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おばけの芝居、おばけの時代

2014-08-26 | 伝統芸能
河竹黙阿弥に『木間星箱根鹿笛』(このまのほし はこねのしかぶえ)という芝居がある。士族の娘おさよが夫の九郎兵衛にだまされ、身を売って貢いだあげくに箱根の山中で惨殺される。それからというもの、九郎兵衛の前には夜な夜なおさよの幽霊が物凄い形相で現れ、ついに九郎兵衛は狂乱して破滅してしまうという話。ところがこの幽霊は九郎兵衛一人の目にしか見えず、周囲の人々は九郎兵衛の「神経病」から来た幻覚だろうと言う。
上演は明治十三年。ちょうどこういう「幽霊=神経病」説が大いに流行した時代だった。文明開化の新時代、おばけだの幽霊だの、旧弊な迷信を信じていてはいけない。世の中のすべての事柄は科学で説明できるものだ。西洋からどっと入ってきた最新の知識をバックに、おばけや幽霊は心の迷い、すなわち神経病のしわざだと決めつけられた。オーソドックスな怪談物のように見えながら、この「幽霊=神経病」説というハイカラな考え方を持ち込んだのが、この芝居のミソだった。
神経病説の権化として登場するのが、九郎兵衛の弟の与七。士族の商法で落ちぶれ果てた兄とは違い、開化の波に見事に乗って、茶葉の商いで大成功した。新時代にふさわしい知識を身に付けた弟は、兄の訴えにも「見えるというが心の迷い、神経病でござります」と繰り返すばかりだ。
しかし黙阿弥が本当に描きたかったのは、この目端の利いた当世風の人物ではなかった。むしろ江戸の尻尾をお尻にくっつけたまま、どこか居心地の悪い明治の世を生きなくてはいけない人たちだった。九郎兵衛の悩乱を目のあたりにした人たちが、へっぴり腰ながら口を揃えて神経病説に異議を申し立てている。
「開化の人はないというが、こうしてみると」
「あるようだ」
つまりはこういうことだろう。いくら幽霊を否定したって、見える人には確かに見えるのだからしかたがない。それを幽霊と呼ぼうが神経病と呼ぼうが構わない。結局おばけの出るのに違いはないじゃないか。
黙阿弥と同時代を生きた名人三遊亭円朝も、皮肉交じりにこんなことを言っている。
「狐に魅(ばか)されると云う事は有る訳の物で無いから神経病、又天狗に攫(さら)われると云う事も無いから矢張(やっぱり)神経病と申して、何でも可畏(こわ)いものは皆神経病に押付(おっつけ)て仕舞ますが、現在開けた博識方(えらいかた)で、幽霊は必らず無いものと定めても、鼻の先へ怪しい物が出ればアッと云って尻餅を搗(つ)くのは、矢張神経が些(ち)と怪しいので御坐いましょう」(『真景累ヶ淵』)
なんとも奇妙な時代だった。エラい役人や先生方が力こぶを入れて「おばけなどいないのだ」と言えば言うほど、その裏をかくようにして巷をおばけが徘徊する。暦にしてからがそうだ。明治五年、暦のよりどころがお月様からお日様に変わった。ついでに日々の吉凶をもっともらしく占う暦注も、旧弊のきわみとして排除された。迷信だらけの古臭い暦はその発行を禁ず。お上のこしらえた正しい暦だけを使うべし。ところが世間ではあいかわらず陰暦・旧暦が幅をきかせ、迷信ばかりを集めて固めたようなモグリの暦が神出鬼没に出回った。その名もズバリ「おばけ暦」。
いつの世も、表があれば裏がある。とりわけ人々を支えてきた価値観が大きく揺れ動く時代には、新旧の考え方の食い違いが具体的な形となって世間のあちこちに出現する。存在しないはずのものが現に目の前にある。存在してはならないものがだしぬけに現れる。人は時にそれを「おばけ」と呼ぶのではないだろうか。
元号が変わり法律が変わったからといって、人々の暮らしや感覚がいきなり一変するわけはない。芝居に登場する幽霊も、はたまた誰がこしらえたかわからない「おばけ暦」も、それが人々にとってどうしても必要だったから出現したまでのことだ。人々のそういう正直な、やむにやまれぬ気持ちを、いつの世も「おばけ」は代弁してきた。黙阿弥は、そんなおばけのウロウロする人の世を、江戸と明治にまたがってじっと見詰め続けた人だった。
(前進座『明治おばけ暦』公演プログラム 2011.10前進座劇場、2012.1南座)

「助六」を生んだ吉原の地霊

2014-08-26 | 伝統芸能
吉原を描いた歌舞伎といえば、『助六由縁江戸桜』にとどめを刺すだろう。男伊達の花川戸助六が恋人の三浦屋揚巻のもとに通いつつ、毎夜吉原で喧嘩沙汰を繰り返す。この助六が実は曽我五郎で、喧嘩をしかけるのも宝物の刀を捜索するためだった、というのがあらすじといえばあらすじ。なにしろノーカットで上演すれば三時間はかかるという超大作で、主役の助六・揚巻はほとんど出づっぱりだし、登場する役者の数や衣裳の豪華さもハンパではない。つまり仕込みも上演も非常に大変な芝居なのだが、現在では二時間ほどの短縮版で、二、三年に一度くらいはお目にかかることができる演目になった。
しかし少なくとも大正の頃までは、「助六」の上演は今日とは比べものにならないほどのおおごとだった。歌舞伎十八番の一つ「助六」は市川團十郎家のお家芸だが、明治の名優・九代目團十郎は生涯に四度しか演じていない。そもそも「助六」は、芝居の世界だけでは収まりきらない大掛かりな「祭り」だったのだ。
いざ「助六」がかかるとなれば、芝居町、吉原、魚河岸、蔵前の札差たちが一丸となり、自分たちのメンツをかけて一大イベントを繰り広げるのが江戸時代以来のならいだった。とりわけ芝居の舞台となる吉原の力の入れようは大変なものだった。
「助六」の上演が決まると、助六と揚巻をつとめる役者は、比翼の紋のついた羽織袴で、各業界の顔役に挨拶をして回る。世話人は吉原仲之町の茶屋・山口巴から出た。行く先々では旦那衆から芸妓・幇間まで、ことごとくに羽織や帯などの贈り物をする。
これを迎える吉原の茶屋・妓楼、魚河岸、蔵前からは、引幕、箱提灯、助六の象徴である江戸紫の鉢巻に蛇の目傘、下駄、足袋、要するに舞台まわりの品々をそれこそ山のように贈った。吉原から芝居町まで、幇間らの行列が景気よく練り歩いて運び込んだが、助六が登場の時にさす傘だけでも数百本という量だから、舞台で毎日とっかえひっかえ使っても到底使いきれない。真新しい進物の数々は芝居小屋の木戸前に飾り付けられ、ただでさえ華やかな芝居町を一層浮き立たせた。
世が変わって明治となっても、その遺風はまだまだ残っていた。明治二十九年四月、九代目團十郎が最後に助六を演じたときの時の賑わいが記事に残っている。
まず芝居茶屋は軒並みに屋号入りの柿色の暖簾を掛ける。紋は杏葉牡丹と揚巻結びが左右対に描いてあるが、柿色も杏葉牡丹も市川家のトレードマークだ。正面には吉原から贈られた提灯をびっしり二段に掛け連ね、その下には数えきれないほどの引幕を陳列した。客席でも引手茶屋の名を染め出した暖簾を桟敷の下に飾りつけ、さながら吉原の出張宣伝所という眺めを呈した。
八日には仲之町から数百人が総見に押し出した。幇間たちは、助六すなわち團十郎から贈られた黒縮緬・杏葉牡丹の紋付羽織で勢揃い。團十郎の助六が登場し、花道での振りを終えて本舞台にかかると、やおら幇間一同がずらりと花道に並び、古例にのっとって「褒め詞」を述べたてた。
「吉原雀のそれならで、口ばし青きわれわれが」
「古例に任せおこがましくも、花の歌舞伎の花道で」
「江戸市川の助六さんを、一番ここで誉めやんしょう」
今の劇場では想像もつかないが、かつては芝居の真っ最中に贔屓連中が花道に登場し、「○○さんを誉めやんしょう」とお目当ての役者に賛辞を送る趣向があった。洒落を尽くした褒め詞がすむと、舞台上の役者も総立ちでシャンシャンと手打ちになり、それからおもむろに芝居の続きが始まるという具合。別の日には魚河岸の連中も総見を行い、花道に立ち並んで浄瑠璃の河東節連中から挨拶を受けた。芝居の冒頭に登場する口上役が、鉢巻を贈られた御礼を助六に代わって丁重に述べ、魚河岸の贈った引幕と同じ図柄の手拭いが見物客にも振る舞われた。
このときの上演では、團十郎の高尚趣味からか、助六・揚巻の超リアルな痴話喧嘩シーンがそっくりカットされたが、それでも芝居の部分だけで二時間四十六分かかったそうだ。大相撲を「スポーツ」ととらえることに致命的な誤りがあるように、「芝居見物」と「演劇鑑賞」とはぜひとも分けて考えなければならない。とりわけ「助六」は「芝居見物」の方の代表のような芝居だった。初日の明くずっと前から、もう町をあげての芝居が始まった。人々は、ただ舞台上の助六を見るためだけではなく、吉原から吹いてくる浮き浮きした風を吸い込むために足を運んだ。その賑わしさ、大らかさ、のどやかさ。
歌舞伎の舞台装置は、色使いは派手であっても簡略をもって旨とする。「助六」もなんとなく豪奢な舞台という印象があるが、実は舞台装置としては至極簡単なものだ。背景は新吉原三浦屋の見世先。格子が全面に組まれた、妓楼の中でも最も格式の高い「総籬」だが、大道具としては極めて単純で平面的である。「三浦屋」と大きく染め抜いた暖簾がアクセントになるのと、桜の釣り枝がふんわりした気分を引き立たせてくれるばかり。
重要なのはその前に配置される人間たちだ。テーンと太鼓が入り、カン高い唄と三味線に乗って傾城、禿、新造、遣手、男衆が登場すると、そこにたちまち極彩色の吉原が出現する。劇評の大御所饗庭篁村が「僕は吉原も衰へかかつた時より知らないが、夫(それ)でも真個(ほんとう)の道中を見馴れて居てさへ芝居の花魁道中の花やかさ」(『演芸画報』大正四年五月)と言うように、まがい物ゆえの華麗さが歌舞伎の身上である。浴衣一枚ひっかけただけのくわんぺら門兵衛や、茶色・鼠色・黒で構成される遣手といった、地味なデザインの人物が混じるところがまた心憎い。ひとつまみの塩がお汁粉をうんと甘くするようなものだ。
ところがひしめいていた人間たちがゾロゾロとハケてしまうと、舞台は一気に寂しくなり、ここで大道具の簡素がぐっと生きてくる。「助六」は、人の出入りによって実に巧妙に時間の経過を感じさせる芝居だ。ことに華やかを極めた幕明きの宵の口から、一つ一つの場面が終わり、人が入れ替わるたびに次第次第に夜の闇が深まっていく具合。誰ひとり味わったことのない吉原のしんとした夜の空気を、これだけ身にしみて想像させるのは不思議としか言いようがない。
意休と二人きり、床几に腰かけた揚巻が「アレアレ意休さん、なんとマア、たんとあるお星さんじゃないかえ」「あのお星さんを幾つあるか、お前数えて見さんせんかえ」と劇場の三階席を見上げると、ひんやり湿った春の夜気に頬をなでられるような気がする。人声が一枚一枚はがすように消えていき、そろそろ寝静まろうという廓の寂しさ。享楽の向こうに見えてくる人間の滑稽さ、もの哀しさ。
夜は人を内省的にする。それこそ星の数ほどの男と女が、入れかわり立ちかわり行き来した吉原のことだ。江戸に憂愁だの煩悶だのという言葉がなくとも、人それぞれ深い想いに沈む瞬間はあっただろう。吉原の夜にはそうした人の想いが堆積している。その土壌から、しかしそれには素知らぬ顔をして、「助六」という突拍子もなく美しい花が咲いた。同じ吉原の芝居でも、うんと「演劇」に近付いた『籠釣瓶花街酔醒』(明治二十一年)に、この奇妙な感覚はない。
お定まりの「江戸っ子の粋」「胸のすく啖呵」というキャッチフレーズも結構なものだが、むしろ私には「助六」の舞台に江戸吉原の地霊がうごめいているように見えてならない。吉原が町をあげて「助六」に肩入れしたのも、単に「助六」が吉原を舞台にしているからとか、芝居と廓はともに悪所だったからとかいう説明だけでは片付けられないのではないだろうか。
助六、揚巻、意休という、世にも異様な風体をした異形の者たちが、何かというと罵倒し、殴り合い、白刃をひらめかせる。ストーリーの出来や人間描写にばかり気を取られる近代的演劇観では、およそ演劇とは呼べない代物だろう。しかし、その異形の者たちを見物すること自体に意味がある。祭りには、粗暴がセクシーに、野蛮がエレガントに見える瞬間がある。思わずハッと息を呑むその瞬間の美しさこそ、あらゆる芸能の出発点なのだ。
江戸という爆発的なエネルギーを抱えた都市の中で、日々莫大な金を動かして生きている連中が「助六」の後ろ盾になった。「助六」が祭りなればこそ、芝居というはかなく消えてしまう煙のようなものにじゃぶじゃぶお金をつぎ込んだ。贅沢の匂いをパッとまき散らして、それでおしまい。山と積まれたムダな贈り物は、まさに江戸のご祭神たる助六への供物だった。だから贈り物の宛名には、決して役者の名前を書かない。墨くろぐろと「助六え」「揚巻え」と記すのが決まりだった。
(『東京人』2010.3)

