戦後70年私は傘寿を迎えた。小学1年のときにあの大戦が始まっていた。朝礼の国旗掲揚時には6年生の先輩方が
「たーたーたーたーたたったーたーたったたたったたーたったたー…」とラッパーを吹奏した。それから間も無く戦争一色になる。その前年
父は死亡母子家庭、母は三池製作所で働いていた。たった一人の妹は父方の里に預けられていた。私も新聞配達を始めた、毎日新聞だった。
身体は大きかったが、何しろ幼子新聞はとても重かった左胸に抱え懸命に駆けずり回った記憶はある。みんな優しかった暖かい洗面器の湯で温めてくれたおばさんを思い出す、からいも飴の味も鮮明に記憶に残っている。学校は時々遅刻した、担任の春林先生はげんこにはーっ!と息を吹きかけそっと頭にのっけてくれた。そして「遅れるな!・・頑張れよ!」といってくれた。
そんな時妹が急きょ帰宅市立病院に入院した母が真っ青で病院から帰宅「良一大変よ、澄子はジフテリアって!!」私にはよくわからなかった。その病気が当時致命傷の不治の病だとは?
「たーたーたーたーたたったーたーたったたたったたーたったたー…」とラッパーを吹奏した。それから間も無く戦争一色になる。その前年
父は死亡母子家庭、母は三池製作所で働いていた。たった一人の妹は父方の里に預けられていた。私も新聞配達を始めた、毎日新聞だった。
身体は大きかったが、何しろ幼子新聞はとても重かった左胸に抱え懸命に駆けずり回った記憶はある。みんな優しかった暖かい洗面器の湯で温めてくれたおばさんを思い出す、からいも飴の味も鮮明に記憶に残っている。学校は時々遅刻した、担任の春林先生はげんこにはーっ!と息を吹きかけそっと頭にのっけてくれた。そして「遅れるな!・・頑張れよ!」といってくれた。
そんな時妹が急きょ帰宅市立病院に入院した母が真っ青で病院から帰宅「良一大変よ、澄子はジフテリアって!!」私にはよくわからなかった。その病気が当時致命傷の不治の病だとは?