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箱と自己欺瞞

2013-04-29 21:33:02 | 無題
とにかくお金を出してもらうということは、

関係性をうまくいかせるのに難しいことは、

一般的からいってもいえることで、

身をもってわかった。


では、私を応援する人がいなかったかといえば、

いた。

非常に熱心に教えてくれた先生に、

私は今でも感謝している。

その恩恵を受けられたのも、

私が熱心に勉学や課題に取り組んでいたから、

先生も応援してくれたのだと分かる。



自己欺𥈞について考える。
自分で自分の心をあざむくこと。

自分の良心や本心に反しているのを知りながら、

それを自分に対して無理に正当化すること。



さてはて、箱の本にはそれをやめて相手のためにしたいと思ったことをすればいいと書いてある。


そこで困ったことが、

私の今の本心を探り出すと、

その人と関係を修復したいという気持ちと、

一方に、もうなにもしたくないという気持ちがある。

そしてそれを打ち返す波としてさらに、

制作したものを活かしておきたいというのがある。

それは自分のためだ。

心底自分がひどい人間だなぁと思う。


しかし少し前まで、

言い出しにくいのでは?

こちらから話を振った方がいいのでは?と悩んでいたことが、

クリアになった気がする。


私が心底相手に対してどう感じていたかということと、

それに対して、なにをしてあげたいかと思っていたことに

スポットを当てると、

私は自分のことばかり考えていて、

他人に対して、なにかしてあげたいと心底思ったことがあるのか、

疑問に思えてくる。


そうすると、

私はこれまでもそうだし、これからも、

他者と長期的に良好な関係を築き続けるというのが、

難しいことがわかる。


私の中での他人は、

助けてくれないし、むしろ、

私を傷つけるものかもしれない恐れがあるというもので、

それから身を守ることや、

その中でどうやっていきていくか、

どうやって自分の空間を確保するかということが

先決で、根本としてそれがある。


そうなったのは、

恐らく、

家庭で暴力、暴言を受け、疎外感を受けながら

育ってきたからだと思う。

一番信用していた人に裏切られたときの衝撃は、

今も忘れたくても、忘れられない。


私が誰かのためになにかをしたりするのは、

その相手に仲間だから傷つけてほしくないというのがあるのではないかと思う。



小学校低学年のとき、

クラス全員で図書室に行って本を探すという授業があった。

そのときクラスメートが吐いてしまった。

私はとっさに、

かわいそうと思った。

小学生頃の私は冬になると毎年、

吐き気を伴う風邪をひいていて、

吐くというのは、どれだけ辛く苦しいことか、

そのときの体験が脳裏に浮かんで、

その子をかわいそうと思った。

恐らく辛いだろうと思って、

とっさに保健室へ連れて行こうと思った。

周りのみんなはきゃーとか、わぁとか言って、

一瞬避けたあと、どうしていいのかわからず周りで立っていただけだった。

その中にも助けたいと思った人は恐らくいると思う。

でも一瞬私がその人たちより動くのが速かったのは、

吐いたときは、また吐き気がすることがあるし、

その場でじっとしているなんてできない状態という経験があったから、

すぐにでも、お手洗いか保健室へ連れて行ってあげたいというのがあった。

私だったら、また吐いてしまって、キャーとかわぁとか言われるのも嫌だと思った。

気持ち悪いのか、その場から動き出せずにいるその人を、

それでもきっと、ここで気持ち悪くしていたくないだろうと、

保健室へ行こうと連れ出した。

私は、確か、保険係ではなかった。


そのとき私は思った。

保険係ではないから先生から止められるかもと。

吐いたものは誰が処理するんだろう?

