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至誠惻怛(しせいそくだつ)=真心と慈愛の精神

津山まつり

2009-10-25 | 日記
 10月25日(日)

 
  10月25日15時
 今日のアメダス(新見市足見堂の下) 18時現在
  最高気温16.6℃=13~14時、最低気温6.4℃=6時、積算降水量0.0mm、最大風速2m/s


 午前8時、起床。娘はすでに自宅を発っていた。7時30分中国新見停留所発の備北バスで大阪梅田へ。そこから電車で東大阪に帰った。
 妹は午前10時30分中国新見発の備北バスで大阪梅田へ。そこから電車で枚方に帰った。私が午前10時前に自宅を発って津山へ向かったので、ふたりとも女房が停留所まで送っていった。

 午前11時にアルネ津山に着いた。5階駐車場は満車だったので6階へ。ここは十分余裕があった。近くの通りから「だんじり」の鐘や音声が聞こえている。アルネ内を歩いたのち4階にもどり、津山国際ホテルが出店しているファミリーレストラン「クックゥ」へ。カツカレーセット(野菜サラダとコーヒー付き・¥1,155)を注文した。
 
  ファミレス「クックゥ」
 
 入ったときは2組の客しかいなかったが、食べ終わるころには家族連れなどでほとんどのテーブルが埋まった。私同様に腹ごしらえをしてから、津山まつりを見物するのだろう。6階駐車場にもどり、トランクからカメラを取り出した。1階までエレベーターで降り、奴通りへ歩いた。通りでは、子供らによる奴行列が行われていた。つづいて「津山情緒保存会」の女性が津山の踊りを披露した。
 
  子供らの奴行列
 
  女性が津山踊りを披露
 
 やがて、「だんじり」が若い男女に引っ張られて姿を現し、奴通りに入ると威勢よく駆け抜けた=写真。見物客は歓声を上げて迎えた。
 
 
 
 
 
 岡山県津山市の徳守神社で25日、「津山まつり」が行われ、各町内会の「だんじり」が勇壮に町並みを練り歩いた。
 今年繰り出された「だんじり」は17台で、安政3(1856)年の出動順が150年ぶりに復活。文政3(1820)年に造られた宮脇町の「簾珠臺(れんじゅだい)」を先頭に、各種彫刻が施された17台が南新座奴通りに集結した。「乗り子」の子供たちが一斉に鐘や太鼓を打ち鳴らして、同神社の大御輿を迎えた。沿道では氏子や大勢の観光客が「だんじり」を迎え、奴通りで激しく引っ張り回されると歓声を上げていた。

 
 ……午後1時過ぎ、本町2丁目商店街からアルネにもどった。途中、いい匂いを立てている「たこ焼き屋」があった。狭い店内は年配客で満員だった。見るからにおいしそうなたこ焼き(8個、¥300)だった。待つだけの余裕がなく、今回はあきらめた。アルネの6階駐車場も、すでに満車になっていた。駐車券を精算。今回は食事をとったので2時間無料。追加料金¥100だけでバーが開いた。
 津山通信部で、「津山まつり」と「新見庄たたら操業」の記事を書いた。モニターチェックの後、午後5時に津山を発ち、午後6時に自宅へもどった。

 夕食は3人で、天丼など。

 ――大河ドラマ「天地人(43)実頼追放」 NHK総合 20:00~20:45
 
 慶長9年(1604年)夏、景勝(北村一輝)の側室が男子出産後に亡くなり、お船(常盤貴子)が子を育てることになった。兼続(妻夫木聡)の長女・お松(逢沢りな)と本多正信(松山政路)の次男・政重との婚礼の日が近づくが、京や大坂でその手はずを整えているはずの実頼(小泉孝太郎)からの連絡がとだえた。心配した兼続は泉沢(東幹久)を派遣した。実頼は婚儀に反対していた。泉沢は実頼を説得して正信へ挨拶に行くが、その席で実頼が婚儀を勝手に断った。
 兼続は急遽京へ行き、家康(松方弘樹)の家臣・榊原(川野太郎)に非礼をわびたが、難題を突きつけられた。兼続は正信に謝罪し、覚悟を述べた。兼続の言葉に感じ入った正信は婚儀を了承した。米沢に戻った兼続は、実頼を高野山追放に処した。「いっそ死罪にしてほしい」と懇願する実頼に、兼続は「生きて罪を償えば希望も生まれる」と諭した。その高野山には、真田幸村(城田優)も追放されていた。
 秋、桜井(松尾諭)たちが開墾地で採れた野菜を持ってきた。豊かな実りに希望の光を感じる家臣たち。幸せな光景から幼い与七の姿を思い出した兼続は、一抹のさびしさを覚えるのだった。

 
 
 



 ※明日の予定…