adriatic city of Zara (today Zadar).

ザラはイタリアのザラ級重巡洋艦でWWⅡ中イタリア海軍に所属していた。
アドリア海沿岸都市のザラ(今のクロアチアのザダル)から名付けられた


Regia Marina…イタリア海軍
Adriatic…アドリア海

Design(設計)

Zara was 182.8 meters long overall, with a beam of 20.62 m and a draft of 7.2 m.

ザラは全長182.8m、幅20.62m、吃水は7.2m

She displaced 13,944 long tons (14,168t) at full load, though her
displacement was nominally within the 10,000-long-ton (10,000 t) restriction set in place by the Washington Naval Treaty.

当時ワ海軍軍縮条約で重巡の排水量トンは1万t以内と制限されていたにもかかわらず13944tで、満載排水量トンは14168tに達していた
displaced…排水量を持つ
Washington NavalTreaty…ワ軍縮

Her power plant consisted of two Parsons steam turbines powered by eight oil-fired Yarrow boilers, which were trunked into two funnels amidships.

パーソン社の2基の蒸気タービンからなる動力源、ヤーロー式の8基の重油燃焼ボイラーを動力として、船の中央には2本の煙突がそびえたつ

Parsons…パーソン社
Yarrow…ヤーロー社
funnel…煙突

※power plantは動力源と訳すのが妥当か?

Her engines were rated at 95,000 shaft horsepower (71,000 kW) and produced a top speed of 32 knots (59 km/h).

95000馬力を持ち、最高で32ノットのスピードを出す
※Her enginesはエンジンはと訳すよりはItをそれと訳さないようなもので省略が妥当か?

She had a crew of 841 officers and enlisted men.

乗組員は841人の士官や下士官兵からなる

She was protected with a armored belt that was 150 mm thick amidships.

舷側の装甲は150㎜である

装甲帯
※これの訳に苦労しましたが、armored beltでなく「armor belt」で吃水線の装甲と訳すので、類推解釈でarmored beltをarmor beltにしてみました。

これShe was~thatは150mmの装甲を持つという関係代名詞w

Her armor deck was 70 mm thick in the central portion of the ship and reduced to 20 mm at either end.

デッキ部分の装甲は、中心部は70㎜だが、艦首と艦尾の装甲は20㎜になっている。

※either endで両側と訳すのだが、前の部分で舷側については触れているので、この両側は艦首と艦尾と訳すのが妥当かな?

The gun turrets had 150 mm thick plating on the faces and the barbettes they sat in were also 150 mm thick.

砲塔部分は上甲板、砲の台座部分ともに150㎜の装甲が施されている

gun turrets…砲塔
barbettes…砲座

The main conning tower had 150 mm thick sides.

艦橋も150㎜の装甲である

Zara was armed with a main battery of eight 203 mm Mod 29 53-caliber guns in four gun turrets.The turrets were arranged in superfiring pairs forward and aft.

MOD29の50口径連装20.3糎を4基、砲塔は前部と後部に2基ずつ配備されている。

main battery…主砲
caliber…口径
arranged…配置・配備

※「Zara was~four gun turrets.」を直訳すると「ザラは4つの砲塔にMOD29の50口径20.3糎砲8門を装備していた」になるがこれを言い換えると上のような文になるが問題はないとは思う。

Anti-aircraft defense was provided by a battery of sixteen 100 mm 47-cal.guns in twin mounts, four 40 mm guns in single mounts and eight 12.7 mm guns in twin mounts.

対空防御は連装47口径連装10糎砲を8基16門、4糎ポンポン砲4門、12.7㎜連装機銃が4丁ある

銃と砲の境目は20ミリ以下が銃、それ以上が砲ではないかといわれている

Anti-aircraft defense…対空防御
twin mounts…2連装

之もさっきの分と同じく直訳すると「100㎜砲16門で連装」連装機銃8基16門と言い換えても差し支えはないと思う

She carried a pair of IMAM Ro.43 seaplanes for aerial reconnaissance; the hangar was located in under the forecastle and a fixed catapult was mounted on the centerline at the bow.

また偵察の為にIMAM Ro.43の水上機を2機搭載しており、格納庫は船首楼の下にあり、固定カタパルトは艦首中央に備え付けられている

a pair of…2
seaplanes…水上機
forecastle…船首楼

Zara's secondary battery was revised several times during her career.Two of the 100 mm guns and all of the 40 mm and 12.7 mm guns were removed in the late 1930s and eight 37 mm 54-cal. guns and eight 13.2 mm guns were installed in their place.Two 120 mm 15-cal.star shell guns were added in 1940.