明治期歌舞伎際物の興行宣伝と受容 ― 『皐月晴上野朝風』をケーススタディとして (上)

2007-07-24 | 伝統芸能
竹柴其水作『皐月晴上野朝風』は、1890年(明治23)5月新富座で初演された。1868年(慶応4)5月に彰義隊と明治政府軍との間に戦われた、いわゆる上野戦争を題材とした歌舞伎作品である。主な出演者は五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、四代目中村芝翫、四代目中村福助(後に五代目歌右衛門)など。
本作に対する従来の演劇史的な評価は、『日本演劇百科大事典』に

上演の際はまだ記憶の消えぬ東京市民の感情に適合し、また新しい火事場の仕掛けなどもあって大当りをとった。(『皐月晴上野朝風』の項、菊池明執筆)

上野戦争の場は、火災・本雨など、大規模な舞台効果を活用して大当りを占め、以後これが彰義隊物の決定版となった。(『彰義隊物』の項、渥美清太郎執筆)

とあり、また「明治維新の上野戦争を書いた歌舞伎劇中出色の作と言つてよいもの」(『日本戯曲全集 第32巻 河竹新七及竹柴其水集』、河竹繁俊による解説)とあるに尽きる。すなわち、戦争の場面の斬新で大掛かりな舞台効果が人気を博したこと。また上野戦争およびその当時に対する観客の懐旧の情を喚起したこと。この二点により本作上演は興行的に成功をおさめ、上野戦争を題材とする作品中の代表作といえるというものである。当該興行の大当たりを伝える記事は多く、例えば『歌舞伎新報』(以下『新報』)には次のような記事が載る。

○両座の初日 歌舞伎新富の両座は、去る廿二日開場に成、何れも上景気。(略)新富座は序幕・二幕目・四幕目と勧進帳を出し、午後十二時打出したり。最も同座は都新聞社の買切にて殊に雑踏せし由。役々の評を聞に、予て噂の通り音羽屋の越前屋佐兵衛は実に不審儀(ふしぎ)の出来。高島屋の長岡及び桐野ともに真に迫つて好く、芝翫の高木原、福助の僧光仁等も出来好く、戦争の場は雨と火事にて勇ましくも又物凄しとは是なるべし。
(第1133号、明治23.5、以下特記のない『新報』の記事は「雑報」欄掲載)

○両座の大入 同月同日に開場したる新富歌舞伎の両座とも、出揃前から続\/と付込(つけこみ)ありて、既に何れも惣幕出揃と成ては勿論の大景気。新富座は一昨日曜日は売切となり、歌舞伎座も場中の広き故売切にはあらねど、見物の頭数は新富座に劣らず。さしも大座が両方ともギツシリ一抔とは盛んな物かな。是と共に当社でも御花主(おとくゐ)の増は\/、芝居流行不景気知らず。是も偏に御贔屓の御恵み故と、有難く祝ふて一ツ〆升(ませ)ふ、シヤン\/
\/。(第1137号、明治23.6)

○新富座 同座は今もつて大入にて客足の落る容子も無く、不景気は何処に有るかと思ふ程なりと。(第1142号、明治23.6)

○新富座の日延(ひのべ) 同座は来る七月五日まで日延に成たり。右に就、釈迦八相の山の場、一番目の大詰・博覧会の場、近江源氏の残りの分等を出幕を為(する)由にて、種々協議中との事。(第1144号、明治23.6)

今回(こんど)該座(このざ)の狂言は古今の大当り大入なりしは、一番目の演じ物は本年上野の第三回博覧会へ持込だる趣向なれば、何(なに)しおふ日本全国の人気東京の上野によりたる折を斗り、上野の戦争と言見附物(みつけもの)。殊に昨年新発明の火事にて、さしも名高き東叡山の中堂や二ッ堂に猛火の掛る有様を見する場が大層成呼物(よびもの)にて看客(かんかく)の魂(きも)を冷し升(まし)たは古河新水子の名案、実に恐伏いたしたり。(略)右の如くなる呼物を並べたる興行なれば、時分と暑気にもめげず近頃珍敷(めつらしき)当りにて、日延迄打たるは大手なり。尤も方今(とうじ)は諸座共興行の日数短くなりし時節、稀に四十三日の興行と日を延せしは、一座の奮発故と祝してヤッチャ\/と誉置升(ほめおきます)。(六二連(1) 梅素薫・高須高燕「新富座略評」、第1147号、明治23.7)

しかし本作の具体的な上演・受容の実態や、戯曲としての構造、演出の歴史的な意味・位置づけ等について学術的に論じられた例はほとんど見られない(2)。本作が学術的研究の対象として取り上げられてこなかった理由は、再演の機会に恵まれず、いわゆる際物としてその場その時限りに観客の嗜好に適合したものの、演劇的価値には乏しい作品とみなされてきたことにあるのではないかと思われる。従来の歌舞伎研究においては、本作のみならず明治期以降の風俗・事件を脚色した作品群は、新奇な風俗描写によって観客の興味を引いたものの概して演劇的価値は低いとされ、体系的な研究の対象としては十分に取り上げられない傾向があった。
しかしある歌舞伎作品が大当たりを取ったということは、同時代の観客の多数が共感し支持した、すなわちその作品が多くの観客の感受性に訴える要因を担っていたということにほかならず、その上演には自ずと同時代の人々が共有していた意識や感覚が投影され視聴覚的に具現化されているとみるべきであろう。とすれば、その作品の構成および演出、興行形態等の上演実態を分析することにより、当時の人々の歌舞伎に対する意識のありようや、ひいては時代思潮の一端をも浮かび上がらせることができるのではなかろうか。
本稿では、本作成功の理由として先に挙げた二点のうち、本作が上野戦争およびその当時に対する観客の懐旧の情を喚起した点に注目し、その要因の一つとして、本作の上演に合わせてさかんに行われた出演俳優と観客との間の交流を取り上げたい。具体的には、興行関係者が主催または列席しての彰義隊士の法要の執行、戦争関係者による出演俳優への情報提供や演技指導、登場人物のモデルになった人物自身による観劇等である。これらは直接には俳優と彰義隊関係者との交流ということになるが、その詳細が新聞・雑誌に度々報じられることによって、当時の観劇層に与えた影響も少なからぬものがあったと思われる。次の記述は、そうした交流が本作大当たりの一因となったことを明確に示している。

付ては右狂言に関係の人物、現在存命の者もあり、或ひは親族知己朋友の輩が続\/出て来り、其時の実地の有様を咄すも有、又は紀念(かたみ)の品を送り来す衆達も有て、弥(いよ)景気に勢ひを増、夫(それ)が為(ため)惣見物を催す等にて、意外の見物が有しも該座の幸ひ、俳優衆の仕合(しあはせ)に成升(なりまし)た。(同上)

