喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫33

2008-09-04 09:06:05 | 図書館の白い猫
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 ニューヨークから昨日帰国した黒比目は、噴火し続ける火山のように今朝も噴火していた。
「学長室に入ったうちを見てアル・パチーノがどういったと思う。OK、きみに決まり! の一言だったんよ。うちなんも喋ってないのやで。その日は一日中夢見てるのやないかと疑ってたわ」
「顔見た途端に抜擢やろ。信じられん話や」
 黒比目はメールでの問い合わせの翌日に、自分の顔写真三枚とこれまでの経歴と特技(英会話・ホディ・ランゲッジ・射撃)、体型(バスト・ウェスト・ヒップ)を記入した書類をエアメールしていたのだ。するとアクターズ・スタジオのセクレタリーから来訪のオファの速達便で届いたのだった。
 「007シリーズはイギリスもんやからアル・パチーノは、これのアメリカ版の構想をずっと考えてたんよ。むこうが男性諜報員ならこちらは女性諜報員で行こと。それも西洋の女性ではありふれているやんか、そこでオリエンタルな女性と思ってたとこにうちが顔出したやろ、OK、きみに決まり! って言葉が自然に飛び出したんだって」
「そこが凄いね、運命的出逢いだ」
「そうや。アル・パチーノの構想とうち、このピッタリ感は運命やな」
「それでなんて言ったかな、第一作目。昨夜聞いたけどぼくも興奮状態だったから忘れた」
「レイレイキュウアンサツノツメ」
「〈零零九暗殺の爪〉、タイトルからして東洋的だな。レイレイキュウ、日本人の感覚では電話番号的に聞こえるけど、欧米人にはそういう感覚はないのだろうね」
「零零九の最大の武器は、普段は隠している十本の指の爪とドラキュラーのような二本の牙」
「拳銃と小道具は観衆も飽いてきてるから、躯そのものが隠し兵器ってところは新鮮だ」
 黒比目のハリウッドの女優願望は思いがけない形であったが叶えられたのであった。第一作の製作に渡米するのは来年の一月四日、あとはずっとニューヨークで暮らすことになっていた。
「知り合って間ぁないのに、もう別れるなんてうち悲しいなぁ」
 黒比目はホームバーで自分の小指をぼくの小指に絡ませて言った。
「ぼくも淋しいけど黒比目のこれからの世界的活躍考えると、黙って消えるのがぼくの役目だよ」
「なんやな、人間と人間は好き同士になっても、あいだになんやかやと挟まって巧いこといかへんね」
 ぼくと黒比目が好き同士であったかぼくの側に疑問は残るが、黒比目の言うことにも一理ある。
「どう言えばよいか……人間と犬猫関係は犬猫が人間を信頼すると裏切ることはないな。今回のことは黒比目がぼくを裏切ったわけでないけど、むしろ黒比目にとってお目出度いことなんやから」
「やけどうちと別れるの悲しいやろ」
「アル・パチーノのが眼を着けたきみのような魅力のある女と別れたら、あとどう生きていったらええかと苦しんでいるけど、若いきみの将来を最優先するのが当たり前や。その代わりタマをぼくにくれんか。お婆さんにきみからも頼んでみて。きみのいないあと一人でよう生きんのや」
「お婆ちゃんの大事にしてきた猫やからうんと言うかどうか……圭介さんのためや、がんばって頼んでみる」
「ぼくも頼むけど先にきみから話してくれたらショックが少ないと思って」
「そうやな」

 おカネ婆さんはじっとぼくを睨んでいた。
「タマを連れてここを出て行きたいというのやな」
 指先からピアニッシモ・ウルトラ・ライトの紫煙がゆっくり昇っている。
「はい。黒比目さんがニューヨークへ行けばぼくはこの家で用無しでしょ、そうじゃありませんか」
「まあそういうことになる」
「それで黒比目さんがニューヨークに発つ前にこの家をお暇(いとま)しようかと。ずっとおカネさんや黒比目さんに親切にして貰いながら、なんのご恩返しもできず去るのは心苦しいのですが」
「十分恩は返してくれた。おまはんが黒比目にこれから先の目標を与えてくれた。これは大きなことや。ワシも黒比目と別れるのは淋しい。だがこれが年寄りの役目やさかい辛抱せんならん……タマ、お前このババを捨ててこの男に随いて行きたいのか」
「圭介様と離れたくありません。離れるのであれば舌かみ切って死にます」
「舌かんだりしたらあかんがな……黒比目は行ってしまう、お前も行ってしまう。淋しいこっちゃのぅ。だれの言葉か知らんけど、会者定離、年寄りには胸が痛うなる」
 おカネ婆さんは目蓋をパチパチさせると、吹き抜けの天井に紫煙を吐いた。
「おまはんとワシも別れどきかもしれん。一緒におるわけのないもん同士が一緒におると、たいていろくでもない結末がくる」
 おカネ婆さんは街角の易者が顔を見るように、ぼくに何か言いたげな顔をしてじっとぼくを見つめた。
「ぼくも淋しくせつない物がありますが、ここがお互いの別れどきかと」
 なぜか感極まってぼくの両眼から、熱い涙がポロポロと膝に落ちた。
 その夜ぼくはリビングルームのソファでタマと向かい合っていた。黒比目はホテルに出掛けていた。バーのほうもあと一週間で辞めることにした。バーの経営はホテル直轄で、今までの雇われママを使い営業することになっているらしい。
「おカネ婆さんはぼくがタマを京都に連れて行くことを許してくれたけど、何にもなしのぼくに随いてきてもタマの幸せになると思わんのやけどな、それでええのか。ここでお婆さんと暮らしていたほうが幸福やで」
「お供いたします。京都に行きたいからお願いしているのではありません。ずっと圭介様のお側に居たいからなのでございます」
「ぼくに随いてきても幸せにならんけどな。おやつの鯛の蒲鉾は京都にも売っているから毎日食べさせてやるけど、主食はすき焼きご飯でなくキャットフードになるけどそれでもかまわんか」
「食べる物はなんでもかまいません。キャットフードも慣れて食べるようにします」
「そうか。それなら食事のことはええとしてもぼくと居ったらタマの先行きが心配や」
「私は圭介様の行くところ、地獄極楽でもお供いたします」
「……」
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