吐いたもののとこにいるより、

この人を保険質へ連れて行きたいな、

そうしたらいい気分だし、

教室を抜け出せるのも爽快だな。

優しい人と思われるかもな。

強く取り立てられなくても印象くらいは残せるかもな。

と考えていた。


先のことそんなこととで、

行こうととりあえず申し出てみた。

その子は吐いて苦しいときの涙目でいて、うんとうなずいた。

先生は意外にも、えらいわ、じゃぁ(私)さん保健室へ連れて行って、

保険係の2人はここを掃除してといった。


私は驚いた。

保険係が掃除するのかと。

先生が掃除を申し付けたのも驚いたけれど、

保険係が連れて行くからとならずにすんなりと、

私にたくされたことも驚きだった。

保険係には申し訳ないなと思った。

でも保険係も任務を仰せつかって誇らしげなような感じで、

周りの立ってなにかしてあげたいけどできずにいた人たちも、

私もといってみんなで掃除するのがはじまった。


私はそれを横目に、

申し出なかったら吐いたのを掃除することになっていたのかと、

内心申し出てよかったと思っていた。


でも連れていく吐いた本人が、また吐くかもしれず、

自分も吐いた経験から、

吐かれたら汚いとか、気持ち悪いとかいうよりも、

気持ち悪くまたなったら辛いだろうな、どうしようと思っていた。

保健室へ連れていきながら、

気持ち悪くないか、トイレに寄りたくないかと聞いた。

大丈夫だというので、そのまま保健室へ連れて行った。


帰りながら、私は思った。

クラスのみんな、私がいいとこどりして、

恨んでいるだろうなぁ。コワいなぁ。


が、予想に反して、

クラスと先生は私を褒めたたえてくれた。

よく吐いた人を保健室にとっさに連れて行ったと。

吐いた人を気持ち悪がらずに、えらいと言った。


私は予想外、予想外以上のことに驚きながら、

いやぁ、吐いたのを処理する方がいやだし…掃除した人の方がすごいと思うよ

と思った。

だけどなぜか掃除した人より、掃除した人も加わって褒めたたえられた。


これは今でもなんだったんだろうかと思う。

私がいない間に先生が取り立ててすごいと言ったから、

みんなも一緒になってすごいといっていたのかもしれない。

掃除した人たちは、私達も掃除したんだけどなぁと思っていたかもしれない。

それにしても爽やかな顔だったから、もうよくわからない。

(エヴァンゲリオンでいうところの最後の、おめでとう、みたいな。)


それはそれで日常の一コマとして終わったことだと思っていた。

家に帰っていつも通り、のんびりしていると、

母が勢いよく話し掛けてきた。

「あんた吐いた子を保健室へ連れて行ったの?」

「「ええ!?なんで知ってるの?そうだけど、なにかなぁ。怒られるのかなぁ?

なんで知ってるんだろう。」」

「そう・・だよ。なんで知ってるの?」

「えらい!あんた偉いよ。よく吐いた子を保健室へ連れて行ったね。」

「ええ?;それよりなんで、そんなこと知ってるの?」

「いや、さっき先生から電話があって、先生も褒めてたわよ。」

えええ!?なんで電話したんだろう?そんな電話するようなことだったのか?

「その子の親御さんからもお礼言われて、優しい子ねって言われたわよ。」

誇らしげに言う母を尻目に、一体どうい状況でそうなったの?

電話が次々に掛かってきたの?先生からの人伝え?

「他の子のお母さんからも言われちゃったわよぉ、優しい子ねぇって。」

ええ、なにそれ。なんでそんなに話が大きくなってるの?

嬉しい気持ちより、

吐いた子を保健室へ連れて行ったことがなぜそんなにすごいことなのか、

わからず―これは今もわからず、

うん―といいながら、心は首をかしげるばかりだった。


あのとき私が思ったことは、

吐いたの片付けるのやだなとか、

ちょっとは優しい子って認識されてクラスで仲間にしてもらえるかな

(別段そのときはすごくいじめられていたわけではないけれど、

もうちょっと輪に普通に入れたらと思っていた。

低学年だったから、自分が周りとなじめてないとか友達がいないとか

そういう深い認識や悩みはなかったが、

クラスの目が変ったらなにかあるかもと思っていた。)

私はクラスという社会、他人の集団で、

自分の居心地のよい空間ができたらと思っていたのだ。


けれど予想以上のヒーロー扱いっぷりに驚くと共に、

吐いたものってみんなの中では汚いものっていう認識なんだなとわかった。

私が吐いたものが片付けるのがいやだったのは、

液体のどろどろしたものを、

一体どうやってきれいに片付けるんだろう?めんどくさそう、

という掃除するのがめんどくさいのと同じ理由からだった。


今でこそ、嘔吐物には菌が含まれるかもしれず、

容易に近づいていいものとは言えない知識があるので、

汚いとは思わなくても、近づいちゃいけないと思うものとして、

あんまりいいものじゃないという認識はあるけれど。


それでも今も保健室に連れて行っただけなのに、

なんであんなに褒めたたえられたのかわからない。


とにかく、そんな訳で、

人になにかしてあげようと思うのは、

自分のためであり、

相手が本当にしてほしいかは、

いつもしてほしいと言った直後でもない限り、

わからず、

してほしいと言った直後でも、

その期待に応える形のものを提供できるか、

わからないということだ。


母に限らず、

この前の件でいうと、

感想を聞かせてほしい、メールではなく直接というので、

これは軽く、いいと思うよというのを求めているたぐいではなく、

真剣に感想を述べてほしいのだろうと思って、

よくよくそれと向き合って、時間を取り、

どういう言葉で伝えたらよいか考えて、

感想を述べたけれど、

終わってみたら、

軽く感想を述べて、いいよと言っておいた方が、よかったな

というできごとがあった。


そのとき

自分の感想を伝えてさらに役立ちたいという欲がでてしまったのがいけなかったなぁ

と反省をしつつ、

相手の期待を見抜き、それだけに応えるのは難しくなぁと思った。


やはり私には人とよいご縁を長くつづけるのは難しいことで、

それができるようになるにはーと考えると、

気が遠くなった。


根本的に無理なんじゃないのかと。


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