歌舞伎の一演目の上演にあたって、本作上演時のように作品の内容に関連した催しが多数かつ大規模に行われ、また関係者の動向が細かく報道された例は数少ないと思われる。本作は上野戦争を題材とし、彰義隊の二十三回忌を当て込んで上演されたもので、上野戦争についての記憶や稗史的興味、また存命の関係者の動向などが興行を取り巻く環境的要因として密接に関連していた。つまり本作は演劇史的意味において際物と呼んで差し支えない作品であると考えるが、本稿では近代において歌舞伎作品が舞台外の共時的・現実的レベルで同時代の観客と生々しく交流していた例として本作を取り上げ、本作のもつ際物としての性格を、特に作品に対して外的な側面から再評価しようとするものである。
なお本稿における引用文には句読点を施し、旧字体は新字体に改めるとともに、振り仮名は適宜取捨した。また本稿の趣旨に鑑み、煩を避けるために新聞・雑誌の発行年月日の表示には年号を使用し、例えば明治23年5月23日を「明治23.5.23」のように省略して記した。
さてこれらの交流に関して、本稿では主に雑誌『歌舞伎新報』と読売新聞の記事を手がかりとしつつ、次の二つの事柄についてその実態を述べ、当時の歌舞伎の興行および受容の一形態について考察したい。
第一に、本作の構想・上演は彰義隊の二十三回忌を当て込んだものであり、上野戦争および彰義隊に対する社会的関心が高まる時機をとらえて、俳優など芝居関係者の主催・参列による彰義隊士の法要や墓参がさかんに行われたこと。
第二に、天野八郎をはじめとして本作の主な登場人物は上野戦争の従軍者やその親族・関係者をモデルとしているが、上演時には現存の人物も数多く、彼らの存在が観客にとって大きな関心の対象となり、興行と関連した彼らの動向が注目を集めたこと。
まず本作の題材である上野戦争の史実について概略を述べておく。
1868年(慶応4)2月、徳川慶喜の護衛を名目として旧幕臣を中心に結成された彰義隊は、4月の江戸開城後しばしば新政府軍と衝突。慶喜の水戸退去後も解隊勧告に従わず、輪王寺宮公現法親王を擁して抵抗を続けた。新政府は5月15日に大村益次郎の指揮のもと上野寛永寺彰義隊屯所に一斉攻撃を行い、隊は一日で壊滅、輪王寺宮は奥羽地方に逃れた。このとき新政府軍と彰義隊との間に行われた戦いを上野戦争と呼び、この戦いにより関東地方での新政府の支配権が確立したとされる。
続いて作品の全体像を示すために全幕の梗概を記しておく。

(序幕 上野山下袴腰の場)
金魚屋九郎兵衛(松助)らが酔った官軍の歩兵にからまれ難儀するところを、通りかかった佐幕派の春日左衛門(市蔵)が救う。
(同 広小路松源楼の場)
春日左衛門・酒井宰輔(左團次)ら佐幕派が参集し、あくまで官軍に恭順せぬ意志を確かめ合う。
(同 池之端仲町裏の場)
松源楼よりの帰途、酒井らは先の歩兵に出会い、喧嘩となって歩兵を斬り捨てる。
(二幕目 下谷竹町湯屋の場)
「親の代から東叡山のお掃除御用」という湯屋越前屋主人・佐兵衛(菊五郎)が、旧幕と寛永寺の輪王寺宮への恩を忘れず尽力する覚悟を述べる。
(同 凌雲院応接所の場)
彰義隊が結集する凌雲院へ長岡悦太郎(左團次)が単身乗り込み、徒党を解くよう弁をふるうが、隊士たちは応じない。
(三幕目 御徒士町天野宅の場)
天野八郎(菊五郎)が旧幕のために戦い抜く覚悟を述べるのに対し、弟賢次郎(左團次)は西洋留学を願い、兄弟が対立する。父半左衛門(松助)は親子の縁を切って二人を望む道へと送り出す。
(四幕目 上野黒門口の場、同 山内戦争の場・御隠殿裏の場)
上野戦争が開戦し、山内で激しい戦闘が行われる。彰義隊隊長の酒井は深手を負って自害する。
(五幕目 三河島不動前の場)
寛永寺の僧光仁(福助)は越前屋佐兵衛に背負われて戦火を逃れ、白王院(左團次)を供に、江戸から奥羽へと落ちのびて行く。
(六幕目 北割下水金魚屋の場)
天野八郎が金魚屋九郎兵衛のもとに奉公人として匿われているところへ妹が尋ねて来る。天野は奥州落ちを企図して別れを告げるが追手がかかり、大立ち廻りの末に捕えられる。
(七幕目 上野第三博覧会の場)
第3回内国勧業博覧会の会場に、学習院生徒と家令の一行、靴磨き、広告小僧などが登場し、1890年(明治23)当時の新風俗が描かれる。そこに天野賢次郎、酒井宰輔の息子らが行き逢い、かつての戦争に思いを馳せ、文明開化の世を祝う。なおこの場は上演時間の都合によるものか実際の上演には至っていない。

明治期歌舞伎際物の興行宣伝と受容 ― 『皐月晴上野朝風』をケーススタディとして (中)

2007-07-24 | 伝統芸能
さて第一に、本作上演の前後には、役者をはじめとする興行関係者の主催または参列による彰義隊士の法要が営まれ、また墓参もさかんに行われている。役者が上演演目にゆかりのある史跡を訪ね、また実在の人物を演じる場合には成功を願ってその墓参をしたり縁者と会見したりすることは、宣伝・観客動員の手段として今日にもしばしば行われる。本作に関わる一連の法要・墓参も、観客動員に資するための話題作りの一環であることは容易に想像できるが、時まさに彰義隊の二十三回忌にあたって企画・上演された演目であるため、特に観客の目を大いに意識した、比較的規模の大きなイベントとして催され、またその詳細がしばしば報道されている。
役者の墓参については5月初頭より記事が見え始める。

○桐座の俳優彰義隊の墓に押出さんとす 今度新富町桐座に於て上野の戦争を演ずる事は曽て本紙に記載せし所なるが、同座開場前、多分来る十二三日頃、菊五郎、左團次、芝翫、福助、其の他の俳優一同は、上野彰義隊の墓へ参詣して、帰路には松源楼にて昼飯を喫したる上へ新富町へ引き上ぐると云ふ。偖て其日の扮装(いでたち)如何にといふに、西洋ものは一切用ひず、万事国粋保存主義にて、五つ紋の付きたる黒の羽織に仙台平のまち高袴を一着に及び、成るべくたけは旧幕の古風に扮して、花々敷参詣するとの事なれど、爰に一つ旧に復し難きものは散髪なり。是れ計りは如何なる奇才子の菊五郎も小首を捻ッて考へたが、詰りチヨン髷頭の鬘を被るも不都合なれば、是非なく散髪へ帽子を被る事と一定したりといふ。(読売新聞、明治23.5.7)

細かな逸話まで紙上の話題になっていることからその注目ぶりが窺えるが、「同座も俄かに昨日より開場する事となり迚も一同打揃ひて参詣しがたし」(同5.23)という事情により結局この計画は実現しなかった。
座頭である菊五郎の舞台外における行動は特に頻繁に報道されている。例えば次のような記事は、菊五郎の役作りへの意気込みとともに、観客の側も本作の上演に高い関心を抱いていることを伝え、自ずと興行への期待を高めたことであろう。

○菊五郎の投書袋 今度桐座に於て一番目狂言に上野の戦争を演ずるに付、毎日菊五郎の自宅へ数十通の投書が舞ひ込み、其受付も随分五月蝿き程なれど、流石は芸道に熱心なる程あッて、大切に袋に仕舞おき、知己の人々へは之れを示して喜び居る由。(読売新聞、明治23.5.13)

一座そろっての墓参は実現しなかったものの、5月13日には彰義隊関係者を招いて菊五郎宅で上野戦争にちなんだ稲荷祭りが行われた。

○寺島の稲荷祭 去る十三日は尾上菊五郎宅の稲荷祭りにて、来客は旧彰義隊の頭取某氏、越前屋佐兵衛、守田勘弥、田村成義、竹柴其水、久保田彦作、其他内輪の者にて、上野戦争に寄し茶番なども有りて盛んなる祭なりしと言ふ。(『新報』第1129号、明治23.5)

続いて15日には彰義隊関係者の発起により上野で追弔法会が行われ、当初菊五郎も同日の墓参を計画していたが、これは後に述べる6月15日の大規模な法要に合わせて行われることとなった。

○彰義隊廿三年追弔会 予て記したる如く、昨十五日上野桜が岡に於て彰義隊戦死者廿三年の追弔法会を行はれしが、同会は当時関係の戦友が発企したるものにして、朝来より老若男女の参詣多く、本郷白山前町なる日蓮宗大乗寺よりは音楽大法要を寄附し、浄僧十 八名にて殊勝なる追弔の式を行ひ、又禅宗長安寺よりは九人の清僧を出し、厳(おごそか)に心経を誦読せしめたる由。又同日午後四時半頃、榎本文部大臣には右参詣を兼て博覧会に赴かれしといふ。(読売新聞、明治23.5.16)

○菊五郎墓参 同人は栄之助、栄次郎、菊三郎と倶に一昨十五日上野彰義隊の墓へ参詣し夫より箕輪の円通寺へも参詣の筈なりしが、是は六月十五日の大施餓鬼迄延ばせしとの事なり。 (『新報』第1129号、明治23.5)

上記の法会には戊辰戦争時に幕府海軍副総裁であった榎本武揚文部大臣が参列しているが、記事中に「参詣を兼て博覧会に赴かれし」とあるように、この法会が文部大臣の列席する行事として第三回内国勧業博覧会と並列して扱われていることに注目したい。両者は同じ上野の地で同じ時期に開催された文化的イベントであり、本作でも七幕目・上野第三博覧会の場において上野戦争と博覧会とを重ね写しにする趣向が企図されていた。
続いて21日に菊五郎は小塚原回向院にある天野八郎の墓と円通寺の彰義隊の墓に参詣したが、翌年の新聞記事には、この時に菊五郎の名を彫り付けた墓の台石を天野八郎のために寄贈したことが見える(読売新聞、明治24.7.5)。なお天野八郎の墓は1890年(明治23)11月に回向院から円通寺に移されており、同寺には菊五郎の調えた台石と後出の花瓶が現存している。

○音羽屋の参詣 新富座の俳優一同が彰義隊の墓へ参詣するよしは曽て本紙へ掲げたるが、同座も俄かに昨日より開場する事となり、迚も一同打揃ひて参詣しがたしと云ふより、菊五郎は一昨日を以ッて竹柴其水氏を誘なひ、己のが勤むる天野八郎(彰義隊の隊長)の 墓へ参詣したりと云ふ。天野氏の墓は千住小塚原なる回向院の下屋敷にあり、建立以来十八年の星霜を経も、絶て之を修繕するものあらざれば、既に大破に及び居たるを以て、此際菊五郎が其大修繕を加へる事となれり。且つ同人は其帰途三輪町なる円通寺へ赴き、同 隊の戦死者五百四十名の墓へも参詣したりと云ふ。(読売新聞、明治23.5.23)

この記事を読んだ天野の娘すず子から菊五郎に礼状が寄せられ、その全文が5月29日付同紙に掲載された。その後菊五郎が家紋の雛形や写真の借用をすず子に乞うたこと、6月中旬にはすず子が新富座に招待されることなども加えて報道されている。私信の全文を掲載することからは彰義隊士および本作上演への関心の高さが窺われ、菊五郎と遺族との深い交流を読者に印象付けたとともに、天野の生前の習慣などを細かく伝える箇所は、娘自身による生々しい証言として読者の好奇心に応えるところが多かったと思われる。
5月17日・18日には靖国神社において上野戦争で戦死した官兵の慰霊を名目に演武の催しが行われた。