副砲はザラの経歴において何回か変更がなされている。10糎砲2門と40㎜砲、12.7㎜機銃は全部1930年代後半に取り外され、その場所に54口径Models 1932 3.7cm(54口径)機関砲連装砲8門、13.2㎜連装機銃4基8丁がつけられた。1940年に曳光弾仕様の15口径12糎砲が2門加えられた。

secondary battery…副砲
star shell guns…照明弾

※ただ武器としてなので照明弾よりは曳光弾のほうがしっくりくるのではないだろうか?

あと英訳の性能欄に
(1940年)
16x37mm/54 caliber Breda guns
8×13.2mm AA machine guns (4x2)

とありましたのでこれに照らし合わせるというのも一つの手か?

Construction(建造過程)

Zara's keel was laid down on 4 July 1928 at the Odero-Terni-Orlando (OTO) shipyard at Muggiano, La Spezia; she was launched on 27 April 1930, and her construction was completed on 20 October 1931.

1928年7月4日にMuggianoにあるOdero-Terni-Orlando (OTO)造船所で起工し、1930年4月27日に進水、1931年10月20日に竣工した

※造船所の地名などは英語そのままにしておいても可

During sea trials, Zara reached a speed of 35.23 kn (65.25 km/h;), but this was with the ship's machinery forced to give 120,690 shp (90,000 kW).This was not representative of in-service performance, however, and normal maximum at-sea speed was about 29 knots (54 km/h).

試運転で、ザラは35.23ノットを叩き出したが、これは機関に無理をさせ120690馬力を出させたからであり、公式記録ではない。航海速度としては約29ノットであった

Service history(艦歴)

Zara participated in the Spanish Civil War.
スペイン内戦に参加


1940
7 July: Battle of Calabria
7月7日…カラブリア沖海戦

19 July: Battle of Cape Spada
7月19日…スパダ岬沖海戦

1 September: Operation Hats
9月1日…ハット作戦

29 September: Operation MB 5
9月29日…MB5作戦

11 November: Night of Taranto
11月11日…タラント空襲

1941

On 28 March, in the battle of Cape Matapan, under commander Capitano di Vascello Luigi Corsi, the Zara was escorting the Battleship Vittorio Veneto, which had been damaged by an aerial torpedo and slowed down, to Italy.

1941年3月28日、マタパン岬沖海戦においてはLuigi Corsi大佐(艦長?)指揮のもとザラは航空攻撃で損害を受け速力が低下したヴィットリオ・ヴェネトを護衛しながらイタリアに向かった

Capitano di Vascello…大佐
Vittorio Veneto…ヴィットリオ・ヴェネト

The Zara class cruiser, Pola was damaged by a torpedo from a British
aircraft, and was also obliged to slow down and later stop.

ザラ級重巡ポーラは英空軍の攻撃を受け損害を受けこれもまた速力低下を余儀なくされ、程なく停止した。

The remainder of the Italian force headed towards home ports, leaving the ship, but at the coming of night, the Zara together with her sister-ship Fiume and four destroyers (Oriani,Alfieri, Carducci and Gioberti) of the IX Squadriglia were dispatched to the
Pola.

艦隊の残存艦船はポーラを置き去りにして母港に向かったが、夜を迎えるとザラと行動を共にしていた僚艦Fiumeと、Oriani、Alfieri、Carducci、Giobertiの4隻からなる第9駆逐隊は急いでポーラに向かって行った。

In a night action the unprepared Italian cruisers were taken by surprise by the radar-equipped British vessels.

夜間行動の慣れていないイタリアの巡洋艦はレーダー装備の英国艦船の奇襲を受ける形になった。

Three British battleships, HMS Barham, Valiant and Warspite, firing from as short distances as 2,000 m comprehensively outgunned the cruisers.

バーラム、ヴァリアント、ウォースパイトの3隻の英戦艦は2000mという至近距離から広範囲にわたって火力の劣るイタリア巡洋艦部隊に対して砲撃を加えた。

Zara and Fiume were struck several times within five minutes.Unable to recover the ship, the commander ordered the crew to scuttle and abandon Zara.

短時間でザラとFiumeは多数の砲撃が命中した。修復見込みのないとみて、艦長は乗員に自沈命令を下し、ザラからの退艦を命じた。

The Fiume and the ship they had come back for , the Pola, and two destroyers, Vittorio Alfieri and Carducci, were also sunk.

