カトリック情報

katorikku jyohou

誤った表層(=伝統、位階、聖職、トリエント公会議)と正しい深層(=原点、交わり、V2)が遊離しているという二元論的教会論。ほぼセデバカでありプロテスタント的教会史観

2020-01-26 | 左派(リベラル)

森一弘司教はカトリックの司教としてこれまで聖職者として歩んできた中で、カトリックの歩んできた信仰の根底に流れるものがある一方、表層にある変質してしまったカトリック教会の歴史的経緯を、過去2000年のカトリック教会の歴史を振り返って説明した。

 森司教は、カトリック教会の公式見解とは別に独自の視点で、カトリック教会が時の流れとともに本来のキリストが目指したものから離れて行くプロセスを鋭く指摘する一方、歴史を超えて脈々と受け継がれてきた根底に流れる信仰があることについても言及した。

 同司教によると、カトリックの「教会理解の歴史」には大きく分けて8つのステップが存在するという。第一ステップはイエス・キリストと使徒たちの出会いであり、イエス・キリストをそれぞれの人生において、それぞれの生活の中で受け容れた初代教会の時代、第二ステップはその後ユダヤ社会やローマ帝国から激しい弾圧と迫害を受け、「いのちがけの信仰」を守り抜いてきた時代であるという。第二ステップでは厳しい現実に直面する中、殉教者が多数生じる過程を経て、いつのまにか殉教者が讃えられ、教会は「立派に生きる人たち」が所属するところであるかのように思われるようになってしまったことを指摘した。

 その後第三ステップではコンスタンティーノ皇帝がカトリックへ改宗したことに伴い、「教会がローマ帝国という『権力』と結びついて動き始めた時代」であったと指摘した。この段階においては、いわゆる「異端」と呼ばれる勢力が権力によって排除されるようになった事を指摘、ローマ皇帝の権力を借りて「偽福音書」と言われるものを次々と排除していくようになり、「権力の構造が教会の中に受け入れられてしまった」ことを指摘した。森司教はこの段階において深刻な問題として「教会がローマ帝国の果たしていた役割まで引き受けてしまい、最初の『キリストの癒し』とは全く違うものが生まれ始めた」ことを指摘した。

 次の第四ステップは「ヨーロッパ社会のキリスト教化」の時代で、地上のすべての営みが、カトリック教会を通して成されるように見なされるようになった時代であったという。この段階においてローマ教皇・司教・聖職者は宗教家でありながら政治家としても振る舞い、民衆の地上における代理者とキリストの代理者の二つの役割を担うようになったことを指摘した。カトリックの聖職者が政治的権力を振るい、キリストの名において裁判を行い処刑を命じる事も生じ、「一種のナショナリズム」のような気風がカトリック教会の中に広まるようになった事を指摘した。

 その後の第五ステップ(14~15世紀頃)では様態はさらに悪化し、教皇・司教・聖職者たちが腐敗し、戦争で武勲を立てた将軍が司教に任命されるなど何の神学的教育も受けていない聖職者が生じたり、十字軍などを支えるための資金集めとして免罪符が発行されるなどの堕落した行いが生じた。このような堕落したカトリック教会を改革しようとルターやカルバンによる宗教改革が生じ、プロテスタントが誕生するに至ったことを説明した。

 第六ステップでは、カトリック教会内でトリエント公会議による教会改革が生じ、神学院制度が確立するに至ったが、一方で宗教改革による「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」の原則はそれぞれカトリック教会内で「掟」「教義」「秘跡」に置き換えられ、依然として「位階制」が存続し、「カトリックの聖職者たちはキリストから声をかけられているという縦の軸が強調されたまま」となったことを指摘した。結果聖職者が中心の教会となり、信徒は自分たちで考えることができず、聖書さえ信徒だけで読むことも許されない、ただ聖職者に従うだけの存在となり、「カトリックの思考停止状態」が生じてしまったことを指摘した。

 その結果第七ステップでは現代社会の歩みを理解できずに、民主主義(自由・平等・友愛)、合理主義(実証科学・自然科学)、産業革命・経済発展・唯物論と対立する教会となり、教会と社会、信仰と生活が遊離するようになってしまった事を指摘した。そのため近代社会は自分たち独自の道を勝手に歩むようになり世界大戦が勃発するまでに至ったものの、社会を知らない教会は何もできない状態が生じてしまったと指摘した。

 最後の第八ステップ(1958年~)では第二バチカン公会議によってこれまでカトリック教会だけが真理を有しているとしてきた歴史を修正し、諸宗教との対話を重視し、他の宗教にも真理があることを認めるようになり、善意ある全ての人々と連携し、協力する姿勢を示すようになったことを指摘した。第二バチカン公会議を行った際のローマ教皇ヨハネ23世は、「キリスト教会の原点に戻る」動きを促進させようとした。前教皇のヨハネパウロ2世の時代に至っては、「カトリック教会が信頼されるため、過去の姿を見直さなければならない」とし、過去に行ってきた植民地政策やユダヤ人虐殺に対して沈黙を保っていたことへの謝罪を行った。

 森司教はこれまでのカトリック教会の歴史について、エクレシア(キリストと人々の人格的な出会い)としての教会や「いのちの流れ」というものは脈々と受け継がれており、カトリック教会の根底にある一方、カトリック教会の表面的な上部構造については「歴史的な相対的なものであり、絶対的なものではない」と言い、その歴史の流れの中でさまざまな変質が生じてきたことを認めた。

 今後のカトリック教会について森司教は、カトリックにとっての「『聖職者』『位階制』とは一体何だったのかを確認していく作業が必要であり、これらを解凍していく事が必要だろう」と指摘した。

 森司教は日本人が洗礼しクリスチャンになりやすい環境としていくために、カトリック教会は「信者になるための条件」とされるキリスト教体系の理解や教義などの「言葉が多すぎるのではないか」という問題点を指摘、「キリストがこれほどまでに人間を愛してくださったということが理解できたのならば洗礼できるようにするべきだ」と述べた。またカトリック聖職者の現在のありようについて「(エキュメニズムの動きを受け入れるという)意識は生じるようになったが、深層の中に染み込んでしまったものがなかなか抜けきれない状態であるといえる」と指摘した。今後の教会のありようとして森司教は「教会の原点(初代教会のあり方)に戻り、自然体で人との交わりを育てていき、真正面からキリスト教の『心』を支え向かい合って行くことが必要ではないか」と指摘した。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/9424/20110715/news.htm


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。