○砲烙調練 靖国神社の出商人は、来る十七十八の両日間、同所の馬場に於て、古代の鎗術並びに竹刀試合、競馬、曲馬等を催す由にて、目下桟敷等の準備中なるが、右は上野戦闘の廿三年に相当するを以て、其際戦死せし官兵の霊を慰むる為めなりと。(読売新聞、明治23.5.16)

このように上野戦争のあった5月15日に合わせて彰義隊供養のための催しがしばしば行われる中、22日には新富座興行が初日を迎え、前記のように大入を続ける。そして6月15日には作者の竹柴其水、彰義隊士後藤鉄次郎の弟らの肝煎りにより、円通寺において彰義隊二十三回忌の大法会が営まれ、新富座出演中の役者たちをはじめ芝居関係者が参列した。

○彰義隊追悼会 戊辰の役、上野函館等に於て戦死したる彰義隊の遺骸は、下谷通新町の円通寺に葬りありしが、今度澤太郎左衛門、後藤鉄郎外二三名の発企にて、来る六月十五日を期し、第二十三回忌の追悼会を執行する趣にて、当日は榎本文部大臣を始め旧幕臣の諸氏も出会せらるゝ由。(読売新聞、明治23.4.18)

○新富座 上野の戦争を演するに付、来る十五日下谷新町の円通寺に於て戦死の者の為に大施餓鬼を執行するとて、竹柴其水、後藤鉄郎、其他の諸氏が世話人に成しとの事。(『新報』第1139号、明治23.6)

○彰義隊の二十三回忌 昨日は戊辰の年戦死したる彰義隊の二十三回忌に当れるに付、榎本武揚、澤太郎左衛門、田邊太一、榊原健吉の諸氏は円通寺に参詣して大施餓鬼を執 行せられたり。右に付、尾上菊五郎を始め、家橘、小團次、栄之助、栄次郎及び作者竹柴其水、並に守田勘弥氏の代理鈴木長三等も同寺に参詣し、菊五郎は銅花瓶一対(高さ二尺程にて白銅製蓮花を挿(さしはさ)みたるもの)を、小團次は牡丹の造り花一対を奉納し、且つ新富座楽屋、茶屋、出方等より供物米百三十余袋を、團十郎、菊五郎、左團次、芝翫、小團次始め俳優(やくしや)一同よりは金二十五円を奉納したるよし。(読売新聞、明治23.6.16)

○円通寺の法会 去る十五日、下谷新町の円通寺にて彰義隊戦死者の為に法会を執行為(する)は例年の事なるが、本年は廿三回忌なるに依り、殊更に大法会を開き、加ふるに目下新富座にて上野戦争の演劇(しばゐ)興行中なるが、新富座出勤の俳優重立(おもだち)たる分は、自身参詣為も 有り、代理を以て香華を備へしも有り、又小三升連(こみますれん)の催ふしにて空也念仏を修行し、其他撃剣、大和杖(3)等も有りて盛なる法会なりしと言へば、戦死者諸霊も泉下に観喜為しなるべし。(『新報』第1142号、明治23.6)

この円通寺における法会は、其水が世話人になっていることからも本作上演を意識したものであることが明らかで、菊五郎をはじめとする芝居関係者の参列は法会をより華々しいものにしたことと思われる。また剣術の演武が行われるなど、法会とはいいながら見物人の目を大いに意識した盛大なイベントであったことが窺える。
一方では次の記事が示すように本作の人気によって彰義隊への関心が高まるという相乗効果もあり、本作の人気と影響を示しているといえよう。

○上野彰義隊の墓賑ふ (略)一度は無縁の有様なりし上野彰義隊の墓は、其後有志者の尽力に依りて再建をなせしも、近来は参詣するもの極めて少く、邂逅(たまさか)旧記を案じて香花を手向くる者あるに過ぎざりしに、其後今回新富座に於て当時の戦争を演劇(しばゐ)に仕組みたる以後は、大に人に懐旧の感を起さしめたるにや、参詣人日に増加し、駒込大乗寺の現住職は右墓地周囲に鉄柵を造り追善供養を営み、殊に旧彰義隊の人々及び旧幕の人々等は、続々同所に参詣して香花を手向け、且つ寄附金等をなす者多きよし。(読売新聞、明治23.6.16)

以上のように、本作上演にあたっては役者をはじめとする興行関係者が参画して頻繁に彰義隊士の法要が営まれ、その詳細が新聞・雑誌に報道された(4)。これらは明らかに観客動員のための宣伝という性格をもっており、法要・墓参という場を利用して彰義隊二十三回忌と本作興行とを直接に関連づけることは、時機に巧みに便乗した方策であった。ただし1890年(明治23)当時は上野戦争に直接関与した人々やその縁者、また戦争の鮮明な記憶をもつ人々が多く存在しており、彼らにとっては法要や墓参という行為が単なる興行宣伝のためのイベントとしてではなく、死者を追悼するという本来の意味でも非常に現実的な実感をともなって受け止められ、上野戦争にまつわる記憶を再確認する機会となったに相違ない。また後に述べるように、そうした人々が興行に関与しそれが報じられることによって、直接には上野戦争を体験していない人々もより強く戦争についての想像をかきたてられ、恐らくはそれが観劇へと結びつくことも多かったであろうと想像できる。このように同時代の特定の出来事や人物について、観客の内に各々の記憶を甦らせ、あるいは想像を喚起することによって興行的成功を図ることは際物制作の基本的方法であり、本作の興行はそうした方策が大きな成功を収めた事例であるといえる。

明治期歌舞伎際物の興行宣伝と受容 ― 『皐月晴上野朝風』をケーススタディとして (下)

2007-07-24 | 伝統芸能
次に、本作の登場人物のモデルとなった上野戦争の従軍者やその親族・関係者の動向について述べたい。本作には上野戦争にゆかりのある当時現存の店や存命の人物が多く登場する。例えば序幕に隊士らが参集する料理屋松源楼は、六二連の主要メンバーでもあった梅素薫の画になる引幕を贈った。

○新富座 今度同座にて演ずる上野戦争の狂言に広小路松源の場が有るにつき、松坂屋源七より引幕を送り、開場次第惣見物を為由。又同所数寄屋町の芸妓も土地の狂言ゆゑ 引幕惣見物の相談中なりとぞ。(『新報』第1125号、明治23.4)

○新富座の幕 同座へ下谷広小路の松源より贈る引幕は梅素薫(ばいそかほる)氏の作にて、櫓紋を中央 へ見せ、地は光琳百図中の屏風松島の図をそつくり出したる趣工なりと云ふ。(『新報』第1129号、明治23.5)

「土地の狂言ゆゑ」とあるように、上野の花柳界・商店・料亭は総見物を行って興行を支援している。

○下谷連の新富座見物 今回新富座に於て上野の戦争演劇をなすに付、下谷区にては夫々組を分けて総見物をなす相談中なりと云ふ。今其重なる所を挙ぐれば、第一数奇屋町 同朋町の校書(げいしや)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は鴈鍋連中等なるよし。(読売新聞、明治23.5.24)

○惣見物五百人 とは外でも厶(ござ)らぬ、越前屋佐兵衛と云人、今回(こんど)の新富座に菊五郎が同 人に扮(な)るので、佐兵衛大奮発にて人数を募集し、惣勢五百人にて来る十二日同座の茶屋相摸やより繰込由。尤も此人数は湯屋仲間ではなく、池の端の宝丹主人が指揮(さしづ)にて当人が奔走し、下谷区で然るべき人々が募りに応ぜしなりと云。(『新報』第1137号、明治23.6)

松坂屋、雁鍋ともに上野戦争では新政府軍の拠点となった家として知られる。「池の端の宝丹主人」とは胃腸薬宝丹の販売で知られる薬舗主人守田治兵衛。引札・看板類の執筆や宣伝用冊子『芳譚雑誌』の発行なども行った。
同様に彰義隊ゆかりの人々や旧幕臣による芝居見物もしばしば紙上の話題になっている。

○静岡県下二百名の幕士新富座を見物せんとす 目下新富座に於て上野戦争の狂言を演ずるに付、静岡浜松辺に住する旧幕の士四五名が発起人となり、賛成人二百名程を募りて、近日博覧会見物を兼ね新富座見物のため上京せんと企て、最早八九十名程も賛成者ありとの報、同座の或る方へ達したる由なれば、何れ不日当地へ着の上は花々しく見物す る事ならんとのことなり。(読売新聞、明治23.6.8)

○昨日の新富座 昨日の同座は日曜といひ、殊に雨天なりしためにや、近来になき大繁昌にて早速売切れとなり、且当日は成福の演ずる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上に渡らせらるゝ陸軍大将小松宮殿下も御見物あらせられ、尚ほ東本願寺の門跡大谷光瑩師にも見物せられたり。(同 6.16)

○新富座 同座は未(いまだ)相応の入にて、一昨日の日曜は中々の景気なりしと。殊に同日は彰義隊に縁故の人々五拾余名が、土間十間を打抜、茶屋相摸屋より見物したり。何れも袴羽織を着用し、見物中は酒を廃し、当日の周旋は例の越前屋佐兵衛父子が奔走せしと云ふ。(『新報』第1146号、明治23.7)

本作の登場人物を強く想起させる存在である彼らが観客として見物に訪れることは、他の人々の本作に対する関心をかき立てずにはおかなかっただろう。
また記事中の越前屋佐兵衛は湯屋主人塚谷佐兵衛で、上野戦争敗北により輪王寺宮が寛永寺を脱出した際に、宮を背負って戦火を逃れた人物。本作二幕目・下谷竹町湯屋の場はまさにこの佐兵衛経営の湯屋を舞台としており、五幕目・三河島不動前の場は、輪王寺宮を僧光仁に仮託して宮の奥羽落ちを脚色した場面である。舞台では菊五郎の扮したこの佐兵衛の行動は、特に多くの話題を提供している。

又爰に一つの珍説は、同狂言に竹町湯屋の場と言ふが有るを同湯屋の主人が聞込み、一体如何言ふ脚色(しくみ)か、上野の戦争に付ては同家の主人は大いに関係の有る事なりとて、手続きを経て音羽屋の宅へ至り、当時の話しを見るが如く語りしに、其侭(そのまゝ)音羽屋へ這(はま)る筋にて、二幕ばかりは立派に作るにつき少し脚色を直して右の役を音羽屋が勤めると言ふ。(『新報』第1125号、明治23.4)

○又 同座にて下谷竹町(今は下谷町)湯屋の場を演ずるにつき、同家の主人越前屋塚谷佐兵衛が上野の戦争に付ては非常の尽力を為(なし)たる事を作者が聞込み、本人に就て委敷(くわしく)聞しに依り、佐兵衛も殊の外喜び、音羽屋にも面会して尚其折の容(さま)を見るが如く物語りしゆゑ、少し筋の改(かは)りし所も有る由なるが、一体片市の役なりしが音羽屋に成しと聞、佐兵衛は殊更に喜び、同人より幕を贈と言ふ。此幕は守田治兵衛氏が筆を震はれ、同氏も大いに肩を入て夫等(それら)の計画に奔走されると言ふ。(『新報』第1126号、明治23.5)

