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人生のプロムナード・徒然なる日々を語る。

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懸命に生きた日々(5)

2015-03-27 03:05:28 | 思いつくままに書き描く
父が残したたった一つの財産それはちいさな一軒家だった。母はその家から毎日工場へ通った。「一人で寂しいだろうなー」疎開先の祖父母の家でいつも母に思いをはせていた。B29がキラキラと空を飛んでいく、綺麗だ青空に輝くお星様のようだ、しかし怖い敵機なのだいったん投下すれば爆弾であれ、焼夷弾であれ、家屋を破壊し、焼き尽くし、多くの人々を殺傷してしまう怖ろしい凶器と化すのだ。

 それでも疎開先では意気軒昂田舎者に負けるものかと、何事にも全力で、頑張っていた。兎に角6年を終了した陸軍幼年学校そして士官学校に行くのが夢だった。だから母と遠く離れていても我慢することはできた。野山を駆けずる気分は爽快で楽しい思い出がいっぱいある。
もちろん祖父は厳しく、田植えから田の草取り、稲刈り、さつま芋の植え付けそして山へ行っては薪を担いで涙をこぼしながら坂道を下った

あの背中の痛さは今でも記憶に乗っている。牛一頭あてがわれ、餌の草刈やわらを細かく切って与える日課苦痛そのものだった。何しろ4年生なのだから、それでも身体は大きく相撲で鍛えていたのでたえられた。そんな田舎にも兵隊さんたちの駐留があった(すぐ前線に行くのだろうが)飼っていたウサギや鶏や牛など村内から大量に買い付けていった。このづっと後アメリカの進駐軍やってこようとは想像だにしていなかった、こんな田舎に!

懸命に生きる日々(5)

2015-03-17 01:51:47 | 思いつくままに書き描く
米軍機グラマンの機銃掃射は本当に怖かった!!飛び去ったかとほっとすれば旋回して2度3度と襲い掛かる。防空壕に避難している人にとっては叔父と私は悪魔のようなもの退避などできるはずがない。その場を逃げ出さねば、罵声は大きくなる。本当に両手を合わせ「ごめんなさい!」と叫ぶように防空壕から離れた。私が国民学校4年生だった。幸い防空壕には被害がなかった。不幸中の幸いだった。

 それでも市街地母のいる家まで5歳違いの伯父と死にもの狂い出かけこんだ。まだ母のいる自宅は無事だった。母が勤めから帰るまで、私は得意の味噌汁とご飯を炊き、叔父は薪割りと掃除そして一坪半の小さな庭に何かをせっせと蒔いている。兄想いの伯父は母にとっても大切なダダ一人の男衆であったのだ。叔父二人は赤紙で召集、一人はフリッピンのパラワン島、もう一人はビルマ(現ミャンマー)で激戦の中にある。二人には若い可愛いお嫁さんがいる。私をいつも可愛がってくれる。

 三井三池製作所は大きな工場だ、幸い空襲はいまだ受けてない不思議である、だから母も働ける。雨のひ工場の門まで傘を届けると、「オッ恋人が来とるバイ!」と守衛さんが冷やかした私は恥ずかしくも又嬉しかった、僕は9歳母28歳、母は若くて美人だった。今日はお叔父と3人で晩餐会?だ。終わったらすぐ帰る。祖父母のいる疎開先まで約6里2つの山を越えていく、このまま母と暮らしたいそんな感情が胸を蔽う、母が帰ってこないかなー「おそかねー」叔父がポツリと言う。

 「仕事が忙しかつやろう」外は真っ暗となってきた・・・・・・・・・

懸命に生きる日々(5)

2015-03-17 01:51:47 | 思いつくままに書き描く
米軍機グラマンの機銃掃射は本当に怖かった!!飛び去ったかとほっとすれば旋回して2度3度と襲い掛かる。防空壕に避難している人にとっては叔父と私は悪魔のようなもの退避などできるはずがない。その場を逃げ出さねば、罵声は大きくなる。本当に両手を合わせ「ごめんなさい!」と叫ぶように防空壕から離れた。私が国民学校4年生だった。幸い防空壕には被害がなかった。不幸中の幸いだった。

 それでも市街地母のいる家まで5歳違いの伯父と死にもの狂い出かけこんだ。まだ母のいる自宅は無事だった。母が勤めから帰るまで、私は得意の味噌汁とご飯を炊き、叔父は薪割りと掃除そして一坪半の小さな庭に何かをせっせと蒔いている。兄想いの伯父は母にとっても大切なダダ一人の男衆であったのだ。叔父二人は赤紙で召集、一人はフリッピンのパラワン島、もう一人はビルマ(現ミャンマー)で激戦の中にある。二人には若い可愛いお嫁さんがいる。私をいつも可愛がってくれる。