Fiumeとザラは沈没し、ポーラと2隻の駆逐艦もまた撃沈された

799 of Zara's 1,086 men were lost, among them her commanding officer Capt. Luigi Corsi and Admiral Carlo Cattaneo, commander of the 1st Naval Division of which Zara was the flagship.

ザラの乗組員1086人中799人が亡くなり、リイージ大佐とザラを旗艦とする第1戦隊の司令官Carlo Cattaneoも含まれる。


Most survivors were picked up by British destroyers in the following morning, some more by Greek destroyers on 29 March and the last ones were rescued by the Italian hospital ship Gradisca three days later.

生存者の多くは翌朝に英駆逐艦によって救助された。残りは3月29日に希駆逐艦により救助され、最後の救助者は伊病院船Gradiscaにより3日後に救助された

こんな感じで訳しましたが、地名や艦名、装備についてはそのまま訳した部分もあります。また何か翻訳できるものがあったら挑戦していきます。ただし軍事関連に限る

2015年の終わりのあいさつ

2015年12月31日 20時28分40秒 | その他
2015年がいよいよ終了の時が参ります。今年も当ブログを見ていただきありがとうございました。

ほとんどブログでなく。ツイッターやニコ生での活動が中心になっておりますが、来年は競馬記事に関しては最低でも勝負馬券と勝負レース回顧くらいは上げていくのを目標にいたします。



2015年の万世の30番勝負は7レースの回避はあったものの、無事にプラスで終了することができました。

ブログ開始の時と比べると勝負レースが明らかに減っていますが、自分の得意分野と予算と、あと競馬以外に自分がやりたいことのバランスを考えますと大部分のGⅠと古馬GⅡに集中するというやり方が一番合っているのかなというのがここ近年勝負をしてみた感想です。

来年の1月は中山金杯とAJCCが勝負レースとなります。

1月は主に2つのレース勝負と、2015年の簡単な回顧と、香港のレポートを出せればという感じで進めてまいります


では皆様よいお年を

ちょっと香港まで行ってきます

2014年12月13日 19時18分44秒 | その他
どうもです。ブログ主の万世です。
最近はTwitter更新が殆どですが生息はしております。

今年も香港に行ってまいります。今年は宿泊抜きで

土曜の深夜2500に羽田を出発⇒日曜の早朝に香港到着⇒競馬場で競馬観戦⇒日曜の深夜に香港を出発⇒月曜の早朝に羽田到着です

2011年から香港に4年連続行っており、ほとんど見る場所がなくなったというのもありますので競馬だけ見ることはできないものかとなんとか考えた末、自分の後輩が一晩でやってくれましたとw

今年も日本馬が出走しますが…

多分1勝もできないでしょうな

まあ日本馬の応援というよりはいつも通りの勝つ馬を当たるための勝負なので、香港馬だろうが、欧州馬だろうが勝つ馬に単勝と複勝をドバァというわけです

では行ってまいります。

※なお飛行機が落ちたらこれが最後の更新になる模様

2013年参議院選挙の予想

2013年07月20日 15時02分50秒 | その他
さて、競馬シーズンがややオフ状態になってきました。ただ、競馬に限らず何でも『予想をすること』が好きなので選挙予想をしてみました。

参議院選挙区は定数が146名、今回は半数改選なので選挙区は73席を争うことになります。

比例選挙区は定数96名、今回は半数改選なので48席。合計121席を争うことになります。

まあどれくらい当たるでしょうか…。

北海道・東北選挙区


もともと自民党層が強いと言われている東北地方ですが、TPPの関連もあって
自民が全勝できるか微妙になっております。
その象徴が山形選挙区ではないでしょうか…。あと東北選挙区の大都市部である
宮城にみんなの党がたっておりますが、自分は今回ここで議席をとるんじゃないかなと思っております。

関東選挙区


埼玉は民主が強いと言われておりますが、あまりにも民主党がひどすぎたので東日本で強いと言われるここで議席落とすのではないかと思っております。

ただみんなの党の候補が元民主党、みんなの党が前回の選挙で結構投票を得ておりますがみんなの党という看板だけで投票するのかなぁ…?