菊五郎と其水が佐兵衛に面会し、その談話を受けて脚本を改変、配役も片岡市蔵から菊五郎に変更になったという。

○梅幸への贈りもの 菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を勤むるに付ては、此のほど越前屋佐兵衛氏より、輪王寺の宮(今日の北白川宮)下山の際御用ひ相成りたる泥附の草鞋と、同殿下御自筆の「知足」の二字ある幅を菊五郎に与へたる所、同優は熱心 にも其草鞋と幅を床の間に掲げ、出勤の都度朝夕三拝して居るといふ。然るに越前屋にては更に菊五郎の熱心かくの如くなりと聞くや、更に東叡山中堂大伽藍の棟上にありし十六菊の御紋付瓦一個を贈りたるよしにて、同優の喜び此上無く、いと重宝がりて居ると云。(読売新聞、明治23.5.25)

このように越前屋佐兵衛の動向は特に注目を集め、菊五郎との間には度々交流が行われた。なお1893年(明治26)4月18日付読売新聞は越前屋佐兵衛の訃報を伝える。

○越前屋佐兵衛死す 彰義隊戦争の折、身を捨てゝ上野の宮を扶(たす)け参らせし有名なる越前屋佐兵衛氏は、其後家事の都合ありて千住元中組へ移転したる由は当時の紙上に記せしが、去十四日老病起たず終に夕の落花と共に散りて、可惜(あたら)江戸の一名物を失ひたり。法号は釈得道良栄居士。

「江戸の一名物」とあるように、この越前屋佐兵衛は上野戦争にまつわる記憶をたどる際には欠くことのできない指標となる人物であった。それゆえに本作の中にも重要な役として取り入れられたが、劇作にあたっては当人から直接聞き取った談話が大きな影響を与えたとともに、興行中には彼の観客としての行動が報じられることによって、興行成果にも間接的に関与することになった。
元彰義隊士など直接に戦争に関与した者の動向も取り沙汰されている。高木原源吉の名で登場する剣客榊原鍵吉は元幕府講武所師範。彰義隊に所属はしなかったが、上野戦争に参加し輪王寺宮の上野脱出を助けた。維新後は道場を経営しながら1873年(明治6)に「撃剣会」を組織して撃剣興行を創始、断髪せず髷を守るなどの逸話で市井によく知られた人物であった。

○榊原健吉氏 今度新富座に於て上野彰義隊の戦争を演ずるに付、下谷車坂町の撃剣家榊原健吉氏には門弟一同を率いて総見物に出懸る由なるが、当日は何れも稽古着に野袴を着すると云ふ。 (読売新聞、明治23.4.30)

○榊原健吉氏 同氏にも今度新富座の脚色(しくみ)に関係有れば、開場次第門弟中と倶に惣見物を催ふされると云ふ。(『新報』第1126号、明治23.5)

元彰義隊士秋元寅之助は作中に秋元虎之介として登場するが、彼も菊五郎および其水に体験を語ることで劇作に影響を与え、また立廻り等の指導を行っている。役者ではない者がこうした具体的な演技指導を行っていることは、戯曲のみならず演技のレベルでも本作が上野戦争を写実的に再現しようとする指向をもっていたことを示す例として指摘しておきたい。

○上野戦争の説明 元彰義隊の一人たりし秋元某と云へる人は、当時万端指揮(さしづ)をなし居たる因にて、今度或る人の周旋に拠り、菊五郎は自宅へ同人を聘し、去る九日十日の両日、同氏の記憶せし当時現場の有様、並に戦争の模様より勇士等の実伝を聞きたりと云。又其時同席したる河竹其水氏は必要の箇所を一々筆記したる由なれば、脚本中多少増減する所あるべしと思はる。(読売新聞、明治23.5.13)

○秋元倉之助氏(ママ)の熱心 今度の新富座に於ては、元彰義隊の組頭なりし同氏を秋元富之助(ママ)と仮称し、坂東家橘が勤むることとなりしに、付ては同氏は日々同座へ出張し一番目狂言の顧問となり、家橘始め一同へ、立廻りの振、其外総て懇ろに教へ居らるゝ趣きなり。(同 5.26)

一方では次のような悶着も伝えられるが、これもまた本作の人気を裏付けるものといえるであろう。

○上野の戦争 今度新富座に於て演ずる上野戦争の脚色(しくみ)中に、同隊に関係なき者が非常の働きを為し、又た戦争と聞て直ちに逃走したものが戦功を立てたる様になり居りて、大 分事実相違の廉あるに由り、同戦争に与り尚ほ現存し居る人々は、之を心よからぬことに思ひ、目下右に付き協議中なりといふ。(同 5.11)

このように、本作においては人気役者が舞台上で存命の人物を多く演じ、肉体をもった人間として観客の眼前に登場した。それは実在の人物が舞台で活躍するという興味を惹起しただけではなく、本作の場合には特に当の人物や縁者の観客としての行動がさかんに報道されることにより、劇中では彼らの23年前の行動が再現され、また同時に本人が観客の立場からそれを見物する、さらにそれを他の観客が外から見守るという三重の関係を生じさせることになった。これは先に述べた彰義隊士追悼の法要・墓参と同じように、興行の広報宣伝という役割を自ずと果たすことになるが、それのみならず本作の舞台作品としての受容の面においても独特の効果を有していたと考えられる。
同時代の観客の耳目を集めた事件を劇化することは近世以来頻繁に行われ、歌舞伎をはじめとする日本の芸能において重要な創作方法であり続けた。そこではほとんどの場合、脚色を加えながら事件の経緯を部分的に再現するという方法が取られるため、舞台上に表出される時間・空間は、題材とされる事件の実際の時間・空間と観客の意識の中で重なり合うこととなる。したがってたとえ「世界」の採用によって全く異なる時代背景に劇を仮託することがあっても、少なくとも実際に起きた事件に関わる部分については、劇的興味の中心は事件の再現と観客によるその追体験にある(5)。
本作の場合には、それに加えて、全編の題材たる上野戦争に直接関与し、なおかつ劇中人物のモデルとなった当人あるいはその関係者が客席に数多く来場し、またその行動が新聞・雑誌によって広く報じられることにより、彼らが他の観客の視界には劇受容の一要素として介入してくることになった。いわば舞台上で再現される時間・空間をかつて生きた戦争の当事者が、23年間という時間を経て、演劇ではないあくまでも現実のレベルで観客の目や耳に触れることによって、観客の意識の中で舞台と現実とが急速に接近することとなる。本作においては、上野戦争の記憶を直接的に担う、とりわけ上演の折に存命である人々が介在することにより、舞台上で再現される上野戦争当時の空間と、1890年(明治23)という本作上演当時の現実の空間とが心理的に極めて接近する、あるいは直接に交じり合うという効果を生み、単なる宣伝にとどまらず作品受容において重要な意味があったと考えられるのである。このように、実在の人物が、演劇的要素として舞台上に形象化されると同時に、観客と地続きの現実世界にも姿を現して観客の意識に直接に触れるという両義的な性格をもち、いわば双方の世界を媒介する役割を担ったのが本作の重要な特色であるといえる。
以上、『皐月晴上野朝風』上演にあたっては、第一に芝居関係者が関与して彰義隊士の法要や墓参がさかんに行われたこと、また第二に登場人物のモデルとなった人物の動向がしばしば報じられ注目を集めたことについて述べ、本作の興行および受容の一側面を示した。
これらの舞台外における交流によって、上野戦争当時を知る者はその記憶を再構成・再確認し、また知らぬ者は新たな関心を呼び起こされ、観劇の大きな契機となったであろうことが想像できる。したがってこれらの交流は観客動員に一定の役割を果たしたと思われ、まずは興行宣伝策としての性格を指摘することができる。また一方では、本作が戦争関係者の存在を媒介として上演当時の現実を重ね写しのように取り込むことによって、台帳のテクストが生み出す空間・時間の枠組みを大きく逸脱しつつ、人々の過去にまつわる記憶やイメージを喚起し、あるいはその共有を確認させるという特色をもっており、本作を実際に観劇することによって、観客は上野戦争当時の模様をきわめて具体的かつ視聴覚的なイメージとして追体験することにもなったと思われる。特に本作の場合に特徴的なのは、その際に本稿で述べた舞台外における様々な交流が大きな役割を果たしたことである。
本稿では専らそうした交流に着目して興行の一側面を述べるにとどまったが、このようないわゆる「当て込み」の事例は明治期歌舞伎の劇作法や演出・演技を検討する上で軽視しがたい事象であると思われ、本作は単に過去を回顧的に再現したことによって評価されるのではなく、近代の歌舞伎における歴史的記憶の表現と受容を考える上で再検討されるべきであろう。



(1)明治期の観劇団体の一つ。観劇のほか引幕贈呈等による劇場・役者への支援、『歌舞伎新報』への劇評の投稿、『俳優評判記』の発行等を行った。
(2)わずかに神山彰「明治の『風俗』と『戦争劇』の機能」(『近代演劇の来歴』、森話社、2006年、160-173頁)が本作に言及している。
(3)榊原鍵吉の考案による木刀の一種。廃刀令を憚って杖と称した。
(4)本作で後藤鉄次郎を演じた小團次も後藤のために法要を計画した(『新報』第1135号、明治23.5)。なお小團次については後藤鉄次郎の弟が兄の形見の刀を寄贈したことが報道され、「渡譲証(ゆづりわたししやう)」の文面がすべて掲載されている(同 第1134号、明治23.5)。このように関係者遺族が役者に遺品を贈呈することによって役者と遺族との間に交流が行われることもあった。
(5)上野戦争物として本作の先行作にあたる1870年(明治3)8月守田座初演・河竹黙阿弥作『狭間軍記鳴海録(はざまぐんきなるみのききがき)』においては、上野戦争が桶狭間の合戦に、天野八郎が水間左京之助に仮託されたが、「その田楽ヶ窪雨中合戦の場は、上野の戦争を暗示し、当時はやった戦争錦絵の画面を舞台に写し、茶屋の暖簾などであらかじめそれを暗示したので非常な評判になった」(演劇百科大事典、『彰義隊物』の項、渥美清太郎執筆)と、やはり上野戦争の再現部分に興味が集まったという。


(『文化資源学』第5号、文化資源学会、2007年3月)

明治のキワモノ歌舞伎(上)

