喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫31

2008-09-03 15:17:32 | 図書館の白い猫
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「驚いた話だな」
「お婆さまはこの年下の恋人のことが忘れられず、その後ずっとY組に義理立てして、組長が交代してもY組の勢力拡大にこれまで知恵をお貸しになっておられたのです」
「そうだったのか」
「ですから姉上様のお父様もお婆さんには絶対服従でございます」
 ぼくはタマの話に内心唸っていた。あのおカネ婆さんがY組の陰の実力者とは。知らないこととはいえ、ぼくは恐ろしい人物に近付いていたことになる。
「お婆さまが圭介様にいろいろとお話になるほど、圭介様の身が危険になるのでございます」
「そうだろうな、口封じに殺されてしまう可能性が大になる」
「そうでございます。前のマンションには舎弟企業の社員が三名、いつも常駐しております」
「そうなの。全然気付かなかった。その三人何してるの」
「中東のドバイとの交信でございます」
「ドバイってアラブ首長国連邦の横にある小島だ。近頃中東の金融センターとかで注目あつめている」
「Y組はそこに舎弟企業をもっておりまして国際金融に参入しているとか。そこと日本の連絡先がここのマンションの事務所になっていて、世界各国の金融情報を集めております」
「ふぅーん。頭のいいのが来ているのだな」
「自衛隊でコンピューターのことを勉強しておりまして、一見クールな紳士風ですが平気でひとを射殺します。アメリカのFBIのようにワイシャツの上にピストルを提げています」

 ぼくはタマの話を聞き終わったあと、この屋敷を出る決意を固めた。今日明日に出て行くようなことをすれば、逆におカネ婆さんに怪しまれ、マンションに常駐している三人に命令してズドンとやられるのは間違いのないことである。それにまだ行き先も決めていないことである。当分は誠心誠意の気持ちで黒比目のカリフォルニア行きを励ましながら、パソコン検索でワンルームマンション探しをすることにした。三十万ほどの普通預金はあるので敷金もこの範囲、最近はマンションも不景気で需給バランスが崩れているから探せば敷金無しでリースできるところもあるだろう。

 密かに逃げ出すことは不可能だろう。
「タマ、ぼくは時期がきたらおカネ婆さんにここを出て行くことを言うよ。変な工作をすると逆に怪しまれるだろう。これまで百戦錬磨の修羅場を体験しているひとだけに小細工は通用しない」
「私もそのように思います。私も私なりに姉上様のカリフォルニア行きをお婆さまに勧めるつもりです」
「うん、そうしてくれ。十二月初めか中旬にはここを出る」
「そのときはからなず私をお供させてください」

 ぼくは戦乱の時代劇映画で観た殿中の廊下を駆ける長刀小脇に額に白はちまきを巻いた、凛々しい奥女中の姿をタマに重ねていた。
「タマさえよければいっしょに出よう」

 散歩のあとのタマは、ホワイトボードの上でのうたた寝の時間だった。ぼくは自室に入ると自分用のパソコンを起動した。試しにワンルームマンションを検索することにした。

 行くところは京都市内しか考えていなかった。早速、京都市内のワンルームマンションを検索してみた。下京区に家賃・管理費四万五千円、敷金なしを見付けた。下京区なら清水寺、八坂神社、知恩院、円山公園に近い場所だ。できれば家賃・管理費ともで三万五千円が理想だが、この辺りで四万五千円は安いほうだろう。といっていますぐ入居するのでないからこことは契約できない。目安として調べておいた。実際の契約は十一月末、入居十二月のつもりである。

 それにしてもタマの話はあとになるほど背骨が氷に触れてぶるぶる震えている話だった。マンションに拳銃を携帯した男が三人もいると思っただけで、正直いまにも殺しにやってくるのでないかと生きた心地がしなかった。気持ちが上擦って検索の入力の際、指先が震えていたほどだ。こんなことではいけない。

 あの婆さんに対抗するには腹の下の丹田に力を溜めて冷静でなければならない。ホワイトボードに蹲っているタマの姿が眼に浮かんだ。すると不思議なことにこの屋敷でタマだけが、孤独のぼくに味方してくれている、それを思うだけで気持ちが落ち着いてくるのだった。ぼく一人ではおカネ婆さんや黒比目に対抗することは無理だ。ぼくの頭は舞い上がってしまい、計略を巡らせることもできないだろう。

 猫のタマとぼくとのあいだにこころの交流というか魂の交流があるとしか思えない。これまで犬猫を近付けなかったぼくには、このことは大きな発見であった。

 十一時過ぎに起きた黒比目が、心身ともに晴れ晴れした顔でぼくの部屋に入ってきた。
「何してんのん」
「創作の調べ物」
「小説書くって辛気くさいやろ」
「まあね。ところで女優の道、どこから攻略すべきかな」
 ぼくには思案に余ることだった。
「もうしたよ」
「えっもうしたの? どうやって」
「バーのノートパソコンからアクターズ・スタジオに問い合わせメール送ったんや」
「バーにノートを置いているの?」
「お客さんの見えないところにな。だれも客無いとき退屈やろ」
「それで……アクターズ・スタジオって?」
「ニューヨークにある俳優養成所。うち向こうにおったやろ、知っとってん」
「そういうのがあるの?」
「いまはアル・パチーノが学長やで」
「へぇ〈ゴッド・ファーザー〉のアル・パチーノが」
「アル・パチーノこの養成所出とんねん」
「そうやったの。それでどんなこと問い合わせた?」
「オーディションを受けるとき用意する物とか」
「返事くるかな?」
「来る来る、ハリウッドにコネクションのあるプロダクションの社長の名前書いといたから」
「そんなひと知ってた?」
「うちやないで、お父さんの関連の芸能プロダクションの社長なんや」
「有望筋だな」
「十日ほどしたら書類送ってくる」
「手際がええやないか」
「こういうことは慣れとんのよ。猫のご飯作るわ」

 黒比目はピンクのブラジャー、ショーツのスリップ姿で階下に降りていった。

 若い頃なら日本の何処にでも、いやヨーロッパ、アメリカ大陸の何処に飛んで行ってもその土地に住み着くことができただろうが、この歳になってみるとまったく拠り所のない土地に住む勇気がなくなる。住み着くところは意外と限られてくる。母方の里、父方の里、この土地に来るまで住んでいた大阪しか思い付かない。このうち父方の里は父親がぼくの幼児の頃に亡くなったので、その後縁が切れてしまった。住みたいとは思わない。東京にもいっとき住んでいたが、関西弁と関東弁の差異か東京にも住みたい気持ちはない。

 なぜ京都かとなると根拠はなく、京都は晩年のぼくにとって憧れの地である。若い頃は憧れなかったが、この歳になると一度は暮らしてみたいと思う。これまで何度も京都を訪れたが、日帰りと一二泊しかしてこなかった。これでは京都で暮らしたことにならない。せめて一月、二月落ち着いて京都の暮らしを味わってみたい、その憧れだけである。

 タマが願望するように平安神宮周辺、八坂神社周辺、さらに北に上った金閣寺周辺、あるいは逆に南に下がった東福寺周辺、そして思い切り脚を伸ばして嵯峨野から嵐山、鞍馬寺や大原の三千院にタマを連れて一日遊んでもいい。しだいにその映像が眼に焼き付いてくるのだった。

 このことがあるいはぼくの最後の贅沢になるかもしれない。そんな思いが強くなってくる。
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