東京選挙区


自分の選挙区ですが、これもうわかんないなぁw。ここは山本太郎が当選するか否かじゃないのかな…。
何で前回衆院選落ちた候補が今回当落線上に上がるかねぇ…。

ここは自民党候補が2人出ておりますが、2つとれるのでしょうかねぇ…。

北陸選挙区


東海選挙区


近畿選挙区


ここは維新の金城湯池ですが、自分は選挙区は全滅するんじゃないかと思っております。もともと自分は某視聴好きではなかったので最初から評価はしておりませんでしたが、そろそろ化けの皮がはがれてきたのではと。

中国・四国選挙区


九州選挙区




多分こんな感じじゃないしょうか?
維新はたぶん選挙区では一つも取れないと思っております(願望込みで)

意外とみんなが議席を伸ばして民主より議席取れるかもというのが自分の予想です。

前回の選挙次点が多かったですし…。

ということで簡単な選挙予想でした。

あと21日の3時からこちらの企画で生放送をやらせていただきます。

内容は選挙予想と、あとは憲法改正で行われる可能性のある徴兵制についての話をする予定です。

結局一つになりました(笑)

2012年07月18日 22時59分35秒 | その他
自分には競馬ブログのほかに、歴史ブログもやっておりました。

ただ『万世六兵太の乾坤一擲より始めよ』というニコニコ生放送で歴史系雑談をそれを補えてしまって、結局歴史系ブログが開店休業になってしまったので、歴史系ブログは閉鎖して、こっちの競馬ブログ一本でやっていこうと。

まあ競馬ブログも最近は競馬をやる回数も少なくなったし、動画をあげるようになったのでこっちも開店休業になりつつあるので、競馬と歴史系を両方こっちでやっていこうと。

まあカオスなブログ内容になると思いますがよろしくお願いいたします。

合流したからブログタイトル変えようと思いましたが、このタイトルが気に入っているので変えずに行きます。

まあ日本人は名前変えるのとか名称変えるの好きだからなぁ。

大蔵省をなんで財務省に名称を変えたんだろうとか、競馬新聞の『一馬』が何で『優馬』に変わったんだろうとか思うw

大蔵省官僚のノーパンしゃぶしゃぶの件があったから『大蔵省=ノーパンしゃぶしゃぶ』というイメージになるから変えたわけじゃあるまいな。ただ大蔵省が財務省に変わるときに、予算編成権が建前上『経済財政諮問会議』に移されて、金融行政は『金融庁』の管轄となったから名称だけ変わったとは言い難いが…。

しかし『一馬』が『優馬』に変わったのはすごい謎だ。

名前変えたって内容が変わったわけでもないし、予想的中が上昇したわけでもないし…。

ちなみに戦時中に書かれた暗黒日記ではこんな記事がある

31日に熱海山王ホテルに過し、7日午後帰宅。
『ジャパン・タイムス』が『ニッポン・タイムス』に改名、『東京日日新聞』が『毎日新聞』に改名。バタビアがジャカルタに改名-マレイがマライに。名前をかえることが一番な自己満足だ。

文化は交流により発達するか、それとも純粋を保つことにより発達するか。後者なればナチスは最善の政策だ。ドイツはすでにドストエフスキーの文学などを禁止したとのことだ。


この日記から考えるなら日本人がやる名称の変更って自己満足の部分が強いのかな?

まあ芸人でも何らかの理由で改名する人いるしなぁ。

『海砂利水魚』最近見かけないなぁと思ったら改名していたとかね。

野口英世も改名したけど、せんだみつおみたいに2000年だけ「にせんだみつお」とかにしたのは大いに変だ。

※ちなみに野口英世が改名する前の名前は野口清作で、改名したきっかけは、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意した。小学校の頃の恩師である郷里の小林先生に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた。

暗黒日記の後半の「文化は~」の部分は読み方や受け手によっては非常に誤解されやすいのではないだろうか?

日記の『ナチスは最善の政策だ』という部分を持って暗黒日記の作者をナチス信奉と受け取る人とかいそうだ。

あくまでも『文化は交流により発達するか、それとも純粋を保つことにより発達するか』というテーマで、もし前者ならということなのだが、2000年の当時の森首相の『神の国発言』を問題にするところをみると、この文章だけで誤解する人は間違いなくいるだろうな。

夏競馬大会締切

2012年07月14日 18時06分14秒 | その他
夏競馬大会『乾坤一擲の夏競馬』に丁度20名様参加登録いただきました。

まさかこんなに参加いただけるとは思いませんでした。

ということで20名様のところで参加登録締め切りさせていただきます。
(本日14日にハマのジョーさんが登録したところまでで締切)

これ以降登録されても除外になりますのでご了承ください。