2005-04-22 | 伝統芸能
明治19年の夏、神田秋葉原に「チャリネ大曲馬団」の幟がはためいた。イタリア人チャリネが率いる西洋渡りのサーカス団。人種もさまざまの芸人たちが五十人余りに、馬・象・虎を従えた大一座である。テントの中を描いた当時の摺り物を見ると、円形の広場を囲む桟敷にぎっしり男女が詰まっている。ザンギリ頭・日本髪に和服姿であること以外は、今のサーカスの風景とほとんど変わらない。輪くぐり、梯子跳び、二頭並べての曲乗り。曲馬といえば日本にも「馬芝居」の伝統はあったが、砂を蹴立てて跳躍する西洋馬のスピード感は、物見高い明治東京の人々の度肝を抜いたに違いない。興行の繁盛ぶりを伝える摺り物が山ほど出回り、「チャリネ」はサーカスを意味する普通名詞となった。「日本チャリネ一座」を名乗る一団まで出現し、明治29年生まれの宮沢賢治は「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了りてチャリネの子、その影小くやすらひぬ。」(『銅鑼と看板 トロンボン』)とうたった。
このチャリネ一座の賑わいに目をつけたのが歌舞伎の五代目尾上菊五郎である。九代目市川團十郎とともに「團菊」と並び称される伝説的名優だが、江戸っ子らしい気軽さと好奇心に富んだ人だった。新しいもの、ハイカラなものには目がなく、時折それを舞台に持ち込んでは観客の目を白黒させる。
狂言作者の河竹黙阿弥に注文して、たちどころに一幕の舞踊劇に仕立てあげた。この「たちどころに」がミソである。「鳴響茶利音曲馬」(なりひびくちゃりねのきょくば)。タイトルまで息せくように弾んでいる。新時代らしく化学染料も鮮やかな錦絵が残っている。前足を高々と蹴り上げた馬の後ろで、裃姿の清元連中が神妙に浄瑠璃を語っているのがおかしい。「チャリネ・象つかいアバデー・一本足トムハーバー 尾上菊五郎」「道化師ゴットフレー 中村伝九郎」「ミスフラン女 岩井松之助」「沓屋の色男 坂東家橘」と、実に魅惑的な登場人物たちの名前が見える。歌舞伎役者がうちそろって紅毛碧眼の外国人を演じたわけだ。このときの菊五郎への批評を読むと、彼が自分の身体を思いどおりに操れる天才だったことがよくわかる。「格好から歩きやう迄其人を見る如く、馬の遣い方も真を写し、一本足の異人是又そつくりにて」「象遣ひの異人も寸分本物に変らず、いかにせば是程に真似らるゝものかと思はれ、奇異の感を起したり」。菊五郎の変幻自在の身体は、まるでビデオのように、曲馬の桟敷で見たものをそのまま歌舞伎の舞台に再現してみせた。残念ながら台本は残っていないが、錦絵からしてよほど軽妙愉快、賑やかな一幕だったらしい。当の親方チャリネも大いに喜び、菊五郎に立派な縮緬の大旗五枚を贈ったうえに、一座そろって総見に繰り込んだ。もしかすると楽屋では菊五郎とチャリネとの歴史的対面があったかもしれない。
ところでこのチャリネとは何者だろう。本名はジュゼッペ・キアリーニ(G.Chiarini、1823-1897)。カナ読みすればチャリニ、チャリネとなるわけだ。キアリーニ家の名は古く16世紀からイタリアのお祭りの記録文書などに登場する。18世紀初めには劇場で常打ちの興行を行い、イタリアの見世物界では由緒ある一家だった。ジュゼッペは一座を引き連れて、まさに世界中をめぐり歩いている。インド、インドネシアからオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカにまで足を延ばしたというから、もはや一サーカス団の巡業というスケールではない。彼にとっては地球など玉乗りの玉に過ぎなかったのだろう。この時はアメリカ大陸を横断し、サンフランシスコから中国へ渡り、上海からわが日本にやって来た。世界中を見てきた彼の目に、明治の東京はどう映っただろう。
チャリネのみならず、この頃には異国の見世物が次々に上陸し、浅草や神田での興行に大勢の人が詰め掛けた。この人だかりを歌舞伎が見逃そうはずがない。景気のよさそうなものはなんでも貪欲に舞台に乗っけてしまう。とりわけ「スペンサーの風船乗り」の台本を読めば、見世物と歌舞伎が自在に行き来していた時代のわくわくした気分がよく分かる。明治24年1月、菊五郎がイギリス人スペンサーの風船飛行を演じた。その名も「風船乗評判高楼」(ふうせんのりうわさのたかどの)。このたびも手だれの黙阿弥が筆をふるった。
「明治二十三年十一月二十四日、上野公園地に於テ英国人スベンサー氏風船飛ビ下りの技術を演じけるが、空中に登る事数十丈にして空をも貫くが如し。稍々空中にありしと見へしが、間もなく根岸の辺りへ下りける。実に奇々の妙術なり」(橋本周延『上野公園風船之図』)。
いっぽう歌舞伎座の舞台はこうだ。モダンな洋楽の演奏に続いて、常磐津の浄瑠璃がはりきって語りだす。「むら立つ雲も晴れ渡り、小春日和の麗に、そよ吹く風も中空へ、やがてぞ昇る軽気球」。菊五郎扮するスペンサーが「時事新報の広告や、平尾の歯磨の広告」をばら撒きながら気球とともに舞台上方へ舞い上がり見えなくなる。と舞台背景の上野の博物館がひっくり返って大空へと変わり、今度はごく小さな気球とスペンサーが現れる。遠のいて小さくなったスペンサーを表すのに「遠見」という江戸時代以来の手法を使った。遠くのものは小さく見える。ならば小さいのを出してしまえ、というのが歌舞伎の発想である。ミニサイズの風船とともに、菊五郎と同じ扮装をした五歳の尾上幸三が吊るし上げられた。この幸三が後に六代目菊五郎として近代歌舞伎を代表する名優になる。メリー・ポピンズよろしく傘を握ったミニ・スペンサーがふわふわと降りてくると、また交代で菊五郎のスペンサーが登場する。空中で「大の字など好みの芸」を色々披露していると、にわかに出てきた風に吹き流され、とうとう舞台の奈落へと姿を消す。「宙乗り」は歌舞伎のお手のものだが、軽快な浄瑠璃にのせて噂の風船乗りが空を行く、こんな愉快な宙乗りは初めてだろう。風に乗って根岸に着陸したスペンサーは、人力車に乗って花道から颯爽と博物館前に戻ってくる。ここで菊五郎は樽の上に立ちはだかって、英語の演説をやってみせた。「レデーアンドゼントルメン」。もちろんでたらめ英語だったが、菊五郎の得意顔と観客の呆気にとられた顔が目に浮かぶようだ。
この風船乗りと一緒に「紙人形」も演じてみせた。薄い紙を貼り合わせたひらひらの人形が、ガスを注入すると立ち上がり生きているように踊りだす。紙に穴が開くと人形はたちまちぐにゃぐにゃにしぼんでしまう。糸操りや文楽の人形を真似る「人形振り」は昔からあったが、西洋渡りの紙人形の振りとは菊五郎の新機軸だった。
すでに役者としての地位と名声を確立していた菊五郎が、巷で評判の外国人曲芸師や紙人形を次々に演じてみせる。単に菊五郎の物好きだけではないはずだ。世間で話題になった事件・風俗をすぐさま取り入れた演劇を際物(きわもの)と呼ぶ。とすれば、菊五郎はキワモノの名人でもあった。現代のわれわれには、キワモノという言葉はどこかいかがわしさを感じさせる。こむずかしい理屈などまっぴら、少々怪しげだろうと結構。その場・その時に話題になって、パッと売れてしまえばそれでおしまい。そうやって一瞬のうちに消費されて花火のように消えてしまうのがキワモノの本領である。しかしその一瞬のまばゆさは他のものでは及ばない。だからいつの時代でも観客はキワモノを熱く支持する。「風船乗り」への劇評は「ここといって評する処も有ませんが、すべて見物の気を取る手際の働らき、実に恐れ入ました」とそっけないが、「見物の気を取」りさえすれば大成功だったのだ。現在でこそ歌舞伎は古典芸能として固定された芸を伝承し続けるものとされているが、100年前の明治の昔、キワモノは歌舞伎の舞台を縦横に走り回っていた。歌舞伎役者は‘世間’をリアルタイムで演じてみせ、観客はそれを見ようと芝居小屋に詰めかけた。人々は世間の出来事を舞台で知った。舞台は世界を忠実に写す鏡だった。
お芝居の後半は浅草公園の場となり、明治の東京を象徴するランドマーク・浅草十二階こと凌雲閣の上から風船乗りを見物した芸者や旦那がその噂をする。菊五郎が三遊亭円朝に扮するのが評判になったというが、悪い楽屋落ちが少々鼻につく。最後は円朝を中心に「あゝ、昔へかへつて踊りませう」と総踊りになるというこの場面は、前半の風船乗りのうきうきしたムードと違っていかにも古めかしく、幕末の匂いと不思議な湿った郷愁を漂わせている。明治維新をちょうど真ん中に挟んだ時代の波にもまれながら、黙阿弥はその名のとおり黙して淡々と己の仕事を続けた人だった。彼が本当に書きたかったのは前半と後半のどちらだっただろう。あるいは菊五郎が嬉々としてスペンサーと円朝を演じ分けたように、一枚のコインの裏表、黙阿弥にとってはどちらも一本の筆先を通して見た世間の姿だっただろうか。
風船乗りを見物にやって来た「百姓畑右衛門」はこう述懐する。「先づ長生きをしたお蔭には、大地震から大暴風雨、画ばかりでなく本物の、戦を現に見ましたが異国からさもいろいろな珍らしいものが来ましたが、象や虎は目古くなり、今度風船乗りを見ますのは、今の世界の有難さ、田舎へ土産になりまする」。田舎者の畑右衛門の目にも、もはやチャリネの連れて来た象や虎は「目古く」なったという。地震だろうが戦争だろうが風船乗りだろうが、とにかく珍しいものを「見る」ことが彼らの心を占めていた。浅草十二階をバックに舞い上がる風船乗り。ふと我に返ると口をあんぐり開けて上ばかり眺めている。人々の視線は中空を突き抜けて上へ上へと伸びていく。錦絵をよく見ると、その横には大流行のパノラマ館もちゃんと描き込まれている。なんとスペンサーの風船飛行も浅草十二階の開業もパノラマ館の開場も、すべて同じ明治23年の出来事である。つまりは人々の目の欲望が、垂直・平行の双方向へと際限なく伸びていった時代。その視線の行く先には、一方に異国の見世物があり、一方に戦争があった。(次号へ)

(『世界週報』、時事通信社、2005年3月22日号)

明治のキワモノ歌舞伎(下)

