河竹黙阿弥に『木間星箱根鹿笛』(このまのほし はこねのしかぶえ)という芝居がある。士族の娘おさよが夫の九郎兵衛にだまされ、身を売って貢いだあげくに箱根の山中で惨殺される。それからというもの、九郎兵衛の前には夜な夜なおさよの幽霊が物凄い形相で現れ、ついに九郎兵衛は狂乱して破滅してしまうという話。ところがこの幽霊は九郎兵衛一人の目にしか見えず、周囲の人々は九郎兵衛の「神経病」から来た幻覚だろうと言う。
上演は明治十三年。ちょうどこういう「幽霊=神経病」説が大いに流行した時代だった。文明開化の新時代、おばけだの幽霊だの、旧弊な迷信を信じていてはいけない。世の中のすべての事柄は科学で説明できるものだ。西洋からどっと入ってきた最新の知識をバックに、おばけや幽霊は心の迷い、すなわち神経病のしわざだと決めつけられた。オーソドックスな怪談物のように見えながら、この「幽霊=神経病」説というハイカラな考え方を持ち込んだのが、この芝居のミソだった。
神経病説の権化として登場するのが、九郎兵衛の弟の与七。士族の商法で落ちぶれ果てた兄とは違い、開化の波に見事に乗って、茶葉の商いで大成功した。新時代にふさわしい知識を身に付けた弟は、兄の訴えにも「見えるというが心の迷い、神経病でござります」と繰り返すばかりだ。
しかし黙阿弥が本当に描きたかったのは、この目端の利いた当世風の人物ではなかった。むしろ江戸の尻尾をお尻にくっつけたまま、どこか居心地の悪い明治の世を生きなくてはいけない人たちだった。九郎兵衛の悩乱を目のあたりにした人たちが、へっぴり腰ながら口を揃えて神経病説に異議を申し立てている。
「開化の人はないというが、こうしてみると」
「あるようだ」
つまりはこういうことだろう。いくら幽霊を否定したって、見える人には確かに見えるのだからしかたがない。それを幽霊と呼ぼうが神経病と呼ぼうが構わない。結局おばけの出るのに違いはないじゃないか。
黙阿弥と同時代を生きた名人三遊亭円朝も、皮肉交じりにこんなことを言っている。
「狐に魅(ばか)されると云う事は有る訳の物で無いから神経病、又天狗に攫(さら)われると云う事も無いから矢張(やっぱり)神経病と申して、何でも可畏(こわ)いものは皆神経病に押付(おっつけ)て仕舞ますが、現在開けた博識方(えらいかた)で、幽霊は必らず無いものと定めても、鼻の先へ怪しい物が出ればアッと云って尻餅を搗(つ)くのは、矢張神経が些(ち)と怪しいので御坐いましょう」(『真景累ヶ淵』)
なんとも奇妙な時代だった。エラい役人や先生方が力こぶを入れて「おばけなどいないのだ」と言えば言うほど、その裏をかくようにして巷をおばけが徘徊する。暦にしてからがそうだ。明治五年、暦のよりどころがお月様からお日様に変わった。ついでに日々の吉凶をもっともらしく占う暦注も、旧弊のきわみとして排除された。迷信だらけの古臭い暦はその発行を禁ず。お上のこしらえた正しい暦だけを使うべし。ところが世間ではあいかわらず陰暦・旧暦が幅をきかせ、迷信ばかりを集めて固めたようなモグリの暦が神出鬼没に出回った。その名もズバリ「おばけ暦」。
いつの世も、表があれば裏がある。とりわけ人々を支えてきた価値観が大きく揺れ動く時代には、新旧の考え方の食い違いが具体的な形となって世間のあちこちに出現する。存在しないはずのものが現に目の前にある。存在してはならないものがだしぬけに現れる。人は時にそれを「おばけ」と呼ぶのではないだろうか。
元号が変わり法律が変わったからといって、人々の暮らしや感覚がいきなり一変するわけはない。芝居に登場する幽霊も、はたまた誰がこしらえたかわからない「おばけ暦」も、それが人々にとってどうしても必要だったから出現したまでのことだ。人々のそういう正直な、やむにやまれぬ気持ちを、いつの世も「おばけ」は代弁してきた。黙阿弥は、そんなおばけのウロウロする人の世を、江戸と明治にまたがってじっと見詰め続けた人だった。