 三井三池製作所は大きな工場だ、幸い空襲はいまだ受けてない不思議である、だから母も働ける。雨のひ工場の門まで傘を届けると、「オッ恋人が来とるバイ!」と守衛さんが冷やかした私は恥ずかしくも又嬉しかった、僕は9歳母28歳、母は若くて美人だった。今日はお叔父と3人で晩餐会?だ。終わったらすぐ帰る。祖父母のいる疎開先まで約6里2つの山を越えていく、このまま母と暮らしたいそんな感情が胸を蔽う、母が帰ってこないかなー「おそかねー」叔父がポツリと言う。

 「仕事が忙しかつやろう」外は真っ暗となってきた・・・・・・・・・

今日も又命をいただき一文を描く

2015-03-14 01:17:48 | 思いつくままに書き描く
 あの人も彼の人も死んだ!死が誰にも訪れることを知らされる日々が続く哀しさは全国に広がる。如月や弥生の厳寒はことのほか厳しかったようだ。インフルエンザウイルスや風邪菌は急性肺炎化して人の命を奪ってしまう。突然に襲い来るから防御もできない大黒柱の命を奪う場合もある。バイタルーサインという言葉を耳にする「生態が生きていることを示す徴候のこと脈拍・呼吸・体温・血圧・意識・反射など」生命の徴候だ。この徴候が一つでも乱れれば肉体の変調ととして現れる。しかし危険意識に結びつかない場合もる。

 加齢とともに定期検診の受診が必要ということか!?地震があったらてんでんこ・・・と云う言葉を聞かされた己が健康管理にも該当するような気がする。胃カメラも内視鏡もCTもMRIも面倒だいやだ!!と言っていれば人生行路は途絶えてしまうだろう。まさに「てんでんこだ」「健康は富に優る」「日々これ好日」前向きに生きていきたいものだ。少々の無理はあっても無駄無理だけは避けたいもの、頑張りたい。


懸命に生きて生きて虚しく布団を被る(3)

2015-03-06 01:19:23 | 思いつくままに書き描く
 六つ違いの伯父とさつま芋ジャガイモ、野菜、押し麦と米を少々そして燃料の薪を自転車リヤカー?(自転車にリヤカーを括り付けて走るあれだ)熊本の田舎から三池炭鉱のある大牟田そうだ母の待つ町まで運ぶのである。母が一人で働いていることを思えば、4年生の少年には苦痛はこれっぽちもなかった。5~6キロの山坂の道も平気で登っていった。最後のトンネルを抜けると前方がパットひらける!!

 後はどんどん広がる下りの道を飛ぶように下っていけばいい。そんな人々がどんどん増えていく、リヤカーだけの人も滑るようにくだっていく、まるでで競争である。互いの興奮がぶつかりそうになり、争いにまで発展しそうな状況だ誰かが「兵隊さんの事ば思わんね!!」「どんどん命がなくなっとるとよ!」立待整然と整理されるから不思議である。

 そして誰かがリーダー役を務める、身勝手なものはだれもいない、命令に従っていく、私たちも従がって急がず整然と歩いていく・・・
しかしそれは平時のこと突然と米軍戦闘機グラマンが顕れれば必死に身を隠さなければ命は風前の灯火である。両翼から放つ機銃掃射は人を逃すことは絶対にないない。幸いのがれてたとしても、数分で旋回元の場所に戻ってきて機銃掃射の再攻撃することができる。人は逃れることは先ず不可能だろう。

 私と伯父は山の土手に作られた防空壕に逃げ込んだ。防空壕は入口が狭く奥行きは広く30人ぐらいの人びとが避難していた。私たちが飛び込まなかったら、その防空壕は敵機グラマンには発見されなかったろう。しかし我々の所為でその入り口は発見されてしまった。入口を目指してグラマンは機関銃を打ち込んだ!!何度も何度も!!中では南無阿弥陀仏の連呼だついには「死に神が来た!悪魔が来た」どうしよう!
赤子から年寄りまで持っていかれる。もういられなかった、逃げ出した!叔父と二人で小さな小川に飛び込んだ顔を川の利用側の草むらに隠しながら下流のほうに泳いで逃げた。頭上グラマンは何度も通り過ぎて行った。…怖かった!!幸いその時は犠牲は出なった。