2005-04-22 | 伝統芸能
今の上野公園を歩いても、かつてこの辺りが血なまぐさい内戦の舞台になったことを実感するのは難しい。江戸時代最後の年である慶応4年の5月15日、旧幕臣を中心に結成された彰義隊と、大村益次郎率いる明治政府軍とが戦った「上野戦争」。半日あまりの戦闘で彰義隊はあっけなく壊滅するのだが、上野の山には舶来最新式の大砲が打ち込まれ、ほうぼうに火の手があがった。往来には弾丸が飛び交い、生首をいくつもぶら下げた歩兵がうろうろと歩き回った。賊軍となった彰義隊士の無惨な死体は、数日にわたって道ばたに放置されたという。「将軍様のお膝元」での市街戦は、誇り高い江戸人の記憶に衝撃的な光景として刻み込まれた。
この戦争を題材とした歌舞伎に『皐月晴上野朝風』(さつきばれうえののあさかぜ)がある。実在の彰義隊副隊長・天野八郎の活躍と、彰義隊を支援する湯屋の主人・越前屋佐兵衛の心意気を描いている。徳川びいきの江戸っ子には、薩長に反発し彰義隊を応援する者が多かったのである。どちらの役もキワモノの名人・五代目尾上菊五郎が演じた(前号参照)。一番の見どころは迫真の戦闘シーン。「火を懸け本雨を降らせ水火の戦ひを見せ、大喝采を博したり」(『続々歌舞伎年代記』)、「本雨を使って南京花火や鼠花火でポンポン、パチパチ、女子供は耳を押えて見物する、今なら新国劇そこのけの大活劇だった」(鏑木清方『随筆集 明治の東京』)と、大道具・舞台効果の凝った仕掛けが大評判になった。恐らく今のわれわれから見れば他愛のないものだったろうが、少なくとも当時の歌舞伎の観客にとっては瞠目驚嘆すべき舞台だった。新奇な仕掛けをもちこんで、観客の目と耳を驚かす。「古典芸能」という座布団の上にチンと収まる以前、歌舞伎はバイタリティあふれる「見世物」の親玉でもあった。
森鷗外の実弟で劇評家の三木竹二はこう書いた。「『上野の戦争』にては火焔の堂の間より閃きのぼり、烟(けむり)の廓にまはるさまなどおもしろし」。ただし芝居の台本としては拙劣粗雑である。「ただ耳を閉ぢて目に堂の燃ゆるを見、鼻に烟消の臭を嗅がば、上野の戦争といふことは分るべし」。日本初の理論的劇評家にして近代劇評の祖といわれる竹二のこと、それこそ目くらましめいたドンパチに驚き喝采する観客の姿を、苦々しい思いで眺めていたのかもしれない。
しかし興行は大成功だった。『半七捕物帖』の岡本綺堂が証言している。「新富座では上野の戦争をするという評判が開場前から市中にひろまった。勿論、座方の方でも種々の宣伝に努めたらしく、上野の宮様を福助が勤めるとか、その当時まだ現存していた下谷の湯屋の亭主を菊五郎が勤めるとか、なんとか彼とかいう噂が毎日の新聞紙上を賑わしていた」「上野の戦争の場などは訳もなく大喝采で、福助の僧光仁が草鞋穿きで上野を落ちるくだりなど、その光仁が何びとであるかを想像して、ひそかに涙をぬぐう老人もあった」(『明治劇談 ランプの下にて』)。
「その光仁が何びとであるか」には注釈が必要だろう。上野寛永寺の門主には親王、つまり天皇の子が輪王寺宮を名乗って就任するならわしだった。これがすなわち「上野の宮様」である。天皇家や貴族と縁の薄い江戸の人々にとって、上野の宮様は唯一身近に存在を感じられる貴種であった。しかし彰義隊は寛永寺を本拠とし、輪王寺宮をおしたてて戦ったため、旗色悪しとなると宮様は江戸をのがれて東北に落ちのびていかざるをえなかった。僧光仁は実はこの宮様の姿を写している。「草鞋(わらんじ)はかう召すものと涙ぐみ 遠くきこゆる鉄砲の音」。当時こんな付合(つけあい)があった。宮様がいざ出発しようとすると、草鞋など履いたことがないので履き方がわからない。宮様のおみ足に草鞋の紐を結びながら、おいたわしさに思わず涙が出たというのである。鏑木清方の知人疋田某はこのとき実際に宮様のお供をしたが、後に『皐月晴上野朝風』をさして「あの通りだった」と語ったという。上野戦争・彰義隊の話は明治の間に何度も劇化されているが、そのたびごとに宮様が江戸を落ちていく場面が上演されている。江戸、そして東京の人たちにとって、「草鞋の宮様」はさほどに痛烈なイメージとして共有されたのである。ちなみにこの宮様、維新後は無事宮家に復帰。ドイツ留学を経て陸軍軍人となり、近衛師団長として日清戦争に出征、台湾で客死と、まさに芝居のような人生を送った。
重要なのは、観客が舞台の上に歴史そのものを見たことだ。多くの人が戦争当時の記憶と目の前の舞台とを照らし合わせて「あの通りだった」とささやきあった。当の現場を直接体験した者はもちろんだが、中には噂に聞いただけの者も多かったろう。大きくなって見たアルバムの写真が、覚えていないはずの思い出を作り出すようなものだ。徳川びいきの主人がいる銭湯。鉄砲の音、官軍の戦装束。燃え上がる上野のお山と草鞋の宮様。舞台を見ればたちまちそれが自分の記憶と溶け合って一つになった。「その頃の根岸から三河島は、晴れた日には筑波山まで見透しの千町田(ちまちだ)で、菜の花の名所であった。五月雨時の水田続きに、上野の杜のクッキリと黒い向うに、根本中堂の伽藍の焼け落ちる火の手が挙がる。今日のような装置ではないとしても、何処までも写生で真に迫っていた」(鏑木清方・前掲書)。幕末江戸の風景は、残された古写真で見てもあくまで静謐で美しい。懐かしい江戸の風景をまるごとひとなめにするかのように、炎と煙が上野の山を取り巻いた。それをそのまま目に見えるように再現してみせたのが『皐月晴上野朝風』だった。それまでの歌舞伎とは違って、すべてが「写生で真に迫っていた」。
この芝居は明治23年5月に上演されたが、5月といえば上野戦争のあったのが5月15日。そして明治23年は、上野で第3回内国勧業博覧会が開催された年であった。芝居の終幕は「上野第三博覧会の場」で、博覧会見物に集まった上野戦争の経験者やその縁者たちが昔のことを語り合い、文明開化の新時代を祝うという異色の結末である。つまりはまさにそのとき開催中の博覧会をあてこんで、23年前の彰義隊の上野と、現在の博覧会の上野とを重ね写しにしようという趣向である。「けふは五月十五日、御一新より算ふれば、丁度二十三年忌。」「みな縁のある人々が、今日こゝへ集まりしも、」「開運進歩を内国の、諸人に知らす博覧会」。博覧会を機縁に集まったというが、彼らを結ぶ一本の糸は、上野戦争に他ならない。
中には天野八郎の弟・賢次郎がいる。いわば旧幕に殉死した兄とは対照的に、賢次郎は「巴里(パリー)に於て十年間、機械学を勉強し」、今は新政府の官僚になっている。「瓦解の砌りは兄弟が、心一致いたさぬゆゑ、兄八郎は上野へ籠り、僕は洋行いたせしゆゑ」「今日となつて見ると、先づ我が方が勝利ぢやわえ」。高らかな勝利宣言というところだが、観客の思いは様々だったに違いない。「唯分らないのはこなたの髷だが、なぜ附けてゐなさるのだえ」「こりや二十三年忌の、この五月十五日まで、彰義隊へ手向のちよん髷、済んだら切つてしまひます」。彰義隊に義理立てしてちょんまげを守り続けてきた老人がいる。それも今日の忌日を最後に切り落としてしまうという。こんな台詞の方に深く頷く観客も多かっただろう。この博覧会の場面はまるで法事である。故人に縁ある人たちが集まって、近況報告や昔話に時を過ごす。年寄りは共有された記憶を確認しあい、若者は見たことのない過去を頼りなく思い描く。死者を思い出すことは一つの供養である。とすればこの「上野第三博覧会の場」は、23年前の上野、そして徳川江戸の記憶に引導を渡すための場でもあった。
一方で明治人の視界には外国の姿が映るようになる。「昨年巴里の博覧会にも、さぞよい油画がござりましたらうナ」「これも非常な陳列品でござつたが、今回の油画はなかなか外国にも負けませぬ」。なにかというと「外国に負けない」を連発する。「第一第二第三と、その開場の度毎に、」「機械、織物、書画、陶器、」「木材、塗物、海産物、」「以前に優りし陳列に、」「外国品にも負けぬやう」。新興国家の力みっぷりが伝わってくる。博覧会は、国家の鼻息の荒さを陳列(ディスプレイ)という形で表現する場所だった。必然といおうか、たて続けに外国との戦争が起きる。日清戦争は四年後の明治27年。すかさず「オッペケペー」の川上音二郎が舞台化し、音二郎率いる書生芝居が一躍脚光を浴びることになった。「戦争芝居に大勝利を得て近来歌舞伎にても其例無き数十日間大入り」。戦争への興味と興奮ではちきれんばかりの人々に、怪しげとはいえいち早く戦地の光景をさしだしてみせた。素人同然の男たちがやたらにがなりたてながら取っ組み合いを見せ、それがかえって「真に迫っている」と評判になった。
歌舞伎も負けじと日清戦争を取り上げたが、腰つきはどこかおずおずとしている。そもそも歌舞伎の戦闘シーンは踊りと見紛うような立ち回りしか表現の方法をもたなかった。それを象徴するのが「どんたっぽ」という下座音楽である。どんは大太鼓、たっぽは小鼓。勇壮な、しかしゆったりとした音楽と、お決まりの「ヤアー」という掛け声に合わせてのんびりと立ち回りが行われる。「上野戦争」の時のように舞台装置を工夫することはできても、昨日まで「どんたっぽ」で動いていた役者の身体ばかりはそうそう変えられない。「着つけぬ軍服ごしらへのサアベル姿ノソノソとして足元のあやふく見えたる不評」とは誠に気の毒というほかない。軍服姿で戸惑う役者の姿は、もはや「真に迫っている」を表現できなくなった歌舞伎そのものの姿だった。見世物の親玉としていつも観客をあっと言わせてきた。派手なキワモノを次々に送り出し、同時代の世間のありさまを見事な手つきで切り取ってきた。しかし歴史にひとまず区切りがついた。明治36年、申し合わせたように五代目菊五郎と九代目團十郎が死んだ。「歌舞伎の危機」が深刻に論じられ、歌舞伎は急速に「古典芸能」化していく。その良し悪しはさておいて、われわれの前には歌舞伎がヤンチャであった時代の台本や錦絵が山ほど残されている。後の研究者によって「キワモノにつき用済み」の札が貼られているが、気にするには及ばない。近代日本の弾んだ息遣いを感じるには、キワモノ歌舞伎はどんな教科書よりもうってつけだ。