(前進座『明治おばけ暦』公演プログラム 2011.10前進座劇場、2012.1南座)
上演は明治十三年。ちょうどこういう「幽霊=神経病」説が大いに流行した時代だった。文明開化の新時代、おばけだの幽霊だの、旧弊な迷信を信じていてはいけない。世の中のすべての事柄は科学で説明できるものだ。西洋からどっと入ってきた最新の知識をバックに、おばけや幽霊は心の迷い、すなわち神経病のしわざだと決めつけられた。オーソドックスな怪談物のように見えながら、この「幽霊=神経病」説というハイカラな考え方を持ち込んだのが、この芝居のミソだった。
神経病説の権化として登場するのが、九郎兵衛の弟の与七。士族の商法で落ちぶれ果てた兄とは違い、開化の波に見事に乗って、茶葉の商いで大成功した。新時代にふさわしい知識を身に付けた弟は、兄の訴えにも「見えるというが心の迷い、神経病でござります」と繰り返すばかりだ。
しかし黙阿弥が本当に描きたかったのは、この目端の利いた当世風の人物ではなかった。むしろ江戸の尻尾をお尻にくっつけたまま、どこか居心地の悪い明治の世を生きなくてはいけない人たちだった。九郎兵衛の悩乱を目のあたりにした人たちが、へっぴり腰ながら口を揃えて神経病説に異議を申し立てている。
「開化の人はないというが、こうしてみると」
「あるようだ」
つまりはこういうことだろう。いくら幽霊を否定したって、見える人には確かに見えるのだからしかたがない。それを幽霊と呼ぼうが神経病と呼ぼうが構わない。結局おばけの出るのに違いはないじゃないか。
黙阿弥と同時代を生きた名人三遊亭円朝も、皮肉交じりにこんなことを言っている。
「狐に魅(ばか)されると云う事は有る訳の物で無いから神経病、又天狗に攫(さら)われると云う事も無いから矢張(やっぱり)神経病と申して、何でも可畏(こわ)いものは皆神経病に押付(おっつけ)て仕舞ますが、現在開けた博識方(えらいかた)で、幽霊は必らず無いものと定めても、鼻の先へ怪しい物が出ればアッと云って尻餅を搗(つ)くのは、矢張神経が些(ち)と怪しいので御坐いましょう」(『真景累ヶ淵』)
なんとも奇妙な時代だった。エラい役人や先生方が力こぶを入れて「おばけなどいないのだ」と言えば言うほど、その裏をかくようにして巷をおばけが徘徊する。暦にしてからがそうだ。明治五年、暦のよりどころがお月様からお日様に変わった。ついでに日々の吉凶をもっともらしく占う暦注も、旧弊のきわみとして排除された。迷信だらけの古臭い暦はその発行を禁ず。お上のこしらえた正しい暦だけを使うべし。ところが世間ではあいかわらず陰暦・旧暦が幅をきかせ、迷信ばかりを集めて固めたようなモグリの暦が神出鬼没に出回った。その名もズバリ「おばけ暦」。
いつの世も、表があれば裏がある。とりわけ人々を支えてきた価値観が大きく揺れ動く時代には、新旧の考え方の食い違いが具体的な形となって世間のあちこちに出現する。存在しないはずのものが現に目の前にある。存在してはならないものがだしぬけに現れる。人は時にそれを「おばけ」と呼ぶのではないだろうか。
元号が変わり法律が変わったからといって、人々の暮らしや感覚がいきなり一変するわけはない。芝居に登場する幽霊も、はたまた誰がこしらえたかわからない「おばけ暦」も、それが人々にとってどうしても必要だったから出現したまでのことだ。人々のそういう正直な、やむにやまれぬ気持ちを、いつの世も「おばけ」は代弁してきた。黙阿弥は、そんなおばけのウロウロする人の世を、江戸と明治にまたがってじっと見詰め続けた人だった。
(前進座『明治おばけ暦』公演プログラム 2011.10前進座劇場、2012.1南座)