goo blog サービス終了のお知らせ 

人生のプロムナード・徒然なる日々を語る。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

懸命に生きた日々の追想

2015-04-11 10:59:24 | 思いつくままに書き描く
 戦後70年私は傘寿を迎えた。小学1年のときにあの大戦が始まっていた。朝礼の国旗掲揚時には6年生の先輩方が
「たーたーたーたーたたったーたーたったたたったたーたったたー…」とラッパーを吹奏した。それから間も無く戦争一色になる。その前年
父は死亡母子家庭、母は三池製作所で働いていた。たった一人の妹は父方の里に預けられていた。私も新聞配達を始めた、毎日新聞だった。

身体は大きかったが、何しろ幼子新聞はとても重かった左胸に抱え懸命に駆けずり回った記憶はある。みんな優しかった暖かい洗面器の湯で温めてくれたおばさんを思い出す、からいも飴の味も鮮明に記憶に残っている。学校は時々遅刻した、担任の春林先生はげんこにはーっ!と息を吹きかけそっと頭にのっけてくれた。そして「遅れるな!・・頑張れよ!」といってくれた。

そんな時妹が急きょ帰宅市立病院に入院した母が真っ青で病院から帰宅「良一大変よ、澄子はジフテリアって!!」私にはよくわからなかった。その病気が当時致命傷の不治の病だとは?

懸命に生きた日々(8)

2015-04-10 23:17:08 | 思いつくままに書き描く
 田舎とて戦時中は満足に食べられなかった。「卵ご飯ぞ!」と爺ちゃんがよく言った。「ふん、粟飯のくせに!」とぼそぼそした粟飯をほうばった、私は長女の息子、だから3っつ違いの叔母と5歳年上の伯父が一緒に生活していた、兄弟のような感覚でいた。3歳上の叔母は「黙って食わんね!」と何時も睨み付けた。「あーあかーちゃんとこに、はよ帰りたかねー」と減らず口を叩いた。

それでも爺ちゃんは、ニコニコして「ほら本物の卵ごぞ!」よ私にだけくれた、うまかった、今でも鮮明にその味を覚えている。母の住む大牟田の街に帰ってきたのは間もなくのことである。元の国民小学校は焼失2校が合併し仮校舎の白川小学校として発足していた。

懸命に生きた日々(7)

2015-04-07 23:41:52 | 思いつくままに書き描く
アメリカの進駐軍が、こんな田舎に来るとは想像だにしなかった。国民学校の小学生、敗戦から数か月川にかかる橋の欄干でたむろしている子らに「へーいボーイ!」と大きな声が響いた。私は5年生とっさに「小刀ば川に捨てろ!!」とさけんだ。みんな一斉に川をめざし投げ込んだジープが止まった。兵士が私のところへやってきた、体は震えていた見上げると大きな人だった、もうだめだと思った。

 大きな手が頭にのっかった、そしてやさしくなでている。横に立っているやや小さな人が「怖がらなくっても大丈夫…友達だよ」見ると日本人だ!いや日本人と同じ顔だ。「はい!」と大きな声で叫んだ。上から大きな声が響いた「グッボーイ」と聞こえたような気がする。その後は記憶が定かではない、だだ村役場をどこかと聞かれたような気がする。記憶にあるのはチョコレートを沢山?貰ったことだ。

 疎開先のうちに返ってばーちゃんに「アメリカの進駐軍にこればもらったばい」「なんねそら?」「チョコレートげな、うまかげなよアメリカの日本人がゆうとらしたよ」「バカたれが毒が入っとったらどげんすっとか!!爺さんの帰らすまでさわっとでけん!!」すごい剣幕だった。こんな九州弁は70年前の記憶だが、鮮明に覚えているから摩訶不思議である。