(『世界週報』、時事通信社、2005年3月29日号)

五花十葉の伝-戯曲の成り立ち

2005-04-21 | 伝統芸能
『戯財録(けざいろく)』は享和元年(1801)の成立。二百年前の歌舞伎の狂言作者が書き残した、劇作のマニュアルである。これに掲げられたのが「五花十葉の伝」という、いわば劇構造の分析チャート。導入からクライマックスを経て大団円にいたるまでの、一本の芝居の構成を図式化したものである。筆者は戯曲の成り立ちを花咲き葉ひらくさまになぞらえた。
職人的・感覚的なテクニックがなによりものをいう芝居の世界で、この作者は自分の知恵を文字に残して伝えようとした。たとえば外題(タイトル)のつけ方、番附の書き方、共同執筆のやり方について。季節に応じて配慮すべきこと、京・大坂・江戸の観客の好みの違いについて。
戯曲の基本構造を成す「世界」と「趣向」についても述べている。

大筋を立るに、世界も仕ふるしたるゆへ、あり来りの世界にては狂言に働きなし。筋を組て立る故、竪筋・横筋と云。たとへば太閤記の竪筋へ石川五右衛門を横筋に入る。(略)竪筋は世界、横筋は趣向に成。竪は序なり、大切(おおぎり)まで筋を合せども働なし。横は中程より持出しても働きと成て狂言を新ら敷見せる、大事の眼目なり。

「世界」とは芝居の基調となる時間的・空間的な状況設定のこと。もともとは歴史上の有名な出来事や伝説・民話、あるいは巷で評判の事件である。同じエピソードがくり返し舞台化されるうちに、登場人物の名前やキャラクター、劇中での行動、人間関係などが次第に定型化してくる。そうしてできあがった「世界」は、たとえ書きおろしの芝居であっても、劇の基本的な要素をあらかじめ規定することになる。例えば「太閤記の世界」では猛将・織田信長、智謀家・豊臣秀吉、謀反人・明智光秀というおなじみの人物と時代設定がベースになるし、「お染久松の世界」といえば、大家のお嬢様・お染、丁稚・久松、田舎娘・お光が登場し、許されぬ三角関係を軸に芝居が成り立つ。
その設定の内容によって、歌舞伎狂言はごく大まかにいうと「時代物」と「世話物」にわけられる。「時代物」は江戸時代以前の王侯貴族や武士の話を土台としたもので、そこではたとえば政権乗っ取りを狙う公家の陰謀や、主君に忠義を尽くす侍の悲劇が描かれる。一方「世話物」は江戸時代の庶民の生活を描いたもので、恋のもつれから心中する男女や、金をめぐって起こる殺人事件などがドラマとなる。
また複数の世界をまぜ合わせることにより、違う世界の人物が入り乱れる「綯い交ぜ」という手法も生まれ、観客の先入観をひっくり返すような新しい異空間を編み出した。
こうして世界がたくさん出来てくると、『世界綱目』という狂言作者用のカタログまで作られた。これ一冊にあらゆる「世界」が載っている。作者は指に唾つけてページをめくりながら新狂言の構想を練った。
「世界」を料理の素材だとすれば、「趣向」は味つけにあたるだろう。作者が存分に腕をふるうところである。世界の定める大枠をふまえつつ、新たな設定や行動をからませて肉づけをほどこしてゆく。これが同じ世界にもとづいた芝居に様々なバリエーションを生む。作者たちは既存の世界の中に斬新な趣向を盛り込むのに鎬を削り、観客もまたそれを待ち望んだ。趣向はまさに「狂言を新ら敷見せる、大事の眼目」であった。
しかし趣向が劇空間から乖離してその場限りの断片的な装飾にとどまるならば、それは作者の失敗であり、“趣向だおれ”である。すぐれた趣向は世界と一体となって、あるいは世界を大幅に逸脱しつつ、舞台に生々しい虚構の宇宙を創り出す。
あながち作者一人の手柄ではあるまい。一番の要となるのは、そこに生きて動いている役者の肉体、芸の力である。そもそも歌舞伎の脚本は、役者の得意芸を効果的に筋立ててつなぎ合わせるためのものであった。色気にあふれた役者には情感たっぷりのラブシーンを演じさせ、せりふまわしに長けた役者には華麗な長ぜりふを用意した。戯曲はすべて役者の芸を不可欠の前提として書き上げられた。つまるところ、役者の身体に根を張り、葉を広げ、花を咲かせる“五花十葉”。
一方で、『戯財録』の筆者が竪筋・横筋と呼んだように、歌舞伎の戯曲は縦横に織り上げられたタペストリーのようにも見える。大胆かつ巧妙に仕組まれた色彩が、役者の声と動きによって輝き蠢きだす。「啌(うそ)と知りながら、腹を抱へて涙をひざに流すも、其の実の万人に徹する故なりかし」。そこに歌舞伎の不思議と魅力がある。

(『歌舞伎入門』、淡交社、1997年)

『怪しの世界』(紀伊國屋書店刊)あとがき

2005-04-15 | 伝統芸能
あとがきにかえて

伝統芸能の新作はいろいろな意味で難しい。お金も手間もかかる割に、大失敗の危険が常につきまとう。どうしたって古典作品の面白さにはかなわない、いや伝統芸能に新作など必要ないのだ、という意見さえある。それでも新作は必要だ、と言い切れるのか。新作が繰り返し再演されれば古典になるのか。そもそも「伝統芸能の新作」という言い方は正しいのか。
考え出すとキリがないが、要は「古い革袋に新しい酒」だろう。革袋は至極上等のものが用意されている。伝統芸能の底知れぬ世界観と身体技術だ。そして幸いにも伝統芸能を深く愛する作家がいる。彼らが小説で繰り広げる美酒のような世界を、他のどの形式でもない、伝統芸能の舞台として出現させられないものか。
作家の皆さんは、この雲をつかむようなお願いを二つ返事で引き受けてくださった。いずれ劣らぬ芸能好き、舞台を見る目に狂いはない。しかし書く段になると小説と台本とでは勝手が違う。その垣根をえいやっと乗り越えて受けてたってくださった。橋本さんは「いいっすよ。いいんだけどぉ」と言ったあと感動的な伝統芸能論を語った(そのエッセンスは本書巻頭エッセイに)。夢枕さんは「ああいいですねえ、やりましょう、いやあ楽しみだあ」と絵本に出てくる太陽のように笑った。いとうさんは一瞬考えてから「すげえ、いいの?やるやる」と言いつつ、頭の中ではすでに主と太郎冠者が橋掛りを歩いていた。
演者の皆さんは、台本を素材として日常とは違うもう一つの世界を作った。稽古場にいると、演者の身体の中で言葉がむくむくと頭をもたげてくるのが分かる。台本に書かれた文字が人の形となって立ち上がり、徐々に体温を帯びてくる。芸能するというのはなんとエキサイティングな行為だろう。
こうして「新しい伝統芸能-怪しの世界」は二日間だけこの世に出現した。
終わってしまえば消えてなくなるのが舞台のならい。ところが紀伊國屋書店出版部のご尽力で、この公演が丸ごと一冊の本になった。舞台が本になって残るとは幸運なことだ。しかも貴重な対談まで加わって、舞台を観た方観なかった方、どなたにも面白がっていただける本になった。国立劇場公演ならびに本書の出版にご協力いただいたすべての皆様に厚く厚く御礼申し上げる。
本書を手にしてくださった読者の皆様。そして昨年の夏、蒸し暑い中を「新しい伝統芸能-怪しの世界」にお運びくださったたくさんのお客様。ありがとうございました。

(『怪しの世界』、紀伊國屋書店、2001年)

書評「雅楽神韻」(東儀俊美著・邑心文庫)

2005-03-23 | 伝統芸能
神前結婚式のバックに流れる間延びした旋律、あれが雅楽です。音楽の教科書に「越殿楽(えてんらく)」が載っていたのを覚えている方がおられるかもしれません。また音楽に舞のついた舞楽というのもあって、源氏物語で光源氏と頭中将が舞って女房たちを腰くだけにした、あれが舞楽です。
宮内庁式部職楽部で首席楽長をつとめた著者が、悠々と筆を走らせた『雅楽神韻』。雅楽の楽屋話とは珍しい。宮中行事に雅楽はつきもので、かつては専業のスペシャリストとして決まった家系「楽家(がっけ)」の人たちが伝承を担ってきた。その一つ東儀家は、聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)が先祖というから気が遠くなる。
さてひとの話を聞くときは失敗談が一番面白いものだ。
園遊会の天覧舞楽でのこと、演奏の途中で音楽が突然終曲のメロディになってしまった。思わず見交わす顔と顔。舞いながら他の舞人の様子をうかがうと「何ともいえない緊張した顔でこちらを向いている」。そりゃあそうだろう。察するにあまりある。
またある日、動きの激しい「還城楽(げんじょうらく)」を舞う著者。目一杯くるくる廻って、ここぞ正面とぴたりと止まったら、ばっちり後ろ向き。目の前には管方(かんがた=演奏者)の面々がずらりと居並んでいる。思わず見交わす顔と顔。わきの下から汗がじわり。
雅楽だって生身の人間が演じる生の芸能だ。この程度のことはいくらもあり得るのだが、とくに面白く読めるのはこれが独特の先入観をともなう「雅楽」だからだろう。雅楽に「宮廷の伝統美」とか「平安の雅」とかいうシールを貼っつけて澄ましていないか。
へばりついたイメージの薄皮を全部剥ぎ取ってみよう。どんな芸能でも生で見てみなければ決して良さは分からないが、特に雅楽はそうだ。幸いわれわれにはようやく雅楽を聴く耳がひらけてきた。ワールドミュージックや宗教音楽をはじめとして、多種多様な音をごく自然に受け入れられる耳が確かに育っている。
雅楽に秘められた魔術的な部分に触れるのも、実はナマ音を聴くことから始まる。岡野玲子『陰陽師』を見よ。かつて音を発するということ自体が宇宙へのダイレクトな働きかけだったのだ。本書によると「御神楽(みかぐら)」という儀礼で奏する秘曲は、ひたすら弱く奏して音をほとんど出さないという。あまつさえ楽家によっては「無音の秘曲」などというものも伝えられているらしい。象徴としての音を聴く。まさに東洋の神秘。
一方楽部の教室では、楽生(がくせい)時代の著者が神妙な顔で豆腐屋を真似ている。「越殿楽」の音程をとるのに「とーふーぃ」がちょうどいいのだそうだ。
およそ楽屋話というのはファン以外には退屈なものだけれど、こんな飄々とした語りっぷりがなんとも好ましい。この本を足がかりに、雅楽のナマ音体験に一歩踏み出してみてはいかがだろう。

(『週刊読書人』1999年4月2日号)